そら とぶ ゆめ   Act.5 飛行夢(そらとぶゆめ)  舞い降りた雪が創った、凛と冴え渡った夜の静寂を切り裂いて響いた、悲痛な、叫び。  それは、浜辺の岩影で、一夜限りの雪夜に浅き眠りに就いていた旅人の、両の耳に聴こえたのでは、なく。  眠りを護る護符のように首にかかった、淡い水色の月のかたちの『機械』を通じて、心に直接、届いた。  突然の叫びに、旅人は驚いてその身をくるんでいた毛布を跳ね上げ、周りを見回す。  だが、まだ霞がかかったような視界に映るのは、一面の真白に変転した大地と、変わらないままその営みを繰り返す、海だけだった。 (疲労のあまりに、幻聴を聴いたのか……?)  声に出さずにそう呟いてはみるものの、心の奥ではその呟きをはっきりと否定している自分がいることに、旅人は気づく。  そっと、冷えた指先で水色の月に触れてみるも、もう、小さな『機械』は何の言葉も、届けてはこなかった。  樹々の葉が落ち、数多の植物や動物達が永い眠りに就く乾いた冬の間は、世界を歩く旅人達も、ほとんどは見知らぬ街や村にその根を下ろす。  そうして、暖かい灯のもとに寄り添って、やがて来る春を待つ人々に混じって、静かに冬をやり過ごす。  たいていは、その間に街や村の細々とした仕事に就いて、来たるべき新しい旅への路銀を蓄える。  宿の暖炉のまわりや、小さな酒場や食堂の隅で、人々や子供達に見知らぬ土地のことや、不思議なおはなしを語るのも、また旅人の役目だった。  だが、この若い旅人は、冬の始めに『月帽子織物店』を発ってからは、ずっと海沿いに、休む間も惜しんでずっと旅路を急いできた。  何故なら、彼女が、『機械技師』が、旅人のすぐ先を歩んでいたから。  女の子がくれた蒼い星空の織物のおかげもあってか、『機械技師』が世界に残した、微かな足跡を確実に捉えていた。  途中で寄る村々で、彼女の噂話を耳にした。娘一人で、不思議な箱を携えて『機械』に逢いに旅を続ける、彼女のことを。 (さすがに、急がないと、もうもたないな……。)  冬の旅を強行したことで、確実に彼女に近づいたが、同時にそれは、旅人の体力に多大な負担を強いる。  加えて路銀も底を尽き、ここ数日は凍てつくような夜の海辺に野宿して、浅い眠りしか得れない日々が続いていた。 (海辺の村……『観測所』のある村まで何とかたどり着いて、一旦諦めて休もう……。)  そう覚悟を決めて、旅人は浅い眠りを諦めて立ち上がった。海風に備えて、蒼い織物でしっかりと首を包み込んで、護る。  ふうと息をついて見上げる暁の澄んだ藍色の夜天には、無数の星に混じって、しるべのように黄金色の輝きを放つ、小さな惑星。  微かにしか見えない海と陸との境界からは、あたかも闇夜の精霊達がうごめくような海鳴りの響きが続いている。  その、海鳴りの響きを、貫いて。    風読みっ。 風読みっ。 風読みっ!  今度は、確かに聴きとった。水色の月の『機械』を通じて届いた、悲痛な、呼び声。  それは、『機械技師』の声ではなかった。何処かで聴いたことがあるような、声。何処かで憶えのある、『風読み』という、言葉。  だが、いくら想い出そうとしても、霧のかかったような記憶の奥底へは、手は、届かない。 「……彼女に、『機械技師』に逢えれば、きっと何かがわかる。」  かつて、空を飛ぶ『機械』だった若い旅人は、自分にそう言い聞かせて、夜の海辺を、歩き続ける。     *  窓の向こうの、灰青色のはりつめた夜気に満ちる、雨の気配。  春を呼びこむ雨というには、まだ細やかにすぎる水の粒子が、葉に、地面に、窓の硝子に弾けて、ひそやかな音楽を奏でている。  その雨音を意識の遠くに聴きながら、浅い眠りの淵で、娘は夢を見ている。  空を飛ぶ『機械』に呼ばれて、塔を上ったあの雪の夜から、ひんぱんに見る、夢を。  その夢の中では、群れからはぐれた鳥のように、ただひとり、銀色の翼で夜空を駆けていた。  