そら とぶ ゆめ   Act.4 tears - (I)  ***** Voice Recorder − 15 ***** 「敵攻撃機、本空域より離脱。お疲れさまでした、マスター。」 「……ステイション、墜ちちゃったのに? 仲間の攻撃機も、みんな、墜ちちゃったのに……?」 「それは、マスターの責ではありません。それどころか、マスターはステイションを失いながらも、  ただひとりで、この空域を護り切ったのですから。」 「みんな墜ちていったのに、そんなことに何の意味があるの……?」 「古えの『渡り鳥』とて、全てが遠い国まで飛べたわけではないでしょう。でも、まだマスターは飛び続けています。」 「……気休めはよしてよ、『翼』。すぐに、次の攻撃隊が来る。もう、燃料だってほとんど残ってない。」 「敵機に見つからぬよう低周波通信を放ち続け、うまく付近を哨戒している味方部隊が発見できれば、  給油もできます。 可能性は高くはありませんが、0ではありません。」 「静かにして……。少しくらい、自由に、好きなように飛ばせて。」 「月へと、飛ぶ気ですか……マスター? 今の私の推力では、月までは到達できません。」 「何も、言わないで、『翼』。」   「それでも飛ぶというのなら、あなたの名前を教えてください、脱出核を射出します。  ……私は、墜ちて塵になっても構いませんが、貴方を死なせる訳には、いきません。」 「黙って、『休まない翼』。」   低く飛ぶ飛行機の 黒い影に逃げながら   一人で迷い込んだ 小さな靴の 音はまだ帰らない   誰かの背中を 呼ぶことも知らないで 「……なあに、それ……?」   空を見上げた 瞳からこぼれる 君の名前を知りたい   声にならずに 消えてゆく言葉が 帰りの道を遠くする   流れる星を呼び止めて ぼくらは歌を歌えるから   明日旅する 夜明けの天使に 君の名前きっと伝えるよ 「……不思議なアクセントね。言葉だけど、言葉じゃないみたい……。何処で憶えたの?」 「マスターの名前が知りたくて、昔の記録にアクセスしていた時に見つけました。  過去のヴォイス・レコーダに残っていた、とある飛空兵の、『うた』という、ものです。」 「『うた』……?」 「過去のヴォイス・レコーダを遡って行くと、彼は、作戦が完了した後に、きまってこの『うた』を唱えていました。」 「『瞳からこぼれる 君の名前を知りたい』……。きっと、弔いね……。」 「『うたの』言葉の意味は解析できなかったのですが、不思議と私の仮想記憶にずっと残り続けていたのです。 それで気になって、他の記録と照合してみました。」 「彼は、もとは志願兵ではなく徴収された学生だったのですが、あまたの敵機を墜とした撃墜王でした。」 「この飛空兵も、マスターと同じように、にずっと自分の名前を教えなかったそうです。 それで、通常は有り得ないことなのですが、攻撃機の方が、彼に名前を付けて、その名前で呼んでいたそうです。」 「その彼は、どうなったの?」 「……空域1055での戦闘にて、消息を絶っています。機体も、その時のレコーダも残ってはいません。」 「そう……。彼も、やっぱり墜ちていったのね……。」 「でも、マスターは彼とは決定的に異なる点がひとつあります。」 「何が違うというの……?」 「貴方は自分の名前を教えなかった代わりに、私に『休まない翼』という名前を与えてくれました。」 「ただの演算装置だったはずの私は、その日を境に変わってしまいました。……空を、飛びたい、と思考するようになったのです。」 「マスターが月を見たいから飛びつづけるように、私は、マスターという『小さな月』がいる限り、空を飛び続けたいのです。」 「『翼』……。」 「今の私では、月まで飛ぶことはできません。でも、戦争が終わって推力技術が進歩すれば、何時かは月まで飛べるようになるかもしれない。」 「だから、まだ諦めないで、私と一緒に空を飛び続けてください。ずっと、ずっと。私は、貴方と月まで飛びたい。」 「お願いします。……リトル・ルナ。」 「……リトル・ルナって、私のこと? 