そら とぶ ゆめ   Act.6 tears - (II)  雨の音が、聴こえる。  遥かな空の高みで生まれた滴が、永い落下の旅を経て、ここの土や岩に、窓硝子に、壁に弾けて奏でる、一瞬の音。  その一瞬が幾重にも、幾重にも重なって、雨の午後を奏でる音楽を形造っている。  そんな雨の音楽を聴きながら、旅人は、ぼんやりと目醒めた。  最初に視界に映ったのは、見知らぬ家の石造りの天井の、模様。 (ここは……・?)  確かに、降りしきる雨の海岸を歩いていたはずなのに、いつの間にか、ふんわりと暖かい毛布に包まれて、眠っていた。  気が付くと、上半身は裸にされていて、仰向けに眠って敷布に挟まれた背から、真白い自分の翼の淵がのぞいている。  それなのに、胸元には、大切な水色の三日月の『機械』が、忘れずにかけてあった。 (いったい、誰がここに……?)  まだ起きあがるだけの体力がなく、代わりに軽く寝返りをうって、横になって窓の側を、ぼんやりとした瞳で見やる。  その、ベットの窓側の端に、離れて少し縮こまるように、旅人と同じ毛布に包まって。  綺麗な黒い髪の、娘が、すやすやと眠っていた。    そう言えば、疲労と空腹で朦朧としながら海岸線を歩いていたさなかに、呼びかける声を聴いたのを、ぼんやりと憶えている。  何処か懐かしい澄んだ声で、あなたは、誰、と、心の奥に直接届いた、呼びかけ。 (この人が、私を呼んだのだろうか……?)  少し疲れた様子で眠る娘の横顔を、ぼんやりと見ながら、旅人はまた深い眠りの淵へと、落ちていった。     *  ふんわりと漂う、温かい香りに誘われて、再び旅人は眠りから醒めた。  今度は身体も随分回復したのか、ベットから起きあがって、その香りの源を見ることが、できた。  ベットの横で、陶器の白い皿に淡い黄色のスープと、旅人の着ていた服を持って、娘がしゃがんでいた。   わたしのこと、聴こえる? ……良かった、ちゃんと目醒めてくれて。  眠りから醒めた旅人に気付いて、軽く首を傾げて、ほっとしたように娘が言った。  正確には、「言った」のでは、なかった。娘の口は小さく閉じたままで、言葉を声にすることはなかった。  だけど、娘の言葉は、確かに旅人に聴こえた。耳にではなくて、胸にかけた水色の月の『機械』を通じて、心に、直接。  よく見ると、しゃがんだ娘の白い衣服の胸元を、全く同じ、水色の月が飾っていた。 「その、水色の月の、『機械』……。」  娘の言葉が聴こえたことに応えて、軽く肯いてから、旅人は娘に問いかけるように、呟いた。   風読みがわたしを見つけてくれた時に、くれたの、ですって。……旅人さん、のは? 「……私は、幼い頃、旅立ちの日に、友達の『機械』が、私に託してくれたのです。」  ふたつの『機械』を通じた、たどたどしい、娘と旅人の、会話。まるで、届いて繋がるのを確かめるように、ゆっくりと、進む。     どうして、あんな海岸で休んでいたの? 雨降りが来てたら、おぼれちゃうところ、だった。 「私は、『機械』に逢うために旅を続けているのです。観測所という所に、雨の日に灯りを燈す『機械』があると聞いて、海岸沿いに旅をしていたのですが、  路銀が尽きてしまって……。」  ちょっと驚いたように、黒い真珠のような瞳を見開いた、娘。  その驚きの様子に、おそらく、『機械技師』もここを訪ねて来たのだと、旅人はおぼろげながら推測した。  そんな旅人の思考をよそに、少しくすりと不器用に微笑んで、娘は応えた。   風読みの観測所に、ようこそ。 わたし、風読みと一緒に住んでいる、るな、というの。  穀物に、ほのかに甘く香る緑の香草の彩りを沿えた、淡い黄金色のスープ。  ふんわりと、真白い湯気をあげるその液体を口に運ぶと、弱った旅人の身体に、染みわたるように感じた。  暖かな毛布での、ひとときの睡眠に随分体力を回復した旅人は、ようやく乾いた上着を身に着けて、スープを飲んでいた。  観測所の居間で、同じ水色の月を携えた、声を出さずに想ったことを伝える、娘と一緒に。  ひとときもその姿を留めずに、暖炉の炎が揺らめいて、橙色の淡い灯りを、居間に燈す。  夜の帳が落ちたばかりの硝子窓の外には、止む気配もなしに、雨が降り続いている。  その絶え間無い雨の和音と、暖炉の炎が不規則に奏でる、ぱちぱちとはぜる調べを聴きながら、ふたりはたどたどしく、話をした。  娘が話したのは、この地方に冬の終わりに訪れる、雨降りのこと。風読みがその兆しを読みとって、観測所の『機械』を使って光とうたで、伝えること。  逆に、旅人はスープを飲みながら、自分が『機械』に逢うために旅をしていることを、話した。  ふたつの水色の月の『機械』を通じた会話は、ひとつひとつ、言葉を探すように、星の巡りのようにゆっくりしていた。  特に、娘は滴の森で拾われてからずっと、風読み以外の相手に想いを届けることはなかったから、話すことに、慣れていなかったから。  雨の夜の始まりに、暖炉の灯に包まれた、そんなゆっくりとした時間が、流れていく。   旅人さんは、そらを、飛べるの?  娘が、机についた両肘に小さな顔をのせて、軽く首を傾げて、尋ねた。  突然の質問に、一瞬虚を突かれた旅人は、やがて、娘が自分の濡れた上着脱がせる際に、背中の翼を見たことに思いあたった。 「私の翼は、生まれつき動かないのです。だから、今は、空を飛ぶことはできません。」  穏やかな口調で、娘の問いに静かに答える、旅人。   ……ごめんなさい。 わたしが、言葉を話せないのと、おんなじだったんだ。 