そら とぶ ゆめ   Act.3 Psi−trailing  ***** Voice Recorder − 3 ***** 「ステイションまでのコントロール、引き受けます。ミッション完了、お疲れ様です。」 「……街じゃちっとも見えないのに、飛んでいると、眩しいくらい明るく見えるのね。」 「何のこと、ですか?」 「月を見てたの。……ねえ『翼』、『渡り鳥』って知ってる?」 「『鳥』とは、私の名前の『翼』を持つ昔の生物のこと、ですか?」 「『渡り鳥』ってね、月や小さな星を道標にして、知らない世界まで飛ぶんだって。」 「わたしね、戦いたくてとか飛びたくてとかで、飛空兵になったわけじゃないの。」 「じゃあ、どうしてです?」 「月が見たかったから。だから、『渡り鳥』と一緒で、月という道標があるから、ずっと飛べるのかもしれない。」 「笑わないで聴いてくれる? わたしね、いつか、あの月まで飛んでいきたい。」 「……もしも本当に月まで飛ぶなら、その時は私もお供させてくださいね、マスター。」 「冗談よ、『翼』。……あなたがパートナーで本当によかった。」 「ねえ、ステイションまで、わたしが飛ばしていい? せっかく、月が綺麗だし。」 「……やっぱりわたし、空を飛ぶこと、好きなのかもしれない。」 「コントロールモード、フルマニュアルへ移行。今は月まで行かないでくださいね。」 「ありがとう、『休まない翼』。ずっと、飛ぼうね。」  *** End of Voice Recorder − 3 ***       *  濡れた肩に降りたふわりと冷たい感触に、娘はふと崖道を駆ける足を、止めた。  外の冷気よりずっと暖かい海水に娘が包まれていた時は、無数の波紋を描いていた雨の滴たち。  それが今は、白い氷の衣服を纏って、春を呼ぶ雪のかけらになって降りてくる。  見上げると、まるで涙を流していた空を慰めるように、ひとひら、ひとひらが、優しい。  そして、その優しさはやがて、春の雨降りという、より大きな涙を呼び起こす。  見上げながら観測所まで帰ってきた娘の、白い粒子が舞う視界の中に、ふとひときわ大きな白いかけらが目に留まった。  錆びた手紙受けに、真白く薄い矩形。それは、もちろん雪ではなかった。  娘は、珍しそうに軽く首を傾げてから、その手紙を取って、暖かい扉の中に駆け込む。  そらに一番近い屋根で、ある夏の日に目に留まった、風見鶏ならぬ風を見る『機械』が、ゆっくりと廻っていた。 「おかえり、るな。海のなか、寒かったろう?」  暖炉の傍らの、寝椅子に横になったまま、風読みは娘を迎えた。  娘は、軽く首を横に振りながらも、夜露に濡れた猫のように、慌てて暖かい火のそばに駆け寄る。 「今夜は、積もりそうだね。」  窓硝子を隔てた向こうで、雪は音のない音を奏でて、風景の色をその白で包んでゆく。  温暖なこの土地では、真冬にはただ、土地を枯らす乾いた北風しか吹いてこない。  雪は、冬の乾いた北風が、湿り気を含んだ東の風に変わるその瞬間に、一度だけ降りてくる。  やがてこの地に至って、大地を潤して春をもたらす、雨降りの前触れとして。 「るな、好きなのはわかるけど、もう雨降りが終わるまでは、あまり海に行っちゃだめだよ。」  風読みは、窓の外を眺めて諭すようにそう言ってから、苦しそうに乾いた咳をした。   「今年は僕もこの調子だから、どうなるやらわからない。さすがに、僕も歳だよ。」   もし雨降りが来たら、雨が引くまで、ずっと海のなかに潜ってるよ。  橙色の暖かさが、身体を満たしていくのを感じながら、娘は水色の月に伝える。     風読みのうた、海のなかまで聴こえるもの。大丈夫。  そう伝えて、力づけるように、きゅっと風読みの腕をつかむ。  たった一度だけの雪が連れてきた東風は、少しずつ、少しずつ、春の気配を乾いたこの土地に届けてくる。  厚く凍てついた灰色の雲からこぼれ出たような、ささやかな日差しや、それに誘われた生物達の息遣い。暖かな水滴を含んだ、絹のように薄い霞雲。  そんな春に属するもの達が、やがてこの地に満ちたその時に、雨降りは訪れる。  永い北風の夜から大地を目覚めさせ、実りをもたらす雨降りは、この地に生活を営む人々にとって畏敬の対象であると同時に、恐れの対象でもある。  天を埋め尽くす雨は、瞬く間に街に、道に、広い荒地に溢れて、渦を描いて低き地へ、そして海へと奔流となって還ってゆく。その間、人々は不安と春の訪れへの期待に包まれて、高い建物や崖の上で身を潜める。  その雨降りの到来を予測し伝えるのが、観測所に住む風読みの仕事のひとつだった。  街に営む人々には、観測所の塔が力づけるように放つ、眩しい灯りの輝きで。  遠く道を往く人には、遠く響き、耳には聴こえなくとも心に届く、不思議なうたで。  