『翼』、私に名前を付けてくれると、言うの……?」 「……私にも、わかりません……。」 「答えて、『翼』。」 「……演算不能、です。ただ……私にとって、貴方はかけがえのない、『小さな月』、なのだと、推測します……。」 「……どうして月が見たくて空を飛んでいるのか、教えてあげようか、『翼』……。」 「月はもうひとつの世界へと繋がる、鏡の扉、なんだって。子供の頃、おじいちゃんに、聞いた。」 「ねえ、どうしてこの世界では、墜とし合わなくてはいけないの。どうして、自由に空を飛ぶことができないの?」 「たった今、墜ちていったみんなだって、本当はもっと空を飛び続けたかったはずのに。」 「だからね、前言ったことは冗談じゃないの。私、本当に月まで飛びたいと想ってる。多分、この世界から逃げたくて。」 「マスター……。」 「マスターじゃなくて、ルナの方が、嬉しい。」 「……はい、リトル・ルナ。」 「ありがとう、『休まない翼』。ねえ、ひとつだけ約束して。」 「決して私をひとりにはしないで。手を、離さないで。この月の通信片から、ずっと呼びかけて。」 「空を飛ぶことは好きだけど、ひとりで飛び続けるのは、怖い……。」 「……必ず、私が貴方を護ります。『休まない翼』の名にかけて、ひとりには、しません。」 「……『翼』、全周波帯域に通信開いて! 敵軍に傍受されても構わない。」 「了解、『リトル・ルナ』!」 「こちら空域920、ステイション陥落するも、なお防衛ミッション続行中。付近の哨戒部隊は至急空中給油機の支援を!」 「敵軍に告ぐ。この空域は、必ず私が護り抜く。リトル・ルナ、『小さな月』の名にかけて!」 「逃げ回るよりは、真正面から戦って待つ方が、生き残れる可能性はたぶん高い。さあ、覚悟決めてね、『休まない翼』。」 「了解です、ルナ。」 「最後に、もうひとつ教えて。彼は、自分の機体にどんな名前を付けてもらったの?」 「彼は、誰よりも速く空を駆け、あたかも空気の流れを読むかのように、敵機の動きを捉えたそうです。そこから、こう呼ばれました。」 「『風読み』、と。」  *** End of Voice Recorder − 15 ***       *    乾いた冬の空気にふと迷い込んだ、すん、と、した潮の香り。  それは、緩やかな山道を下っている旅人のもとまで流れついて、ふと、その足を止めさせる。  さらさらと、旅路の向こうから流れてくる、潮風。  耳を澄ますと、その微かに湿った空気に乗って、遠く、遠く、海鳴りが聴こえる。  若い旅人は、そっと、その胸で揺れる水色の三日月に触れた。ひんやりと冷たい金属の感触からは、何の音も届けてはこない。  と、いうことは。 「……やっと、着いた。」  何処かほっとした心持ちで、旅人は心の中で呟く。  もう、海は、近い。  『オルガン弾き』と別れてから数ヶ月間、ずっと海を目指して旅を続けてきた。  それまでは沈黙を続けていた水色の月の『機械』が、突然、前触れもなしに海の音を伝えてきたから。  『機械技師』に出逢ったあの日、空を飛ぶ夢と一緒に『護り人』が渡してくれた、水色の三日月、そしてもうひとつ。   ウタヲ ウタエルトコロヘ オカエリ。  『護り人』が眠りの淵へと還る前に、蒼い硝子の瞳を瞬きしながら、くれた、言葉。  『オルガン弾き』に、旅に出た日のはなしをしたのがきっかけで、この所ずっと、『機械技師』と『護り人』のことを、想い出している。  彼女のように世界に眠り続ける『機械』達に逢うために、旅を始めて、もう随分になる。  未だに、『護り人』の残した言葉の意味は、旅人にはわからない、ままで。  そうして、彼女と自分が世界に綴る足跡は、時折交差することはあっても、未だに交わって再会することも、なく。  たった今、旅人の手のひらに残された手掛りは、水色の月が久遠から時折届ける、遠い海の、波の調べだけ。  だから、それだけを頼りに、ずっと、海へと旅を急いできた。  山道は、まるで低きへと流れる雨水のように、なだらかな丘へと、丘の麓に寄り添う小さな村の家々へと、そして、海岸へと続いてゆく。  