東京の空の下  かたこと、かたこと、線路の微かな継ぎ目を通過する度に、軽やかな調べを奏でて。  流線型の特急電車は、冬のはじまりを告げる北風のように空気を切り裂きながら、僕をあの街へと運んでゆく。  幼い日に、双子の姉と別れた、あの巨大な街へと。  遠い昔、ふたりだけで初めてあの街へ行った時には、幾つもの列車を乗り継いで、もっと随分と時間がかかったのを覚えている。  永い旅路がつのらせる、まるで世界にふたりきりになってしまったような心細さ。  その心細さを、繋いだお互いの小さな手に握り締めていた記憶と一緒に。  それが今では、特急電車に乗りさえすれば、ほんの数時間で着いてしまう。  それは、大人になった自分の時間が、子供の頃に比べてあっという間に過ぎ去っていくのに、何処か似ている。  デッキにもたれて、僕は小さな四角い車窓に浮かぶ、空を眺める。  淡い青に霞んだその空は、だんだんと建物の影に切り取られて、狭くなってゆく。  そんな風に、ぼんやりと硝子窓の向こうの空を見ている内に、暗い海へと飛びこんだように、不意に窓の外の視界が闇に包まれた。  その視界の変化に気づいて、僕がもの想いから醒めるとほぼ同時に、特急電車は光に包まれたターミナルの地下ホームにすべりこむ。  プラットホームに降り立つと、微かにむっとした空気とあまりにも多い人の数に、ほんの少しだけ、くらっとした。  エスカレーターを乗り継いで、特急電車の地下ホームから在来線の高架ホームへと上る。  お目当ては、反時計回りの緑色の電車。  ホームに三列に並んだ都会の人々に混ざって電車を待っていると、反対側のホームに時計回りの電車がするすると減速して、滑りこんできた。  ふと、その電車の運転席を見ようと思って、僕は顔をあげる。  だが、その試みは一瞬遅く、既に電車の先頭は僕の視界を通過していた。    *** 「あれ……?」  一瞬、懐かしいような、胸を刺すような、不思議な感覚がよぎって。  私は、ふと通過したプラットホームの後ろ側を振り返った。 「どうしたの?」  運転台の傍らにちょこんと座った薄い黄緑色の服を着た少年が、不思議そうに首を傾げる。 「何かね、いま反対側のホームに、誰かがいた気がした。」  一瞬の残像の内に、何処か懐かしいものを見たような、感覚。それをうまく言葉にできないまま少年に答える。 「誰かって、誰さ? まさか運命の人でもいたの?」  そんな私のあいまいな言葉に、少し悪戯っぽくにやにやと笑いながら、少年は尋ねる。 「なによぅ、それ。どういう意味?」  思わずそんな少年を横目で睨みつけやるものの、少年は一向にひるむ様子も見せない。「ほら、発車サイン出ているよ。時間厳守、時間厳守。」  ふん、と正面を向いて、十一の車両に、たくさんの人と想いを乗せた緑色の電車を、私はゆっくりと加速させる。 「誰だったんだろう……。」  無意識に、ぽつりとつぶやきを残して。    ***  時計と反対まわりの緑色の電車に乗って、踏切を通りすぎたら次の駅。  それが、叔父さんが幼い僕達に教えた言葉だった。  今考えると、はじめてこの街に来る子供に降りる駅を教える言葉にしては、いささか乱暴な教え方だったよなぁ、とぼんやり想う。  まがりなりにも大人になってしまった今では、そんな憶え方をしなくとも幾つ目の駅で降りればよいか判ってしまっている。  だから、あの時みたいに、迷ってしまうことも、不思議な子供に出逢うことも、ない。  電車は時計の二時の針のあたりで、大きな曲線を描いて、それまでずっと寄り添っていた青い電車のレールと別れてゆく。  まもなく、特急電車の終着駅からいつつ目の駅。  僕は僅かな荷物を肩に電車の扉へと近づく。  かん、かん、かん、かん。  耳の奥に、微かな切なさを残して響く踏切の調べに、僕はそっと目を閉じた。  叔父さんの写真屋は、駅から少し離れた坂の途中にある。  坂道を挟んだ右側は、昔は幼稚園と小学校の裏庭になっていて、この街には珍しく鬱蒼とした雑木林が広がっていたのを憶えている。 その風景は、十数年を経た現在となっては既に失く、代わりに薄い黄色の外壁を持つ四階建てのマンションが、この場所の空を少しだけ切りとりつつ、たたずんでいた。  坂道の左側は幼い日の記憶と変わらないままだった。道端に、いびつな形の枝を空に向かって伸ばす、古い椎の大樹。その大樹の木陰に護られて、ささやかに掲げられた、『夕暮堂』の看板。お客の姿の見えない店先には、やはり聴き憶えのある、高い澄んだ歌声のレコードが聴こえてくる。  変わっていったものと、変わらないままのもの。  この坂道を川のように流れていった時間が刻んだその隔たりが、針のように僕の胸をちくりと刺した。  昔と変わらない小さなお店の扉を、軽く開く。からん、からんと、喫茶店みたいなノッカーの音。 「久しぶり。おかえり、くうちゃん。」  ノッカーの鐘の音を聞きつけて、客のいない店の奥から叔父さんがひょこひょこと現れる。黒いふちの丸眼鏡に、少し目尻の下がった優しい瞳。なで肩のほっそりとした身体にグレーのセーター。