暖炉の前に陣取ってようやく人心地のついた娘は、ふと思い出したように、雪の風景の中に佇んでいた、白い真四角の紙片を差し出した。  遠い国の切手の貼られた丁寧な文字で記された手紙を、風読みは不思議そうに受け取る。 「ああ、僕の古い友人からだ。」  やがて、ふっと懐かしそうに表情を和らげて、風読みは封を開け、幾つかの便箋に綴られた言葉を静かに読み取る。  ちょうど、寒い夜の寝る前に、身体を芯から暖める香草のお茶を、ゆっくりと味わうように。  暖炉の前で組んだ膝に頭を乗せたまま、様子を興味深げに見ていた娘に、風読みはこう問い掛ける。 「随分昔に、不思議な旅人が訪ねてきたのを、憶えているかい?」  娘は少し考えてから、頬を膝にもたれかけたまま、首を軽く横に振った。 「るなはまだ小さかったからね。その旅人も、少女と言っていいくらいの歳だった。」  寝椅子に深くもたれ直し、ゆったりとした姿勢になって、続ける。  時の糸をたぐって、遠い記憶を掬いあげるように。 「そんな若い旅人がいきなり訪ねて来て、観測所の塔に眠る『機械』に逢わせて欲しいときたものだから、さすがの僕も驚いたよ。」   塔にねむる、『機械』って?  きょとんとした面持で、娘は首飾りを介して、風読みに尋ねる。  無意識に、灰色の空へと伸びる、塔の螺旋階段に続く扉を見やって。  旧いの観測所に続くその扉は、いつもは『機械』製の鍵で固く閉められていた。  年に一度、雨降りを知らせる灯りを燈す時を除いて。 「……夏頃だったか、塔の風向計のことを僕に尋ねたことがあったよね。」   鳥さんの、かたちの? 「だから、鳥じゃないってあの時も言っただろう。あれは、鳥のような翼を持った、空を飛ぶ『機械』を模っているんだ。」  風読みは、一瞬可笑しそうに軽く咳き込んでから、静かに、言葉を継いだ。 「その本物が、塔の中には眠ってる。彼女は、空を飛ぶ『機械』のうたを聴きに、ここまで来たんだ。」  窓の外では、相変わらず、空から雪が降り続けている。  この冬の夜の、ささややかなさざめきを吸収して、その白の六角形に包み込んで。  地上に降りた細やかな氷の結晶は、乾いた色の大地を、ほんのひとときだけ銀の無彩色に染めてゆく。  海に降りた儚い音の結晶は、蒼い波に受け止められて、ゆるやかな水の循環へと還ってゆく。   空を飛ぶ『機械』って、うたを歌うの? 聴いてみたい。  硝子を一枚隔てた暖かい部屋で、燃やされた薪が、ぱちりと弾けるような音を立てた。 「かなしいうただと、彼女は言っていた。僕には、『機械』が歌うというのは、よくわからないのだけど。」  砕けた薪が残した、ひとときの静寂の後に、穏やかに初老の風読みは応える。 「だけど、あの翼が強い想いを宿したまま眠っているのは、僕には痛い程よくわかる。下手に聴いてしまうと、惹き込まれそうになるくらいに、強い。」   「だから、心がもっと落ち着いたら、るなにも見せてあげよう。そう、忘れた言葉を、思い出せるようになったら。」   ことばなんて、いらない。風読みが、ちゃんと聴いてくれるもの。  不満そうに直接心に届ける娘に、風読みは、ちいさく、寂しそうに笑う。 「僕だってもうこんな身体だ、いつまでるなのことを聴いてやれるかわからない。」  風読みのつぶやきに、娘は怒ったように、きゅっとその腕を引き寄せて、抱きしめる。 「ごめん、僕が悪かった。でもね、言葉は、船が海の果てに流れてしまわないための、錨のようなものだよ。」  なだめるように、諭すように継いでゆく、静かな声。 「例えば……、そう、人はどうして人や物に、名前という言葉を与えるのか、わかるかい?」  風読みの問いに、まだ腕をちいさな手で抱えたまま、娘は首を傾げた。 「その人のこと、その物のことを忘れないためだ。大切な想いをずっとずっと憶えているために、人は名前を付けるし、自分の名前を教える。」 「だから、るなという君の名前も、たったひとつの、大切な言葉なんだよ。」  諭すようでいて、優しく包み込むように語られる言葉を、娘は胸の内でそっと溶かして受け止める。   わたしの名前、風読みがつけてくれたの? ずっと忘れないために? 「いや……僕じゃない。多分、君は僕に逢う前から、るなという名前だったと思う。」  風読みは暫く考えてから、ぽつりとこぼれた娘の問いに、答えた。  舞い降りる雪を、蛍のように揺らして通る風がひとひら、古い壁の隙間から迷いこんで、暖炉の炎を揺らす。  そのひとひらの迷い風に、ふたりの影と、空気が、一瞬揺らいだ。 「もう十年以上前の、静かな雨の晩だ。雨なのに、不思議な形の月がぼんやりと光っていたのを憶えている。」  その揺らぎに背を押されるように、風読みは、遠い記憶を手繰り寄せるように、語り始める。 「突然、雨の墜ちる音に混じって、まるで岸に寄せる波のように聞こえてきたんだ。 