その丘の頂で、旅人は背にした荷物を薄緑色の草々の上に置いた。  夕刻の、凪の空気の軽く胸に吸いこんで、大きく伸びを、ひとつ。    随分久しく見ていなかった、海の蒼色。  今は黄昏の名残を帯びて、その蒼の中に橙の色彩と、波間に反射して輝く光の粒を浮かべている。  それも、空の薄い青色が、一足先に夜の藍色に染まり行くにつれて、少しずつ、薄れてゆく。  その海と丘陵の境界に、暖かい夕餉の灯りが、ぽん、ぽんと燈っている。  ささやかな村の、一日の終わりを迎える、幸せな灯り達。  そんな風景をぼんやり眺めていた旅人は、ふと、村の外れの海岸近くに、奇妙な建物を、見つけた。 「月帽子、織物店、か……。」  旅人は人づてに聞いた店の名前を、そっと唱えた。  ゆるやかな曲線を描いた、真白い半円球の、遠い昔に造られた建物。  それは、丘の頂から見ると、半分に欠けた月が、ぽっかりと浜辺に落ちて、埋まっているように見える。  その半月の側面に、後から加えたらしき小さなひさしが、ちょこんと飛びだしている。 「本当、月の帽子みたいだ。」  若い旅人は、思わずくすっと微笑んだ。     *    ポンパドールくるくるり 糸まき からめて    もっともっと輝いて 満月    女の子の歌声に合わせて、カラコロと軽やかな音を奏でる木製の織り具が、次々と縦糸と横糸を織り合わせる。  そうして、ふたつの蒼い糸が出逢って、ひとつの夜空を紡いでゆく。  時折、ちらちらと瞬く小さな星を、その織物の中に織りこんで。 「……あれ?」  ふと、何かおかしい気がして、女の子は星空を織る手を、止めた。   「注文の数より、一枚、多い……。もしかして、余分に織っちゃった?」  今までどんなに注文が重なって忙しい時でも、織る数を間違えることはなかったのに、と心の内で、思う。  たった一度、この冬を迎える前の、村の二度目の月祭りの夜を、除いて。  不思議な旅人が、この『月帽子織物店』に訪ねて来た、月祭りの夜。あの時も、注文よりも一枚多く織ってしまっていた。  でもあの夜だって、結局織物はその人の分のだったのだから、数は間違ってなかったのだ。  そんな風に考えながら、ふと、その不思議な旅人との夜を、少し懐かしんで想いだす。 「じゃあ、今夜もまたお客さんが来るのかしら……?」  少し幸せそうに微笑んで軽くうなずいてから、女の子は歌いながら織物の続きを始める。   川面はケセラセラ まわるる 太陽   きっと きっと あさっても しあわせ  そんなテンポの早い歌声に合わせて、女の子の小さな手から、ささやかな星空が創りだされてゆく。  『星砂』と呼ばれる、この地方の砂浜で採ることができる、希少な五角形の砂の結晶。  その『星砂』を織り込んで星座のかたちを描いた、深い夜天の色の、手作りの織物。  それが、この『月帽子織物店』の、唯一の品物だった。  ふと、何故だか気が向いて、女の子は少し多めに『星砂』を掴んだ。  そうして、『星砂』を集めて織り込んで、小さな三日月のかたちを織物の夜空に浮かべてみる。 「こんばんは。」  もう夜の始まりを迎えて、半ば店じまい状態の『月帽子織物店』に旅人が訪ねて来たのは、その時のことだった。 「はあい、いらっしゃいませ。」  ほんの少し胸を弾ませながら、女の子は織り具を置いて、とことこと店先へと出ていった。  半円球の部屋から戸口へと出てくると、ふんわりと海風が短い前髪を撫でる。  その海風の向こうに、旅装束の若い青年が、立っていた。 「突然ですみません、お願いがあるのですが……。もしよろしければ、このお店に眠る『機械』に、逢わせて頂きたいのですが。」  若い旅人は、丁寧な口調で、客ではないことが少し申し訳ない様子で、女の子に言葉を切りだす。 「すごいなぁ、私の勘って、本当によく当るのよね。」  そんな旅人の訪れに、少し驚いたように瞳を見開いて、嬉しそうに女の子は微笑んで、こう訊ねる。 「あなたも、『機械技師』さん、でしょう?」  