そら とぶ ゆめ   Act.2 旅人  小さな手が、「機械」へと繋がる、白と黒の信号を送る。  まるで、暗闇の中で、手探りで何かを探すように。  だが、いくら鍵盤を押しても、その信号はついえて届かず、「機械」は音を奏でることはなかった。  やがて、オルガン弾きの少年は、ふぅ、と諦めたようにため息をついた。   「せっかく遠くから来てくれたのに、ごめんね。」  鍵盤に乗せた手を止めたまま、振り向いて旅人に申し訳なさそうに呟く。 「ふたりの気分がうまく合わないと、うまく音が弾けないんだ。」 「そんな、気にしないでください。」  若い旅人は、幼い弾き手をなぐさめるように、不器用そうに少し微笑んだ。 「この精巧な、音を奏でる機械に逢えただけで、充分満足ですから。」  時が降って、優しく深みのある褐色を帯びた、木と合成樹脂で作られた「機械」。  その大きな箱からは、外からの風を取りこんで呼吸をするための、真鍮製の管が何本か突き出している。  そして、オルガン弾きの少年の向かう操作盤には、微かにクリーム色に和らいだ、白の象牙の鍵盤と、褪せない深みを持つ黒の鍵盤が並ぶ。  白が三つに黒二つ、白が四つに黒三つと、規則的な旋律を繰り返して。  個々の鍵盤からは細い金属の管が伸びていて、音を奏でるために歯車やぜんまいで精巧に編まれた、複雑な機構へと繋がっているのが見える。 「ねえ、こいつのこと、どう思う?」  操作盤の前に座って、旅人の方を振り向いたままで、オルガン弾きは尋ねる。 「そうですね……。」  長い時を越えて佇む、音を奏でる「機械」を見つめたまま、若い旅人は首を傾げる。 「とても古い「機械」なのに、何だか、若くて、生き生きとしている感じがします。」  やがて旅人は、言葉を探すように、ゆっくりと答えた。 「私が見てきた他の「機械」達は、まるで年老いた樹のように、眠るようにそこに在るのが多かったですから。」  さらさらと、夜をつれてくる夏の夕風が、翠色の屋根を揺らして吹きぬけてゆく。  街外れにひとり立つ、黒褐色の乾いた幹の、大きな常緑樹。  護るように広がるその翠のドームの下で、「機械」は幾つもの夜を過ごして、今もそこに在る。 「他の「機械」も見たことがあるんだ。ねえ、そのおはなし、僕に話してよ。」  オルガン弾きの少年は、目を輝かせて旅人に話をせがむ。子供というものは、たいてい旅人の話が好きなものだったが、オルガン弾きの少年にとっても例外ではなかった。 「……私は、話をするのが得意ではないのです。」  だが、若い旅人は、少し困ったようにそう応える。 「ふうん、珍しいね。旅人さんって言えば、たいてい街角で子供達に夢や旅のおはなしをしてるのに。」  ふわりと、薄い紫の空へと吹いて行く風。  昼間の熱気を夕空に溶かしてゆくその風が、旅人の胸のペンダントを、軽く揺らせた。 「……あるいは、私も旅人ではなくて、旅人に話をせがむ子供なのかもしれません。」  そっと、水色の金属のペンダントを手で押さえながら、微かに呟いた。 「面白いね。ねえ、じゃあ代わりにそのことをはなしてよ。」  耳ざとくその呟きを聞いた少年は、今度は悪戯っぽく笑って提案する。 「もしかしたら、そのおはなしを聴いたら、何か弾けるようになるかもしれない。」  暫く考えたあと、若い旅人は諦めたように応えた。 「じゃあ「機械」を見せて頂いたお礼に。ただし、面白くなくても知りませんからね。」     *  私が、「機械技師」と名乗る旅人に会ったのは、ちょうどあなたくらいの歳の時でした。  そして、その日以来、私は旅を続けているのです。  彼女と同じように、見知らぬ国に残っている、「機械」を訪ねながら。  子供の足で行くには少し遠い、村のはずれに広がる、ささやかな草原。  その草原に、ひとり立つ大きな楡の樹。  そこは、幼い私の、一番のお気に入りの場所でした。  ここまでくれば、誰にも邪魔されずに本を読んだり、まどろんだりできたから。  そして、楡の樹のもとに、大切な私の友達が、いつもいたから。    