『るな』、『るな』って、呼びかける声が。……その、『機械』からね。」  軽く差した風読みの指に、そっと娘は胸元の月を手にとって、見つめた。   この、お月さま? これって、『機械』なの? 「そうだよ。その月は、もともとは、僕のだったんだ。」 「……ずっと、ずっと昔から、随分永い間、持っていたんだ。もう、聴こえないと、諦めていた。だから、突然声が聴こえた時は、心底びっくりしたよ。」  娘に話していくうちに、胸の内から、懐かしい何かがほどけるようにこぼれてくるのを、風読みは感じていた。  だが、そんな風読みの心は聴こえぬまま、娘は不思議そうに、『機械』の月を眺めている。 「だけど、それは僕へと寄せる波ではなかった。別の方角に、祈るように流れていた。まるで、失くしてしまった何かを、必死に探すようにね。」 「だから、僕は「るな」と呼びかける言葉を追って、雨の中飛び出したんだ。水色の月が捕まえる、微かな波の行方を辿ってね。」  寝椅子にもたれたまま、風読みはその言葉を、遠い彼方にいま一度聴き取ろうとするかのように微かに目を細める。   「るな」って言葉、海の波のように届いたんだね。風読みが歌う、歌みたい。  その風読みの耳に、遠い昔の言葉は聴こえず、代わりに、娘の不思議そうな、音のない想いのつぶやきが届く。 「ああ、『機械』から伝わる言葉は、空気の中を、人の目には見えない波となって、流れてゆくんだ。僕が雨降りの時に歌う歌も、『ラジオ』という『機械』を通して、歌を波のかたちに変えて、遠くまで届けているんだよ。」   だから、砂浜に寄せるみたいな調べが、絶え間なく聴こえるんだね。風読みの歌って、海と、おんなじなんだ。  揺らめく橙色の輝きに映える黒い瞳を、安心するように細めて、娘は想いを送る。  そんな想いのつぶやきに、どうかな、と少し微笑んで、風読みは話を続けてゆく。 「外に出ると、まだ雨降りには遠かったけど、大粒の雨が静かに降り注いでいた。灰色の空には相も変わらず、不思議な形の月が浮かんでいた。」 「雨が降っている中でまぶしく照っているのも不思議だけど、それ以上に不思議なのは、少しずつ、満ち欠けの形が変わっているようにみえたんだ。そんな月明かりに、雨の滴が水晶のようにちらちらと輝きを映して、まるで月がその輝きを水滴に換えて、泣いているような、不思議な光景だったよ。」  寝椅子にもたれたままで、自らの記憶の奥底へと降りていくように、時間の糸を手繰るように、不思議な雨の月夜のことを語る、風読みの声。  いつもは、凪いだ夜明けの海のように静かで淡々としたその声が、少しずつではあるが、熱を帯びてゆく。  風読みの、僅かだけどいつもとは違う声に、娘は、それまでは細めていた黒い瞳を、軽く開いた。  まるで、暖かな寝床で安らいでいた猫が、ふと目を覚まして、闇夜の奥にさざめく何かを、見つけようとするように。 「呼ぶ声は、その静かな雨の中を祈るように流れていた。聞き耳を立てると、その波はどうやら街の方角ではなくて、荒野の方へと続いていたんだ。」 「しばらくは、雨に打たれながらも、ただ必死に声の波を追いかけていた。だけど、そのうちに、波が何処へ打ち寄せて、何処へ届いているのか、だいだい見当がついた。」   滴の、森?  語りを継ぐ僅かな呼吸の間に、娘が声のない相槌を返す。 「そのとおり。雨降りの滴を吸収し続けて、乾いた荒野にぽつりと在るあの森には、昔からいろいろな不思議なことが起きるからね。それに、何より……。」 「幼い僕が村の人に拾われたのも、あの森だったから。」   そんなこと、はじめて聴いた。  ちいさくつぶやくように水色の月から届く、ひとりごとのような胸の奥の想い。 「僕が滴の森に着く頃には、もう、るなを呼ぶ声は、絶え間ない雨の調べに掻き消えてしまっていた。だけど、僕は必死に探した。あの、声が呼んでいた、誰かを。」  だが、そんな小さな娘のつぶやきには応えないまま、風読みはまるで街角で子供達に物語を語る旅人のように、静かに熱く語り続ける。 「雨の日に森へ入ると、どうしてそこが滴の森と呼ばれるのか、わかる気がする。空から降り注ぐ無数の水滴が、鬱蒼と繁る緑の屋根に当たって、ひとつひとつが和音になって、樹々をあまねく包み込むように響き渡るんだ。」 「特にその夜は、何処からか葉の隙間を抜けて、ぼんやりと月の光が蒼く差しこんでいて、まるで、不思議な音楽会のさなかに迷いこんだような気分だった。そんな森の中を、僕は滴に濡れるのも構わずに探し続けた。そしてついに、森の真ん中で、たった今墜ちてきた滴のように、うずくまって静かに眠っている女の子を、見つけた。」 「……そうして、僕は幼いるなに逢った、というわけなんだ。」  そこで息をついて、語り終えた風読みは、少し疲れたように寝椅子に深くもたれ直し、毛布を軽く引き上げた。  