今度は、若い旅人が、一瞬驚きに目を開いた。そうして何処か懐かしそうな、表情で、微笑む。   「……彼女も、ここに来たのですね。」    * 「……もうひと月くらい早く着いていれば、ちょうど『機械技師』さんに逢えたのにね。」  女の子は、ふうと息をついて、ほんの一口香草のお茶を飲んでから、そっと呟いた。  海岸に埋まった半月の内側を、そのままくりぬいて造ったような、半円球の広間。  その半円球の中心に、眠る古えの、『機械』。  静かに眠る『機械』の前で、女の子のいれた甘い香りのお茶を飲みながら、若い旅人はかいつまんで『機械技師』のことを話した。  『護り人』に『機械技師』が逢いにきたこと。彼女を追って旅に出て、今は自分も各地に眠る『機械』に逢うために、旅を続けていること。 「……でも、今となっては、まだ彼女に逢いたいと願っているのか、自分でもよくわからない、ところもあります。」  幾つかの円い金属や管がついた操作板らしき卓をテーブル代わりに、自分もお茶を軽く味わってから、旅人は言葉を継ぐ。 「彼女は、『機械』達は人から届いた言葉が、想いが忘れられなくて、今でもこの世界で眠っているのだ、と言ってました。」 「彼女の集めている『機械』のうたは私にはわからないのですが、それでもいろいろな『機械』に逢ってみると、  彼らのそれぞれが、大切な何かを忘れられないでいるのは、感じとれるのです。」  黒い双つの球体から成る、巨きな『機械』を見つめながら、旅人は独り言のように、言葉を紡ぐ。 「……私も、そんな『機械』達のように、忘れられない何かを想い出したくて、旅を続けているのかも、しれません。」 「そうですか……。」  もう一人の旅人の面影を思い出しながら、女の子は、届ける言葉が見つけられずに、ただ相槌を返す。 「それにしても、ここまで大掛かりな、見事な『機械』は、見たことがない……。」  独り言に近かった話題を切り替え、改めて円の中心にたたずむ『機械』を眺めて、旅人はしみじみと呟いた。  双子の星のように、高みに浮かんで寄り添う球体のそれぞれに、幾つかの丸い硝子板がはめこまれている。  あちこちを向いた硝子板は、きょとんと見開いた瞳のようで何処か愛嬌があった。  数多の円盤や金属管達が結びついて、そのふたりの球体をしっかりと繋いでいる。  よく見ると、その硝子板や金属管の幾つかには、蒼い糸がくるくると巻かれているのも、ある。  さらには、灯りや、小さな籠も、『機械』の突起につりさげてあり、それが何処と無く『機械』の愛嬌を増していた。  籠の中には、細やかな『星砂』が、うっすらと輝きを放ち、他の灯りにひけをとらない光を燈している。  そして、その巨きな双子の星を支える、平らな円筒型の台座。 その根元でぎざぎざの歯のような円盤が、精巧にお互いと結びついているのが見える。  きっと、『機械』が動いていた頃は、これらの一枚一枚が自分の円弧を描いて繋いでゆくことで、ふたつの球体に動力を与えていたのだろうと、旅人はぼんやりと思う。 「人は、どんな言葉をこの『機械』に届けて、『機械』はいったいどんなことを成したのでしょうね。」  今はお茶のテーブル代わりとなっている、『機械』の操作板に目をやって、旅人はぽつりと言った。 「今は、わたしのお手伝いをやってもらってるのだけど、」  女の子は、『機械』と手元の織り具を繋いで、半円球の部屋を横切っている蒼い糸を見て、少し恥ずかしそうに言ってから、言葉を続ける。 「この子、昔はわたしと同じことを、やっていたんですよ。」 「え?」  あっさりと、意外なことを答えた女の子に、旅人は思わず聞き返す。 「わたしが織り物に星空を創るように、この『機械』は、建物全体に星空を創りだすんですよ。」  今度は女の子が、『機械技師』がこの月帽子織物店に眠る『機械』を動かした時のことを、語った。  村の月祭りの夜に、『機械』のうたを集めていると言って、旅人と同じようにこの店に訪れてきたこと。  彼女と話していた時に、不意に、操作板が緑色に明滅して、『機械』が動き出したこと。  