この人も幼い日の記憶とほとんど変わっていない。  風景が瞬く間に変わってゆく街にあって、変わらずに残っている椎の大樹のように。   「二十四歳の青年捕まえて『くうちゃん』もないでしょう。それにここは僕の家じゃないでしょうに。」 「僕のなかじゃ、今でもくうちゃんはくうちゃんだよ。」  思わずこぼれた僕の苦笑いも意に介せず、ふんわりとした微笑を見せる叔父さん。 「幼稚園の雑木林、無くなっちゃったんですね……。」  坂道の方を見つめて、そんな叔父さんののんきそうな表情に向けて僕はぽろりと呟きをこぼす。 「うん……、でもね、変わってゆかない風景なんて、ないんだよ。」  客の居ないお店のカウンターを抜けて、白い壁紙のこじんまりとしたリビングに入る。  お茶を淹れてくる、と何処か嬉しそうな足取りで台所へ向かった叔父さんを見送りつつ、僕はリビングの壁に掛けられた幾つかの写真達を、見つめた。  細い褐色の矩形に切り取られた、この街の、空の風景達。一枚の写真には、その場所の構成する空間と、一瞬の時間が捕らわれて映し出される。だから、写真を撮るということは、四次元の事象を二次元の紗幕に切り出す行為、とも言える。  このリビングの紗幕の空達は、叔父さんの手によって矩形に切り出される前に、既に様々な人造物によっていびつに刻まれている。  天へ向けて、高く高く手を伸ばす、高層ビル。無数に飛来する電波を受けとめる円形のアンテナ。送電線。家々の屋根。  そんな様々な形に空間を刻まれて、狭い平面に圧縮された空の色は、縮んでより濃い蒼色になるのではなく、むしろ、拡散するように淡く広がる。  とりわけ、叔父さんが映すこの街の空の色は、まるでさらさらと洗いさらしたように、淡い水色や、灰色に拡散している。  その薄く流れた空を、溶かされたように風に流れる、微かな雲。  この街の空は、澄んだ蒼色よりも、叔父さんが切り取るような淡い色の方が良いなと、ぼんやりと思う。 「相変わらず、空を撮るのが好きなんですね。」  ほんのりと湯気をたてたマグカップをふたつ、木彫りのちいさなお盆に乗せて戻ってきた叔父さんへと、僕は写真を見つめたままで言葉をかける。 「若手の写真家さんから見て、僕の撮った空はどんなものだね?」  琥珀色のストレート・ティを美味しそうに一口すすって、テーブルについた叔父さんが尋ねる。 「はじめてここに来た時から、この街の空はあまり好きじゃなかったんです。人があまりにも多くて、何処か息苦しくて、空の蒼が霞んでいる気がして……。」  まだ熱い紅茶にふうと息を吹きかけながら、うん、とうなずく叔父さん。そののんきそうな表情に、少し力を抜いて、僕は想ったことをそのまま言葉に変換する。 「……でも、叔父さんが撮った空は、色は淡いけど、何処か優しい気がします。」 「ありがとう。くうちゃんにそう言ってもらえると、ちょっと嬉しい。」  そのまま、穏やかな沈黙の時間がひととき流れて、僕は写真をひとつずつ眺めて歩きながら、マグカップの紅茶をすうっと飲む。ほんのりと若い香味と、甘み。  レコードプレーヤから、少年のソプラノのように高く澄んだ歌声が流れる。この部屋で、幼い日もよく聴いていた懐かしい歌声。  そんな音楽に包まれて、くつろいてぼんやりし始めていた僕の意識を、壁の端に掛けられていた空の写真が、吸い寄せるように引き戻した。  遠く続く下町へと望む丘からの、夕暮の風景。  丘と低地の境界線を、ふたつの線路が別れて走ってゆく。  真横へと街を離れて遠ざかる青色の電車と、くるりと曲線を描いて街を巡る緑色の電車の、ふたつの線路。  他の写真達よりは比較的広い空には、さらさらと音が聴こえそうに流れる、淡い橙色。 「ゆうちゃんの、絵葉書の写真だ。」  僕は、思わずぽつりと呟く。僕の住む北の田舎町に、遠い巨大な街から届く姉の絵葉書には、いつもこの夕空が添えられていた。  まるで、いつも文字には書けない言葉を、その橙に溶かし込んで託すように。 「その写真、ゆうちゃんにその場所で撮ってくれって頼まれたんだよ。」  夕空の写真に惹きつけられた僕の呟きを聞きつけて、叔父さんが応える。 「……ゆうちゃんは?」 「今日は夜勤だから遅いよ。たぶん、終電近くになるんじゃないかな。」 「仕事が仕事、ですものね……。まさかあの頃言っていた夢を、本当に叶えるとは思ってもみなかった。」  僕は、幼い姉がこの街での生活の中で抱いた夢を思い出して、思わず苦笑いを浮かべた。 「そういうくうちゃんだって、今じゃ親父さんや僕にせまる腕を持つ写真家だものなぁ。君達双子には驚かされるよ。」 「あの時、双子の姉と弟で、別々の選択をした時にも、驚いた?」  相変わらずのんきそうな、穏やかな表情のままの叔父さんは、問いには答えないままで、一呼吸おいてから、静かに僕に尋ねる。 「ゆうちゃんに、逢いに来たんだろ?」 「いえ、仕事の都合で近くまで来たので、せっかくだからと思って……。」  とっさに嘘の言葉が口からこぼれる。こういう時についつい嘘をついてしまうのは、昔からの僕の悪い癖だ。  そう、と黙って頷く叔父さん。