それとともに、ひととき訪れた遠い雨の月夜の時間は、地面に水が吸収されるように消え去り、後には雪の晩の静寂だけが、小さな部屋に戻ってくる。   じゃあ、「るな」と、私を呼んでいたのは、誰? 私に名前をつけたのは、誰?  その静寂を破って、凪の海に訪れた夕風が、ちいさなさざ波を立てるようにして生まれた、ちいさくて、確かな疑問を、娘は投げかけた。  だが、風読みはその疑問に答える言葉を持たず、静かにその首を左右に振る。 「るな、というのは、月を表す、遥か昔の言葉だ。」  やがて、考えをめぐらせるようにゆっくりとした口調で、風読みは再び言葉を継いだ。 「この手紙をくれた彼女が話していたおとぎ話なのだけど、月は、もうひとつの世界に繋がる、扉なんだって。」 「……あんがい、るなは月の扉を抜けて、雨の滴と一緒にこの世界に降りて来たのかも、しれないね。もしかしたら、呼ぶ声は月の向こう側から届いたのかもしれない。」   じゃあ、風読みは、このお月さまで、ずっと、誰の声を待っていたの?   待っていたのに、どうして、わたしにこのお月さまを、渡したの?  ちいさな胸の内のさざなみは、ひとつ、またひとつと、心の岸辺へと寄せてくる。 「……それらの問いは、答えるには難しいし、時間がかかる。僕にだって、よくわからないところも、ある。」  その寄せてくるちいさな波を、受け止める術を持たず、初老の風読みは目を閉じた。 「僕が少し話しすぎてしまったのは悪かったのだけど、だから、それらの問いは旅人がここを訪ねて来てくれたら、一緒に話しながらまた考えよう。さあ、さすがに僕も疲れたから、少し眠らせておくれ。」  風読みは娘の疑問を穏やかにさえぎり、本当に疲れたようにためいきをついて、眠りに就いた。  後には、濡れた服もすっかり乾き、身体も温まった娘と、時折はぜて暖かい音を立てる暖炉の灯だけが残された。  窓の外を見ると、先程よりは勢いを失っているものの、雪は依然として降り続けている。  その小さく白い粒子が、胸のうちにふわふわと降りてきくるようで、何だか、落ちつかなかった。  言葉だけではなくて、もっと何か、大切なことを忘れている気がして。    やがて、娘は風読みが安らかな寝息を立てているのを確認し、敏捷に傍らの手紙を取りあげ、紙片を開いた。  旅人が風読みへと宛てて記した言葉を、ひそかに読むために。    *   観測所の風読み 様    お元気ですか?     今、私は海に沿って、 相変わらず機械のうたを集めながら旅を続けています。    ようやく国境まで着いたので、早速手紙を書いています。    本当は、突然観測所を訪ねていってびっくりさせようかと思ったのですが、    もう、あまり時間がないので、もしかしたら逢いにいけないかもしれません。    なので、忘れないうちに、ここに書き残しておきますね。    ずいぶん前のことですが、旅の途中で、あなたを知っている機械に、逢いました。    人の形をした子で、楡の樹の前に立って、静かに眠っていました。    ただ、傷ついて飛べなくなってしまった翼の民の少年が、その子の友達みたいで、    その少年が傍らにいると、想い出したように、小さな夢を見るのです。    その子は、不思議なことに、少年と、あなたのことを重ねながら、    そらを、飛ぶ、夢を、みていました。    何故、その子があなたを知っていたのか、観測所の空を飛ぶ機械と関係があるのか、    そこまでは私にも聴きとれなかったのですけど。    でも、もしかしたら、遠い時間のカーブの中で、何処か繋がりがあるのかも、しれません。    もしも、観測所を訪ねることができそうでしたら、あなたと、大きくなったるなに逢えるのを    楽しみにしています。    それが叶わなかったら、雨降りの日に、遠くあなたのうたを、聴くことにしようと思います。    それでは、この辺で。                                                 機械技師    *   そらを、飛ぶ、夢。   手紙に記された、言葉は、娘は胸の内でそっと呟いた。  その瞬間、海の底で生まれた小さな泡が、ゆっくりと浮上してやがて水面に辿りついて弾けるように、娘の記憶の奥底で、何かが弾けた。  渡り鳥が、時が至れば遠い国へとはばたかねばならぬことを、その本能のうちに想い出すように。  だが、その弾けた記憶の泡沫に、娘自身は、まだ気づいてはいなかった。    *  ささやかな屋根の下の、数多の眠りの淵をそっと横切って、今日が昨日へ、明日が今日へと移ってゆく。そうして、やがて眠りから覚める者達に、変わらない朝を届ける。  