『機械』がゆるやかに回転し、その丸い硝子板から、半円球の天井へと向けて、無数の星達を映しだしたこと。  そして、流れ星と一緒に、『機械』から、遠い昔の、歌が奏でられた、こと。 「この『機械』を創った人は、どうして星空を映そうと思ったのでしょうね。」  幼い頃出逢った『機械技師』の姿と重ね合わせながら話を聞いていた旅人は、静かに呟いた。   「きっと、自分だけの星空を、自分の力で創ってみたかったんですよ。」  にっこりと笑って、答える女の子。   「だって、わたしだって、自分だけの星空を織り物に創るの、大好きですから。」  自信いっぱいの解答に、思わず若い旅人からも微笑みがこぼれる。 「そうかも、しれないですね。」 「でも、『機械技師』さんは、不思議なことを言ってました。何だか、寂しそうに。」 「……彼女は、何と?」 「この子の創られた頃は、空を見上げても、星や月が見えなかったんですって。」  女の子がぽつりと口にした、『機械技師』がこの巨きな『機械』に向けて残していった、言葉。  その言葉は、あたかも、雨上がりの灰色の空を覆った厚い雲の隙間から、突然幾筋かの陽の光が、帯となって地上に降るように。  ずっと眠り続けていた、閉ざされた旅人の記憶の闇へと、不意に、一筋の光となって差しこんだ。 (空を見上げても、夜空が見えない……・?)  そんなことは、この世界では考えられないはずなのに。  それでも、その言葉の光は、旅人の何処かで確信のようなものを持って届き、闇の一番奥に安置されたひとつの箱を、照らし出す。 (星も、そして、月も……。)  それは、遠い時間、遠い世界で、『ヴォイス・レコーダ』と名付けられて、いた。  大切な人から届いた言葉達を忘れないように、記憶の奥深くへと確かに納めた、小さな箱。 「どうしたの、旅人さん……?」  突然、遠くを見るような瞳で何かを思考しはじめて、押し黙ってしまった旅人に、女の子は少し不思議そうに声をかける。  硝子の杯を、少しずつ、少しずつ満たしてゆく水滴が、何時かはその杯の淵から、溢れだすように。  旅人の記憶の箱から、言葉が、微かに、静かに溢れだしたのは、その時だった。 「……そう、あの頃は、気候制御や防御用のフィルタが覆っていて、地上からでは、夜空は見えなかった。」  旅人は、その知ることもなく、無意識に溢れた単語を、静かに声に変換する。 「だから、あの人は、月が見たいから、空を飛ぶのだと、言っていた。」  その、旅人の箱から、少しずつ溢れてきた言葉に。  月帽子織物店の、白い半円球の中心で眠る『機械』が、反応した。  湧き水が岩の隙間から細い水流を注ぎだすように、心の奥から溢れて、想い出す言葉に茫然とする旅人の、手元で。  操作板の丸い金属のひとつが、碧色の輝きを、明滅させていた。  砂浜に寄せる波のように、何かの徴のように規則的な間隔をおいて燈る、優しい碧色。  それは、幼い日にずっと側にいた、『護り人』の瞳にも、似ていて。  そっと、旅人は、その金属に触れた。 「旅人さん、この子、また動きだしてる……!」  女の子は、慌てて『機械』につるされた灯りと、『星砂』の籠を取り外す。  その女の子の隣で、数多の歯を持った円盤達が、きしきしと鈍い音を奏でて、ゆるやかに、ゆるやかに、動力を双つの球体に送り出す。  地上からは夜空は見えなかった、と呟いた旅人の言葉に、呼応して。   幾つもの硝子板の瞳に刻みつけて憶えた、昔は地上からでも見えたはずの星空を、永い時間を超えて、映しだす。  女の子が集めた灯りを、全て消したその時。  月帽子織物店の白い半円球の内側は、無数の星達の輝きをたたえた、小さな宇宙と化した。 「ほら見て、旅人さん……すごい……!」  女の子は、曲線を描く天井の一面に映しだされた星空を見上げて、歓声をあげた。  瑠璃色や、深い紅色、闇を貫きそうなほどに小さなまばゆい白色。『機械』の記憶に刻まれた、遠い昔の星座達が。  部品を軋ませて回転する、台座と球体の動きに合わせて、その輝きはゆっくりと曲面を東から西へと移動する。  