「でも、遥かな昔、翼の民としてこの時間に生まれる前、きっと私は空を飛んでいた、と思います。だから、今でも、空を飛ぶ夢を、見ます。」  少し済まなそうに縮こまって、黒い瞳を上目遣い気味にして呟いた娘に、旅人は首を振って、穏やかに言葉を継いだ。  そして、あの『月帽子織物店』で、想い出したことを、ぽつりと、娘に明かす。 「信じられないかもしれませんが、私は、遠い昔別の何処かで、空を飛ぶための『機械』、だったのです。」  一瞬、それまでふたりの間に緩やかに流れてた、暖かな橙色の時間に、ふっと張りつめた何かが、流れた。  瞳を見開くようなその緊張の中で、激しく大地を叩く音だけが、居間の空気を垣間、支配した。   ……わたしも、くりかえし、くりかえし、空を飛ぶ夢を、見るの。 風読みが倒れてから、ずっと。  やがて、ぽつりと水色の月に呟きを残して、娘は椅子から立ちあがった。   ……風読みの具合、見てこなくちゃ。しばらく、待っていてね。     *  螺旋のかたちを描いて、空の高みへと上昇してゆく、観測所の旧い塔の石段。  一夜限りのあの雪の夜に、たったひとりで上った時とは違って、旅人とふたりで、手を繋いで。   相変わらず、滑らかな鉱石でできた石段は、ひんやりと、冷たい。  塔の最上階にある、灯りを燈す『機械』を見に行きたいと提案したのは、娘の方だった。  風読みの部屋から戻ってきた所に、旅人がそっと具合を尋ねて、娘が黙って首を横に振った、その直後に。  塔へと続く『機械』の扉は、この日も娘が前に立っただけで、音もなく、開いた。  しばらくは、ふたりとも、何も言葉を交わさずに、静かに石段を上っていった。  それぞれが、手を繋いで螺旋を上ってゆく相手のことに、想いを馳せながら。  『機械』に逢う旅の中で、水色の月を通して、旅人のもとに幾度か届いた、想い。  音声になることのない、その声は、確かにたった今手を繋いでいる娘の声、だった。  遠い昔、自分が空を飛ぶ『機械』だった時に、月まで飛びたいと言っていた、言葉を届ける人の声は、もう想い出せないけれど。  水色の月から届く娘の言葉を聴いていると、何だか懐かしくて、そして、護ってあげなければという気持ちが、湧いてくる。  そして、記憶の奥底の鍵穴に、微かに引っかかる、「るな」という、娘の名前。  結局、旅人の思考の中に最後の鍵は見つからぬまま、『機械技師』は、この娘のことをずっと知っていたのだろうかと、ぼんやりと、想う。    『機械』のうたを聴いた、あの塔の半円球の部屋へと続く階段を上っているのに、不思議と恐ろしさは覚えない。  繰り返し見る、空を飛ぶ夢で、ひとりで飛んでいても、何処からか届く声を、聴いている時のように。  夢の中で導きの灯のように微かに輝いた月のように、旅人の手が傍に在るから。  『機械技師』は、いつか同じ水色の月を持った人が訪ねてくるから、ひとりじゃないと、言っていた。  そして、空も飛べるようになる、と。  昔、空を飛ぶ『機械』だったと言うこの旅人が、その人、なのだろうか。そして、自分は一体何者なんだろうか。  娘もまた、その記憶の鍵を見つけられぬままに、『機械技師』のことを、想う。   ほら、あそこ、見える?  その沈黙と思考をふと破って、娘が空いたほうの手で、鉱石で造られた壁面に開いた窓の外を指差した。   滴の、森。わたし、あの森の奥で、風読みに拾われたの。  螺旋階段の乏しい灯りに照らされた、陶器細工のように白い指が差す方角の遥かな先に、灰色の闇と雨に霞んで。  荒野に、ぽつりと深緑と黒の影が、まるで暗い海に小さく浮かぶ岩礁のように在るのが、見える。   昔から、不思議なことの起きる、森なんだって。……わたし、あの滴の森で風読みに逢う前は、何処にいたの、だろう。                                                                                                                              ぽつりと声にすることなく呟かれた、娘の問い。手を繋いだ旅人も、降りしきる雨も、未だその問いに応える術を、持たなかった。  さらに曲線の軌跡をふたりで描きながら、石段を上って空へと近づく。  月明かりの差し込まない今は、規則的に東側の壁に現れる光鉱石の灯りだけが、ぼんやりと行く手を照らす。  その薄暗い塔の通路の中で、旅人の肩を包んだ蒼い織物が、時折、ちらちらと瞬きのような小さな光を、映した。  とりわけ、右の肩先あたりに灯る小さな月の形が、ささやかだけど確かな、光を燈していた。まるで、しるべのように。  やがて永い石段は、あの雪の夜と同じように、小さな踊り場で終わりを告げた。  塔の更なる高みへは、一本の金属の梯子だけが続いている。  ここで繋いだ手をそっと離して、娘が先になって、梯子を上ってゆく。  ひときわ冷たい感触の金属に手をかける一瞬、娘は閉じた扉の方を見て、振り払うように、首を横に振った。  金属の梯子を上り切ると、とろっとした湿った風と、その風に乗って迷い込んだ雨粒が、額をかすめた。  緩やかな曲線を描いた透明な硝子の円蓋が、この観測所の最上階の部屋を、墜ちてくる無数の水滴から護っていた。  螺旋階段の周囲を厚く覆っていた石壁は、ここにはもはや無く、ただ、東、西、南、北の四方に大理石のような白い柱だけが立ち、円蓋を支えている。  その吹きさらしとなった、円形の塔のテラスの中央に、幾つかの『機械』がたたずんでいた。 「これが……、雨降りを知らせる『機械』……。」  