地上を覆うように、低い空に幾重にも積もった、淡い霧のような灰色の粒子の層。  高く、高く駆けあがってその霧の層を突き抜けると、灰青色だった視界が、深い藍色にひらけた。  藍色の空の高みまで昇っても、塵のようにちらちらと舞う粒子が一面にひろがっていて、星の灯火は見えない。  だけど、ぼんやりとした薄い衣をまとって、細く剣のように尖った月が、浮かんでいる。  その淡い黄色い光を見つけて、ようやく心がほっとする。    そう、わたしは、ずっと前から、月が好きだった。  夢を見ながら、娘はぼんやりと、想う。  眼下には、まるで雲の海のように一面の灰色が広がっていて、地上の灯を臨むことはできない。  その灰色の層の高み、ここ藍色の空には、銀色の『機械』で空を駆ける自分と、細い月の、ふたりきり。  遠く、世界の果てまで続いている空を、ただひとり、泳ぐように駆ける。    空を飛ぶのって、海でおよぐのと似てるけど、少し、違う。  果てまで続いているのは、空も、海も変わりはしないのだけれど。  海は、まるでその大きな懐に、ちいさな自分を抱きしめてくれるように、身体を青い水で包む込む。  泳いでいると、何だか同化して、どこまでも続く海の、波のひとつになったような気がする。  だけど、空は、その空気の蒼へと、自分を迎え入れることは、決してない。  空は孤高で、何物も受け入れたりは、しない。だから、空を飛ぶと、果てまで続く藍色の中で、たったひとりになる。  その代わり、空を飛んでいる時は、自由だった。  ひとりで、どこまでも、遠くへ、世界の果てまでも飛んでゆける気がした。  そんな、空を飛ぶ夢に、無意識に心の内に憧れと、懐かしさを憶える。   こんなに、ひとりで、怖くてたまらない、のに。    恐怖を憶えない夢の時は、ひとりだけど、ひとりではなかった。  何処からか、誰かの声が、時折胸の奥へと届いてくるのだ。まるで、空を飛ぶ自分を護るように、勇気づけるように。  藍色の空に浮かんで、導きの灯のように微かに輝く、あの月のように。   あなたは、誰? あなたは、何処にいるの?  そこで、浅い眠りから、醒めた。  目醒めた直後に見る窓の外は、いつも鈍い灰色に包まれた冬の終わりの雨模様で、一瞬、今の自分が、昼と夜のどちらに属しているのか、判断がつかなくなる。  とりわけ、深い眠りに墜ちることもできずに、ずっと浅い夢の幻燈と、不安な目醒めを繰り返している、娘にとっては。  諦めたようにふうと息をついて、娘はベットから起き上がり、しばらく雨の調べに耳を傾ける。  まだ、雨降りまでには、間があるような気が、する。でも、風読みのように、雨降りの兆しを読めない自分には、その確信は持てない。  あの雪の夜以来、繰り返し、繰り返し、夢を見続けている。  たったいま醒めたような、どこまでもひろがる空を飛び続ける夢。  あの『機械』が見せたような、鳥同士が互いを墜としあう夢。そして、自分が空から墜ちてゆく、夢。  恐怖と、何故か憧れをもって眠りの紗幕に映るその幻燈。そして、風読みのはなし、水色の月のこと、夢の中で呼びかける、誰か。  そんな、波のように次から次へと打ち寄せる、自分のなかの記憶と夢をどうすることもできずに。  娘は、雨の夜に、ただ、立ち尽くす。  自分の部屋を出て、塔へ続くあの扉がある居間を抜けて、風読みのもとへと、歩く。  初老の風読みは、相変わらず、静かな寝息をたてて、眠り続けている。  あの雪の夜に、病の身で、『機械』の双つの螺旋十字が巻き起こす凍てつく風の中に立ちはだかって、拒絶の言葉で娘を救ってから、ずっと。  娘がスープやワインを匙で与えると、何とかそれを口にはするものの、意識は戻らないまま、ずっと眠りの淵に沈んでいる。  少しやせたその手を強く握って、言葉を声にすることのできない娘は、代わりに水色の月へと祈りを送る。   風読み、目を醒まして。わたしを、ひとりにしないで。  