あたかも、ひとつの夜が、訪れて、更けて、そして朝へと明けてゆくように。  その『機械』の幻燈に包まれて、まだ溢れてくる記憶を想いながら、旅人は天球のただ一点を、ずっと見つめていた。  ひときわ明るく、地上を包むような青白い灯りを燈す、円い、月を。 (……月まで飛びたい、そう、あの人は、私は、言った。確かに、憶えている。)  だが、その人はいったい誰なのか。自分は、いったい何物だったのか。肝心なふたつの答えが、想いだせない。  それらは、未だに旅人の記憶の箱の一番底に、大切に鍵をかけてしまわれたままで、引き出すことができない。  やがて、その満ちた月も西側の空低くへと傾き、東側の壁に淡い黎明の訪れが、ぼんやりと『機械』によって映しだされる。  『機械』の軋むような動きも、再び眠りに就かんとするように、少しずつ緩やかになり、鈍い音も途切れ途切れになってゆく。  旅人に呼びかけるように、手元の操作台の金属の一つが、サファイアのような優しい蒼色を明滅させたのは、その時だった。  応えるように、旅人は無意識のうちに、その蒼に、触れた。  その瞬間、ただ『機械』の軋む音だけが流れていた半円球の宇宙に、音楽が、響いた。  少しずつ薄れてゆく夜天に、いくつもの、いくつもの、光の滴を降らせながら。 「『機械技師』さんの時と、一緒……。」  幾筋も降り注ぐ流れ星を見つめて、思わず女の子は呟いた。  あの月祭りの夜も、そうだった。『機械』が停まる直前に星が流れて、聞き取ることのできない、遠い昔の歌が、響いて。  だが、旅人は、夜空を映す『機械』が奏でる歌を、知っていた。ずっと、憶えていた。  確かに、何処かで、この歌を歌ったことを。想い出せない、大切な、誰かへと。  記憶の箱から溢れてくる言葉にまかせて、旅人も、『機械』と声を合わせて、うたを歌う。   低く飛ぶ飛行機の 黒い影に逃げながら   一人で迷い込んだ 小さな靴の 音はまだ帰らない   誰かの背中を 呼ぶことも知らないで  低く満ちた月灯りの夜空に、降りしきる光。何処かで見たことのある、光景。  うたを歌いながら、やがて旅人は想い出した。『機械技師』と逢って旅に出たあの日、『護り人』の側で眠ってみていた夢を。  無数の雨の滴が墜ちてゆく、まるで月が涙を流しているような夜に、自分が空を飛んでいた夢。  そうして、不意に右の翼が動かなくなって、自分も滴となって、墜ちていった夢。  『機械』のうたと、幼い日に見た空を飛ぶ夢が、想い出せなかったふたつの答えのうち、ひとつの鍵を、開けた。  自分が、遠い時間、遠い世界で、いったい何だったのかを。  双つの瞳から、涙が、こぼれおちた。   空を見上げた 瞳からこぼれる 君の名前を知りたい   声にならずに 消えてゆく言葉が 帰りの道を遠くする   流れる星を呼び止めて ぼくらは歌を歌えるから   明日旅する 夜明けの天使に 君の名前きっと伝えるよ  こぼれてくる涙を抑えずに、旅人は歌い続けた。  やがて『機械』の創る夜空がやがて朝を迎え、うたが止んで『機械』が眠りに就いた、その時まで。 「……やっぱり、旅人さんも、『機械技師』さんだったの、ですね。」  大きな瞳を、少しうるませた女の子が、そっと、呟いた。 「……違います。私も、この『機械』と同じように、彼女に、永い眠りを醒ましてもらったのです。やっと、想い出した。」  ようやく涙をぬぐって、若い旅人は、穏やかに女の子に微笑んで、想い出したことを言葉に変換する。  胸に揺れる、水色の三日月の『機械』を、そっと、握って。 「……私は、この姿で生まれるよりも、ずっと遠い昔、空を飛ぶための、『機械』だった。」  やがて、『機械』の創り出した、数分間の一夜の星空は終わりを迎え、『機械』は半円球の中心で、もとの眠りへと戻っていった。  それでも、後に残された旅人は、まだ想い出した記憶の、瞳からこぼれる涙の余韻に、ただ立ち尽くすことしかできないままだった。  我に帰った女の子が、『機械』から取り外した灯りをもう一度燈し直して、店の中を明るく照らしだすまで。 