その日も、私は木陰の涼しさに誘われて、いつの間にかまどろんでしまっていました。  この場所で眠ってしまった時に限って現れる、夢を見ながら。  それは、空を飛ぶ夢でした。  夜風を鋭く切る真白い大きな翼の下に、どこまでも、どこまでも広がる、草原。  日の輝きの下では大地を一面の若草色に染める草々も、今は淡く蒼い月明かりを浴びて、微かな銀色を帯びていました。  軽やかな風がさらさらと走りぬけて、草達を果てへと誘う波のように揺らせてゆきます。  その満ち引きにつれて、ちらちらと草に映る、幾つもの月の輝きの破片は、まるで空を行くものを導く灯りのようでした。  その灯火を見下ろしながら、私は翼を広げて、何処かへと飛んでいるのです。  私には、幼い頃に空を飛んでいたはずの記憶は残っていなかったし、この頃には、もう一度空を飛びたいと思うこともありませんでした。  それなのにこのお気に入りの場所で、友達の傍らで眠ると、想い出すように、空を飛ぶ夢を見ることが多かったのです。     * 「ちょっと待って、もう一度空を飛びたいって……空を飛んだことが、あるの?」  オルガン弾きの少年は、思わず若い旅人の話をさえぎって、尋ねた。 「……私は、翼を持つ民の生まれだったのです。もう、憶えてはいないのですが。」  若い旅人は、穏やかな表情のままで、応える。 「ある雨の夜に、翼を傷つけられて墜ちていた私を、村の人が助けてくれたのです。」 「ねえ、今は? 空を飛んで旅をしてるの?」  黒く円い瞳を、憧れの色で微かに輝かせて、重ねるように問い掛ける。 「……傷ついた右の翼は、今でも、動かないままなのです。」 「……ごめんなさい。でも、それでも、何だかうらやましくて……。」 「いいんですよ。私は逆に、不思議とあまり飛びたいとは思わないのです。」  表情を変えずに、淡々と少年に応える、旅人。 「ずっと? 今でも?」 「一度だけ、空を飛びたいと心から思ったことがありました。そのことは、これからお話しましょう。」     *  そうして、私は夢の中で、月明かりの銀の草原を、ひとりで飛び続けていたのです。  ここまでは、楡の樹の木陰で眠る時によく見る、いつもの夢と同じでした。  ところが、不意にいつもの夢では見たことのないものが現れたのです。  それは、突然霞のように広がり、群青の夜天へ灰色を溶かしてゆく、薄い雲でした。    その微かな灰色は、瞬く間に夜空を天幕のように低く覆ってゆきました。  ただ、その幾重もの雲のシーツの影に、形を切り取られながらも、月はおぼろな銀の光を変わらずに投げかけているのでした。  やがて、雨が降りはじめました。  はじめは、ぽつり、ぽつりと数滴ずつ。  その僅かな滴が、薄翠色の大地に墜ちる度に響く、静かな音。  その響きは、またいくつもの滴を呼び、やがて空と大地は雨音の音楽に包まれました。  それでも、音楽から切り取られたように、ひとりでぼんやりと輝いている月を見上げて、私は思いました。    まるで、月が涙を流しているみたいだと。  右の翼が、不意に動かなくなったのはその時でした。  浮力を失って、まるで矢に射抜かれた鳥のように、私は大地へと墜ちてゆきました。  雨音の響きに呼ばれて、私も一粒の、月の涙になって。  滴となった私の身体は、不思議と静かな気持ちで、加速度を増してゆきます。  翼に痛みは感じず、墜ちることへの恐怖も感じません。    ただ、何かを両手で抱きしめていた記憶が、今も微かに残っているのです。  何処かに忘れてしまった、大切な、想いを。  そして、ついに大地へと着こうかという、その、瞬間。 「こんにちは。」  突然、私を眠りから引き起こす、高く柔らかな声。 「ごめんなさいね。お友達が、もう起こしてあげて、って私に伝えたから。」 「え……?」  私は、まだ残っている落下の感覚にとまどいながら、無意識に、樹の方を振り向きました。  楡の樹の根元で、私の友達はいつも通りの姿で佇んでいました。  私が目覚めたのに気づいたように、時折、透明な硝子でできた双つの瞳を、サファイアの原石のような優しい蒼色に明滅させて。  