光の人  あの人に初めて出会ったのは、私が古代博物学を学ぶ前のことだった。  それは、ひとつの星が滅んで幾千年の時を経た、とある日のこと。  「私は、光の人なんかじゃないわ。」  あの時、あの人は、呟くように、私の問いに応えた。  確かに、あの人は『光の人』ではなかった。  それが解ったのはずっと後、私が大学で研究を始めてからのことだ。  だけど、そう呟いて、かつて天上に灯っていた星座の跡を見上げていた、  あの人の横顔を、細い手のぬくもりを、今でもはっきりと憶えてる。     *  その日は、本来なら何事もない、いつもと変わらない一日のはずだった。  もしも、二つの偶然が重なることがなかったら。  一つめの偶然は、たまたまこの街に届いた、遠くて、淡い光。  それは、灰青色の合成繊維のような夜空に、ぽつりとにじんだひとつぶの水滴のように、ぼんやりと浮かんでいた。  水色の通信片が毎日受信する、関わりなく過ぎてゆく日々の事件。  その一番最後に、ほんの数行だけ、その光のことが載っていた。  淡い光は気候制御フィルタの異常ではなく、超新星の影響によるもの、との報告。  そして、フィルタの遮光の調整に数日を要するとの通知。  おそらく、大半の人はこんな記事には目も留めなかったに違いない。  そして、もう一つの偶然。  それは、普段はニュースなんか見もしない私の姉が、  何の気まぐれか、しっかりその記事を読んでいたということだ。  「ねえ、起きてるんでしょ、開けてよ。」  その夜、姉は妙にはしゃいだ声で、私の部屋の扉を叩いた。  無視を決め込んでも、いっこうに諦めずに叩き続ける姉にため息をついて、  私は部屋の扉を開けた。  「何だよ、ねえさん……。」  露骨に面倒くさそうな私の態度を意にも介さず、姉ははしゃいだ声でせっつく。  「鍵貸して。おじいちゃんの『惑星館』の鍵。」  「こんな夜に、何であんなとこに行くのさ?」  胡散臭い、という気持ちを隠さずに私は訊ねた。  姉がこんな声の時は、大抵ろくなことは考えていないと経験で学んでいるのだ。  「決まってるでしょ、生まれた星を見に行くのよ。」    「……何それ?」  私は、思わず目を点にして訊き返した。  「何よ、あんた通信片読んでなかったの。『超新星』って書いてあったじゃない。」  私の態度を心外とばかりに、さらに声を高くする姉。  「ばっかみたい。」  私は、そんな姉に、思いっきり冷たく呟いてみせた。  「超新星は、死んだ星のことだよ。」  ため息をつきつつ、私は机の引出しの奥から、一枚のプレートキーを取り出す。  「お前が、いつかきっと星座を見れるように、この鍵が見守ってるよ。」  亡くなる直前に、祖父がこう言って私に託した、小さな真鍮の鍵を。  明滅を繰り返す、色とりどりの店の広告、粒子の様に流れるエアタクシーの紅い尾燈。  夜の街路にはまだ数多の光達が溢れている。  まるで、消えそうな火に、むやみに可燃性の金属を投げ込んでいるように。    「そっか、超新星って、星が死ぬ時の光なんだ。」  そんな蒼や紅色の明かりと戯れる様に、弾んだ足取りで歩みを進める姉の声。  ぽんぽんと跳ねる、歩道に映る夜の影ぼうし。    「じゃあ、いずれ太陽が死ぬ時なんて、きっと見ものでしょうね。」  「そんな訳ないだろうっ!」  はしゃいだ姉の言葉に何故だか妙にいらついて、私は大声で言い放った。  つま先をぴたりと地面に止めて、一瞬目を丸くする姉。  「……ごめん。」  「ううん、でもさ……」  また軽やかな足どりに戻って、くるりと振り返って、少し穏やかな笑みで。  「ばっかみたい。」  街明かりの輝きは、ぼんやりとドームの様に、生活する私達を覆っている。  その薄い明かりの障壁に追いやられて、天上に、小さく切り取られた夜の闇。  