だが、その祈りは届くことはかなわず、風読みは、降りしきる水の滴の調べに包まれて、こんこんと眠り続けたままだった。  これまでは、ずっと初老の風読みに護られて、この『観測所』で暮らしてきた。  まるで、生まれたばかりの赤子が、心地好いゆりかごのなかで、眠るように。  だが、あの雪の夜にゆりかごから転げ落ちて、はじめて広がった娘の世界は、不安に満ちていた。  浅き眠りの中で見る夢、眠り続ける風読み、そして、風読みが眠ったままでまさに訪れようとしている、雨降り。  何よりも、言葉を声に表せない自分は、風読みを失ったら、誰にも想いを届けられずに、ひとりになってしまうということ。  きっと、幼い頃、滴の森で風読みに拾われるまでずっと泣いていたわたしは、こんな気持ちだったのだろうと、想う。  海鳴りのようにざわめく、心の不安の迷宮に、ひとり迷いながら、娘はただ風読みの手を、握っている。     *  『観測所』の建つ海沿いの崖を、東側に下ると、いつも娘が泳いでいる海岸に出る。  だが、娘は見知った東側へは下らずに、一向に止む気配を見せない雨の中を、崖の西側へと下ってゆく。  西側に下る時は、風読みが一緒でも、何処か不安で心細かった。だから、いつもしっかりと風読みの手を握っていた。  その風読みさえ、今は傍らにはいない。だから、娘は代わりに、しっかりと握りしめたままで、湿った岩の道を少しずつ降りてゆく。  風読みにもらった、大切な、水色の月の『機械』を。  空から降り注いで、大地へ、そして海へと還りゆく水滴が、濡れた岩の隙間に集まって小さな流れとなって、娘の足元を横切ってゆく。  そっちは、海じゃないよ、とその流れに呼びかけながら、娘も、海の反対側へと降りてゆく。  時が刻まれる度に、僅かながらその勢いを強めてゆく雨の紗幕に煙って、崖のたもとはぼんやりとしか視界に映らない。  見えるのは、ただ、真下に幾つか灯る村の明かりと、微かに深緑の影のように、遥か遠くに浮かぶ、滴の森だけ。  そのぼやけた風景を見やって、しっかりと水色の月を握りしめて、娘は村へと降りてゆく。  村は、静かな不安と畏れの入り混じった、ちょうど空を覆う厚い雲のような空気に満ちていて、通りに歩く人影は、ほんの僅かだった。  雨よけの外套に身を包んで、足早に通り過ぎる人々も、ひとり歩く娘の姿を見ると、不安そうに暗い目を伏せた。  ひとりで村を歩いている娘は、村人にとっては、雨降りの兆しを村に知らせる風読みが倒れたという噂を、何よりも裏付ける証拠だったから。  言葉を届けることのできない、伏せた瞳の人々の間を歩いていると、まるで見知らぬ異国に、たったひとり迷いこんだような、不安を覚えた。  そんな村人の瞳に出逢う度に、娘はその右手の月を強く握りしめる。  自分がたったひとりだという不安に、何とか、負けないように。  ようやく、村のはずれにある一軒の宿屋にたどり着いて、娘は無意識に吐息をつく。  濡れた白の外套が、身体に重い。水滴は黒い前髪をも濡らして、ちいさな額にはりつかせている。海で濡れた時よりも、何処か気持ちが悪い。  その水滴を、猫のように軽く払って、娘は宿屋の長い梯子を、二階へと上がってゆく。  いつも人々が集っている食堂のある一階は、既に雨降りに備えて、その扉を閉じていた。  扉を開けると、ふんわりと暖かな空気と、通りとはうってかわった賑やかな話し声があふれてきた。  二階の一番大きな客室から、ベットを取り払って造られた、冬の終わりだけの簡易的な食堂。  そこには、家の一番高い部屋でひっそりと息を潜めて、雨が通り過ぎるのを待つのを嫌った人々が集って、永かった冬の想い出話や来たるべき新しい春の話 に花を咲かせている。  その食堂の賑わいをこっそりすり抜けるようにして、娘はカウンターにいる宿屋の女主人のもとへ赴く。  風読みは、この宿屋のスープが一番美味しいと言って、いつもここに買い出しに来ているのだ。 「風読みさん、調子はどうだい? まだ具合悪いのかい?」  