ちょうどその瞬間にひとつの曲が終わって、リビングをひとときの沈黙が支配する。  その直後、その沈黙を洗い流すように、レコードはやわらかくも淋しいピアノの調べを紡ぎ出した。  幼い日に、ここで短い期間を暮らした時によく聴いた、レコードの最後の曲。夕焼けの空の高みに浮かぶ綿雲のように、高く遠い歌の言葉が、僕の想いを遠い時間へと引き戻してゆく。 「懐かしい、曲ですね。」 「くうちゃんが来るって聞いて、ふと思い出して久しぶりに聴いてみたんだ。」  僕の呟きに頷いて、軽く頭をかいて叔父さんが応える。 「写真が一瞬の時間と風景しか残せないのに比べて、思い出すことで時間を遡ることができるのが、人の優れた所だ。」   緑色の電車 街を駆け抜ける   耳の奥で ずっと ずっと 歌が続いてる 「……実は、これが僕の部屋に届いたんです。」  懐かしい音楽が呼び戻した時間に背中を押されて、僕は鞄の中から古い封筒を取り出した。切手が貼られていない封筒には、鉄道郵便の印だけが真新しい赤のインクで押されている。  そして、「くうちゃん へ。」と書かれた、拙い文字。  受け取って、そっと色褪せた封筒を開けた手に、はらはらと幾つかの小さな紙片がこぼれ落ちる。  これは、と小さく言葉をもらした叔父さんの手のひらには、もう十年以上昔の、ぎざぎざの鋏のかたちが刻まれた、古びた切符が数枚。  印字された駅名と金額は同じで、ただ日付だけが僅かに異なる、初乗りの切符達。  叔父さんは、もう一杯紅茶を淹れてくる、と台所の方へと立ち上がった。  しばらくして、間奏のゆるやかな調べに乗って、台所から僕へとぽつりと声が届いた。 「もし良かったらで構わないのだけど、この街で何があったのか、時間を遡って僕にも教えてくれないかな?」    ***  時計と反対まわりの緑色の電車に乗って、踏切を通りすぎたら次の駅。  合言葉のように憶えたこの言葉と、お互いに繋いだ手とをずっと握り締めて、長距離列車にかたこと、かたことと揺られてきた、はじめてのふたりだけの旅。  僕達には、お互いの繋いだ手の他に、もう自分達を護ってくれる暖かな体温は無いのだということ。 そして、今までの穏やかな暮らしは、列車が走り去ったレールの向こうへと消えてしまったのだとということ。  あまりにも永い旅路と絶え間無く続くレールの音は、そのふたつのことを否応なく僕達の胸へと染み込ませてゆく。だから、僕達は手を握ったまま、ずっと何も話さなかった。  こうして長距離列車に揺られてこの巨大な街に来たのは、僕達がまだ十歳になったばかりの頃、そして、おかあさんが突然の病に倒れて、この世界からいなくなった、二週間後のことだった。  ちなみに、僕達は、お父さんの顔を憶えていない。  おかあさんが僕達を生んでまもなく、遠い西の国へと写真を撮りに旅立った先で、事故に遭ってやっぱりこの世界からいなくなったと言われている。  だから、僕達は父親というものへの意識が希薄なまま、北の田舎町で暮らして、育ってきた。この世界に、おかあさんと、ゆうちゃんと、僕の三人で。 「すごいね、くうちゃん。人やお店がこんなにたくさん!」  ゆうちゃんは、ホームに降りるなり瞳を輝かせて、言う。 「何だか……、目がまわりそう……。」  プラットホームを行き来するあまりの人の多さに呆然として、僕はつぶやく。  人がたくさんいるということが、何だか、息苦しくて。 「どんな街なんだろ……ねえ、緑色の電車、だよね。早くさがそ!」  僕の手をぎゅっと握って、にっこりと笑うゆうちゃん。  昔から僕は気が弱くて引っ込み思案だったのに比べて、ゆうちゃんはいつも元気で前向きで、僕の手を引っ張って走りまわっていた。  今思うと、もしかしたらゆうちゃんは、この時、僕を元気付けるために、無理をして明るく振舞っていたのかもしれないと、思わないこともない。  だけど、不安定になっていたこの頃の僕には、ゆうちゃんのこの明るさが、何処か小さな棘のように僕の胸に刺さったのだと、思う。  駅の高みに、幾つも並んだプラットホームでは、ひっきりなしに色とりどりの電車が到着し、大勢の人をまるで息をするように吸っては吐き出す。  そのめまぐるしさに、何だか時計の針が風車のようにくるくる回っているような、あるいは、時間がカセットテープのように目の前で早送りされていくような、奇妙な錯覚を覚える。  その人と時の流れの中に、しばし立ち尽くしていた僕達ふたりを掬い上げるように、するすると、薄い緑色の電車がプラットホームに滑りこんできた。 「おじさんの写真屋って、どんな家かなぁ?」  少しだけ空けた電車の窓から吹き込む風に、柔らかな前髪をさらさらと揺らしながら、楽しそうにゆうちゃんが僕に話しかける。 「どうせだったら、高いビルのずっと上の方だったら、面白いのにね。」 「……僕は、ふつうの一軒家の方がいい。」 「そうぉ? きっとすごい眺めだよ、ビルの上って。」  ふたりの言葉のやりとりを乗せて、かたこと、かたこと、電車は走ってゆく。  幼い僕達がこの巨大な街へと旅してきたのは、ひとつの選択をするためだった。  