そこには、はるか昔に鉱石の様に輝いていたという星達は、何処にもいない。  今はただ、それを惜しむように、滅びた星の息づかいだけが灯っている。  かすかな、かすかな光を残して。  ぽっ、と浮かんでは流れてゆく、店の飾り棚の明かりが薄くなった街外れ。  そこに、幾つもの昼と夜に洗われ、灰白色になってぽつりと佇む小さなドーム、それが、この夜の私達の目的地だった。  ドームの表面は、ずっと昔の脆い合成繊維で作られていて、もうあちこちで綻びをさらしている。  中心付近の天井はとうに抜け落ちていて、まるでいびつに切り取られた、半円球の発砲体に見える。  その姿は、何処か、ごく稀に夜天にぼんやりと現れる欠けた月が沈んでゆく様にも似ているように思える。  昼間は無表情なその白い曲面に、時折、広告の紺や翠色に輝く飾り文字が逆さに曲がって映り、くるくる変わる不思議な映像をその身に宿している。  それが、祖父の残した『惑星館』だった。 「ほら、はやくあけてよ。」  ぼんやりドームを眺めている私を急かす、姉の弾んだ声。  私はため息を一つついて、ポケットから真鍮のプレートキーを取り出す。  ドームの一角に突き出た扉は、プレートに刻まれた符号を読み取って、かちりと開いた。  半円球のごくひとかけらしかない、ひんやりした小部屋。  昔は、このドームにあった機械を動かす、制御室だったと聞いた。  でも、今はもうその面影もなく、私達姉弟の秘密の遊び場所となっている。  「あ、けっこうよく見えるよ。」  部屋の片隅に置かれた、金属製の長い筒状の古い道具。  その一方の端に目を当てて、落ちた天井の裂け目から、早速超新星を眺める姉。  「何だか、ぼんやりしてて、柔らかい光……。きれいだよ。」  装飾のない、冷たい滑らかな金属の筒の両端に、硝子のレンズをはめこんだ、夜空を眺めるこの道具は、昔からこの『惑星館』にあったものらしい。  ただ、初めてこれを見つけた時にはもう壊れていて、覗いても何も見えなかった。  それを、何をどうやったのか、姉が分解して調べながら直してしまったものだ。  普段は明るいだけが取り柄の姉だが、どうも、物を造ったり、物から何かを感じたりすることにかけては奇妙な才能を持っている、らしい。  もっとも、直した所でこの道具で夜空を眺めてみても、せいぜいたまに月がぼんやりと見えるだったので、姉弟二人してがっかりしたものだ。  「きっと、自分が消えるところを、誰かに見て欲しかったんだろうね。」  古い道具は、その光を二枚の硝子を透過させて拡大して、この部屋に届けている。  「あんたは見てあげないの?」  道具に興味を示さずぼんやりしてた私に、くるりと振り向いて聞いてくる。  「……いいよ、僕は。」  「そっか。」  その声は何時になく、そっけなくて、優しい気がした。  何故だか、超新星を見る気にならないままで、私はぼんやりと想いだしていた。  『惑星館』と呼んでいた、古びたこの建物のこと。  そして、『惑星館』の鍵を、姉ではなくこの私に託した祖父のことを。  「この建物にはなぁ、ずっと昔、星座を見せる機械があったんだよ。」  欠けた円球の天井から垣間見える夜天を見上げながら、祖父は呟いていた。  「せいざ?」  「せいざってなあに?」  「うん。」  姉弟の不思議そうにきょとんとした瞳に思わず微笑みながら、祖父はわかりやすいようにと、ゆっくり話してくれた。  「君達が生まれるより、ずっとずっと昔はね、夜になると空には、恒星という太陽の仲間達がたくさん、たくさん輝いているのが見えたんだ。」  「……それって、すっごくまぶしくて眠れなかったでしょうね。」  瞳をまんまるにして洩らした姉の言葉に、思わず笑いをこぼして応える。  「いやいや、太陽と同じといっても、ここからずっとずっと遠くの星達だ。