女主人が心配そうに、銀貨を差しだした娘にそっと尋ねる。  言葉を声に出せない娘は、どう反応して良いかわからずに、ただ、小さく肯いた。 「……スープとワインだね。ちょっと待ってな、もうちょっとで出来たてができるから。」  厨房へと下りていった女主人に少しほっとしながら、小さな食堂を見まわしてみると、暖炉のすぐ傍で、子供達の人だかりができているのに、気づいた。  語り部か、雨降りに足止めを余儀なくされた旅人が、暖かい食事代と引き換えに、童話や遠い国のはなしを語っているのだろうか。  語り手は、どうやら床にそのまましゃがんでいるらしく、周りを囲む子供達に阻まれて、その姿は見えなかった。  ふと気になって、娘は少し近づいて、その声に耳を澄ませた。 「……そうしたらね、まあるい壁いっぱいに、星空がひろがったの。『機械』が、ずっと憶えていた昔の星の形を、映しだしてね。」  群がる子供達におはなしを語る、柔らかく澄んだ声。それは女性の声、だった。 「白鳥の形、琴の形、さそりの紅い瞳の星……昔からずっと変わらない星座を映してね。まるで、窓辺で一晩中夜空を眺めているように、ゆっくり、ゆっくりと、東から西へと巡ってゆくの。」  穏やかな音楽のように語られる言葉で、紡がれる遠い国の『機械』の物語に、子供達は瞳を輝かせて耳を傾ける。 「そうして、東から昇った星達が西の空に傾いて、まるい建物に朝が訪れようとした瞬間にね、最後に『機械』はとっておきの贈り物を、くれた。」 「とっておきの贈り物って?」 「……『機械』が、お別れに、うたを奏でてくれたの。夜空一面に、いくつもの、いくつもの、流れ星を降らせて、ね。」  子供達からあがる、歓声と感嘆の声。それを機に、一気に賑やかな子供達の質問や話し声が店の片隅であふれだす。    凍てついた大地を甦らせ新たな春を呼ぶために、村を、街道を、野原を、ほんのひとときだけ天から降りてきた水に沈める、雨降り。  何時訪れるとも知れぬ雨降りをやり過ごして息を潜める、不安と退屈で満ちた冬の終わりに、暖かな灯のもとで語られる旅人の物語。  子供達にとっては、その言葉のひとつひとつが、まるで宝箱に収められた色硝子や鉱石の欠片のように、憧れと彩りにあふれていた。 「『機械』はどんなうたを歌ったの? ねえ、旅人さん歌って聴かせてよ!」 「みんなが、良く知っているうたよ。私なんかよりもずっと素晴らしい歌い手から、そのうち聴けますよ。」  姿を変えつづける暖炉の明かりに照らされて、輝いた瞳で尋ねてくる子供の質問を、旅人は悪戯っぽく微笑んでかわす。 「ねえ、どうして昔の人は、星を見る『機械』を創ったの?」 「その『機械』を創った人は、星が大好きだったんだよ。だって、『機械』なら昼間だって星空が見れるもの!」 「……きっと、その通りだと思う。」  その言葉を最後に、旅人はふわりと立ち上がる。  娘の場所からではその面影は窺えず、子供達に囲まれた、肩まで届く栗色の髪の後ろ姿だけが、わずかに見えた。 「さて、これで私のおはなしは、おしまいです。もう、行かなくちゃ。」  とたんに、先程までの賑やかな声が落胆のため息に変わる。 「せめて、雨降りが終わるまでここに泊まっておはなしを聴かせてよ、旅人さん。」 「ねえ、いいでしょう? お願い!」  おはなしをねだって、突然の旅立ちを引きとめようと群がる子供達に、旅人は静かに首を横に振った。 「ありがとう。だけど、私にはもうあまり時間がないの。……世界中の『機械』に逢わなくちゃいけないから。」  聞こえていた旅人の言葉に、ふと何かが娘の頭の片隅に引っかかった。  何処かで、聴いた事があった気が、した。それも、ごく最近に。  だが、この数日で見せられた、開かれた塔の扉の先に眠っていた現実と、記憶と、夢の中をずっとさまよっていた娘には、すぐにはその記憶を引き出すことが、できない。 「村を出てすぐに雨降りがきたら、危ないよ。