旅人が感嘆の呟きもらしたそれは、『機械』の集合体、だった。あたかも、幾つもの透明な石英や六角形の水晶達が集まって、ひとつの結晶となったように。  極細い金属の棒で組まれた四辺形や、空から降りてくる何かを受け止めるようにその円弧をひろげた、皿のような薄い緑色の円盤。  透き通った円蓋を見上げると、無数の滴が弾けるその中心で、鳥のような形の水色の『機械』が、通り過ぎてゆく風の向きを示して、その嘴を北に向けている。  その『機械』達の結晶の中央に、円い大きなふたつの硝子板を持つ『機械』が、備え付けてあった。   これが、雨降りの時に、光を燈す『機械』。風読みは、『あかり』って名前で呼んでる。  『機械』達に視線を釘付けにされた旅人に、ほんの少し得意そうに、娘が説明を、届ける。  そうして、ゆっくりと『機械』の周囲を歩いて、小さな操作板のもとに、しゃがみ込んで、呟く。   そして、この『機械』達みんなをまとめて、風読みは『らじお』って呼んでる。この『らじお』を操作して、風読みは遠くに届く、うたを歌うの。  『あかり』と呼ばれた『機械』は、以前『月帽子織物店』で見た星空を創る『機械』に、少しだけ、似ていた。  円形の台座を持ち、大きな双つの円を回転できるように幾つもの精密な部品が織り成されている。  小さな幾つもの丸硝子で星を映すのか、巨きな硝子板で、陽のような灯りを燈すのか、だけがふたりの大きな違いだった。  そして、矩形や円盤、多様な形の金属を宙へと突きだした、『らじお』。 「何だか、遠い空から何かが届くのを、手を伸ばして、ずっと、ずっと待っているみたい、ですね。」  ぽつりと、『機械』の想いを感じとって、旅人が呟いた。  風、雨、空気、その中を流れてゆく、海の波のような、耳には聴こえない、音。  空の高みにたゆたうそんな物たちを、金属の手を伸ばして触れて、受け取って。そうして、村の人々へと、灯りを燈して、届けて。  きっと、この観測所の『機械』たちは、空と、人とを繋いで、お互いの意思を届けていたのではないかと、旅人はぼんやりと想う。  ちょうど、言葉を声に出せない娘と、自分とを繋ぐ、ふたつの水色の月の『機械』のように。 「風読みさんは、『機械』達に、いつも名前を付けているのですか?」  ふと、心の中に引っかかったものを感じて、旅人は娘に尋ねた。   大切な人や、物のことを、ずっとずっと忘れないで憶えているために、名前を付けるんだって、言ってた。  旅人の問いに軽く肯いてから、あの雪の夜の会話を思い出して、娘は応える。   ……誰が、わたしのことを「るな」と名付けたの、だろう。  娘が心の中で、ずっと抱きしめていた問いを呟いた、その時だった。  それまでは、永遠に続くかのように思える雨雲達を緩やかに運んでいた南からの風が、不意に、遠い、微かな音を届けた。  普通の人の耳には届かない、風に隠れた密やかな気配と、さざめき。  だが、娘はそのさざめきを、この瞬間、はっきりと聴きとった。  それは、海鳴り、だった。遠く、水平線の彼方まで広がる蒼が、南の風に乗せた、低く渦巻くような、呼び声。  その海の蒼の声が、天空の蒼に溶け込んだ滴や、暖かい地表に溶け込んだ水流に、呼びかけていた。  絶え間無くさざめいて満ちては引いてゆく波間に、緩やかに生命が循環する深い海の底に、還ってこい、墜ちてこい、と。  永い旅の循環を繰り返す、水の粒子達を、受け止めて護る、雄々しくて優しい、海の呼び声。  その声が届いた灰色の空から、その声に歓喜のうちに応えるように、雨がほんの一瞬だけ、強まった。  その一瞬で、娘は無意識の内に、確信した。  これは、徴、だと。この雨の中、何度の徴を聴き逃したのか、この瞬間が最後の徴なのかは、わからない、けれど。      旅人さん、『あかり』から離れて、瞳をそらして! 今、確かに感じたの。雨が、降ってくる!     娘が、声のない叫びを旅人に投げる。その真剣味を帯びて凛とした叫びに、驚いて娘を見ながらも、旅人は『機械』から離れる。  それを見届けると、娘は、素早い動作で『あかり』と言う名前の『機械』の台座に、すっと白い膝をつく。  そして、何度か過去に見た、風読みが光を燈す時のことを想い出しながら、『機械』を操作し、最後に名前を呼んで、祈る。   『あかり』、光を燈して。村の人々に、雨降りを伝える光を、差し伸べて。  娘の呼びかけに応えて、『あかり』のふたつの硝子板に、まばゆい光が溢れだした。  雨に閉ざされた暗い夜空に生を受けたばかりの、双子の恒星のような、暖かな光。  そのふたつの光を燈して、ゆるやかに天球を巡らせるように、観測所の塔の最上階で『あかり』が円を描く。  雨の紗幕の中に、塔の高みにかがり火のように燈ったその輝きで、人々に雨降りの予兆を伝えて不安を鎮めるのと、同時に。  『あかり』という名前を与えられた自分が、ここにいるよ、と呼びかけるように、ゆるやかに、光を廻す。  廻るふたつの硝子板から離れて、南側の柱にもたれて、黒い瞳で強く睨むように、それでいて微かに不安そうに空を見上げる、娘。 「……あなたも、充分一人前の、風読みだったのですね。」    そんな娘の姿に、少しでも力づけるようにと、旅人が称える。  だが、そんな旅人の言葉に、娘は強くかぶりを振った。   でも、わたしには風読みみたいに『らじお』は扱えない。うたが、歌えないから……。もしも村の外に出ている人がいたら……。  緩やかな軌道を描いて、規則的な間隔を置いて、『あかり』が娘の白い顔を照らし、その姿を黒い影に形に切り取る。  