そう、お気に入りのこの場所に、いつもいた私の友達は、「機械」だったのです。  永い時を経た、色褪せた古い真鍮や銅で創られて、人のかたちをした。  そして、私が村からずっと歩いて、この樹に来るといつも、その硝子の瞳を輝かせて迎えてくました。  たいていは、優しい朝の空のような、蒼色で。  時には、楡の葉の翠色で、暖かい橙の灯りの色で。  その硝子の瞳に迎えられると、何だか護られているような気持ちになるのでした。  だから、私は村の学校が終わると、遠く楡の樹の草原まで来て、いつも日が暮れるまで、ひとりでここにいたのです。  空を飛ぶ夢と、草原の現実の境目で、暫くの間ふたつの蒼を見つめていた私の背後で、春の風のようにふわりと、立ちあがる気配がしました。  ようやく我に帰った私が振り返ると、一人の女の人が立っていました。  さらりと細い、肩まで伸びた栗色の髪を、そろそろ夕方を呼びはじめた風に軽くなびかせて。 「何か、ご用でしょうか?」  私は、幾分大人びた、淡々とした口調で、女の人に問いかけました。  もともと、感情が淡白な子供だった上に、この草原での大切な一人の時間を邪魔されるのは、あまり好きではなかったのです。 「この子に逢うために、ここまで来たの。」  だけど、女の人は、ふわりと笑ってこたえるのでした。  冷たく聞こえる、私の言葉の響きも気に留めずに。 「だけど、あなたが傍で眠ってたから、しばらく座って待ってた。」  女の人は、私よりも少し年上で、成人する少し前くらいの年齢に見えました。  でも、話し方や表情に、不思議な空気を纏っていたのを、今でも憶えています。  なんだか、私よりずっと幼いような、それでいて、ずっと時間を経ているような。 「そうしたら、この子のうたが聴こえてきたの。」 「……あなたは、どなたですか?」 「あら、人に名前をきく時は、まず自分の名前を教えなくっちゃ。」  その不思議な空気につられてつい問い掛けてしまった私に、女の人は悪戯っぽく言うのでした。 「……私は、村では、ツバサと呼ばれてます。」 「はじめまして。わたし、「機械」のうたを集めて、旅をしてるの。」  少し詰まって淡々と答えた私に、もう一度ふわりと微笑んで。 「だから、「機械技師」って呼ばれてる。」  それっきり、しばらくふたりとも何も言わずに、午後の時が過ぎてゆきました。  「機械技師」と名乗った女の人は、それを気にする風でもなく、「機械」の方を向いて、瞳を薄く閉じて立っていました。  夕方に近い風を受けて、何かをその中に聴き取ろうとするように。  私が育てられるずっとずっと昔から、「機械」はここにいたそうです。  ささやかな草原に、ひとり残った楡の樹の傍らに立って、樹を護るように。  だから、この「機械」は『楡の護り人』と呼ばれていました。  はじめて『護り人』が目覚めて、その円硝子の瞳を明滅させた時は、村中で話題になったものでした。  それも、『護り人』が目覚めるのは、私が傍らにいる時だけ。  だから、始めは沢山の人が『護り人』を見にきたのです。  ほとんどの人は、単なる退屈しのぎだけで見にきていました。  それも、瞳は明滅させても、その身体は動かないとなると、つまらなそうな顔をしたり。  私は、友達が見せ物のように扱われるのだけは、嫌でした。  ちょうど、私が自分の動かない翼のことに、興味を持たれるのが嫌だったように。  だから、私は人が来ると、冷淡に話したり無視したりして、遠ざけていたのです。  『護り人』が楡の樹を守るように、私も、『護り人』を護ろうとして。  でも、「機械技師」と名乗る女の人は、他の人とは違う不思議な空気を纏っていました。  そして、何より、私よりも『護り人』のことを知っていそうな気がして。  だから、私は、何時の間にか、少しずつ「機械技師」に話しかけていたのです。 「「機械」って、うたを歌うのですか?」  とうとう、遠慮がちにぽつりと、私は「機械技師」にたずねました。  すると、「機械技師」は、逆にこう私にたずねてきたのです。  