だから、昔は夜空は深い闇の中に、小さな光の鉱石を散りばめたみたいだったんだ。」  まるでその恒星達が見えるかのように、眩しそうに目を細める祖父。  「その星達を線で繋ぐと、たくさんの古代の生物達が浮かび上がって見えた。それが星座だ。」  「……じゃあ、宇宙には、たくさんのいなくなった生物達が住んでいるんだね。」  「そうだね。そうとも言える。」  私の言葉に応えながらすっくと立ち上がって、ドームの中央にゆっくり歩く。  「この位置に、その星座を再現する大きな機械があった。観にくる客は少なかったそうだけど、ドームの天井に映る星座達は、本当にきれいだったそうだよ。」  「星座、見てみたいなぁ。もし無理なら機械でもいいのに……。」  夜天に住む古代の生き物達。私はその空想に魅了されて、ぽつりと呟いた。  「……いつかきっと見えるようになる。わしはそう信じてる。」  そう言って、立ったまま祖父は不思議な言葉を唱え始める。  星座のお話をしてくれる時、いつも口にする言葉。  不思議なアクセントで、切れ切れの文章で、どこか、切実な声で。    光の人 ひかりの人 ここへきて    光の人 光をさしのべて    この巨きな暗がりの外へ 輝きで みちびいて  「光の人が来てくれれば、また星座を見れるようになるの?」  「……さてなぁ。」    年老いた星 亡びてゆく星 青白い最後のまたたき  「ねぇ…何かドームの方から聴こえてこない?」  「え?」  私は我に返って聞き返した。まだ、想いだしていた言葉が頭の中に響いている。    光年の時間をかけてとどく 星ぼしの おしえ  いや、そうではなかった。その言葉は、現実にたった今、ドームの中から聴こえてくる。  しかも、澄んだ女の人の声で。  「…これって、おじいちゃんのあの言葉……。」  そうぽつりと呟くと、姉はためらいもなしに、ドームへと続く扉を開けた。  がらんとした『惑星館』の本体。そこに、制御室の扉から明かりが入り込む。  半円球の底面には、星座を映す機械も、人々がそれを見つめるためのシートももはや存在せず、ただ、滑らかな床面だけが広がっている。  頂点からは、幾つもの抜けた天井の破れ目から、闇を包み守るこのドームへと、街明かりのぼんやりした光が帯となって差し込んでくる。  その光の帯に半ば洗われて。  壁面にもたれて座って、一人の女の人が、立体図画を描いていた。  祖父の、あの不思議な言葉を、破れかけたドームの中に響かせて。    世界は今 夜の時代 森に火を放ち    山を焼き 人々は街に灯をともす  女の人は、ドームに入ってきた私達に気づかないまま、立体図画を描き続ける。  手元で、ぽん、ぽんと、色を彩ける色素棒の光が弾ける。  時折、長い金色の巻き毛が、光と腕の動きにつられて、さらりと揺れる。  そうして、描きながら、祖父の言葉を澄んだ声で紡いでゆく。  不意に、『惑星館』に響くその声がもう一つ加わった。  驚いて振り向くと、姉が、女の人の声に合わせて、静かに言葉を唱和していた。    光の人 ひかりの人 ここへきて    光の人 光をさしのべて    この暗闇の 出口の扉を 輝きで 照らして  金色の髪の娘の、高く通る澄んだ声。  姉の、普段話す時よりやや低い、優しい声。  ふたりの声が、繊維を紡ぐ様に、水のような流れを持って言葉を唱える。  亡びた星が輝く夜に、古びたこのドームの中で。  私は、言葉が終わるまで何も言えずに、ただ言葉に耳を傾けていた。  やがて、紡がれる言葉は終わりを迎え、再び半円球の中は静寂に包まれる。  女の人は、その静寂の中に、ふぅ、と息継ぎを残して、そのまま図画に向かい続ける。 ぽん、ぽんと規則的に小さな明かりが色を描く。  その『惑星館』の静寂を破って、まるい壁面に、姉の拍手の音が響き渡った。  「すごいね、言葉って、こんなに響くものなんだ。」  