今までには見せなかった、強い力を宿した、瞳。まばゆい灯りに照らされたその黒い真剣な瞳が、不意に、大きく見開かれた。   『機械技師』が! あのひと、さっき村から旅立ったんだ。雨降りのこと、伝えないと!    「……彼女に、『機械技師』に逢ったのですか……?」  思いもかけなかった、娘の声のない叫びに、今度は旅人の方がその瞳を見開いた。   旅人さんに出逢う、一時間くらい前に、村で逢ったの。わたしが、雨の中に落とした水色の月を、拾ってくれて。  くるり、くるりと廻る恒星のような光に包まれて、ふたりの瞳が、向き合う。  娘は、ぎゅっと胸元の月を握りしめて、想いを呟く。     その水色の月を見て、旅人さんのことを話してくれた。何時の日か、同じ月を持った旅人がわたしを訪ねてくるって。   やっと、うたが繋がったって、言ってた……。  旅人は、娘の呟きを受け取って、小さく肯いた。うたが繋がったということは、多分『機械技師』は、全てを判ったのだろうと、想う。  では、目の前に立っている娘が、遠い昔空を飛ぶ『機械』だった自分に、言葉を届けたのだろうか。 「幼い頃の私は、彼女を、『機械技師』を追って、世界中の『機械』に逢う旅に出たのです……ただ彼女に追いつきたくて、もう一度逢いたくて。」  結局、最後の鍵を想い出すことはできないまま、旅人は幼い日のことを、ぽつりと呟いた。  随分永い間、旅を続けてきた。『機械』に逢って自分のことを想い出しながら、彼女が世界に残した足跡を、たどって。  ようやく近づいたふたつの軌跡は、ほんの数刻の差をもってすれ違い、降りしきる雨の中に、遠く別れてゆく。  空を、飛びたい。空を飛べれば、彼女に、『機械技師』に追いつくことができる。  そう、旅人は心の底から、想った。旅に出た、あの幼い日のように。  さらさらと乾いた軽い調べを残して、旅人の背から、翼が広がった。  風のように、何処までも空を駆けるための、翼。『あかり』の光を受けて、陽光を反射してきらめく鳥の翼のように、真白い輝きを放つ。  だが、観測所の円形のテラスを包むように広がった翼は、左の翼、片方だけ、だった。 「……旅に出た日も、想いました。空を飛べれば彼女に追いつけると。だけど、右の翼は動かなかった。昔も、今も。」  雨粒が涙のように墜ちてくる灰色の空を仰いで、旅人は失望のため息をもらす。  だが、旅人の試みと失望は、娘に『機械技師』に追いつく、たったひとつの方法を、想い出させた。  だけど、その方法を試すのは、怖かった。『機械』の見る夢を、たったひとりで墜ちる夢を、もう一度見ることは、怖かった。  その瞬間、天空から無数の流星の欠片が、大地に墜ちて弾けるような調べが、塔の周囲を覆い尽くした。  先程までは、静かに奏でられていた雨の音楽が、海からの呼びかけに応えるように、激しく、世界を雨音で埋めつくすように、奏でられる。  海から南風に乗って届く、徴の海鳴りは、今も絶え間無く娘の耳に届き続けている。   ……『機械技師』は、きっといつか空も飛べるって、言ってた。  ぽつりと、自らに言い聞かせるように、呟く。彼女のおとぎ話を信じるならば、この瞬間しか、ないのだと。  その自らの呟きに背を押されて、娘は、決心した。   旅人さん、お願いがあるの。ひとつだけ、約束して。  光にさらされた、娘の強い意思を宿した瞳が、まっすぐに旅人を見つめる。  そうして、水色の月を通じて届けた、言葉。  ヴォイス・レコーダという『機械』に記録された、別の世界の空で、娘が『機械』へと届けた言葉と、同じ、言葉。     決して私をひとりにはしないで。手を、離さないで。この水色の月から、ずっと呼びかけて。     *  塔の半円球の部屋に続く扉は、娘を認識して音もなく開いた。  娘の後について部屋に入った旅人は、扉の奥で眠っていたものを見て、息を飲んだ。  半円球の部屋一杯に広がるほど巨きな、銀色の両の翼。緩やかな流線形を描いた、鳥の嘴のような『機械』の先端。  何よりも、密やかな眠りの淵から伝わってくる、『機械』の想い。手を触れなくとも、自分の内にある遠い記憶と共振して、自然と胸の鼓動が高まる。 「……空を飛ぶ、『機械』……。」  旅人は、呟いた。翼の形状や姿形は異なるかもしれないが、遠い何処の空で在ったはずの、自分の姿。  その『機械』は、娘の訪れを識って、緩やか翼に備え付けられた金属の螺旋十字を、廻し始めた。  右の手に繋いだ、娘の小さな手に、ぎゅっと力がこもる。あまりにもささやかな、力。 (……この娘を、護らねば。決して手を、離さないように。)  娘の強い瞳と、それに比してあまりにもはかない力を感じて、旅人の胸から想いが湧きあがった。ずっと昔にも抱いていた、想いが。  『機械』を鑑賞している時間もなく、ふたりは機体の先端側の、楕円形の核へと入り込む。  『機械』は、娘を迎え入れて、小さな矩形の板を通じて、呼びかける。  碧色の光で、遠い過去の文字を、何度も、何度も、灯して。    ”please tell me your name, master.”   この子、わたしに、何て言ってるんだろう。  娘が、水色の月の『機械』で繋がった旅人へと、ぽつりと呟く。  月と手で、ふたりで繋がっているからか、恐れていた『機械』の夢は、娘の脳裏に映りはしなかった。 「……もしかしたら、名前を、知りたいのかも、しれません。」  旅人にも、碧色に明滅する文字は解読できなかったけど、何故か、旅人にはこの『機械』の呼びかけが、判った、気がした。  