身内のいなくなった北の町で、おかあさんの友達のお世話になって暮らし続けるか。  それとも、おじさんのもとに引っ越して、この街で新しい生活を始めるか。  おじさんも、おかあさんの友達も優しい人で、僕達の好きな方を選んで構わない、と言ってくれた。  でも、好きな方をと言われたところで、平穏な日々のゆりかごから転げ落ちたばかりの僕達姉妹には、ふたつのレールが分岐するポイントに立ち尽くすのがやっとで、その先の線路を選ぶことなんて到底できるわけもない。  じゃあ、とそんな僕達に、おじさんがこう提案した。  一ヶ月のんびりと僕の家で暮らして、ゆっくりと判断してから、決めたらどうだい、と。  口には出さなかったけれど、僕は北の町を離れることには乗り気ではなかった。  何だか、おかあさんと暮らした日々が、夢のように薄れていってしまう気がして。  おかあさんのことを忘れようとしている、気がして。  でも、ゆうちゃんの想いは、僕とは違った。  だから、この頃の僕は、ゆうちゃんに裏切られたような気がしていたのだと、思う。  ふたつの線路が、何時か別々の方向に離れてゆくことは、仕方の無いことなのに。 「ほら、青い電車が向こうに分かれてゆくよ。何処へいくんだろうねぇ。」  電車はくるりと曲線を描いて坂道を上ってゆく。この電車に乗ってから、ずっと寄り添って走っていた青色の電車の路線と別れて。  駆け上った坂の頂上から、一瞬、遠く下町の空が広がった。  はじめは、少し緊張しながら、車窓の外へと二人でじっと目をこらしていた。  電車を降りる目印である、踏切を見逃さないように。  車窓をくるくると現れては過ぎてゆく、幻燈のような街の建物や風景。  たくさんの、たくさんの家やビル、電線。そこに住んでいる、人々。 「すごいねぇ、わたしたちの住んでた町じゃ、こんな景色、考えられない。」  感心したようにため息をついて、弾んだ声をあげる、ゆうちゃん。  そんな声が、僕の不安に満ちて不機嫌になった心をちくりと刺して、思わず僕はつぶやいた。 「……ゆうちゃん、どうしてそんなに、楽しそうなの?」 「え、なあに、くうちゃん?」  あるいは、聞き返されなかったら、そのまま流れていた呟きだったかもしれない。  だけど、首を傾げたゆうちゃんの瞳に、僕のこぼれた言葉は増幅されてしまう。 「ゆうちゃん、おかあさんがいなくなって、さみしくないの?」  一瞬、えっ、と不思議な言葉が耳を掠めたような、表情。  その直後、大きな瞳を、きっ、と僕の方に向ける。怒って、涙を微かにためて。  だけど、ゆうちゃんは僕よりも強いから、僕の前でその涙をこぼすことは、ない。  かん、かん、かん、かん。    警鐘のように、車窓の幻燈に現れた踏切が高い調べを奏でる。  徐々に減速してゆく電車の彼方へと、残響を残して、その調べは消えてゆく。  だけど、ふたりともその高く響く警鐘を聞いてはいなかった。 「どうして……、どうしてそんなこと言うのよっ!」  ゆうちゃんが、怒った泣き声で叫ぶ。  繋いでいた手を、ぱっと振り解いて、僕のことを見据えて。  僕は、突然のゆうちゃんの変わり様に、内心しまったと思いながらも、後には引けずにその瞳を見つめ返す。  かたこと、かたこと、かたこと。  それ以上、お互い交わす言葉を見つけられないまま、ふたりの間の時間は凍りつく。  その間にも、電車は時計の針と反対向きに走り続け、幾つかの駅を通りすぎる。  やがて、電車はホームが何本もあるステーションに到着し、大勢の人が車内へと吸い込まれてきた。  その変化に驚いて、はじめて僕達は見つめあった視線をほどいて、手を繋ぎ直す。  ゆうちゃんと僕の手が、一瞬ためらってから触れた、その時だった。 「こんな所で、けんかなんかしちゃだめだよ。」  高いソプラノの声が、僕達の耳に、届いた。  驚いて振り向いた、ふたりが並んで座っているロングシートの目の前に、淡い翠色の服を着た、小さな男の子がちょこんと立っていた。  茶色の短い前髪を、細く開いたままの窓から流れこむ風に揺らせて。  男の子は、あっけに取られた僕達に、軽く首を傾げて、悪戯っぽくこう付け加える。 「そんなことしてるから、もうとっくに踏切通りすぎちゃったよ。」    ゆうちゃんが、あっと息を飲んで、慌てて僕の手を引っ張る。 「大変、くうちゃん、はやく引き返さなきゃ!」  そんなゆうちゃんを押さえるように、少年は軽く首を横に振った。  淡い翠色の、大きな袖にくるまれた両手を軽く前に出して。 「下手に反対向きの電車に乗ると、降りる駅を過ぎた後に踏切が来るから、またわからなくなるよ。このままずっと乗って、時計の針を一回りした方が、いいよ。」 「でも、もしも踏切が何個もあったら、ぐるりと回ったら訳がわからなくなっちゃう……。」  僕は、突然現れて話しかけてきた少年を警戒して、ぽつりと呟いた。  この巨大な街自体と同じように、この地で出逢った子供も、何処か信じられないような気がして。 「大丈夫だよ。このまるい線路には、踏切はたったひとつしかない。この僕が言うのだから、間違いないよ。」 