そんな風にして生まれた今日が、まだ空を染め始めぬ、夜と暁の境界の時間。  そんな時間に、自分の体温を包む柔らかな毛布のぬくもりの中で、娘はくるりと寝返りを打って窓の外を見る。一夜限りの雪はもう、止んでいた。  娘の胸の内で、ずっと、何かが小さな潮騒のようにさざめいていた。  自分のことを「るな」と呼んでいた声のこと、空を飛ぶ『機械』のこと、旅人の手紙のこと。  物心ついた頃から胸にぶらさげた水色の月のことも、風読みがくれたものだなんて、聴いたこともなかった。   微かなためいきをついて、毛布にくるまれて横になったままで、そっと水色の月の『機械』を握りしめる。  やがて、眠りに就くのを諦めて、娘は枕元の灯りを燈して、何とはなしに居間へと向かった。  暖炉の柔らかな炎がもたらしていた暖かい空気も、今は冬の夜気にすっかり溶け込んでしまっている。  その夜気は何処か凛としていて、雪が降り続いていた間よりももっと、息を潜めたような静けさに満ちていた。    無意識の内に、娘は塔の階段へと続く扉の前に、歩んでいた。  扉に手をかけて、ためらいがちに力を加えてみるも、閉ざされた『機械』の扉はいつもと変わらないまま、少しも揺らぐことはなかった。  諦めて細い手を放して、ぼんやりと、空を飛ぶ『機械』のことを、想う。    そらを飛ぶのって、海をおよぐのと、おんなじなのかな。  遠い夏の日に、鳥のような形の『機械』が、塔の上にそよいでいたのを、思い出す。  鳥のように、翼を持った、そらを飛ぶ、『機械』。  ふと、想ってみたこともないはずの疑問が、遠い、遠い記憶を辿って、無意識のうちに、こぼれでた。    ……海をおよぐのって、そらを飛ぶのと、おんなじなのかな。  その瞬間、閉ざされていた扉が、音も無く、開いた。     *  夜空へと手を伸ばすように建つ、観測所の旧い塔。その塔をめぐって、ゆるやかな螺旋を描いて、石の階段が続いている。  遥か昔に造られた、鉱石の階段は、永い時を経たにも関わらず驚くほど滑らかだった。娘が空へ向かって歩む度に、その螺旋の階段は裸足のつま先にひんやりと冷たい感触を残してゆく。  ひとつ、ひとつ、戸惑いつつも、娘はゆっくりと螺旋の石段を、上る。  海の傍らに切り立つ崖にそびえる、観測所。その最も高い塔を円を描いて上ってゆくと、低く遠く広がる風景が、規則的に開いた窓の外から、視界に映る。  観測所とは崖で隔てられた低み、細い河が海へと広がる源に、眠る小さな街。  河は遠い視界の果てから続いている。それに寄り添うように伸びるはずの街道は、今は一面の銀の下に閉ざされている。  この夜だけ、雪原と化した荒野は、雨降りが至れば、細い河から溢れた水で一面の海のように姿を変える。  そうして、大地からその水が乾いて、はじめて春が訪れ、人々に緑と豊かな実りをもたらす。  その視界に、街道からだいぶ離れて、ちいさな森がぽつりと雪原に影を落とす。  水源もなしに、ただ独り在る、滴の森。  ひとつ、ひとつ、胸のうちに波のように寄せる何かにせきたてられて、歩調を早めて、石段を上る。  窓の開いた壁面を過ぎる度に、淡い光が横切る。  何時の間にか、雪をもたらした灰色の雲の隙間から、月が現れていた。   ……るな。  ちいさく、自分の名前を呟く。遥か昔、「月」を表す言葉だった、自分の名前を。  旅人は、月は、もうひとつの世界に繋がる扉だと、言ったという。  風読みは、月の扉を抜けて、もうひとつの世界から滴の森に降りてきたのかもしれないと、言った。  でも、風読みも、幼い頃滴の森で拾われたと、言っていた。  ひとつ、ひとつ、渡り鳥が本能のうちに、知らない遠い国の空に引き寄せられるように、石段を上る。  空に近づく度に、まるで水面を揺り動かす風が強くなったかのように、胸の内の波は打ち寄せる。   そらを、飛ぶ、夢。   その波の源に、あの旅人の手紙の言葉があるのを、無意識に、娘は感じ取った。  忘れてしまった記憶の片隅にひっかかる、言葉。それが、娘を何かへと駆り立てる。  先程の風読みも、きっとおんなじだったのだろうという確信が、理由もなく脳裏をよぎっていった。  やがて、螺旋を描く石段は、小さな踊り場で終わりを告げた。  雨降りの際に光を灯す際には、ここよりさらに梯子を伝って、塔の最上階に上らねばならない。  娘が、梯子の金属に裸足の指先をかけようとしたその時、梯子の傍らに、小さな扉があるのに気づいた。  何度かここに上ってきた時には気づきもしなかった、開くためのノブすらない、金属の扉。  その扉も、まるで娘を招き入れるかのように、音もなく、開いた。     * 「……るな?」  夜の影に潜む生物達の気配のように、微かに聞こえて、年老いた胸を騒がせる、ざわめき。  その聞き慣れぬざわめきの中に、ぽつりと娘の呟きが聴こえた気がして、風読みはその身を床からそっと起した。  