ふと、遠い昔の自分の、そして今の自分の胸の内に、そんな想いが、よぎったから。  『機械』だった自分に、言葉と届けてくれた人の、名前が、知りたい、と。  そんな旅人の呟きに肯いて応えて、娘は瞳を閉じて、『機械』へと想いを巡らせる。  確かに、風読みは『機械』達に名前を付けていた。大切な人や物のことを、ずっと忘れないようにと、言っていた。  そうして、『機械』の名前を呼んで、願いを言葉で伝える。『あかり』や『らじお』の時も、いつもそうだった。  自分の願いは、何だろうと、想う。『機械技師』に追いついて、雨降りを伝えること。  でも、それだけではない、気がした。もっと、ずっとずっと前から、願っていた、こと。眠りの淵で、繰り返し見た、夢。  その答えは、あっさりと見つかった。これまでは、ひとりだったから、怖くてずっと、わからなかったこと。  でも、今はひとりではない、から。繋いだ手と、水色の月で、ちゃんと繋がっている、から。    ”please tell me your name, master.”  碧色に光る文字の呼びかけに、娘は空を飛ぶ『機械』に、みつけた答えを、届ける。  その答えは、無意識のうちに、娘が気付きもしないまま、高い澄んだ声から生まれた、言葉になっていた。 「……『翼』、わたし、自由に空を飛びたい。空を飛んで、『機械技師』に、逢いたい。」  繋がれた娘の手に、旅人の二重の驚きが、微かな震えに姿を変えて、一瞬、伝わった。  ひとつの驚きは、娘が、ごく自然に願いの言葉を、声で出したこと。緊張に張りつめた、真摯で澄んだ、綺麗な声で。  そしてもう一つは、一瞬、娘が、旅人の名前を『機械』に告げたのかと、想ったこと。  でも、幼い日の旅人が呼ばれていた、『ツバサ』という呼び名は、娘には教えていなかった、はず。  すると、娘は自分の名を教える代わりに、空を飛ぶ『機械』に、『翼』という名前を与えたのだ。  それは、旅人の思考の中で、不思議と自然な行いのように感じ、そして何処か遠い郷愁を、憶えた。  だが、その驚きについて言葉を交わす時間は、ふたりには、なかった。  娘の言葉が届いた『機械』から、あたかも歓喜のような振動と躍動が返ってくる。目の前の文字板に、蒼や緑、紅色の灯りが転々と燈る。  動力が生物の血液のように、『機械』の金属管や歯のついた円盤にみなぎり、双つの螺旋十字が目に見えない早さで円弧を描く。  目の前の塔の側壁が大きく開いた。その向こうは、矩形に切り取られた、灰色と水滴に満ちた重い空。   旅人さん、『翼』、飛ぶよ!  その娘の、水色の月を通じた言葉を合図に、ふたりとひとつの『機械』は、空へと、駆けた。  繰り返し、繰り返し、夢の中で見ていた、あの空へと。     * 「……るな?」  身体を抑えつけていた苦しみと呪縛が、ふっと抜けたような気がして、床に伏していた風読みは目を醒ました。  あの雪の夜に、娘を護るために、空を飛ぶ『機械』に拒絶の言葉をぶつけるために使い果たした、意思の力が、戻っていた。   いったいどのくらい眠っていたのだろうと、窓の外に視線を向ける。  その一瞬の窓枠の光景と、雨音だけで、老練な風読みは、感じ取った。  雨が、降り始めている。大地をほんのひとときの間沈め、新たな春と実りをもたらす、雨が。 「るな? 何処にいるんだい?」  呼びかけても、娘の気配は何処からも感じとれなかった。そこで慌てて、まだ働きの鈍い頭で風読みは思考する。  拒絶の呪縛をかけることは、その拒絶に相当するだけの意思を消耗する。  『機械』に向けた拒絶のために失われていた意思が、急に回復したと、いうことは。 「まさか……、るなは……。」  風読みは、衰弱した身体を起して、もう一度塔に続く扉へと、向かった。     *  激しい雨の滴が糸となって織りなした、灰色の闇を切り裂くように、『機械』が空を駆ける。  透明な風防を逸れて核へと流れ込む風が、ふたりの前髪を揺らし、吹き込んでくる幾つもの滴が頬を濡らす。  風を切る翼に受ける、空気の重み。その空気を蹴って、金属の翼を羽ばたかせるために廻りつづける、動力の振動。  張りつめた空の中を、ただ一機で、ふたりで水色の月でしっかりと手を繋いで、どこまでも飛びつつける、感触。  娘も、旅人も、その感触をずっと前から知っているような、気がした。  まるで、ずっと、ずっと昔から、変わらずにふたりで空を飛び続けていた、ように。  懐かしい、風を切って空を舞う感触に心の奥底から、喜びが湧きあがってくる。  その感触を裏付けるように、娘は無意識の内に、空を飛ぶ『機械』を自由に操る術を思い出していた。  目の前の数本の金属管と、円盤を操って、巨大な翼を旋回させ、街道の方に向けて緩やかに下降させる。    『翼』、苦しがってる……。はやく『機械技師』を見つけないと。でも、地上、何も見えない……。  逆に、はじめて空を飛ぶ、観測所の塔の『機械』は、その歓喜とはうらはらに、駆動部の至る箇所から苦しそうに鈍い軋みをあげる。  『機械』はもう、永い時間を眠りすぎていた。部品も錆びて朽ち果て、本来ならばもう二度とその機体を振動させることすら、叶わないはずの、永い、時間を。  それでも、やっと主人を得て空を飛ぶことのできた喜びに支えられて、双つの螺旋十字を必死で廻し続ける。 「街道沿いに、低く飛んでください……私が、貴方の目となって『機械技師』を見つけます。」  娘の呟きに対して、冷静に状況を判断して、安心させるように言葉を届ける、旅人。  そんな言葉に、ほっとしたように肯いて、娘は機体を低く降下させる。  