「どうして、間違いないの?」  半信半疑の僕を、安心させるようににっこりと微笑んで。 「だって、僕は君達がたった今乗っている、緑色の電車だから。」  かたこと、かたこと、僕達は、時計と反対まわりに乗ったままこの街をぐるりと廻ってゆく。  自分が「電車」だと言い張る、不思議な少年の言葉に、つられて。  あるいは、見知らぬ土地で同じくらいの年齢の子供に出逢って、それまでずっとふたりきりで抱きしめていた心細さが慰められたのも、あったかもしれない。  電車が時計とは反対まわりに廻っても、この街の時間は、着実に明日へと向かって針を刻んでゆく。 「どうして、わたしたちが踏切を探してるってわかったの?」  ゆうちゃんが、不思議そうに訊ねる。確かに、僕達はこの電車の中では一度も踏切のことは口に出していない、はずだった。 「そりゃあ、自分が運んでいる人達のことだもん。それに、洗いものには敏感だから。」 「洗いものって、何よ?」  少年は、謎めいた言葉を浮かべてふわりと悪戯っぽく笑う。狐につままれたような風の、ゆうちゃんのさらなる問いには、その表情のまま何も応えない。 「この電車は、どのくらいで一周するの?」  まだ少し不安な気分で、車窓に流れてゆく見知らぬ風景に目をやってから、今度は僕が訊ねた。  電車が、幾つかのポイントを通過して、がたがたと揺れて減速する。  そうして、枝分かれしてゆくレールのひとつを的確に選択して、また大きなステーションのプラットホームへと滑りこんでゆく。 「この街の人にとっては、時計の針と同じように感じる。六十分、つまりちょうど一時間で一周。」  僕達の隣の人が駅で降りようと立ち上がったのを見計らって、少年はぴょこんとシートに座る。 「でもね、本当は一周すると、六十二分から六十四分くらい、経ってる。」 「どういうこと?」  僕の問いは、プラットホームから扉を抜けて、濁流のように車内に吸いこまれてきた人々の勢いに遮られた。  紺色のスーツに身を包んだ男性達、奇妙な色の髪をした娘達、文庫本を読む学生、デパートの買い物袋を手にした年配の女性。ひとつ、ひとつ、大きさも色も違う海岸の砂の粒子達が硝子壜の中に納められたように、電車の中が沢山の人で満たされる。 「……くうちゃん、ほら、すごい高いよ。空に届きそう。」  ゆうちゃんが、少しぽかんとしたように窓の外を差す。  その細い指の先に、まるでこの街の霞んだ空を支える天の柱のように。  幾つもの、幾つもの窓を持つ高いビルが、密集してそびえ立っていた。  建設中のビルの頂上には、まるでキリンのように首の長い機械がいて、ちかちかと、星のように先端に灯りを明滅させて、少しずつ、少しずつ、空を突き上げてゆく。  そうしてできたビルの無数の窓に燈る、灯り。そのひとつひとつに、また人がいて、笑ったり悲しんだりして、暮らしていて。そして時間が流れて、消えていって。  そんな無限の回廊のような思考に沈み込んでしまって、何だか、泣きたくなる。 「……なんて、人が多いんだろう。」 「だから、この街の時間には、それだけたくさんの人のかなしみが積もってゆくんだ。」  電車の色と同じ、淡い翠色の衣を着た少年が、僕の呟きに静かな声で応えた。 「僕達の仕事は、この街の時間の粒子を、円く繋がったレールに乗せてぐるぐる回して、洗い流すことなんだ。」  緑色の電車は、たくさんの人を乗せて、かたことと揺れながら加速してゆく。 「洗い流すから、その分時間はすり減っちゃって、少し短くなっちゃう。」 「洗い流すって、何を……?」  少年の言葉を、わからないながらに真面目に聞いていたゆうちゃんが、尋ね返す。  そんなゆうちゃんに、目を細めて、ふわりと笑って。 「この街の人達の、かなしみを。」  こんな会話を交わしながら、僕達は三人で緑色の電車を反時計回りに一周した。  本当は六十二分だけど、洗われて擦り減った六十分の時間をかけて。  車窓に映る空は、いろいろな形の建造物に切り取られていた。  二等辺三角形の定規みたいな赤い塔、少しでも空の近くへと、橋のように線路を掲げて走る電車。そして、色とりどりに明滅する広告塔の明かり。僕達が今まで生きてきて、見たこともなかった、人の創ったもの達。  ゆうちゃんは、そんな風景を見て楽しそうに笑っていた。  とりわけ、一度別れていった青色の電車の線路が戻ってきて、緑色の電車に寄り添った時には、嬉しそうに声をあげた。  だけど、僕はそんな気分にはなれないまま、じっと車窓の見知らぬ街を見つめる。  まるでどこまでも続く深い穴に墜ちてゆくような、無限の回廊のような思考の名残が、未だに僕の胸の奥に影を落としていた。  それに、ゆうちゃんと僕の想いは違うのだと、判ってしまったことが、辛かった。  たとえ言葉を交わさなくても、お互い同じことを想っていると、ずっと信じていた。少なくとも、まだおかあさんが一緒にいてくれて、穏やかに暮らしていた頃は。  ずっと昔に失われた、顔も知らない写真家のおとうさんの、時間。  僕達と一緒に流れていたのに、不意に止まって消えてしまった、おかあさんの、時間。  