村の外には高い所がないから、おぼれちゃうよ。」 「雨降りを知らせる風読みが、病気であぶないんだって。だから、いつ雨降りが来るかわからないんだ。」  見知らぬ土地の『機械』の物語に、ひととき忘れていた不安を思い出して、次々と心配の言葉をかける子供達。  その言葉が、まるで細い針が身体を刺すように、自分を責めているように思えて、娘は微かに身を震わせる。  だが、旅人はそんな子供達を優しく制して、穏やかに、力づけるように、応えた。 「……あの人なら、大丈夫よ。だってあの人は、風読み、だもの。」  心配と懇願のまなざしに、軽く肯いて応えて、旅人は宿屋の戸口へと歩んでゆく。  不思議な造りの真白い外套に、肩には深い蒼色の織物をかけて。茶色くて四角い、鞄を持って。 「……それに、風読みは、ひとりじゃないから。きっと、ちゃんとみんなに雨降りを教えてくれる。」  やっと、旅人の横顔が、見えた。穏やかで、何処かはかない、微笑み。  その微笑みと言葉を最後に、旅人は扉を開けて、途切れることなく降りしきる雨の中を、旅立ってゆく。  『機械』のうたを、聴くために。    ……『機械技師』。  ぽつりと、心の中で思いだした名前を、呟く。  暖かい居間で、風読みが滴の森で自分と出逢った時のことを話してくれた、あの雪の夜。  風読みに届いた手紙、その文面の末尾に記されていた、名前。  やっと想い出して、ずっとさまよっていた暗い迷宮の中に、ふっと差し込む光を見つけたような、気持ちで。  言葉を声に出せない自分が、何をどう伝えればよいのかも何もわからないままで、すがりつくように、娘は慌てて旅人を追いかける。  雨の降る外へと慌てて扉を開けたその時に、ちょうど入れ違いに宿屋に入ろうとした男の客と、強くぶつかった。  その直後に、ずっと下で微かに響いた、ちりん、りん、りん、と鈴の転がるような、調べ。  何が起こったかを認識して、娘は声にならない悲鳴を、あげた。  ずっとしっかりと握りしめていた水色の月の『機械』が、衝撃でその手を離れて、階下の雨に濡れた街路に、墜ちた。  滴の森で風読みにもらった、声を出せない娘がこの世界と、人と、想いを繋げることのできる、たったひとつの鍵が。  慌てて梯子を下りて、濡れながら必死になって水滴を吸いこんだ地面を、捜す。  だが、かなりの高みから墜ちて転がった『機械』は、なかなか見つけることはできなかった。  まるで、繰り返し見る空を飛ぶ夢の中で、ぼやけていてなかなか想いだすことのできない、自分の記憶の、ように。  永遠にひとりになってしまう不安に、涙がこぼれそうになりながら、娘は祈るように屈み込んで、捜す。  その時、だった。 「この、月の『機械』……、あなたの、ですか?」  無数の滴が地面を叩く響きしか聞こえなかった娘の耳に、ふわりと降りてきた、優しく尋ねる声。  振り返ると、まだ冷たさの残る空気に、灰色に煙るように降る雨の紗幕の、向こうに。  旅人が、娘が落とした水色の月を手にして、立っていた。 「あなたは……もしかして、るな、さん? 『観測所』の……。」  慌てて立ちあがった娘の、雨に濡れた長い黒髪と、その瞳の面影を見て、少し驚いたように彼女は尋ねる。  娘は、ただ、黙って肯いて、応える。  声も出せず、想いを届けれる水色の月もないままで、あの手紙を書いた『機械技師』が目の前にいるのに、どうすることもできなくて。  すると、彼女は拾った水色の月の『機械』を、その両手で包む込むように大事そうに持って、胸の少し上あたりに掲げた。  湿った空気は、すう、と、深く吸って、茶褐色の瞳を薄く閉じて。  ふたりの間の空気を、ひととき、激しい雨音の和音だけが支配した。  だけど、その空気は、先程までとは微かに、違った。雨の音のひとつひとつに、何処か厳かな緊張感と、風のような穏やかさが、流れていた。  風読みのもとで暮らしていた娘は、その空気の変化を敏感に感じ取って、おぼろげながら気付いた。  