目の前の文字板に、幾つかの紅色の灯火が、一瞬苦しそうに、明滅する。  晴れていれば、村の周囲の荒野が全て見渡せるはずの空の高みからは、この雨に閉ざされた大気の中では、大地の色さえも見ることができなかった。  急降下してようやく、雨の中に淡く溶けた街道と、すぐ傍らの増水し続ける河の形が、ぼんやりと臨めた。  その淡い視界の中に、旅人は必死に『機械技師』の姿を、探す。今度は、離れてしまわない、ように。  娘は目の前の操作板と金属管に専念しながら、ふと、遠い日のことを、想いだした。  ずっと昔、確かにこんな風に、雨の滴が墜ちる中を、飛んでいた記憶が、残っている。  空から墜ちる不安と、恐怖で崩れそうになる所を、たった今繋いでいる旅人の手みたいに、しっかりと誰かの言葉と繋がって護られながら。   月、見えないかな……。  何故だか、そんなことをふと想って、月の灯りが見たくなって、頭上を見上げる。  当然ながら、あげた白い顔に幾つもの滴が降りるだけで、天球の何処にも、月は見えない。  少し落胆してため息をつきながら、記憶の鍵の欠片を、想いだす。  確か、自分は月を見たくて、空を飛んでいたのだと。 「……ずっと探して見てましたが、街道には居ませんでした。一体何処に……。」  軽く首を振って報告した旅人の言葉に、娘の物想いは、破られた。   どうしよう……。雨降りに気付いて、村に戻ったのかしら。でも、もし別の何処かを歩いていたら……。  不安そうにゆらぐ、水色の月を介して届く、娘の心。  そんな娘の想いを聴いて、逆に旅人はもう一度心を落ち着かせて、判断と計算の補正を試みる。  自分が娘を護れるように、この娘が、ずっと飛び続けることができるように、と、無意識に心に強く願って。  もし自分なら、雨降りが近づいていると判っていたら、確かに街道沿いは歩かない、かもしれない。万が一を考えるならば、むしろ。 「るな、滴の森です。今度は森の淵に沿って低く飛んでください。今度こそ、きっと見つかります。」  娘の名を呼んで、力強く告げた旅人の言葉に、娘はもう一度力を奮い起して、黒い染みのように霞む、滴の森の方へと、旋回する。  翼を大きく傾けたその一瞬、右の翼から、高い金属音が、響いた。  滴の森の境界に沿って、低く飛び始めた時には、もはや地上の視界はほぼ無きに等しかった。  それでも、必死にその瞳をこらして、旅人は『機械技師』を、探す。  彼女の姿を捉えられないまま、滴の森の終わりに近づいた、その時だった。  眼下の一点で、微かな、本当に微かな輝きが、ちらちらと、瞬いた。 (あれは……?)  注意して見ていないと、雨の紗幕にかき消されて、見失ってしまいそうな、微かな輝き。  それでも、暗い夜空の片隅で瞬いた小さな星のように、燈り続ける確かな輝き。まるで、しるべの灯火のように。  そのしるべの灯火へと、旅人はとっさに思考を巡らせる。 (……織物の、星砂の光だ!)  確か、『月帽子織物店』の女の子は、彼女にも同じ織物をあげたと、言っていた。  それに、きっとこの織物が、彼女のもとへ導いてくれる、と。 「るな、見つけました! あのちいさな光です!」  旅人の叫びに、一瞬、娘の表情に、雲間から光が差しこんだように、ぱあっと安堵と喜びが、浮かんだ。  すぐに真剣な表情に戻り、目の前の操作板に集中しながら、旅人へと想いを送る。   高度をぎりぎりまで落とすから、旅人さん、あの人に伝えて! 滴の森の中へ、高い樹の上へ逃げてって!  水色の月の『機械』を通じて指示を伝えると同時に、微かな織物の瞬きへと、大きく旋回して機体を急降下させる。  ずっと空を駆けて旅を続けていた一羽の鳥が、懐かしい樹上の巣へと帰還して、まっすぐに降りてゆくように。  その降下がもたらす、空気の重みと、大地が引き寄せる力に、旧い『機械』の翼が激しく軋んで痛々しい音をたてる。  操作板に、警告するように幾つもの紅色の灯りと文字が、明滅する。    『翼』、もう少しだから、がんばって!  叩きつけるような雨の滴の中、地上すれすれまで舞い降りてきた『機械』。  その核に居る旅人の視界が、ようやく、雨に耐えて歩き続ける『機械技師』の後ろ姿を捉えた。  幼い頃に出逢った時と同じ様に、白い外套をまとって、うたを集めた『機械』の小箱を納めた鞄を持って、そして、肩に蒼い星空の織物を巻いて。  その姿は、小さな翼で必死に飛び続ける真白い小鳥のように、あまりにも小さくて、痛々しくさえ、見えて。 「……何故、彼女はそこまでして、たったひとりで世界中の『機械』のうたを、集めねばならないのだろう。」  思わず呟きが、旅人の口から、もれた。  世界を埋め尽くすように降る雨を切り裂いて、舞い降りてきた『機械』の動力音に気付いて、『機械技師』がくるりと振り向いた。  別々に『機械』に逢う旅を続けていて、一度も交差することのなかった、ふたりの軌跡。  永い、永い時間を経て、やっと再び出逢うことができたのは、空を飛ぶ『機械』が彼女の傍を風のように駆けぬける間の、ほんの数瞬の、時間。  でも、たとえほんの僅かな時間でも、ずっともう一度逢いたいと想って、この瞬間を待ち望んで、旅人は旅を続けてきた。  旅人の瞳と出逢った、幼い日と変わらない彼女の栗色の瞳。  一瞬驚いたように見開かれて、そして、空を飛ぶ『機械』に乗って、娘とふたりで空を駆ける旅人を見つめて。  ふわりと、優しく、はかなく、微笑んだように、見えた。  届けたい言葉は、胸の内からあふれるくらいあった、けれど。与えられた時は、微かな瞬きくらいの時間しか、ないから。  