先程、つい娘に話しすぎてしまったことが、彼の胸のうちで引っかかってはいた。  あの時は、『機械技師』の手紙に書かれていた知らせに、驚いて少し興奮していたのだと、思う。  自分を知っている『機械』が、この世界に眠っていたのを見つけたという、旅人の知らせに。  風読みが異変に気づいたのは、そんなことを思いながら、娘の様子を見ようと病のために鈍い足を急かして居間を通過しかけた、その時だった。  普段は風さえも通さぬ、観測所の塔へと続く『機械』の扉。  それが、あたかも螺旋の石段へと誘うように、大きく開いたままになっていた。 「何故、塔の扉が……。」  この扉は、絶対に自分に対してしか開かないはずなのに、と、心の内で呟く。  でも、それならば、開いた扉の奥から届く、この胸を騒がせるざわめきは、何なのか。 「いけない、あの『機械』に触れるには、るなの心はまだ……!」    そのざわめきの正体を悟った初老の風読みは、病んだ身体を省みず、冷たい石段を駆け上がり始めた。    *  半円球の部屋の、円弧を描いている側の壁面に幾つか開いた明かり取りの窓から、月明かりが淡い光の帯となって幾筋か差し込んでいる。  その光線が、つめたい床面にまるで人の血管のように幾重にも伸びている、金属の管や箱達をあらわにする。  そうして、その金属の血管の繋がる先に、差し込む灯り達にその影を冷たい床面に切り取られながら。  空を飛ぶ『機械』が、眠っていた。    鳥の、翼、みたい。  旧い金属を貼り合わせて作られたその細長い胴体は、小さく天へと向けて跳ねた尾から、くちばしのように尖った先端へと緩やかな曲線を描いて続いている。  そして、その身体を天空へと飛翔させるための、薄い水色の金属製の、巨大な『機械』の翼。  左右一対のその翼は、塔の半円球の部屋一杯に拡げられ、窓からの淡い光に照らされて、月を導に駆ける鳥の翼のように銀色に輝いている。  それぞれの翼の中央に、垂直に螺旋の十字形がひとつずつ。そして翼の裏側には、まるで生物の器官のように、幾つもの金属管や円筒形、箱型の小さな『機械』が密集している。  そうして、空を飛ぶ『機械』は、まるで巣に憩う鳥のように、観測所の塔の一室で、この雪の夜を静かに眠っていた。  あたかもその寝息のように、小さな碧色の光が、『機械』の胴体の前の方で点滅しているのに、ふと娘は気づいた。  何処か、娘を呼びかけるように、灯っては消える、緑色の輝き。    わたしを呼んだのは、あなた?  心の中で無意識に呟いて、娘は碧い明滅の方へと歩みを進める。  『機械』の細い身体の先端の方を見ると、鳥に見たてるとちょうど頭にあたる箇所が楕円形にくりぬかれていた。  その楕円の中を覗くと、沢山の細かい『機械』に囲まれて、木でも金属でもない奇妙な黒い物質でできた、硬そうな椅子が、ひとつ。  緑色の光は、その椅子に向かい合った、小さな矩形の板の上で点滅した。  娘には解読できない、不思議な曲線の遠い過去の文字を、何度も、何度も、灯して。    ”please tell me your name, master.”  その文字に問いかけるように呟きながら、娘は何処か夢でも見ているような心地で、『機械』の楕円の中へと身軽に入りこむ。    わたしを、「るな」と呼んでいたのは、あなた?    ”please tell me your name, master.”  娘が楕円形の中央の椅子に収まったその瞬間。  空を飛ぶ『機械』が、その眠りから、目覚めた。  銀色の巨大な翼を持つ『機械』の、無数の金属の器官が、飛翔するための力を奮い起そうと鳴動する。  永い、永い眠りについていたその身体は、突然循環を開始した動力の血流に、苦しげな軋みを掻き鳴らす。  娘をその核に迎えた、楕円形の壁面には、青、青、緑、赤、幾つもの灯火。    まるでゆりかごのような『機械』の核で、光達につつまれた娘は、不思議と驚きを感じなかった。  それどころか、静かに気分が高まってゆくのさえ、覚える。まるで遠くで生まれた波が、幾重にも岸に打ち寄せてくるように。    ”please tell me your name, master.”  その『機械』のゆりかごにたたずむ娘の脳裏に、不意に、胸の水色の月を通じて。  空を飛ぶ『機械』の、夢が、拡がった。     何処までも、何処までも続く、蒼い空。空と平行に、眼下には淡い緑色の、一面の草原。     そのふたつの色に切り取られた世界を、小さな幾つもの銀色の翼が、滑空する。     まるで、渡り鳥の群れが、その本能に駆り立てられて、見知らぬ国へと旅を続ける、ように。     右の翼の切っ先に感じる、風を切る心地好い、感触。     