Tin Waltz   「あなたがもうあってくれないなら、誰がわたしのうたを聴いてくれるの?」   学校の裏の、ゆるやかな坂道。   小さな木造の建物を包むように、護るようにそびえる、桜の大樹のたもとで。   枝に座って、泣きじゃくったあとの顔でつぶやく、わたし。   「だいじょうぶ。先生だってきみの歌が大好きだったもの。」」   和服を纏った、少し長い髪の小さな男の子。   わたしよりもっと泣き出しそうな表情で、ほほえんで。   そっと、西の空にかかる赤い月を指差して。   「それに、お月さまはいつも聴いていてくれるから。」   大切なおもちゃのように、心の押し入れの片隅にしまわれていて、思い出せない音楽。   高く、そして何故か悲しく響く、金属の笛の音色。   それは茜色の空を貫いて、小さな三拍子の旋律を暮れてゆく空気に残してゆく。         *  訳もなく落ち込んだ時に、不思議と思い出す、幼い日の記憶。  それはきまって、微かな痛みのような悲しみと懐かしさを、私の胸の奥に燈してゆく。  この日はまるで誘われるように、そんな記憶が鮮明によみがえってきて。  気がつくと私は、フルートを持ったままで、郊外に向かう列車に乗っていた。  クリーム色と橙色のディーゼルカーに揺られてまどろみながら、私の想いの奥で、あの記憶の中の音楽が、黄昏色の細い三角を描いていた。  くりかえし、くりかえし、ワルツのリズムを奏でながら。  丘のふもとに佇む、こじんまりとした駅のホームで私は列車を降りる。  乾いた空気を吐き出してディーゼルカーのドアが開くと、ふわりと、もう暮れの空の匂いがした。  「何、やってんだか。」  演奏会の練習をさぼって、幼い日の記憶に誘われるままにこんなところまで来てしまった、私。  そんな自分に向けて、郊外の暮れの空気を軽く吸いながら、思わず、ためいき混じりに呟く。  人気のない駅を出て、枯れたすすき野原をぬって丘を登る小道を歩く。  はらはらと、二月の夕風が、野原と私の前髪をなでてゆく。  ぼんやりと霞む山のかたちを越えて、ここまで降りてくる冷たい空気に、私はほっと白い息を吹き返す。  子供の頃は、いつもこの風に向かって小走りではしゃぎながら分校に通っていた。  みんなで、先生の教えてくれた歌を歌いながら。  歌を人前で歌わなくなったのは、いつからだったっけ。         *   「きみは、歌うのは好きじゃないの?」   「だって、またみんなに、へたっぴいって言われるもん。」   「でも、僕はきみの歌を聴くのが好きだったよ。いつも、楽しそうだったから。」   桜の枝にぽつりと座るわたしを見上げて、ふんわりと言う、和服の男の子。   「……でもわたし、あなたに会うのはじめてよ。」   はじめて見る男の子に、不思議そうにつぶやく私。   この辺に、知らない子はいないはずなのに。   「好きだったら、歌えばいいよ。」     あの日、桜の樹の枝で、泣きべそかいたまま歌った歌は、どんな歌だったか。  「ほら、僕が伴奏を吹いてあげるから。」   男の子の吹く、小さな金属のたて笛は、夕焼けの色をしていた。   憶えてるのは、ただ、高く、高く澄んだ、ワルツのリズムだけ。         *  すこし息が切れるくらい、坂道を登った丘の中腹にある、小さな分校。  でも、久しぶりに丘を登ってきた今の私にとっては、「丘にあった」と言ったほうが正しかった。  「そっか……、もう取り壊しちゃったんだ。」  ぽっかりと、不自然に開いた、ちいさな空き地。  わずかに赤茶色のくすんだ煉瓦に囲まれた、ささやかな花壇の名残には、今は何も咲いてはいない。  傍らに積まれた、かつて教室の床板だった、樹の切れ端。  私の胸の内に、あの三拍子の音楽の悲しみが、二月の空気のように流れる。  私は幼い頃、ここよりもさらに山に近い村落に住んでいて、ずっとここに通っていた。  先生一人と、一年生から六年生までで1クラス分の生徒の、この小さな分校に。  大好きだった先生が亡くなって、ここが閉鎖されるまで。    穏やかな目をして、いつも優しかった初老の先生。  