今は、ただ、彼女を、『機械技師』を護るための言葉だけを、雨音に負けないように、持てる全ての力を声に込めて、届ける。 「『機械技師』、雨降りが来ます! 急いで森の、高い樹の上へ!」  その叫びだけを、背後に残して。  空を飛ぶ『機械』は、『機械技師』の傍を、駆けぬけた。   ……よかった。ありがとう、旅人さん。ずっと手を、繋いでいてくれて。    背後に遠ざかる、彼女が肩にまとった星の織物の微かな輝き。その輝きが、滴の森の方へと駆けてゆくのを見届けて、ふうと娘は息をついた。  滴の森の上空へと旋回しながら、緩やかに上昇する。遠くにほのかに映る河の、海へと還りゆく水の流れは、いまにも荒野へと溢れんばかりに、見える。  ほっと、緊張を少し解いた、その時だった。  不意に、機体が大きく右へと、傾いだ。その直後、操作板に幾つもの紅色の灯火が明滅する。  目の前に現れる、『機械』からの発せられる、赤く燈った、いにしえの文字。だが、その文字で現された言葉は、娘には届かない。    ……どうしたの? 大丈夫、『翼』……?  娘の心配そうな呟きが、こぼれた、その直後。  突然、右の翼から、雨音を切り裂いて大きな爆発音が、響き渡った。  円弧を描いていた螺旋十字の付け根から、かがり火のように、灰色の空気へと炎が立ち昇る。  突然生まれた、橙色の光源と熱気に、娘と旅人の横顔が照らされる。  ぐらりと、片方の翼が傷ついた『機械』が、空中で傾いだ。  途端に、緊張と、『機械技師』に雨降りを伝えたい想いでいっぱいで、忘れていた記憶が娘の脳裏に浮かび上がった。  あの雪の夜に見た、そして遠い記憶の片隅で憶えている、空から、たったひとりで墜ちてゆく、夢。    ”please tell me your name, master.”  『機械』の操作板に、今度は赤い光で、呼びかけの言葉が、浮かぶ。  思わず声にならない叫びをあげそうになった娘を、旅人が鎮めるように、護るように、強く抱きとめる。  何とか叫びを飲みこんだ娘の身体は、冷たい雨に濡れて地面に墜ちた小鳥のように、震えていた。  時の流れが緩やかになったように、ゆっくりと橙色の炎が『機械』の翼を焦がし、少しずつ、空から降りてきた雨の滴と同化して、墜ち始める。  炎に照らされた幾つもの水の粒子が、ちらちらと、橙に輝きを映す。    ”please tell me your name, master.”  娘を、るなを護らねばという旅人の想いに、『機械』が呼びかける言葉が交差して、心の一番奥底に大切に納められた、記憶の箱に手が届く。  もつれた糸が解けてゆくように想い出してゆく、墜ちてゆく『機械』の核の中で、旅人を、最後の鍵へと、導く。  たしか、遠い昔も、雨の滴と一緒に、空から墜ちていったことが、ある。幼い頃、『護り人』の傍らで眠っていて見た、夢のように。  私は、娘の名前が、知りたかった。燃えてゆく私の身体から脱出させて、あの人を、護りたかったから。  だけど、あの人は、たったひとりで墜ちるのは嫌だと、言って、名前を教えなかった。  そして、代わりに、空を飛ぶ『機械』だった私に、名前を付けた。  だから、私も、娘に、名前を付けた。    ”please tell me your name, master.”  この『機械』も、きっと娘の名前を知りたいのだ。娘を護るために、娘のことを、ずっと、ずっと、忘れないために。  そうして、ついに、全てを想い出した。  ふたりの記憶の鍵を開く、名前という一番大切な、言葉を。 「『翼』、彼女の名前は、リトル・ルナ、『小さな月』だ! 『小さな月』は、今度こそ、この私が護る。決して手を離さないと約束する!」  旅人は、記憶の箱からあふれる言葉のままに、『機械』へと叫ぶ。 「彼女にもらった、『休まない翼』の、名にかけて!」   ”see you again, fly with me again,'little luna', another day, another sky.”  操作板に、読み取ることのできない言葉を燈して、残して。  『機械』は燃え墜ちてゆく自らの身体から、娘と旅人を乗せた核を、灰色の空へと、打ち上げた。  その、『機械』の残した核から、自らの背の、雪のように真白い、何処までも飛ぶための双つの休まない翼を拡げて。  両の手で、娘をしっかりと抱きとめて護って、旅人は自らの翼で空へと飛翔した。  遠い昔、別の世界で、娘とふたりで駆けていた、懐かしい空へと。    低く飛ぶ飛行機の 黒い影に逃げながら    ひとりで迷い込んだ 小さな靴の 音はまだ帰らない    誰かの背中を 呼ぶことも知らないで  遠くから、うたが、聴こえた。  耳から聴こえるのではなく、空気の隙間を波となって伝わって、心へと直接届く、うた。  それは、旅人が『月帽子織物店』の『機械』から聴いたうたと、そして、遠い記憶の片隅に残っていたうたと、同じだった。   旅人さん、風読み……。  『らじお』を通じて聴こえてきた風読みの確かな歌声と、しっかりと抱きとめる旅人の腕に、娘は恐る恐るその瞳を、開いた。  空から墜ちてくる、無数の水滴達と一緒に、ゆっくりと大地へと、降りている。  右と左、双つの白い翼で羽ばたく、旅人の手をしっかりと握って、決してひとりにはならないよう、護られて。  真下に広がる、深緑の滴の森の片隅が、先に墜ちた『機械』が燃える炎で、橙色に輝いている。  その橙色の光に照らされて、ちらちらと光を映す、水滴。    