いつか何処かで消えてしまう、僕やゆうちゃんの、時間。 「少なくなった時間は、何処にいっちゃうの?」  僕は、ぽろりと言葉をこぼすようにして、少年に尋ねる。 「洗った後、時間の粒子を干すんだ。そうすると、時間はさらさらになって空に還ってゆく。」  見覚えのある、ふたつの電車が別れてゆく坂道。  その風景の方を見ながら、緑色の電車は応えた。 「人がたくさんいると、増えるのはかなしみだけじゃ、ないよ。この街の空を見てれば、いつかわかるよ。」  かん、かん、かん、かん。  赤い灯りを交互に燈して、この円い線路でたったひとつの踏切が音楽を奏でる。 「ねえ、私達のかなしみも、洗い流して、くれる?」  プラットホームに降りる時、ゆうちゃんが真剣な顔で、こう尋ねたのを憶えている。  少年は、その問いには答えないままで、電車の扉が閉じるまで、優しく笑っていた。    ***  南の車庫駅で運転を交代して、しばらく休憩を取る。  そうして、今度は反時計回りの電車と待ち合わせて、再び運転席に座る。  少年は、気がつくと何時の間にか運転台の隣に座っている。  時計回りと、反時計回りとでは、同じ路線でも運転席の窓に映る風景が随分違う。  私は、個人的には反時計回りの方が、好きだ。  特に、青い電車と合流するポイントが気に入っている。  減速させながら、まるで鳥が地上に舞い降りるように、高架橋から急なカーブを描いて坂道を駆け下りる。  もっとも、十一の車両を繋いだこの電車は鳥のように身軽ではないから、線路が多少きつい曲線を描くだけで、キン、キンと、抗議するような高く軋んだ音をたてる。 「ずっと前さぁ、」  何故か、久しぶりに子供の頃のことを思い出しながら、私は少年に話しかける。 「キミは、この街の人達の時間を、かなしみを、洗い流してるって、言ったよね。」  坂道を降りると、まるで街角で偶然出逢ったかのように、遠い港町からやってくる青色の電車の線路が、何時の間にか隣に並んでいる。  私は、このふたつの線路が出逢う、この区間が好きだ。  たとえ離れて、別れてしまった人でも、何時かまた逢えると信じていれば、こうやって必ずまた逢える。  円い線路を廻ってこの区間を通る度に、そんなことを、感じさせてくれるから。 「ん? 言ったっけ? あんまり憶えてない。」  口笛でも吹き出しそうな飄々とした横顔を向けて、ぶらぶらと薄緑色の裾を揺らせて。 そんな少年をちらりと見て、たぶん嘘だな、と思う。 「じゃあ、キミや、キミを運転している私の時間は、誰が洗ってくれるんだろうね。」  駅のプラットホームに電車を滑りこませながら、私はぽつりと言った。  反時計回りの緑、時計回りの緑、北へ向かう青、南へ向かう青。  出逢ったばかりの駅では、ふたつの電車はぎこちなく別々のホームに停車する。 「ゆうちゃんはのーてんきだから、洗うべき時間なんて、ないでしょ。」  少年のあんまりな言葉に、むっとして少々乱暴にブレーキをかけてやる。 「ふーんだ。」    *** 「なるほどねぇ。そう言えばあの時、確かに遅いなぁとは思ったんだ。」  何時の間に取り出したのやら、薄い青色の皿に並べた手製の焼き菓子をひとつつまんで、ふむふむと頷く叔父さん。 「何を言ってるんですか。ずっと改札口で本を読みふけっていたくせに。」  負けじと小麦色の円い焼き菓子を一口かじってから、僕はしたり顔の叔父さんに反論する。  あの後、心配しているかな、怒られるかな、とふたりでびくびくしながら駅の改札口へと下りてゆくと、叔父さんは柱に凭れてハードカバーの本を読みふけっていたのだ。  しかも、目の前で恐る恐る声をかけるまで、僕達の存在にも、到着予定の時間から一時間も過ぎていることにも、全く気づかなかった。 「でも、妙にあっさりと、信じるんですね。」 「十年も前の話をするのに、今更作り話をするようなくうちゃんでも、ないだろ。」  もう一杯淹れよう、とおじさんはゆっくり立ち上がった。  ケトルに勢いよく水を入れる音と一緒に、台所から、穏やかな声が届く。 「それに、この話が本当なら、ゆうちゃんがただ一人でよく電車に乗りに行っていたのも、わかる気が、する。」  青白いガスコンロのほのおが、空気をいっぱいに抱えた水を温める。  少しずつ、細やかな泡がはじける小気味良い音が、ケトルからここまで届いてくる。  同じ日にこの世界に来たのに、自分は姉だという自覚があるから、ゆうちゃんはいつも僕には気弱なところは見せようとしない。  あの頃の僕は、不安定で、そんなゆうちゃんに甘えていて、気づかなかったけれど。  たぶん、ゆうちゃんは、かなしみを洗い流して欲しくて、電車に乗ってたのだ。    ***  おじさんの『夕暮堂』で、三人で一ヶ月ほど暮らした。  巨大な街の片隅で、大きな椎の樹に護られてたたずむ写真屋では、穏やかでのんびりとした時間が流れた。  まるで、白く渦を引いて、急いで流れてゆく川のようなこの街の時間の中で、ぽつんと取り残された小さな砂洲のように。  