少し紅潮した声で、軽い足取りで近づきながら話し掛ける。  「で、ここで何してるの?」  弾んだ姉の声を聞いてはじめて私達に気づいたように、女の人はこちらを振り向いた。 「あ……ごめんなさい、歌が聴こえてきたのでつい……。」  巻き毛がかかる、真白い顔に、柔らかい光を宿した瞳。少し、恥ずかしそうな表情で。  「絵を描いていたのです。この、古い建物の。」  「『うた』?あ、きれい……。」  耳慣れない単語に首をかしげつつ、手元の立体図画を覗き込んで思わず声をあげる姉。 描きかけの小さな『惑星館』の曲面には、ごく淡い白い光が幾重にも彩けられ、柔らかな丸みを帯びて輝いている。  そのごく薄い白色は、未だ描かれていない半円球の天井の方をその源として輝いている。  その光を受けて、底面には幾つかの翠色の客席が描かれている。  「鍵はかけておいたはずですけど、何処から入ったんですか?」  真鍮のプレートを手にしつつ、ようやく私も会話に加わる。  「……そこから、です。ごめんなさい、知らなかったから……。」  透き通るような白くて細い指。それが、ドームの傍らをそっと指し示す。  その示す先を見て、私は不意にそこはかとない不安に襲われた。  ドームの土台ともなる壁面、その一部から、街明かりが差し込んでいる。    街明かりと時間に砕かれて、そこの繊維の壁面は切り取られたように崩れていた。  「もう、あまりもたないのかもね。」  そっと、崩れた壁面に触れて、姉がぽつりと呟く。  暫くの間、『惑星館』の客席に静かな沈黙が流れる。  「あの、ご迷惑ついでに、お願いがあるのですが……。」  沈黙を破って、娘がすらりと立ち上がって話を続ける。  「あと二晩、いえ一晩でよいのです。ここの絵を描かせていただけませんか?」  息をするように、夜天の裂け目を見上げて。  「この建物の音が、聴こえるうちに……。」  何かを、請い願うように、天を見つめる褐色の瞳。  天球の頂点から光を受けて、鉱石のように、多分、星のように、小さく輝く。    その瞳の星達には、何処か、遠い、透き通るような悲しみが映って。  ちらりと、弟を見る、姉の静かな表情。  「いいですよ。……もし、その立体図画のコピーを頂けるなら。」  私は、思わず目を伏せて、応える。  「あと、描いてる間、そばにいてもいいならね。」  にっこり笑って、すかさず条件を付け加えるしたたかな姉。  娘の双つの星は、優しく細く、瞬きを残して。  「ありがとう。」  ようやく賑わいも少し静まって、流れる夜の空気が街のほてりを冷ましてゆく。  「ねえ、あの人って、おじいちゃんが言ってた『光の人』だよ、きっと。」  跳ねるように、帰り道にくるりと輪を描いて振り向いて切り出す。  「超新星の夜に、『惑星館』にいて、おじいちゃんの言葉知ってて……。」  くるんと背を向けて、上向き加減で、声で言葉を綴り続ける。  「だって、あの人、すごく綺麗だったもの。……星座、見えるといいね。」  「偶然だよ。」  私は姉のはしゃいだ声に、横を向いて呟いて水を差す。  「じゃあ、何であんた、あの人が絵を描くの許可したのよ?普段は知り合いだって絶対にあそこに入らせないのに。」  回転盤のように、またくるりと振り向いて問い詰める姉。  「何でだろうね。たぶん、気まぐれだよ。」  悔しいことに、私は姉の問いに対する明確な回答を返すことができないでいる。  心の何処かでぼんやり影法師を落とす不安、微かな、すがるように灯る期待。  「ばっかみたい。」  姉弟の声が、同時に深夜の帰り道に響いた。  私は、ふと夜天に、微かに光る超新星を見つめる。  あの朧な光が届いたのを見つけた時、私は誰よりも期待に胸を躍らせたのだ。  たぶん、姉よりもずっと。  水色の通信片が、あの光の正体を超新星だと伝えるまでは。  