『機械』が、ずっと、ずっと、憧れていた、まだ味わったことのない、空を飛ぶ、感触。     誰にも邪魔されずに、自由に空を飛ぶこと。     心の何処かで憶えている、その懐かしい感覚に、娘は鼓動が早くなるのを、感じる。    娘の心の高揚に呼応して、『機械』の翼に備えられた、十字形の金属が、回転を始めた。  まるで刹那の時の巡りのような、人の目に止めることもできない無数の円弧を描く、ふたつの螺旋十字。  その回転が生む動力に、観測所の塔の半円球の部屋に、すさまじい風が巻き起こる。     空の蒼と大地の緑が交わって消失する、その視界の果てに、不意に幾つかの白銀の輝きが、灯る。     その輝きは、みるみるうちにこちらへと迫り、たちまちもうひとつの、鳥の機影を形づくる。     『機械』の夢に急激にわきあがる、緊張と、殺気。     瞬く間に辺りは二種類の空を飛ぶ『機械』で一杯になり、それぞれが獲物を狙う鷹のように、弧を描いて飛翔する。     金属の翼を震わせて、右へ、右へ、上へ。一瞬、天と地を逆転させて回転し、もうひとつの『機械』の後ろに付く。     轟音とともに、『機械』から炎の矢が、放たれる。     矢は吸いこまれるように、もうひとつの『機械』の翼に突き刺さり、直後、『機械』は橙色の炎に包まれる。 「……!」  声にならない、娘の、叫び。  まさにその時、『機械』の夢に呼応するように、塔の側壁が重い響きを奏でた。  半円球の部屋の、南側の壁がゆっくりと開き、微かに和らいだ暁の群青色の空を、あたかも絵のように視界に広げる。  空を飛ぶ『機械』の正面に、夜の空へと、迎えるように。  朝へと向かう群青の空の、西の低くに、ぼんやりと、丸い月が映っている。     無数の炎の矢が残す煙の軌跡に、それまで澄んていた空の蒼は、鈍い濃い灰褐色と橙色に、汚れてゆく。     ひとつ、またひとつ、矢をその身体に受けた『機械』の鳥達が、翼を炎に焼かれて、緑の大地へと墜ちてゆく。     鳥をひとつ墜とすたびに、なお高ぶる『機械』の殺気。そして、空を飛ぶことへの、相手を墜とすことへの、憧れ。     娘の遠い記憶に呼応して甦った、強い、強い、想い。      それこそが、観測所の塔にずっと眠っていた、空を飛ぶ『機械』の、うた。    ”please tell me your name, master.”  その『機械』のうたと、目の前で明滅する『機械』から呼びかけを振り払うように、娘は思わず頭を抱えて、強くかぶりを振る。  だが、瞳を閉じても脳裏に響くうたは消えない。  それどころか、うたは『機械』からのみならず、まるで月に呼応して潮が急激に満ちてゆくように、自らの遠い記憶の奥底からも沸きあがってくる。     ふっと、周囲の風景が一変した。     煙った蒼と、さざめく緑の二色に彩られていた世界が、不意に灰色がかった藍色、ただ一色に包まれる。     天空と地上の境目も消え失せた、夜の闇の中を、いつの間にかただ一羽だけになった、娘を乗せた『機械』の翼。     見上げる天球には、星も、真白い月も、なにもない。     ただ、灰色に霞んだ藍色ににじんで生まれた、雨という名の水滴だけが、幾つも、幾つも地上をめがけて、墜ちている。     突然、何処からともなく射られた炎の矢が、『機械』の右の翼に、深々と突き刺さった。     その矢が宿した破滅の力が、瞬く間に娘と『機械』を橙色の炎へと包まんとする。     『機械』の翼は、あっという間にその力を失い、大地へと墜ちてゆく。     無数の水滴とともに、娘もろとも鈍い橙色の雨となって。     最初は、不安だったけど、それほど恐怖は感じなかった。     誰かが、胸の水色の月を通じて、護るように、その手を強く握るように、娘としっかりと繋がっていたから。     想い出せない、懐かしい、誰かが。     だが、その誰かとの繋がりも、やがて燃えさかる炎に焼き切れて、断ち切れる。     護っていた両方の手は離れ、地上へと還る落下の中で、遠く別れてゆく。          るな、るな、と、娘を呼ぶ悲痛な声が、最後の瞬間水色の月から届いて、途切れた。     娘は、たったひとりで、空から墜ちてゆく。     水色の月からは、もう、何も聞えない。もう、何も伝えても届かない。     『機械』を無へと帰す業火に、少しずつその身体を焼かれながら。         たったひとりで、一粒の水滴となって、墜ちてゆく。      「いやあっ!」  あたかも胎児のように、その顔を細い膝に埋めて、娘はその耳を塞ぐ。  その小さな口から、生まれてはじめて発せられた、音。  無意識の内に、身体を引き裂くように放たれたその和音は、人の言葉には成り得ず、悲痛な叫びとなって旧い塔の最上階に、響く。 