授業の合間に、いつも私達にたくさんの音を教えてくれた。  子供向けの唱歌だけでなく、時には不思議で珍しい音盤を聴かせてくれたり。  そんな時は、いつも楽しそうに自分で歌を口ずさんで。  遠い異国の風景のジャケットに包まれた、知らない国の楽器の陽気な音。  深く、静かな海の底のように教室を満たした、女の人の歌声。  何処か懐かしくて、やさしくて、せつない音楽も。  子供心に、私もいつかこんな音を紡いでみたいと、ずっと思っていた。  その名残が残ってるのか、今でも細々とフルートを習っている。  (とうとう、さぼっちゃったけどね。)  一瞬だけ、追憶から今の時の流れに引き戻されて、苦笑いをする。  まるで桜の花が、夜の嵐を受けて一夜で散るように、先生は、春の終わりの日に亡くなった。  その時のことは、不思議と、ほとんど記憶に残っていない。  そんなことを想いながら、私は校舎の名残を後にして、自然と裏手の桜の樹へと歩いていた。         *   「ねえ、またここであってくれる?」   「……ごめん。多分、もう逢えないと思う。」   「どうして?」   「もう、時が来ちゃったから。だけど、一度だけでもきみに逢えて嬉しかった。」   「……あなたがあってくれないなら、わたし、もう歌わないから。」   わたしのわがままに、不意に、くしゃっと泣き出しそうな表情になって。   「そんなこと、いわないで。ずっと、うたってよ。」   はらはら、はらはら、幾重にも降り積もる、薄桃色の記憶のかけら。   ぼんやりと、桜の色が春の空気に煙って、見えるのは切ない別離の痛みだけ。         *  だんだんと、黄昏の色から薄紫へと移り行く天の色を背景にして、黒く大きな影を紡いで。  校舎の名残を見守るように、桜の樹は今もそこにあった。  誰かにいじめられたり、訳もなく悲しくなった時、いつも私はこの樹の枝に登っていた。  悲しくなった時、寂しくなった時、子供の私を護ってくれた、大きな樹。  その茶褐色の幹の肌はごつごつとして、相変わらず優しそうで。  何だか、ほっとして、話かけたくなって、私は樹にそっと声をかけた。  「おまえだけは、変わってないのね。」  「おまえさんだって、きっとそう変わってはおらんだろうに。」  何気なくつぶやいた私に、まるで木霊を返すように、不意に樹から降ってきた声。  静電気を感じた時みたいにびくっとして、私は桜の大樹を見上げた。  幼い頃の私のありかだった、その枝の上に。  長い髪を後ろで束ねた、一人の青年が座って、私を見下ろしていた。  「何よ、びっくりするじゃないの!」  私は、何だか恥ずかしくなって、語気を強めて青年を睨みつけた。  まるで子供みたい、と思って、ますます何だか恥ずかしく、腹立だしくなる。  「びっくりって……わしに話しかけたんじゃなかったのか?」  その口調とは不釣合いな、端整な白い顔立ちに不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる青年。  細い目に和服のいでたちは、何だかお稲荷さんの狐のようにも見える。  「……私は、桜の樹に話したのよ。あんたなんかに話かけたんじゃないわ。」  目をそらして、少し俯いて答える、私。  「なんだ、おまえさんこの樹の知り合いか。ならば、わしとは知り合いの知り合いだな。」  にやりと、悪戯っぽい笑みを浮かべて、自分の座っている枝を指差して。  「せっかくこやつを訪ねてきたんだ。登っていくか?」  「……そこはもともと私の場所よ。」         *   「どうして、泣いているの?」   不意に真下から呼びかける声に、泣きじゃくったままびくっと身を震わせるわたし。   見下ろすと、知らない男の子が、ほんわりとした顔で、わたしのことを見上げてた。   「あなた、誰よ。関係ないならほっといてよ。」   泣いてるところを見られた恥ずかしさ半分に、憎まれ口のわたし。   「だって、桜の樹が、女の子が泣いてるって、教えてくれたから……。」   少し、困った顔でつぶやく、見知らぬ和服の男の子。   