幼稚園の雑木林と椎の大樹に囲まれたこの土地が、住まう人にも影響を与えたのか、おじさんもまたおおらかで穏やかな人だった。  少々変わってて、のんきすぎる所はあったけど、何より、僕達を特別扱いしたりせず、ずっと昔からここに住んでいたみたいに、自然に接してくれた。  それが、ふたりきりで不安定になっていた僕達を、随分癒してくれたと、思う。  だから、『夕暮堂』での暮らしは、傷ついた鳥が羽を休めて眠る、大樹の枝ようなものだったのかも、しれない。  そうして、鳥達はやがて、別々の空へとひとりで羽ばたいてゆく。  ゆうちゃんは、あれから何度も電車に乗りに行った。  始めの頃は、ぐいぐいと僕の袖を引っ張って、一緒に行こうよとさんざん誘って。  だけど、僕はゆうちゃんの誘いを断って、いつもぼんやりと考えごとをしていた。  『夕暮堂』のリビングや、隣の幼稚園の、深い緑と黒の影を落とす雑木林の中で。  おかあさんのこと、ゆうちゃんのこと、失われた時間のこと、かなしみのこと。  もたれた背中に感じる、ごつごつとして乾いた、樹の体温。  お客さんのいない午後の時間と、ほのかに甘いお茶の香り。  少年のように高く澄んだ声を幾重にも重ねて歌う、繰り返し流れるレコードの歌声。  そして、壁にかけられた、この街の空の写真達。  そんな幾つかの記憶のかけらだけが、僕のなかの『夕暮堂』の日々を形作っている。  やがて、ゆうちゃんも何かを諦めたのか、ひとりで電車に乗りに行くようになった。  この街を廻る電車の中で、あの不思議な少年と逢えたのか、僕は尋ねはしなかったし、ゆうちゃんもまた、取り立てて教えてはくれなかった。  僕達が、それぞれの空にで飛び立つことを決めたのは、ある夕暮れ時のことだった。  はじめは、いつも通りお客さんの来ない午後に、三人でお茶を飲んでいた。  レコードプレーヤから流れていたのは、この場所でいつも聴いていた、あの少年のような澄んだ歌声。そのレコードの、一番最後の曲。  この円盤に納められた音楽は、風の中を駆けてゆく子供達や、ゆるやかな調べの森の曲、無限に広がる空の歌と、明るい曲が多かったけど、この最後の曲だけは、静かなピアノの伴奏が、何処か淋しく響いて。   もう帰ろう 日暮れてゆくよ   何度も呼んでみたけど 返事がない   十数えて 目を開いたら   知らない景色の中で 風が前髪を巻き上げた 「この街の空のうた、なんだね。おじさんの写真みたい。」  ゆうちゃんがレコードのジャケットに銀色の文字で書かれた曲目を読んで、嬉しそうに顔をあげる。 「どうして、おじさんは空の写真ばかり撮ってるの?」  リビングの壁に掛けられた、四角い額縁に納められたこの街の空を見ながら、僕はふと、おじさんに尋ねた。  おじさんの撮ったこの街の空は、たくさんの人が呼吸しているからか、北の町の空よりも何処かくすんでいて、窮屈に感じる。 「大切なことを、思い出せるように、だよ。」  言葉を探すように、少しマグカップのお茶をすすってから、ゆっくりとおじさんは答えた。 「人のすごいところはね、忘れたり、思い出したりして、時間を遡ることができること、だと思うんだ。」 「忘れることが、すごいことなの?」  僕は、何処か納得できなくて、さらに尋ねる。  『夕暮堂』のゆるやかな暮らしの中で、僕の中で少しずつ、想いが育っていたから。  どんなにかなしくても、おかあさんのことを、忘れたくない、と。 「忘れないと、過ぎた時間が雪のように降り積もって、明日に行けなくなっちゃうと、思う。たぶん、思い出すことは、忘れないとできないんだよ。」   遠いビルの窓が 明り灯してる   人の欲望(ゆめ)が 高く高く 空を突き上げる 「写真は、時間を遡ることはできないけど、その瞬間を切り取ることができる。切り取った時間だけはずっと忘れない。そう、兄さんは、くうちゃんの親父さんは、言ってた。」  僕は言い返す言葉を見つけられず、リビングにほんのひとときの沈黙が訪れる。  その沈黙の時間を、優しく、切なく流れる、この街の空のうた。  その歌声が、すうと息を継ぐのを待ってから、おじさんは、静かに言った。 「この街の空はね、ずいぶんといろいろな表情を見せてくれる。だから、ずっと憶えておきたいことがある時に、僕は空の写真を撮るんだ。その空を見て、忘れてしまった大切な時間へと遡れるように、ね。」  それは、僕の問いに答えるというより、半ば、独り言をつぶやくようだった。  やがて、音楽はまるで夕日が沈んだ後の、橙を薄く残した空のようなピアノの響きを残して、終わった。  無数の円を描いていたレコードが、緩やかにその回転を止め、深く息をつくように、すうっと音を刻む針が円盤から離れる。 「ねえ、くうちゃん、ちょっとおもてに散歩しに行かない?」  うたと、僕達の会話をじっと聴いていたゆうちゃんが、ぴょこんと椅子から立ち上がって、僕を誘った。 「わたし、くうちゃんに見せてあげたい空が、あるんだ。」  幼稚園の脇の坂道を下って、線路の方に曲がる。  下り坂の向こうに、尖った家々の屋根にぎざぎざに切り取られた空の青に、ほんのりと橙色が溶けこんでいるのが垣間見える。  