空を見上げた 瞳からこぼれる 君の名前を知りたい    声にならずに 消えてゆく言葉が 帰りの道を遠くする  風読みが歌ううたを聴きながら、娘もまた、全てを想い出していた。  遠い昔、別の世界で、月の見えない夜に雨の水滴と一緒に墜ちていった時の、『機械』のフライト・レコーダに残された記憶を。  本当の名前を知りたいと言われたけど、わたしは答えなかった。  たったひとりで墜ちるのは、怖かったから。それに、『翼』にもらった名前が、もう、わたしの本当の名前だった、から。  最後は、『翼』が、決してひとりにはしないと、約束して、くれた。  墜ちてゆくなかで、はじめて見た、空から降る雨。何だか、まるで夜空が涙を流している、みたいだった。       流れる星を呼び止めて ぼくらはうたを歌えるから    明日旅する 夜明けの天使に 君の名前きっと伝えるよ  やがて、旅人と娘は、滴の森へと舞い降りて行った。  墜ちた『機械』が炎をあげている場所から、少し離れた背の高い大樹の枝に座って、まだ飛び慣れない翼を、休める。  滴の森は、激しくも厳かに奏でられる音楽に、満ちていた。  常緑樹の枝々と豊かな葉が織りなす、深い翠色の天蓋。その一枚一枚の葉を潤して、夜空から幾つも、幾つも滴が墜ちて小さな音を立てる。  その音のひとつひとつが、和音となって、調べとなって、やがては壮大な音楽となって、森全体に響き渡る。  夜空がこぼした、たくさんの涙達を、受け止めて。  その厳かな雨降りの音楽と、想い出して解放された記憶に、娘の瞳から、次から次へと、真珠のような涙がこぼれ落ちる。  その涙は、水滴に鎮められながらも燃えつづける橙色の燈に照らされて、宝石のように輝いて、白い頬を伝う。  風読みのうたが、聴こえてくる。    森を焼くオレンジの 熱い雨にぬれながら    一度だけ空高く のぼった鳥の群れはもう帰らない    両方の手を離して 遠く別れてゆくよ 「……この森に墜ちていたわたしに、るな、るな、ってずっと呼んでくれたのは、あなただったんだ。」  ぽつりと、娘の言葉が声になって、こぼれた。  後から後からこぼれてくる涙と一緒に、言葉が自然と声になって、こぼれてくる。   「……あの時私は、あなたとの約束を破ってしまいました。決してひとりにはしないと誓ったのに、燃え盛る炎の前に、あなたの手を離してしまった。」  風読みのうたの詞に、静かに想いを馳せながら、旅人が呟いて応える。 「でも、こうしてちゃんと逢いに来てくれた。今度は、墜ちる時もずっと手を繋いでいて、くれた。」  あたたかな涙と、言葉が、娘のうちからぽろぽろとこぼれてきて、止まらない。まるで、この降りしきる雨の滴の、ように。 「名前、やっと想い出した。あなただったんだ……『休まない翼』。」  きゅっと繋いだ手に力を込める、大切な『小さな月』を感じながら、『休まない翼』は、無意識に風読みのうたを、歌っていた。  幼い日、『護り人』が自分に水色の月の『機械』を渡してくれた時に、言っていた、言葉。  きっと、この場所が、「君ガ ウタヲウタエルトコロ」なのだと、静かに想いをかみしめて。    風にちぎれた つばさからこぼれる 夢の行方を知りたい    ほほをたどった あたたかな涙の ひとつひとつに生まれる    かがやく時を呼び止めて ぼくらは歌を歌えるから    明日旅する 夜明けの天使が 君のことをきっと見つけるよ  滴の森が奏でる音楽が、まるで最終楽章の調べのように、荘厳に高まった。  夜空からこぼれる涙となって、豊穣の雨が世界に降りそそぐ。  河から、染みこんだ大地から、石の隙間から溢れだした水流が、一瞬にして流れだし、大地を、森の樹々を沈めた。  実りを終えて疲労した大地を洗い流し、潤いを与え、新たな春を呼びこむために。  その荘厳な音楽とともに、豊穣の雨の訪れを伝えて鎮め、やがて来る新しい実りを祈って、風読みが歌う。  その風読みの声に、『休まない翼』が声を揃えて、ともに歌う。  不意に、森の何処かから、もう一つのコーラスが、ふたりの歌声に加わった。高く澄んだ、女性の歌声。 「『機械技師』……。よかった……。」  娘はほっと呟いて、未だ止まらない涙をこぼしながら、風読みと、『休まない翼』と、『機械技師』のうたを、聴く。    空を見上げた 瞳からこぼれる 君の名前を知りたい    声にならずに 消えてゆく言葉が 帰りの道を遠くする    流れる星を呼び止めて ぼくらは歌を歌えるから    明日旅する 夜明けの天使に 君の名前きっと伝えるよ     *  雨降りは、夜が明ける頃まで、続いた。  ふたりは滴の森の樹々に護られて、その音楽を聴きながら、枝のたもとで何時の間にか眠って、雨降りの夜を過ごした。  暁の薄い群青色に、拡散して溶け込んで消えてゆく、厚い灰色の雲達。  少しずつ、春の暁の蒼色をを取り戻してゆく空の低みから、翠色の葉の隙間を抜けて淡く差しこんだ光に、娘は目を醒ました。  気が付くと、森や大地を埋め尽くした水流は、みんな海へと還っていって、きれいに消えていた。  厳かな滴の森の音楽も、風読みのうたも、もう、聴こえない。 「ほら、『翼』、見て。……私達、空から墜ちながら、そのまま月まで飛んだのね、きっと。」  淡い輝きに気付いて、娘は『翼』を優しく揺り起して、呟く。 「きっと私達、月の扉を抜けて、もうひとつの世界からこの世界へ、空の滴になって墜ちて、きたんだ。」  『小さな月』と、ぼんやりとした『休まない翼』の瞳が見つめる、その低い空に。  淡い霧をまといながら、柔らかな黄色い輝きを燈して、円い月の扉が、浮かんでいた。