厚い灰青色の大気と、制御フィルタを抜けて、なお届いた、微かな、微かな光。  でも、その光は、既に滅びた星の光でしかなかったのだ。  ぽん、ぽん、ぽん。  玻璃製の保存プレートに、色素棒を持った白い指が色を描く。  その度に、まるで管制塔の信号のように、透明なプレートに小さな光が灯る。  姉はいろいろと口を挿みながら、私は何も言わないままで、じっとその信号が少しずつドームの内装を描いてゆくのを見つめている。  「絵を描くところを人に見せたことないから……何だか不思議な気分ね。」  あの人は、少しはにかんでそう言いながら、耳を澄ませて、絵を描き続ける。    あの夜の翌晩、私達はあの人が『惑星館』を描くのにずっと付き添っていた。  あの人は、こうして昔の建物や場所を絵に描きながら、各地を旅してきたのだと、描きながら、ちょっと照れくさそうに話してくれた。  いろいろな場所のこと、いろいろな昔のことを教えてくれながら。    ただ不思議なのは、その描き方だった。  あの人は、今はもう存在しない、昔の姿を、硝子のプレートに記してゆくのだ。  この時も、ドームの丸い床面の中央に、蒼い金属製の機械の形を記していた。  ドームの天頂に、星座を映し出すその姿を。  「見えるの?」  不思議そうな表情を隠さずに、姉が訊く。  「ううん、聴こえてくるの。目には見えなくて……。」  ぽん、ぽん、と、連続して蒼い光。  「だから、本当に『惑星館』がこんな姿だったなんて確証は何処にもないのよ。」  「……でも、機械、本当にこんな感じだったなら嬉しいな。」  双つの球体から成り、回転盤の上でぽん、ぽん、と天頂へと星を映す蒼い機械。  描かれたその姿は、丸みの中に何処か愛嬌があって、私も姉と同じ意見を持った。  まるで、金属製の古代生物のような、そんな機械。  「ありがとう。」  少し照れくさそうで、本当に嬉しそうな、あの人の微笑み。  この時の顔が、今でも一番晴れやかだったような気がする。  「……ここを見つけたのも、この建物から歌が聴こえてきたからなの。」  色を燈すその手は止めないままで、ぽつりと呟く。  「『うた』って、昨日のあのおじいちゃんの言葉のこと?私、てっきりおじいちゃんから聴いたのかと思ってた。」  束ねた黒髪を揺らして、少し首をかしげて姉が聞き返す。  「あの言葉、おじいちゃんが星座の話をする時に、よく語ってくれたの。あの不思議な言葉、『うた』っていうんだ…。」  軽く言葉を口ずさんで、思い出した様に付け加える姉。  「十二の星座の話とか、好きだったなぁ。太陽の通り道を巡る星座の話。」  「……おじいさまは、本当に星座と、この『惑星館』が好きだったのね。」  手がふと止まって、透き通るように白い横顔が、ドームの天球を見上げる。  ぼろぼろに崩れた、『惑星館』の天井を。  「でも、何故『星座館』じゃなくて『惑星館』なのかしらね。」  再び硝子のプレートに、蒼い機械の彩りを描きながら、あの人は素朴な疑問を口にする。  蒼い光、微かに碧がかった光が小さく燈る。  ぽん、ぽんと、色素棒から発する音が、耳に響く。  「たぶん、星を見ている私達が、みんな惑星だから、だと思います。」  つい、思っていたことをぽつりと口に出してしまい、心の中で当惑する。  ドームの中に、静かな空気の息遣いの音。  「星が巡って見えるのは、私達のいるこの惑星も、光を受けながら丸い軌道を描いて空を巡っているからだと。」  何処か恥ずかしい心持ちで、言ってしまってから、こう付け加える。  「そう、祖父は言ってました。」  「……それじゃ、私はずいぶん長い軌道の惑星ね。」  少しだけ、寂しい色彩の混じった声で、こう応えたあの人。  「そんなこと、おじいちゃん、私に一度も教えてくれなかった。」  