瞳を閉じて耳を傾けたまま、静かな声で。 「ほとんどの「機械」は消えてしまったのに、どうしてこの子達だけ今もここにいるのか、知ってる?」 「うたを歌えるから、ですか?」  私の答えに、「機械技師」は、そっと首を横に振りました。 「……この子達は、うたを忘れられなかったから。」  涼しさを含んだ風が、何度か樹の枝を揺らしていく間、私達はそのまま何も言いませんでした。  やがて「機械技師」は、くるりと背を向けて屈んで、傍らの旅行鞄を開け始めました。 「「機械」の想いってね、宝石箱みたいなものなの。はじめは何もないのだけど、そこに、いつも人から届いた言葉を大切にしまってる。」  そう言いながら、「機械技師」も鞄から、小さな箱を取り出していました。  淡い翠の草達に映る、ずいぶんと長くなってきた、華奢な旅人の、影。 「そうして、箱から大切な言葉があふれると、はじめて自分の想いを育てるようになって、うたを歌いだすの。」 「私たちが、歌うみたいに、ですか?」  淡々とした私の問いに、また軽く首を横に振って。 「たいていは、人の言葉は話せないから、空気や風の中に、想いを波にして送りだすの。それが、この子達のうた。」 「……海の波と、一緒なんですね。」  そう、私はぽつりと口にしました。  理由はわからないけど、何故だかふと、そんな風に想ったのです。  「機械技師」は屈んだまま、少し驚いたように顔だけ向けて、軽く頷きました。 「言葉を届けた人達はいなくなってしまったのに、忘れられなくてずっと歌ってる。」  立ちあがって、箱を手に持って、私の方に振り向いて。  ふわりと、白いコートが空気に揺れました。 「だから、私はそのうたを集めて、旅をしてるの。この子達の想いを、届けるために。」  柔らかいその微笑は、何処か儚く見えて。  「機械」がうたを忘れないように、私は、今でもその微笑を憶えているのです。 「誰に……?」 「遠いところにいる、みんなに。」     * 「こいつも、一緒だよ。」  オルガン弾きの少年は、ぽつりと呟いて、そっと白と黒の鍵盤に触れた。 「僕が、弾きたい曲や詩の想いで、こいつをいっぱいにできないと、うたを奏でてくれないんだ。」 「僕がいなくなったら、「機械技師」が、こいつのうたを聴きに来てくれるのかな。」  若い旅人は、何も応えずに、静かな、少し不器用な微笑みを返した。     * 「この子は、子供と一緒にいるのが好きだったのね。」  ひと呼吸おいて、「機械技師」は、ぽつりと言葉を浮かべました。 「草原で子供達と遊んでいることと、空を飛ぶ夢を見ているあなたのこと、歌ってた。」 「『護り人』は、昔は、空を飛んでいたのですか?」  その言葉に、私はふと思い立って、こんな質問をしました。  すると「機械技師」は、箱を持ったまま、そっと『護り人』の前に軽く屈みました。  少し首を傾げて、その黒の瞳で、「機械」の双つの硝子の瞳を見つめて。 「たぶん、この子は空を飛ぶようには創られていなかったと思う……どうして?」 「……ここで眠ってしまった時だけ、空を飛ぶ夢を見るのです。」 「もしかしたらこの子のある部品が、遠い昔空を飛んでいたのかもしれない。」  少し考えてから、「機械技師」は不思議なことを言いました。 「……そんなこともあるのですか?」 「もちろん。逆にあなたが、この草原を渡る風だったのかもしれないし、空を飛ぶ「機械」だったのかもしれない。」  長く、葉の影を地面に落とす、さらさらと揺れる大樹の翠色を、見上げて。 「そして、わたしだってこの楡のように、大きな一本の樹だったのかもしれない。」  もう一度、あの柔らかくて儚い微笑みを浮かべて。  よく、村に旅人が訪れたと聞くと、子供達は学校から一目散に飛び出して、話をせがみに行ったものでした。  そんな時、何処か冷めていた私は、興味がなくてひとりで本を読んでいました。  でも、「機械技師」という旅人に逢って、はじめてみんなが話をせがむのがわかる気がしたのです。  この頃の私は、「機械」と同じように、からっぽの箱を抱えていたのかもしれません。  