Tin Waltz 冬の名残の雨は、まだかなりの冷たさを含んでいる。  フードから額の巻き毛へと落ちるその冷たい滴を軽く手で払いながら、娘は、丘の頂上へと続く緩やかな傾斜を登っていた。 湿った落ち葉を踏みしめる、シャクシャクという音を耳にしながら、娘は、ここに来るのも何年ぶりだろうかと想いを巡らせた。  急に何も描くことができなくなって、気分を紛らわせようかと自分の部屋を掃除していた時に見つけた、古い木箱。  その中から出てきた色褪せた数枚の、幼い日の稚拙なスケッチ。乱れた娘の胸の内に、ほのかな郷愁の灯りをともし、娘の足をこの丘へと向かわせたのは、その中でも特に拙い一枚だった。  それは、どこか寂しげな、高みから眺めた黄昏に染まった町の遠景。 想いが幼き日々の記憶へと辿り着くより先に、徐々に平坦になってゆく道が、娘に目的の地が近いことを気付かせた。  雨のヴェールに覆われてぼんやりと霞んだ視界が、丘の頂上に近づくにつれ、僅かではあるが開けてゆく。  その視界の先に探していた物を認め、娘は少し息をついた。  それはほわりと冷たい空気の中に白くたなびき、溶けていく。  娘が探していた小さな家、それはあたかも靄の海に漂うかの様に、丘の上に佇んでいた。 もう何年も過ぎているにもかかわらず、家は、娘の遠い昔の記憶と全く変わっていなかった。  森の中で幾つも歳を重ねた大樹から切り出されたような、古い木の質感、町に群れ集う家並からは決して感じることのない、神秘とも畏怖ともとれる、奇妙で言葉に表し難い雰囲気。  それは、娘がここに再び訪れる迄の年月を経て、増しこそすれど失われることは決してなかった。  あるいは、静かに降り続ける雨がそれを増幅していたかもしれないが。 その雨の冷たさに少し身を震わせながら、娘は樫の木で作られたがっしりとした扉に近づき、数回ノックした。  予想通り、返事は無かった。丘の上に眠るこの家からは、人の住む気配など全く感じられなかったから。 娘は扉に手を掛け、少し力を込めた。鍵は掛かっておらず、重々しい軋んだ音を立てて扉は内側に開き、娘を内へ招き入れた。  中はひっそりとして、机や椅子が残っているものの人が生活している痕跡は何も無かった。  ただ、何年も放置されていれば、家というものは自然と荒れ果てていくものであるはずなのに、不思議な事に、全体的に少し埃が覆ってはいたが、家の内装はさっぱりとして、少しも時の流れにさらされた跡を見せなかった。  だが、その事に気付いても、不思議と娘は違和感を覚えず、何故か判らないが妙に納得するものを感じた。 広間の奥には、煉瓦造りの暖炉がずっと使われる事無く、眠りに就いていた。  その傍らに、湿らずに残った薪が数束、まるで誰かがこの無人の家に訪れるのを知っているかの様に備えられ積まれていた。  それを目にして、娘は、自分の体が冬の名残の雨を受けて冷えきっていたことを急に思い出し、濡れて重くなった外套を脱ぎ、暖炉に薪をくべ、火を点した。  突如眠りから覚まさせられた暖炉は、抗議するように勢いよく炎をあげ、パチパチと音を立てた。柔らかい光が古い木の家の中に満ち、少しずつ染み透ってくる暖かさは、疲れた娘の体と心に、まるで幼子が母親に抱かれている時に感じる様な安らぎを与える。 雨は相変わらず降り続いており、その水滴が屋根を打つ音が一定のリズムを持った和音の連なりの様に、娘の耳の奥へと届く。  時折それに薪のはぜる音がアクセントを加える。  今この家の中に存在する音はそれだけだった。 (今日はやみそうにないかな。) 雨に霞む窓の外を見やって、娘は小さくため息をついた。そして、諦めぎみに荷物から毛布を引っ張り出し、それにくるまって暖炉の前に腰を降ろした。  暖かさに体がほぐれてゆく。その眠気さえ誘う心地好い感覚に身を任せながら、娘はぼんやりと、この場所での遠い追憶に想いを巡らせ始めた。  ふわり、ふわりと暖炉の火が娘の心身を溶かしてゆく。  冷たい雨は、依然として絶えまないリズムを刻んでいる。 * 幼い頃の娘がこの丘の上の家を訪ねるのは、たいてい夕方だった。  特に、生活費を補うために、市場に働きに行った帰り道に訪ねる事が多かった。  いつこの家の事を知り、いつ頃から通う様になったのかは覚えていない。  