少し低い、真面目な響きの姉の声に、私はつい微かにうつむいてしまう。  その姉の言葉に、くす、と微笑んで、優しい声に戻って。  「きっと、十二星座の双子座って、あなた達みたいだったのでしょうね。」    『惑星館』に、澄んだ高い声が不思議な言葉を紡いでゆく。  時折、まねるように、応えるように、やや低い声が言葉を口ずさむ。    おどれ おどれ 十二の部屋で    おどれ おどれよ 手負いの山羊    魔女の谷間 西から 東へ    風の裾は 右から 左へ  「ねえ、他にも星座の『うた』知らない?」  そんな姉の一言から、ドームは一転して賑やかな音に包まれた。  あの人はたくさんの歌を知っていた。  長い長い軌道を巡る内に聴いてきた、たくさんの想いたち。    この銀河の星くずのぜんぶ    ひとりじめにしたいむすめ    かごのふたは あふれそうなのに    背伸びしては まだ足りない  私は、声が紡ぐ言葉の響きを耳にしながら、ずっとあの人の描く絵に見入っていた。  歌いながら、あの人は機械を描き上げ、少しずつ円球の頂点へと移ってゆく。  藍色、群青色、深い闇の色の光が、言葉に合わせて、ぽん、ぽんと燈る。  その光の信号と声の心地良さに、私はいつの間にか眠りに落ち込んでいた。    夢を、見ていた。  夢の中で、私は、小さな惑星になっていた。  広大な宇宙に描かれたレールを、たった一人で廻る、小さな惑星。  遥か下方で、『惑星館』の機械が、幾つもの光の帯を投げかけている。  それは、ぽん、ぽん、と闇の中に鉱石のような小さな星達を燈している。  私自身をもその光で照らしながら。  私は、廻りながら、時折その機械を見下ろす。  何かを、確かめるように。  そうして私は、深い、何処までも深い蒼の中を、泳ぐように、軌道上を廻ってゆく。  機械の光が織り成す、たくさんの星を道標にして。  不意に、ぱん、と音を立てて、機械がはじけとんだ。  後に、ぼんやりとした、淡い微かな、超新星の光だけを残して。  道標の星達が、溶け込むように消えてゆく。  そして、私を照らしていた光が薄れて、軌道の上でただ一人取り残されて。  私は、虚空に声にならない叫びを放つ。誰にも聞こえることのない叫びを。  軌道の上で、じっと小さくなって、不安にひざを抱えたままで。  そこで、目が覚めた。  目覚めた時のショックで、肩にかけられていたあの人のコートがはらりとずれる。  いつの間にかもたれて眠っていた姉の、規則正しい寝息が微かに乱れる。  あの人は、未だにその細い手で、光を燈し続けていた。  そして、その手に包まれた硝子のプレートの上、そこに『惑星館』が在った。  夜天の、久遠の距離を模倣する、群青色、藍色に息づく半円球の闇。  その頂点へと、周辺へと、あまねく、地上の機械が幾つもの細い光を投げる。    その細い光は、『惑星館』のドーム状の宇宙に、無数の星となって輝いている。  「もう少しで、描きあがるわよ。」  起き上がった私に気づいて、あの人は微笑みかけて言う。  だけど、私はその声も耳に入らずに、ただ小さな『惑星館』を見つめていた。  天球の頂点付近に、きんいろ、ぎんいろ、双つの星。  その星に、輝く線が別の星へと繋がって、綺麗な形を描いている。  その星達に重ねるように、優しい線で、双子の少年の絵姿。  夜空に生き、太陽の通り道に沿って巡る、星の生き物達。  「あなたには、本当に星座が見えるの……?」  先程まで見ていた夢の不安が、まだ私を虜にしていた。  周りから、星々が消えていき、ひとりぼっちで虚空を巡る、惑星の不安。  その不安に駆られて、私はあの人にしがみつく。  「星座は、今でも本当にあるの?みんな滅びたのではないの?」  届いた光が滅んだ星の光だと知った時、『惑星館』の外壁が崩れているのを見た時。  