『機械技師』が、この水色の月の『機械』のうたを、聴いているのだということを。 「そういうこと、だったの……。やっと、うた、繋がった……。」  やがて、薄く閉じた瞳を開いて、ふうとため息をついて、濡れた細やかなまつげの周りを軽く手で拭って、彼女は呟いた。  そうして、そっと娘の背の高さまで屈み込んで、その首に水色の月を、優しくかける。 「はい、大事にしてね。……これは、私のおとぎ話なのだけど、聴いてくれる?」  自分の胸元に戻った、ひんやりとした月の感触。その感触をしっかりと握りしめて、娘は軽く首を傾げる。 「この世界に、同じ水色の月を持った人が旅をしているの。……あなたを、捜して。」 「もしも、いつかその人に出逢えたら、きっとその人があなたの力になってくれる。だから、あなたは、ひとりじゃない。」  雨に濡れて立ち尽くした娘の、不安そうに沈んだ漆黒の瞳へと、穏やかな声で励ますように届ける、言葉。 「……きっと、いつか、空も飛べるようになる。」  謎めいた言葉で締めくくって、『機械技師』は立ちあがった。 「風読みに、伝えておいてね。『機械技師』と、『楡の護り人』が、よろしくって。」  ふわりと微笑んで最後にそう言うと、くるりと彼女は背を向けて歩き始めた。娘と別れて、ひとりで旅を続けるために。  その、白い外套の背中が、水滴に霞んだ中を遠ざかろうとするのを、黙って見送ることが、できなくて。  だけど、他にどうしたらよいか、わからなくて。  娘は、駆け寄って『機械技師』を後ろから強く、抱きしめた。  月を拾って励ましてくれた感謝、雨降りが近づいているのに旅立つことへの心配、いろいろな問い、そして、祈り。  そんな想い達を、言葉の代わりに、自分の細い腕とささやかな体温にこめて、濡れた『機械技師』へと、届ける。  それが、声を出せない娘が想いを伝えるために、無意識に思い付いた、たったひとつの方法だった。  濡れた外套の冷たさの奥から、微かに暖かい、彼女の体温。  それを身体に感じていると、まるで、海の浅瀬に沈んでたゆたっているように、少しだけ、心が落ち付く気が、する。 「……ありがとう。でも、もう行かなくちゃ。」  やがて、何かを断ち切るように、そっと身体を離して振り向いて彼女が言った。 「これで、うたが歌えるわ。……あなたや、風読みや、『機械』達の、ふたりの記憶の、うた。」  嬉しそうにふんわりと微笑んで残した、最後の言葉。  次第に激しさを増す雨に煙っていたせいで見えた、錯覚だったのか。  娘には、『機械技師』が微笑みながら、涙を流していたように、見えた。     *  ひやりと冷たくて、それでも何処か温かい、娘の白いつまさきを浸す、翠色の海水。  降りしきる雨を意に介することもなく、規則的なリズムで、黒く湿った砂を、くりかえし、くりかえし、洗う。  その度に、海と陸の境界線上を行き来する、小石や砂の粒子、砕けた貝殻が、しゃらしゃらと澄んだ音を奏でる。  東からの風にあおられたせいで、少しだけ波は高いけど、いつもと変わらない、同じ海の色。  村から戻って、眠る風読みにスープを与えてから、娘は久しぶりに海岸へと、下りた。  あの雪の夜から、ずっと夢や記憶に迷ったり、回復しない風読みの世話をしたりで、一度も海を見に来ていなかったから。  足に浸して、少しずつ翠色に遠く広がる海と同化してゆくと、本当に久しぶりに、心が落ちついてゆく気が、する。  風読みの具合は、相変わらず良くはならなかった。  起こしてスープを匙で与えると、目を開いて飲みはするのだが、意識がまだ呼び戻されていない様子だった。  どうも、病で身体を蝕まれているというよりは、純粋に意思と、気を失ってしまっているようにも、見える。  おそらく、娘を助けるために、あの空を飛ぶ『機械』の想いと真正面から対峙して、それを拒絶するために、意思の力を使い果たして。  すう、と深く呼吸をして、滑るように海の中へと、潜る。  