ただ、紅く染まり、更に夜の闇へと暮れ行く空の高くに最初の星を見つけた時に、寂しさに耐えきれずによくここに駆け込んだ事ばかりが頭に浮かぶ。  そう、娘は黄昏時が好きではなかった。  人々が待つ人のいる我が家への帰路に就き、市場の賑やかさが一日の終わりの光の彩りとともに、少しずつ闇に溶けてゆき、最後に残るのは冷たい月や星の光のみ。  そんな黄昏時は、娘に両親が死んだ日の事を、あるいは自分が独りぼっちである事を思い出させた。 丘の上の家には、年老いた老婆が独りで暮らしていて、いつも娘を優しく迎えてくれた。  意外な事に、この老婆は町でも名が通っているらしく、両親の死後娘を引き取った親戚の家族も、娘がどこにいるかが判ってからは、むしろ好都合といった感じで、娘の行動を放任していた。 老婆は、ちょうど彼女が住むこの古い家と同じ様な、言葉にし難い不思議な雰囲気を持った人で、その顔の優しい皺の数と同じくらいたくさんの、真実とも戯言とも見分けの着かない奇妙な話を知っていた。  そしてなにより、娘に絵の描き方を教え、自分の画材を娘に譲ったのがこの老婆であった。  娘は、様々な色彩に目を奪われ、一本の筆が描く線から織り成される神秘的な造形の世界に心を奪われた。  それは、単調な娘の日々に、絵と同じ様に彩りを加えた。 「この家にはね、家守が住んでおるんじゃよ。」 娘の夕食のためにと、町で買ってきた子鹿の肉を煮込みながら、老婆は答えた。  それは、いつもの様に、娘が夕暮れの寂しさに耐えかねて丘の上に訪れたある冬の晩、独りで暮らしてて寂しくないの、という娘のふとした質問に答えてのことだった。 「『いえもり』ってなあに?」 台所から漂ういいにおいの源が、テーブルに届くのを待ちわびながら、娘は尋ねた。  やがて、暖かな湯気を吹き上げる鍋を両手で抱えて、老婆が戻ってきた。娘は待ちに待ったご馳走の到着に歓声をあげた。 「家守というのはな、その家を守ってくれる妖精のことじゃよ。ずっと家とその家に住む人を見ておってな、不幸な事が起こったりしない様に、家の中が汚くならん様に守ってくれるんじゃよ。」 老婆は、鹿肉の煮込みに夢中になっている娘が、やっと満足して一息入れるのを待ってから答えた。 「ふうん。でもわたし、よくここに来るけど、会った事ないよ。」 「普段は姿を現す事は無いんじゃ。その声を聞く事もできん。」 「でも、おばあちゃん会った事あるんでしょ?」 初めて皿から顔をあげて、娘は尋ねた。 「ああ……、一度だけな。」 「どんな人なの?」 「背丈がお前さんの半分くらいでな、床に届かんばかりの長くて雪の様に白い顎鬚を生やしててな、魔法のほうきを大事そうに持っておった。そうそう、あと錫でできた小さな笛を持っておってな、これがきれいな音色を奏でるんじゃよ。」 老婆の口調は、どことなく懐かしげで寂しげな感じを帯びていた。 「ふーん……。わたしも会ってみたいな。どうしたら会えるの?」 「……さてなあ。」 しばしの沈黙の後、老婆は首を振って言った。 パチリという薪のはぜる音が、冬の夜の静けさを一瞬破った。 その冬の始め頃から、少しずつ老婆の体は弱っていった。  冬を越し、春を迎えてやや回復したものの、秋口に入って、その体の衰えは目にみえて分かる程になり、老婆の生命の灯があとわずかの時間しか持たない事を暗示した。  それでも老婆は、相変わらず夕暮れ時に娘がやってくると、暖かく迎え、元気そうに振る舞うのだった。 ある秋の夕方、娘が丘に来てみると、老婆は家の中にはおらず、丘の頂上で夕日を浴びてじっと座っていた。 「おお、嬢ちゃんかい。今夕暮れを見ておったところじゃよ。」 傍らに登ってきた娘に気付いて、老婆は言った。 丘の頂上からは、茜色に染まり行く町が一望できた。  まだ賑わいを残した町並は、一日の終わりの光が西の山々にゆっくりと消え行くにつれ静まり、次第に秋の虫達のざわめきがそれに取って代わってゆく。  天空は黄昏の輝きから群青、藍色へと静かに、確実に移り行く。 今まで、市場から見た狭い空の夕暮れとは全く異なる、悲しいほど綺麗で、そしてはかない黄金色の色彩の洪水。  その町並をキャンバスにした光の絵画を目の当たりにして、娘は涙を抑える事ができなかった。 「……嬢ちゃんは、夕暮れが嫌いかい?」 老婆は、涙をこぼす娘の頭を優しく撫でて、尋ねた。 