「違うのなら、お願い、僕に星座を見せて!」  そして、星への、あの人への憧憬、希望。  私は、絵を描くあの人を目にしてから、ずっと訊きたかった質問を投げた。  「どうしたの……?」  姉が、私の大声に驚いて、眠たそうな目をこすって呟く。  「……じゃあ、見せてあげましょうか。あなたの、星座を。」  あの人は、質問には応えずに、さらりと巻き毛を揺らして立ち上がった。  双子の星の片割れと同じ、光を保つ、きんいろの髪。  そうして、私達は『惑星館』から真夜中の街と戻った。  ドームの外壁に護られた闇の外に出ると、変わらずにあふれる数多の灯りが目を刺す 。  家々、エアカー、店に飾られたウィンドウ、街灯。  街では、人の灯りは、決して絶えることがない。まるで、終わりのない夜に居るように。   深い夜の底 誰もがじっと 暗い行く先を 見つめてる   世界中のあかりを あつめてもぬぐえない 重いブルー  その灯りの中を泳ぐように、微かな歌の声。  それは、あの人の高い声ではなくて、姉の呟くような歌声。  「かなり歩くけど、大丈夫?」  一度だけそう訊いたきり、あの人は何も言わずに、ただ灰青色の空を見上げて歩いている。  夜天に、ただ一つだけ微かに輝く光を、軌道の道標にして。  その沈黙が、夢から覚めた私の心に、気まずさと、ほのかな期待の色を彩けている。   きっと今夜が 永遠の夜のはじまり   かたく かたく ひざを抱いた手が ほどけない  あの人は、私達を街の外れの方へと導いてゆく。普段、子供達だけでは入り込まない、街の外周部へ。  やがて、街の明かりは少しずつその数を減らしていく。夜に溶けるように、一つ、また一つ。  その代わりに、柔らかい空気がさらさらと、髪を、頬をなではじめる。  それは、夜風、だった。  気候制御フィルタの力が及ばなくなる外周部には、街の外から、風が吹き込んでくる。  鉱気を含んだ外からの風は、あまり当たり過ぎると身体に悪いと言われている。  だが、実際に軽い音をたてて流れているその空気は、はやる心を宥めるかの様に、ゆるやかで、優しく感じる。  やがて、私達は、街の外の小さな丘へと辿り着いた。  石造りの階段が、その頂の広場へと伸びている。  何も話さないままのあの人について登った、円形の広場。  その縁の、矩形に切り取られた石が点々と並ぶ片隅を、あの人は静かに指した。    「すごい……。こんなだったなんて……。」  軽やかに、一足先にその石に登った姉が、立ち尽くしたままで呟く。  天の上にではなく、丘の麓の大地に、遠く、遠くへと拡がって。  そこに、私達の星座はあった。  紅色、瑠璃色、銀色、翡翠色。  宝石の箱を漆黒の床に撒いたように、色とりどりに明滅する、幾つもの、星達。  彷徨うように、惑うように、動きながら。  夜風とフィルタに揺らいで、明滅しながら。  整然と並ぶ街灯の列、流れる乗り物のライト、夜通し目覚めている家の電燈。  街に、あふれんばかりに灯っていた、人の作った明かり。  それは、遠い街外れの丘の上へと、地上の星座となって、光を放っていた。  絶えないように、届くように。  「空じゃ、誰も見てくれないから、もう、みんな、降りてきちゃったのかなぁ……。」  姉が、街の光を見下ろして、口に手を当てたままで、夜風に呟きをのせる。  「なんで、こんなに綺麗なのよ……。」  夜風に絵を描くように、透き通った大粒の光をこぼして。  私は、石壁に座って、ただじっと地上の星を見つめていた。  いつも、ひときわ強く輝くように明るい、姉の呟きと涙を静かに聴きながら。  「……『惑星館』だ。」  無意識に、私は言葉を夜気に浮かべた。  街の無数の光は、迷走するように、様々な軌道を描いている。  不安定で、怯えるように、星座の形を留めることなく。  