私のその箱を、若い旅人は、不思議な言葉を届けて、あふれさせていったのです。  その言葉にあふれた私は、とうとう、誰にもきくことのできなかったことを、「機械技師」に尋ねたのでした。 「……『護り人』、いつかまた、動けるようになるの?」  夕風に溶け去りそうに、無意識にうまれた、微かな言葉。  それは、今までずっと答えを知りたくて、それでいて知りたくない、問いでした。  ちょうど、自分の背の、動かない翼のことと、同じように。  その私の言葉に、「機械技師」は、ちょっと聞き返すようにその優しい瞳を瞬きして、そのまま、しばらく何も答えませんでした。 「この子、あなたが気に掛かって、何か伝えたくて、うたを想い出してる。」  やがて「機械技師」は、空の中に言葉を探すように、軽く梢の向こうを見上げて、ゆっくりと答えました。 「だから、もしかしたら、動かせるかもしれない。」 「ほんとうに?」  私は、思わず喜びの声を出しました。そんな声を出す自分に、少し戸惑いながら。 「……でも、本当に動かしてしまっていいのか、わからない。」  そんな私を鎮めるように、「機械技師」は、ぽつりと言葉を継くのでした。 「どうして、ですか?」 「動かしたら、うたを歌いやめて、また深い眠りに就いてしまうかもしれない。」 「もし僕に何か伝えたがってるのが本当なら、『護り人』を動かして。」  静かにあふれてくる、自分の想いに身を任せて、若い旅人に、言葉を届けて。 「……だって僕は、『護り人』のうたを聴くことはできないのだから。」  しばらくの間、葉ずれの音を鳴らす夕風だけが、楡の樹の時間を通ってゆきました。  やがて「機械技師」は、決心したように、そっと瞳を閉じて、小さく息をつきました。 「……うまくいかなかったら、ごめんなさい。」  そして、胸に抱いた金属の箱を軽く開けて、ふぅ、と息を吸って。  「機械技師」は、『護り人』を動かしたのでした。  瞳を閉じたままその声を紡いで、届くようにと、うたを歌って。  それは、不思議なうたでした。  詞は何もなく、高く透き通った、日々の祈りのように慎ましくて厳かな歌声が、ただゆるやかに響くのです。  まるで、このささやかな草原に流れる時間の中に、旋律を描いて連なる、波のように。  そして、たったひとつの声が紡ぐうたなのに、優しく緊張した歌声が、幾重にも、幾重にも響いて聴こえるのでした。  「機械技師」が旅をして聴いてきた、いくつもの想いの糸を、織りなして。  時折、ふっと息をつく「機械技師」に、寄り添って、一緒に歌うように。  手にした箱の中には、金属でできた、「機械」仕掛けの娘の人形が立っていました。  はじめは、うたが空気に描く曲線だけが、時間をゆるやかに進めていました。  そのうたに包まれて、私もまた、何かをぼんやりと想いだしていた気がするのです。  空を飛ぶ夢の中でも、一瞬気づいた、何か大事な、ことばと、名前。  からん、からん。  突然、うたの波間に、私の足元から、軽い金属の転がる短い和音が響きました。  驚いて見た足元には、草の影に転がった、古い金属の円筒型の缶。  そして、その後を追うようにして、私の方に向かって。  大好きな『護り人』が、たどたどしく歩いていました。  一歩歩く毎に、重々しい動きの調べをうたに添えて、瞳を橙色に明滅させて。 「『護り人』、動いてる!」  私は、歓声をあげて、『護り人』の目の前に駆け寄りました。  『護り人』は歩みを止めると、金属の手で、自分の胸のポケットのような箱から何かを取り出しました。  ゆっくりと私に差し出した手に、水色の、三日月のような形の金属。 「……僕に?」  何だか嬉しそうに明滅する、橙の瞳に促されて、私は水色の三日月を手に取りました。  その瞬間、何かが弾けたように、目の前に不思議な光景が広がったのです。  いつもと変わらない、楡の樹が見守る、ささやかな夕暮れの草原。  そこに、見たこともない服を着た、たくさんの子供達が遊んでいました。  追いかけあったり、はしゃいで『護り人』に抱きついたり、円筒形の缶を蹴ったり。   