娘は何も答えず、しゃがみこんで手で顔を覆うばかりだった。 次第に、町は光を失い、藍色の闇へと溶けこんでゆく。闇に僅かでも抵抗しようと、家々の明りが一つ、また一つと灯されてゆく。 「終わりがあるからこそ、次の始まりがある。物事は、始まりと終わりがあるからこそ、綺麗な色彩を持つのじゃよ。」 あらゆる物が、闇へと溶けこんでゆく。  後に残るのが、家々のほのかな明りと、虫達の騒々しいざわめきだけになるまで、老婆と娘はその場から離れなかった。 秋の終わりから冬にかけて、娘はしばしばここに来ては、あの黄昏の町並を絵に描こうと試みた。  日没は、冬が近づくにつれますます早くなり、否応なく娘の寂しさを募らせた。  老婆は、もはや病の床につき、立つ事もできぬ状態になっていた。町から老婆の知り合いが看病をしにきたが、容態は思わしくなかった。 「昨日、家守がわしに会いにきたよ。」 雪のちらつく冬の夜更けに、老婆は娘に打ち明けた。 「……あの時は話さなんだが、本当は、家守はその家の住人の死が近づいた時、別れを告げに来る時しか、姿を現す事ができないんじゃ。わしが家守を見たのは、爺さんが死んだ時じゃった。」 驚きに目を見張る娘を尻目に、老婆は弱々しく話を続ける。 「そうして、家の住人を全て見送ったら、新たな住人が再び現れるまで、家を整えて待ちつづける、なんとも悲しい運命じゃて。」 「そんなこと、言わないで。そんなの、嘘よ。」 娘はむせびながら、老婆のやせ衰えた体にすがりつく。 「よしよし、いい子だ。泣くんじゃないよ。それでな、家守に聞いたんじゃ、寂しくないのかってな。家守はこう答えたよ、『物事には、始まりと終わりがあるから綺麗なんだ、その輝きを見守れるのだから、わしは幸せじゃ。』、とな……。」 老婆は、骨ばった手で震えながらも、いつもと同じ様に娘の頭を優しく撫で、つぶやいた。 「昨日、家守が、あの錫の笛の音ををもう一度聴かせてくれたんじゃ。ほんに懐かしくて、心が安らぐ音色じゃった……。」 その言葉を最後に、老婆は安らかな寝息を立てて眠りに落ちた。 数日後の深夜、娘は微かな楽の音を耳にした気がして、目を覚ました。  町外れの娘の家の窓をそっと開けると、丘の方から、確かに高く響く笛の音が、娘の耳の奥に届いてくる様に思えた。  家守の錫の笛の、寂しくて懐かしい調べが。 老婆の死を知らされたのは、その翌日のことだった。 *  窓から射し込む光に気がついて、娘は目を覚ました。  暖炉の灯の暖かさに身を任せて物思いに耽る内に、うっかり眠り込んでしまったらしい。  先程までの雨は止んで、微かに射し込む夕方の光が、暖炉の灯とは別の輝きを家の中にもたらしていた。  娘は、その光に微かに微笑みかけ、外に出ようと、肩に羽織っていた毛布を外して立ち上がった。  カランカランと、乾いた金属音がして、何かが木の床に転がった。 (なんだろう?)  予期せぬ物音に驚いて、娘は床に眼を走らせた。  そこに、小さな錫製の笛が転がっていた。それは暖炉からの赤い光を受けて、赤銅色の鈍い輝きを放っていた。 「……ありがとう。」  娘は笛を拾い上げ、胸元で強く握りしめ、言った。 「ちょっと借りるね。」  丘の頂上に登ると、昔と同じ様に町が一望できた。西の空の雲間から顔を覗かせた夕日が、変わらず町を茜色に染めている。  雨上がりの湿った空気を、春の暖かさを含んだ風がさらさらと優しく攪拌する。季節はゆっくりと、冬から春へと移りゆく。  娘は、春めいた風が柔らかく額の巻き毛を撫でるのに身を任せて、頂上に真っ直ぐ立ち、黄昏の光が徐々にその輝きを失い、夜の闇へと町を譲り渡すのを見ていた。  町の賑わいは次第に静まりゆき、家々の明かりが一つ、また一つと点ってゆく。山のかたちは、少しずつ夜ににじみ、物のかたちは徐々に見えなくなってゆく。  遥かな幼い日々と変わらぬ、寂しくも綺麗な光景。  明日という始まりに続くための、今日という日の終わりの輝き。  同じ明日が来るようにとの儚い祈りを込めて、時は流れゆく。  娘は、錫の笛を口にあてた。脳裏に確かに、あの日の旋律が蘇ってくる。  その想いのままに、静かに、心を込めて、娘は笛を吹いた。  寂しくも懐かしい、高い金属の笛の音が、黄昏の空に響きわたる。  春の空に、胸の内に、どこまでも高く、高く。