それは、たくさんの、たくさんの惑星の光のように思えた。  浅い夢の中で、私がひとりぼっちで廻っていたように、街の無数の人々も。  消えた天の恒星の光の代わりに、必死に自らの光を放ちながら廻り続けて。  その惑星の光が、フィルタの巨大なドームの床で、無数の星座となって輝いている。  私の夢のように、不安にじっと膝をかかえながら。  「あの星が滅びたのって、遥か数億年も昔のことなんですって。」  独り言のように紡がれた言葉の意味に、驚いて、私はあの人へと振り向いた。  「あの光はね、ずっとずっと遠くから、何億年も独りで旅してきたの。」  地上の星座は見ないで、夜天にただ一つ輝く、滅びた星の光を見あげたままで。  「誰かに届くために……、もう、星はとっくの昔に滅びちゃったのにね。」  今は見えない、天上の星座を見上げる、あの人の横顔は、どこか寂しそうで。    「私ね、聴こえるのよ。昔はそこにいた、生物や、建物や、星の歌……。」  淡々と、切々と、天上に向けて紡がれる、つぶやき。  やがて、あの人は私と姉の間に座って、その細い手で、私達の手をそっと取った。  「……ごめんなさい。少しの間だけ、こうさせて……。」  あたたかい、繋がった手のぬくもりが、時を刻む鼓動が、私の不安をなぐさめる。  私は、そっとあの人の横顔を見た。  ようやく、地上の星座を眩しそうに見つめながら、優しい、寂しそうな想いを浮かべて。  聴こえるか聴こえないかの小さな声で、あの人は私の問いに応えた。  その瞬間、不意に私の耳に、瞳に、声が聴こえた。  地上の星座となって輝く、無数の街の明かり、その一つ一つの光の想いが重なって。  ここだよ、ここにいるよ、私はここにいるよ、と。  ちらちらと瞬いて、まるで信号を空に送っているように。  「もし街からここが見えたら、私達もあんなきれいに見えるのかなぁ。」  少し落ち着いた姉が、そっと言葉を浮かべた。  「見えるよ、きっと。」  ぽつりと、応える私。  「……ばっかみたい。」  街からは見えない、みっつの星が繋がった、丘の上の星座。  丘からは見えない、遠い距離を越えて繋がった、天上の無数の星座たち。  滅びた星の光が届いた夜に、瞬きながら、光の信号を送っていた。  ここだよ、ここにいるよ、と。  翌日の晩、私達は、また『惑星館』へと足を運んだ。  フィルタの調整が完了したのか、超新星の光は、夜天から消え去っていた。  おそらく、さらに遠くの誰かに届くために、また独りで旅立っていったのだ、と思う。  かつて、そこに恒星が存在した証を、誰かに届けるために。  そして、あの人もまた独りで旅立ってしまっていた。  『惑星館』の客席の中央、かつて星座を映す機械が在った場所。  そこに、硝子のプレートが二枚、並べて置かれていた。  一枚目は、おそらく姉宛てに残したと思われるプレートだった。  双子、天秤、美しい女性、角の生えた古代の動物。  開いたプレートからは、十二の星座の絵姿が、このドームの中に浮かび上がった。  「ねえ、ばかみたいだけどね。」  姉は、閉じたプレートを、その胸にそっと抱いて、ちょっと照れくさそうに言った。  「私、いつかこの星座達の姿、作って残したいんだ。地上に降りてこれるようにね。」  そしてもう一目は、約束通り、あの人が描いていたこの『惑星館』の絵。  あの人に描かれた『惑星館』の天球には、数多の輝く星の中に、ただ一つの星座を機械が照らし出している。    きんいろ、ぎんいろ、並んだ双つの星の、双子の星座。  そして、その傍らに、星座と繋がるように。  半分に欠けた、地球を廻る惑星が、優しく寄り添っていた。  小さくて、真白くて、金色の光を照らす、「月」という名の惑星が。                                  Fin. →Note