ヤット、見イツケタ。  子供達と遊んでいた『護り人』が、私に気づいて、軽やかな動きで駆け寄って。   モウ、日ガ暮レルカラ、ソロソロオ帰リ。 「……どうして? 僕もずっと此処にいるよ。何処へ帰れというの?」   君ガ、ウタヲウタエルトコロヘ。  「機械」のその言葉とともに、目の前の草原はかき消えて、代わりに、優しい月明かりに照らされた、一面の蒼い空。 「でも、僕は空を飛べない。僕の翼は、もう動かないから。」  少し困ったように、『護り人』が瞳を静かに蒼く輝かせた、その直後。  気がつくと、私はもとの草原に戻っていました。  目の前には、金属の手を差し出したままの、『護り人』。  水色の三日月を、私に託したその瞳は、今はもう、何色の光も宿していませんでした。  うたを歌い終わり、箱を閉じた「機械技師」も、瞳を閉じたままで。  ただ、夜の訪れを告げる風が、葉と草を揺らす音だけが、そこに残っていました。  眠ってしまった友達の前に立ち尽くしていた私を、「機械技師」は村まで送って行ってくれました。  そっと、手を繋いで、ふたりとも、何の言葉もなく。  夜の空気に混じって、ただ虫達の密やかな声だけが聞こえるなかで、私は、いろいろな言葉をぼんやりと想い返していました。  私に、小さな水色の金属を渡して、そのまま眠ってしまった『護り人』のこと。  「機械」のうたを聴く、「機械技師」と名乗った、旅人の娘のこと。  楡の樹のたもとで見た、空を、飛ぶ夢のこと。  片方の手の水色の金属の冷たさと、もう片方の手の、旅人の手の体温を感じながら。 「ツバサ、わたし、もう行かなくちゃ。」  村の入り口で、「機械技師」は私の手を離して、立ち止まりました。  はじめて、私の名前を呼んで。 「あの子のうた、わたし、必ずみんなに届けるから。」  最後にもう一度だけ、微かに儚く笑って、軽く手を振って、こう付け加えて。 「……そして、あなたのうたも。」 「えっ……?」  聴き返して私が顔を上げた時には、夜風に栗色の髪と白いコートをふわりとなびかせて、もう「機械技師」は、夜の向こうへ歩き出していました。    世界中の「機械」のうたを、人々に届けるために。  屋根裏に借りた小さな自分の部屋に戻ってからも、私はぼんやりと、草原での出来事を考えていました。  翼を失ってからずっと、私のちいさな箱は、創られたばかりの「機械」のように、からっぽのままだったの思います。  それが、旅人と『護り人』が紡いだ幾つもの言葉で、あふれてしまって。  私も、きっと、うたが忘れられなくなってしまったのです。  この世界に残っている、「機械」達と同じように。  やがて私は、ちいさな箱からあふれる想いのままに、身の周りの荷物をまとめました。  世話になった村の人達に何も言わないのは気がひけたけど、時間がありません。  それでも、もう一度、かけがえのない友達には逢っておきたかった。  だから、まず私は、まとめた荷物を持って、楡の樹の草原まで走りました。  藍色の夜を、冷たい風に揺れるその影で黒く切り取っている、樹のしたで。  『護り人』は、私に水色の三日月を手渡した姿のままで、眠っていました。  古い真鍮や、銅の身体を、風と時間に洗われて。  少し離れた、今は深緑色に眠る草の間に、あの円筒型の缶が落ちていました。 「……ありがとう。行くね。」  私は、ただそれだけしか言えないまま、その手に、そっと渡しました。  私の、背中の羽の、ひとひらを。  そして、円筒形の缶を、『護り人』の足元に置いて、私はまた走りだしました。  夜の向こうに歩いていった、「機械技師」を追いかけて。  冷たい夜風に背中を押されながら、村を出て、私は駆け続けました。  今ならまだ、間に合うと、追いつけると、信じて。  揺れる路端の草に、私のちいさな影が幻燈のように映っていました。  呼吸をする度に、夜の空気を身体に取りこむ度に、私の中でぼんやりしていた、幾つもの強い想いがあふれてきました。  もっと、「機械技師」の話を聴きたい。  「機械技師」についていって、他の「機械」達に逢ってみたい。  