「彼女は別れ際に、あなたのうたも、届けるから、と言っていました……。」  ようやく、頬にこぼれた涙をぬぐって、旅人は、少し恥ずかしそうに微笑んで、女の子に呟く。   「今思うと、多分彼女は、私が『機械』だったのに、気づいていたのだと、思います。」   「……わたしには、旅人さんが『機械』だったということは、よくわからないのだけど。」  ふうと、深く息をついてから、新しい香草茶のポットにお湯を注ぎながら、女の子は応える。  微かに甘く、心落ち着かせる野草の花の香りが、ふんわりと店内に満ちる。   「本当に、もうひと月早ければ、『機械技師』さんに逢えたのにね。」  だが、旅人はそんな女の子の言葉に、諦めたように首を横に振る。  自分のことを想い出した今、再び湧きあがってきた、旅に出た頃の望みとは、うらはらに。 「……彼女だって、私が同じように『機械』に逢いに旅を続けていることを知っているはず……きっと、私に逢おうとは、思ってないでしょう。」 「ねえ、どうして『機械技師』さんは、世界中の『機械』のうたを集めるのでしょうね。」  沈黙した操作板に置かれた、旅人のティーカップに淡い色の香草茶を注ぎながら、ふと女の子は旅人に尋ねかける。  一度だけ出逢った、『機械技師』のことを、思い返しながら。 「……遠くにいるみんなに、うたを届けるために、と言ってました。」  旅人は、この建物に、ほんのひととき一面の星空を創りだす『機械』を、息をついて見つめる。  旅人の記憶に反応して、もう一度目醒めた、星の位置と色彩を識る双つの球体は、今はまた静かな眠りの時を迎えている。  女の子が、その手で織物に星空を紡ぐのを、蒼い糸巻きを持って手伝いながら。  この『機械』に届けられた、人の言葉。その言葉にどのような想いが込められていたのか、旅人には想像すら、つかなかった。 「『機械』のうたを集めて、届けるのって、もしかしたら、つらいこと、なのかしら。」    その旅人の物思いを破って、ぽつりと女の子が、思いがけないことを呟いた。 「どうして、そんな風に……?」 「わからないですけど、『機械技師』さん、ずっと穏やかに微笑んでいたのに、何だか、何処かひとりで、寂しそうに見えたから。」  そう言われてはじめて、旅人は、幼い日の自分に『機械』のうたを集めて旅をしていると言った、『機械技師』の微笑みを想い出した。  やわらかくて、そして、はかない、彼女の微笑みを。    そんな旅人を後目に、不意に残った香草茶をくいっと飲み干やいなや、女の子は織り具へと向かい始めた。  旅人がこの『月帽子織物店』に訪れた時に織っていた、織りかけの、小さな宇宙。  その小さな宇宙に、女の子は軽やかに細い指を動かして、夜空の蒼い糸を、星の砂を織り込んでゆく。  『機械』が持った糸巻きが、さらさらと音を立てて回り、女の子の創る星空へと、青の色を補う。 「旅人さん、心から望んでいることって、言葉にして声にすれば、いつかきっとかなうのよ。」  手早く織り具を操って、目の前に生まれる星空に集中しながら、女の子は強い口調で、言う。  そんな、急に夢中になって織物を織り始めた女の子を見て、旅人は、ぽつりと応える。 「……あなたは、まだ若いのに、強いのですね。まるで、小さな魔女みたいだ。」  そんなことない、という風に首を強く横に振って、まだ視線は織り具に向けたままで、女の子はこう返す。 「わたしね、たとえつらいことがあった時でも、いつもいつも、こう、言葉にして、歌ってるの。」 「きっと きっと あさっても 幸せ、って。」 「あさって、なのですか? 今日や、明日ではなくて……?」  不思議そうに呟かれた問いに、女の子はようやく旅人の目を見て、にっこりと、笑う。 「明日は、もう望むまでもなく幸せなんだって、信じてます。……今日だって、旅人さんに逢うことができたもの。」  そんな女の子の、目には見えないけど、それでもまるで夏の夜に低く浮かぶ一等星のように強く輝いているように思える、瞳。  