「……歌がへたっぴぃだって、みんなに言われたの。いいもん、もう歌わないから。」         *  銀色の笛を護る黒のケースを背負ったまま、苦労して樹をよじ登る。  久しぶりに触れた、ゆるやかな暖かさの通う、乾いた枝の感触。  きっと、幹の体温と樹液は、人の何倍もゆっくりと流れるのだろうと、ふと思う。  肩で白い息を軽く浮かべて、ようやく私はなじみの枝にたどりついた。  昔よりも、ずっと細く感じる枝に座ると、逆に私が小さな頃に戻った気がしてくる。  そうして、ふたりとも何も言わないまま、しばらく坂道の下に広がる風景を眺めていた。  まだつぼみもない、桜の枯れ枝のゆりかごから見える、冬の夕空。  もう、夕陽の姿は、空と地上を黒く縁取る山の稜線の、はるか向こう。  ただ、一日の名残のともしびだけが、やがてくる夜の凍てつく空気に溶け出すように、まるでかがり火のように、赤くゆらめいている。  その最後の灯も、やがて橙から薄紫へと、さらさらと砂のように流れて、拡散してゆく。  代わりに、ふもとの家々のささやかなあかりが、ぽん、ぽんと浮かんでゆく。  互いに、寄り添うように、互いに、呼び合うように。  この夕空に、月の影は、浮かんでいなかった。  「……ここからだと、何もかわっていないように見えるのね。」  「日々とは、そういうものじゃ。」  夕影に照らされた穏やかな顔で応える、細い綺麗な顔立ちの青年。  纏った袴のような形の和服は、夕焼けを照り返して、山吹色に映えている。  「私、何やってるんだろ。」  今日の終わりの光を見つめたままで、なんだか、情けなくて、話したくなって。  「……フルートの演奏会の練習、さぼってここまできちゃった。」  「フルートとは、なんじゃ?楽器か?」  「知らないの?金属製の、横笛みたいなものよ。高くて、滑らかな音色がするの。」  「笛か……、ところで、おまえさん、歌うのは好きか?」  不意に、僅かながら真剣な目になって、私を振り向いて尋ねる青年。  「え、歌……?歌は私、へたっぴいだから……。」  少しびっくりしながら、応える私。  不思議と、なんだか、懐かしいやりとり。  「……フルートも、へたっぴいになっちゃったのかなぁ。」  ここのところ、ずっとゆううつだった。  演奏会が近いのに、どうしても、思い通りに吹けなくて。  考えれば考えるほど、糸がほつれるように、吹き方がわからなくなって。  「もし好きなら、心のままに、吹けばいい、歌えばいい。」  狐のような瞳をますます細めて、にこりと笑って。  「よかったら、これでも吹いてみるか?」  紅い黄昏の色に照らされて、何だか悪戯を考えた子供のような顔で。  青年が私に差し出した、小さな縦笛。  ブリキでできたその笛は、遠くから届く夕焼けを反射して輝いている。  私の中で、透明な氷が砕けるように、何かがはじけた。  たしかに、私はこの縦笛に、見覚えがある。  紅い黄昏の色の、ブリキの笛。桜の樹、散り行く花びら。見慣れない和服。  そして、この胸の中に、海の波のように、繰り返し響きはじめる、切ないワルツの調べ。  「ねえ、あなた、この場所で私に逢ったこと、ない?」  私は、青年の細めた瞳を、はじめてまっすぐに見つめて、尋ねた。  「……この笛は、わしの古い知り合いのものじゃ。」  僅かな時の狭間に、かすかな夜風が、樹に挨拶をかわすように、軽く枝を揺らして通ってゆく。  「もしも、歌が好きだった娘さんがここを訪ねることがあったら、この笛を渡してや ってくれと、頼まれてなぁ。」  何処かとぼけた表情で、にやりと笑う、細身の青年。  「……そっか。私、歌、へたっぴいなのにね。」  「もし、わしの見立て違いだったら、返してくれなぁ。」  「いやよ。ねえ、ここで、吹いてみてもいい?」  「わしは、いつでも、聴いているさね。」  笛を手にとって、そっと息を吹き込もうとした時、ようやく、想い出した。  幼い胸にはあまりにも痛くて、透明に澄んだ、砕け散った水晶のような記憶。  その記憶のかけらの奥で、蓋を閉じられたオルゴールのように、眠っていた音楽。  私は、瞳を閉じて、心のままに、笛を吹いた。  