「やめろ!」   螺旋を描く長い石段をようやく上り切り、初老の風読みが扉を開けたのは、まさに娘が叫びを放った瞬間だった。  たった今にでも、暁の群青色の空へと飛び立たんと激しく回転する、『機械』の双つの螺旋十字。  その螺旋十字から生まれた風が、半円球の部屋のなかで夜明けの嵐のように渦を巻く。  その濁流のような風の循環が、雪の夜の澄んだ冷気を凍てつく刃へと変えて、病んだ風読みへと幾重にも斬りつける。 「るなは、その子は、『飛空兵』などではない!」  だが、身体を病んでいるはずの風読みは、その刃には屈せず、まっすぐに『機械』を見据えて、言葉の刃で斬り返す。  拒絶の想いを、言葉へと封じて、『機械』へと伝える。  一瞬、『機械』の鳴動が、あたかも風読みの言葉に困惑したかのように、緩んだ。 「そして、私はもう二度と、空を飛ぶことはない。敵を墜とすことなど、二度とない。」  病んだ身体の力を奪う、その身体を凍りつかせるような向かい風に、苦しそうに顔をゆがめながらも、言葉を連ねる。  冷気に顔を背けずに『機械』を見据え、その視線の意思と連ねた言葉で、『機械』をねじ伏せるように。 「眠りに戻れ。 おまえが飛ぶべき空は、この世界にはもう存在しない!」  風読みの高らかな言葉を最後に、観測所の塔の時間が、凍りついた。  空を飛ぶ『機械』のうたと、風読みの拒絶の言葉が、張りつめた時の中で対峙する。  瞬きのようにも、永遠のようにも感じる、時間の結晶。    降り積もった雪が、陽の訪れとともに音も無く溶け去るように。  その時間の結晶は、 不意に、砕け散った。  『機械』の鳴動が、張りつめた糸がほつりと断ち切れたように、停止した。  その瞬間、螺旋十字の回転が生み続けていた轟音と渦巻く冷気はかき消え、あたかも世界から音が奪われたかのように、半円球の部屋は雪夜の静寂につつまれる。  娘に呼びかける続けていた碧の明滅も、夜天に瞬いていた星座が灰色の雲に覆われるように、光を失った。  ただ、暁へ向かって大きく開かれた塔の側壁だけが、『機械』のうたの名残を、この場に留め続けている。    『機械』の想いが挫けるのと同時に。  病んだ初老の風読みも、また力尽きた。  凍てつく空気の流れに吹きつけられ、芯まで凍りついた身体から乾いた咳が幾度も漏れ出し、支えていた膝の力が失われる。  そして、静寂の訪れた半円球の部屋の冷たい床の上に、倒れ伏す。  だが、そんなふたりの対峙にも、鳴動がおさまったことにも気づくこともできずに、娘は楕円形の核の中で、ずっと震えていた。  『機械』が眠りに就いたにも関わらず、両の手で抱えた頭の脳裏に、幾重にも、幾重にも、たったひとりで空から墜ちる映像が描き出される。  それは既に、水色の月を通じて娘に届く、空を飛ぶ『機械』の見ている夢では、なくて。  それは、この夜に眠りから目覚めた、心の奥底にずっと眠っていた娘自身の遠い記憶だった。    それを、娘は繰りかえし、繰りかえし、震えながら、想い出し続ける。      *  そのまま、どのくらいの時間が過ぎたのか。  塔の小さな窓から、淡い輝きをずっと低く投げかけていた、月の光が、消えた。  代わりに、大きく開いた側壁の矩形の底辺から、山吹と紅色の溶け込んだ微かな夜明けの輝きが、塔の部屋に差し込んでくる。  夜の終焉を告げる淡い輝きが、ようやく娘を遠い記憶の呪縛から解放した。  恐る恐る顔をあげ、逃げるように『機械』の袂から転がり出て。  そこで、ようやく、倒れている風読みに気づいた。   風読みっ。  娘は、まるで溺れる子供がしがみつくように、風読みをきつく抱きしめて、名前を呼びかける。  世界でただ一人、言葉にならない娘の声を聴きとることのできる、風読みの、名前を。  だが、胸元に揺れる水色の月からは、何の返事も返っては、こない。   風読みっ。 風読みっ。 風読みっ。  娘は、何度も、何度も風読みの名を呼びかける。  何より、あの墜ちる夢と同じように、世界にたったひとりになってしまうのが、怖くて。  だが、力尽きた風読みは、今にも途切れそうな浅い呼吸を続けるだけで、娘の呼びかけには、応えない。  それでも、ずっと、ずっと、娘は風読みを、呼び続ける。  東の空から、柔らかな紅色の羽を持つ鳥がその翼をひらくように、朝焼けが広がってゆく。  微かに春の兆しを含んだ、湿ったほのかな早朝の風が、側壁から塔へと軽やかに舞い込んでくる。  朝焼けは、雨の徴。一夜限りの雪は、春の始まりの徴。  朝焼けにほのかな橙に色づいた、世界を覆っている雪も、昼過ぎにはもう、跡形もなく溶けてゆく。  その雪の下から現れた、眠りから目覚めた大地には、少しずつ、春の息遣いが満ちてくる。  そして、もうすぐ、雨降りが訪れる。