その瞳と向かいあって覚悟を決めたように、ようやく旅人は、願いを言葉を声に出して、届けた。 「……彼女に、『機械技師』に、もう一度逢いたい。」 「逢って、遠い昔、空を飛ぶ『機械』だった私に、言葉を届けてくれた人のことを、知りたい。」     *  海岸に埋まりかけた半月の中から出ると、何時の間にか辺りにはすっかり夜の帳が降りていた。  高い音をたてて通り過ぎる海風に刷き清められて澄んだ、この世界の、大きな半円球。  見上げると、あの『機械』が憶えていて創りだした夜空と少しも変わらずに、そこに在る星座の形、月の形。  雨の夜でも、雲が覆っていても、地上からは見えなくなっても、きっと星や月の満ち欠けの形は、きっと、ずっと変わらないのだろう。  そんな風に思いながら、『月帽子織物店』を後にした旅人の背に、ぱたぱたと駆けて来る足音が、届いた。 「間に合った……。はい、冬の海風は寒いですから。」  女の子は、まだ早い息も整えないままで、えいと背伸びをして、できあがったばかりの蒼い織物を、旅人にふわりとかけた。  肩に緩やかに巻かれた、女の子の小さな星空は、『機械』に吊るされた柔らかな橙色の明かりに照らされて、ちらちらと、微かな瞬きを映す。  その瞬きの中でひときわくっきり輝く、『星砂』で形作られた、小さな月。 「わたし、織る数を間違えたことなんて、今まで一度だってないんですよ。」  少し驚いた表情の旅人に、にっこりと笑って言う。 「月祭りの夜も、気が付いたら一枚多く織ってて、間違えたかなと思っていたんです。そうしたら、ちゃんと『機械技師』さんが訪ねて来てくれた。」 「だから、今日も一枚多く織ってたのだけど、この織物は始めから旅人さんの分、だったんです。」  月明かりを背に、幸せそうに笑って自信たっぷりに言う女の子を見ていると、何だか本当に月の小さな魔法使いを見ているようで。  思わず、旅人もふわりと、微笑む。 「……ありがとう、ございます。」 「きっと、織物が『機械技師』さんのところへ導いてくれます、から。わたしの織物って、結構侮れないんですよ。」  地上に寄せる波の調べは、昼も、夜も、絶えることなく奏で続けられる。旅人の、遥かな高みで巡り続ける、月のかたちに従って。  その緩やかな調べをずっと耳にしながら、旅人は海岸線に沿って急ぎ足で歩いてゆく。  冷たい空気に一瞬浮かぶ真白い吐息、そして、それよりは僅かに永い時間をかけて消える、砂浜の足跡を、その軌跡に残して。  ずっと旅をしてきて、『機械技師』との差がここまで縮まったことはなかった。  『月帽子織物店』のあるこの地方から、次の『機械』がある場所へは、採る道の選択肢は、そう多くはない。  その中から、旅人は海岸沿いに南へ下る道を選んだ。  これから寒い冬が来ることを考えるならば、渡り鳥に習って、暖かい地方へと向かった方がよい。  そして、胸の水色の月の『機械』が、時折届ける波の調べが、何よりも旅人を導いているように、思えたから。  この、最初の選択さえ間違っていなければ、この時間差ならば、きっと彼女の軌跡を拾える、はず。  ふと、一つだけ、あの女の子に話さなかったことがあったのを、思いだす。  自分が、鳥の民の生まれで、飛ぶことのできない翼をその背に持っていることを。 (あの子の言うように、声に出して望めば、何時かもう一度空を飛べるようになるだろうか。)  一瞬想ってみたが、声には出さなかった。  砂浜や岩影を歩いて行くと、絶えず暗い夜の闇に沈んだ、海が聴こえる。  低く浮かんだ月の輝きに、波間が微かな光の粒をちらちらと映して、応える。まるで、耳には聞えない言葉で、密やかな会話をしているように。  海を見ながらの旅は、何処かほっとするような、気がする。 (彼女に、『機械技師』に、逢いたい。逢って、忘れてしまった、大切な人のことを、知りたい。)  今度は声には出さずに、だがはっきりと、想う。幼い日の彼女への憧れとは違う、確かな、願い。  その願いを、水色の月と、肩にかけた小さな星空に抱きしめて、旅人は海岸線を歩いてゆく。  やがて来る冬、そして、春へと向けて。