氷が炭酸水に融ける時の、無数の泡のように、胸にあふれてくるその音楽に身を任せて。  薄紫から群青へと、波のように夜が打ち寄せる空を貫いて、高い、高い三拍子の旋律。  まるで、夕空に、音色で銀色の三日月を描くように。  それは、先生が亡くなる前に聴かせてくれた、この樹と同じ名前の音盤の、いちばん、最後の曲。  それは、この樹のたもとで、一度だけ逢った男の子が、私をなぐさめて吹いてくれた、最初で、最後の曲。  硝子でできたトライアングルのように、澄んでいて、かなしくて。  私は何も考えずに、笛を吹いた。  ただこの音楽を奏でたくて。ただこの音楽を、誰かに届けたくて。  ブリキでできた、切ないワルツ。  この空に、私の胸の奥に、くりかえし、くりかえし、透明な三角を綴って。  一日が夜天に包まれて眠るように、曲はそっと終わりを告げた。  街のあかりのように、幾つもの小さな響きを、ぽん、ぽん、と、余韻に残して。  「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」  私は、まだ笛を両手に握ったままで、青年に尋ねた。  「この笛の持ち主は、今、何処にいるの?」  「……奴は、昔ここにあった学校の、家守じゃった。」  「……いえもり、って?」  「知らなければ、知らないでいいさね。」  枝の向こうの、まだ薄い夜空を見上げて呟く青年の横顔が、何処か寂しそうで。  「ねえ、持ち主に逢ったら、これを渡して、伝えておいて。」  私は、今は鈍い色を残した、小さなブリキの笛を青年に差し出した。  「私、あなたのおかげで、今でも、歌もフルートも、大好きだって。」  にっこりと、青年に微笑んだつもりだったけれど。  もしかしたら、青年の目には、何だか泣き出しそうな微笑みになってたかもしれない。    まるで、あの幼い日に、私に微笑んでくれた、家守の少年みたいに。  「伝えとくよ。いずれな。」  「じゃあ、いいかげん帰らないとね。」  「……わしが誰かは、訊かんでもよいのか?」  「あの家守さんが教えてくれたから、もうわかってるわよ。」  私は、細い目の綺麗な顔の青年に、最後にもう一度笑って言ってやった。  「お稲荷さんの、狐さんでしょ?」  「……違うわい。」  丘を降りてくる頃には、もう東の空はすっかり紺色の夜気に満たされていた。  低くに、そっけないふりをして、金色に輝く、いちばん星。  離れ離れにある、蒼白い街灯のたもとを通る度に、私の小さな影法師が、枯れたすすきの穂影に、ふわりと踊る。  まだ何だか、胸の奥がほんわりと痛くて,私は口笛を吹きながら、いつもの街に繋がる、小さな駅へと歩く。  気の向くままに夜風にこぼれる、たどたどしい三拍子のリズム。  小さな駅のホームで、単線のレールの果てからくる、クリーム色と橙色のディーゼルカーを待っている時、急に何だか視線を感じた気がして。  私は、西の空をくるりと振り返った。  夜ににじんで、夕暮れの水彩が溶け切った、山のかたちの、その近く。  何時の間にか、細くて紅い、三日月が浮かんでいた。  ワルツを奏でる音楽隊の、指揮者のように、銀色の三角を描いて。  「ねえ、もういちど、聴いてみてくれる?」  私は、その細い瞳に呼びかけてから、久しぶりに、へたっぴいな歌を歌った。  心のままに、その月に届くように。   一番星見つけたら 誰かにそっと   声かけたくなりそうで 急いで帰るよあの家に   窓灯すあかり ひとつまたひとつ   点いてまた暮れる 闇はまた闇へと   はるかな山のかたちは 夜ににじんで   今日できることはしたよと 私に教える赤い月   蜩のこえも 今はもう消えて   虫たちのこえが 闇をまた闇へと   太陽昇れば また新しい朝   今日がどんな日でも どんな生命にも   いつか雨は止むように   誰にも明日が 来るように   今日に続く明日 山を越えた夜の   そのむこうがわに まだ眠っている   太陽昇れば また新しい朝   今日がどんな日でも 同じひとつの朝                           Fin.