そうすれば、『護り人』が伝えた言葉の意味が、わかるかもしれない。  そして、不思議なことに、その時はこんな風にも想ったのを憶えているのです。  楡の前に立つ『護り人』のように、彼女を、護りたい、と。  あるいは、幼かった私は、純粋に旅人の娘に憧れていたのかも、しれません。  でも、私のそんな想いは、届くことはありませんでした。  やがて、街道が緩やかな丘にさしかかった、小さな樹のたもとで、走り疲れた私は座り込んでしまったのです。  私は、涙をこぼしながら、水色の三日月を握り締めて、翼に渾身の力を加えました。  この時、はじめて心の底から想ったのです。  空を、飛びたい、と。  空を飛べれば、「機械技師」を見つけることができる。  空を飛べれば、彼女に追いついて、ついてゆける。  だけど、水色の三日月は何も応えることはありませんでした。  そして、動かないままの、右の、翼も。     * 「……で、そのまま彼女と同じように、私も「機械」に逢いに旅を続けているのです。」   「私は「機械」達のうたを聴くことはできないけど、彼らに逢っていると、ぼんやりと想い出すことがあるのです。」  若い旅人は、少し照れたように目を細めて、こう、話を締めくくった。 「……私も、遠い昔「機械」だったことがあるのかも、しれない。」  何時の間にか、あたりはやわらかい紺色に包まれて、常緑樹のかたちだけが、くっきりと影絵のように、黒く風景を切りとっていた。  旅人の話した、楡の樹の草原と同じように。 「その胸のペンダントって、『護り人』にもらった……。今は、なにも?」  オルガン弾きの少年は、旅人の胸のペンダントを指差して、そっとたずねる。 「これまでは、ずっと眠ったままでした。でも、不思議なことに、この間、一瞬だけ私にある情景を伝えました。雨の降る、海の風景を。」 「海は……ここからは、ずいぶん遠いね。」  少し心配そうな少年の言葉に、少し安心させるように笑って、旅人は立ちあがった。 「ええ、だからもうそろそろ行かなくては。本当に、ありがとうございました。」 「待って。」  夜の向こうに歩きかけた、若い旅人を引きとめて。  少年は、「オルガン」という「機械」に繋がる、黒と白の鍵盤の前に座った。   「今ならきっと、弾ける気がするんだ。僕が、すごく弾きたいから。」  すうっと、深く息を吸い込んで、奏でたい和音の連なりを想い浮かべて。 「たとえ飛べなくても、何時かまた、空を飛びたいと想えるようになるといいね。」  最後にそう言って、オルガン弾きの少年は、「機械」から音楽を奏でた。  旅人の話から受け取った想いを言葉へと、言葉を詩へと、繋いでいって。   君はまるでシャボンのような 夢を話して歩く旅人   道に腰をおろしほほえむ その鞄の中身は何?   集まる子供たちの目は とても輝いて見えるよ   風は色を変えてゆく 君の手のひらで   よそみしてた少しの間に 背中向けて歩きはじめた   舗道にきらめく光は 鞄をこぼれ落ちた言葉   群がる子供たちの手は 夢のかけら拾いあつめ   僕は急いで駆けだす 君を追いかけて   いつかきっと会える日を信じてた 僕はずっと君について行こう   街から街へと旅をつづけて 君を待つ子供に会いに行こう   壊れかけた地球に 君のつけた足跡 つづく   サヨナラと手を振る君 北風に連れ去られてく   どんなに追いかけても 君は遠ざかる   いつかまためぐり逢うその時まで 僕はずっと君を待っているよ   鞄にあふれるほどの物語 世界中の僕が君を待ってる   壊れかけた地球を 君は地図を拡げて 歩く   世界中の僕が君を待ってる 世界中の僕が君を待ってる   世界中の僕が君を待ってる 世界中の僕が君を待ってる                                    Fin.               挿入詞:『旅 人』/遊佐 未森 作詞・作曲:外間 隆史                            アルバム「空耳の丘」より