一瞬の水面の抵抗の後に、その視界が翠と蒼と、水面へと昇ってゆく真白い泡の粒子とに、包まれる。  細い足で水を強く蹴ると、水流が吹きぬける風のように、身体を包んでその背後へと流れてゆく。  何処までも続く海に同化して、波のかけらになったように、泳ぐ。   そらを飛ぶのも、こんな風だと、いいのに。  ぽつりと、水色の月へと想いのひとりごとを、つぶやく。  一瞬、同化した海から離れて、水面に浮かんで大きく息を吸って。 再び、浅い海の底に潜って、今度はぼんやりと、水面を眺める。  雨の滴が絶え間無く水面に還って、幾つもの、幾つもの、綺麗な同心円を描く。まるで、春の夜明けに、樹々の花達が開いてゆくように。  空から墜ちてきた滴を、優しく抱きとめる、海の蒼。   そらから墜ちてくるなら、海へと墜ちるほうが、いいな。  まっすぐに海へと墜ちて、抱きとめられる水滴達。固い大地に墜ちて、樹々や土の隙間をくぐりぬけて永い旅を経て、還ってくる水滴達。  自分も雨の滴と同じように、滴の森へと墜ちてきたのかもしれないと、ふと、想う。  そこから、想いはまた、あの空を飛ぶ夢へと、戻ってゆく。  滴の森で、風読みが自分を拾ってくれた時の、はなし。  塔の半円球の一室で、『機械』が見せた、夢。  そして、記憶の底から泡のように浮かび上がって、くりかえし、くりかえし見る、空を飛ぶ、夢。   わたしは、いったい、誰なんだろう。  滴の森にいた自分に、るな、るな、と必死に呼びかけていた、声。  空を飛ぶ夢の中で、ひとりの自分を護るように、届いてくる、声。  『機械技師』が話してくれた、もうひとつの水色の月と、自分を捜している人がいるという、おとぎ話。   あなたは、誰? あなたは、今、何処にいるの?  そう、無意識に、水色の月へと呟いた、その数瞬後だった。   ……貴方は一体、どなたですか……?  水流に揺れていた、胸元の水色の月の『機械』から返ってきた、かすれるような、声。  その声に、娘の身体に震えが走った。まるで、風読みが歌う、耳には聴こえないのに心に届くあの歌を、聴いた時のように。  娘は、慌てて水面へと上昇し、浅瀬まで戻って周囲を見まわした。  水色の月へと返ってきた声は、風読みの声ではなかった。もっと若い、青年の声。   わたしのこと、聴こえたの? あなたは誰? 何処にいるの?  今度は、月を通して見知らぬ誰かに向けて、はっきりと想いを送る。  だが、その想いには、言葉は返ってこなかった。ただ、微かに、苦しそうな息遣いだけが、水色の月を通じて届いた。  娘は急いで砂浜にあがると、海岸線に沿って降りしきる雨に打たれながら駆け始めた。  きっと、応えた相手はすぐ傍に、いると信じて。水色の月から返ってきた反応は、ごく近くから届いたように思えたから。  ぱたぱたと、小さなつま先で湿った砂浜に足跡を残して、娘は必死に駆けた。  自分の呼びかけに応えてくれた誰かを、祈るように、探して。  駆けたのは、ほんの数分だったか、それとも随分永い時間だったのか。  ようやく、岩影に崩れ落ちるようにもたれていた、人影を、見つけた。  その人影は、旅の装束に身を包んだ、若い、青年だった。  ずっと冷たい雨に打たれ続けて体温を奪われたのか、本来なら穏やかそうに見えるその容貌は、青白く色を失い苦しそうに歪められている。  こわごわと少し近づいてみると、浅くて微かではあるが、まだ、呼吸を繰り返していた。    ……大丈夫? こんなところで寝ていたら、身体、壊しちゃう。  確かめるように、目の前の青年に向けて、そっと水色の月から呼びかけを送る。  その呼びかけに気付いて、旅の青年は、微かにその瞳を、開いた。 「……貴方、は……?」  少し身じろぎして、崩れ落ちたような体制を持ちなおして、ぼんやりと呼びかけに応える、旅人。  先程までは腕に隠れてみえなかった、その、胸元に。  娘のものと全く同じ、水色の月の『機械』が、確かに、揺れていた。