最初、僕は電車に乗りに行くのかと思っていたけど、ゆうちゃんは僕の手を引っ張って、駅とは別の方向へと歩いて行く。  何処に行くの、と訊いても、着いてからのお楽しみ、と微笑んで、ゆうちゃんは教えてくれない。  繋いだ手のひらに、ふんわりと暖かい、ゆうちゃんの温度。  この街にふたりで来るまでは、当たり前のようにずっと繋いで、感じていた。  それが、『夕暮堂』での暮らしの中で、何時の間にか随分遠いものになってしまったように思えて、この手を包むささやかな暖かさが、何だかかなしい。  灰色のブロック塀に区切られた幾つかの路地を、迷いもなしに曲がってゆくと、かたこと、かたこと、と電車の調べが遠く聞こえてきた。  やがて、線路と寄りそって続く細い道へと出た。慣れた足取りで夕暮の街角を歩いてゆくゆうちゃんと、ついてゆく僕。ふたりのちいさな影法師が、アスファルトに黒いかたちを映す。 「ほら、これ、いいでしょ。」  そっと手を離して、ゆうちゃんは左のポケットから小さな茶封筒を取り出して、僕に手渡した。  何だろうと、封筒の折れた口をあけて、そっと手のひらの上に降ってみると、ちいさな紙片が何枚かこぼれでた。  淡いセピア色の、長方形の紙片。かすれた黒い文字で書かれた、駅の名前。  それは、電車の切符だった。おじさんの『夕暮堂』の最寄駅の、初乗りの切符。 「緑色の電車でくるりと一周してね、ひとつ手前の駅で降りるの。そうすると、一番安い切符で降りられるんだよ。」  少しだけ得意そうに笑う、ゆうちゃん。  僕の手のひらにこぼれた切符達。その隅に刻まれた日付は、少しずつ違っている。  この切符の数だけ、きっと、ゆうちゃんの時間は洗われて、少なくなって。  やがて、細い道の先に、踏切が見えてきた。  はじめてこの街に来た時の、降りる時の合言葉だった、踏切。 「隣の駅から、ここまで帰ってくるまでの間に、緑色の電車と青色の電車が別れてゆく場所が、あるの。そこから、さらさらとした夕空が、見えるのよ。」 「……あの子に、教えてもらったんだ。」  うん、と少し微笑んで、ゆっくりうなずく、ゆうちゃん。  黄色と黒で仕切られた、線路と人の歩く道の境界点。  時計回り、反時計回りの線路の他に、何処かへと続く二本の古びた貨物線と、全部で四本の線路を、またいで。  緑色の電車の円い線路の中で、たったひとつしかない踏切は、一回りした後に車窓から見えた時よりも、ずっと大きく思えた。 「もう、帰ろう。」  この巨大な街での暮らしが始まった踏切の前で、僕は下した選択を、言葉にする。 あのレコードの曲と、同じ言葉で。 「僕は、さみしくても、おかあさんと暮らしてた時のことを、景色を、忘れたくない。」  『夕暮堂』の暮らしの中で、ずっと過ぎてゆく時間のことを、考えていた。  どんなにかなしかったことでも、どんなに大切な思い出でも、全てを過去に変えて流れてゆく、時間のこと。  そうして、おかあさんのことも、僕のことも、何時かは忘れられて、消えて行く。  そんなことを考えると、まるで胸を冷たい風が吹きぬけてゆくようで、怖くて。  だから、せめて少しでも忘れないように、おかあさんと暮らした風景を、心に焼き付けておきたかった。  おじさんが、大切なことを忘れないために、この街の空を写真に切り取るように。 「わたし、帰らないから。」  ゆうちゃんは、背を向けたままで、ぽつりと拒絶の呟きを、返した。 「ゆうちゃんは、忘れちゃってもいいの?」  かん、かん、かん、かん。  警鐘のように、時の巡りを継げる時報のように。  シグナルの燈を、交互に灯して紅色の光を夕方の空気に溶かして。  高く、切ない和音を奏でて、踏切が鳴る。 「ずるいよ、くうちゃん。ひとりで閉じこもって、さみしがって。この街に来てから、くうちゃんは全然一緒に歩いてくれないし、わたしだって、さみしかったんだから!」  ゆうちゃんは、一度だけくるりと振り向いて、僕に想いをぶつけた。  見開いた黒い瞳から、ぱたぱたとこぼれ落ちる、大粒の涙。  直後、ぱしっと僕の手から、切符の入った茶封筒を取り上げる。 「わたし、絶対帰らない! この街でやりたいことが、できたんだもん!」  黄色と黒の遮断機が緩やかに下りて、扉を閉ざしてゆく。  その扉の隙間をくぐって、ゆうちゃんは夢中で向こうへと、駆けた。  その手の封筒から、ぱらぱらとセピア色の紙片がこぼれた。  線路の枕木の隙間へと、まるで涙のように。 「ゆうちゃん!」  僕の叫び声は、こぼれ落ちた切符のようで、もうゆうちゃんの元へは届かない。 「わたし、大きくなったら、緑色の電車の運転手になるんだから!」  二対の線路を隔てて別れた、ゆうちゃんの叫び声。  その声の響きは、踏切を駆け抜ける電車の轟音に、一瞬のうちにかき消えた。  かたこと、かたこと、かたこと。  かん、かん、かん、かん。  十一の車両が境界点を渡り切るまでの間、電車と踏切の奏でる響きを聴きながら、僕は、右手にほのかに残ったゆうちゃんのぬくもりを、強く握り締めていた。  ひとりでさみしくても、決して忘れないように。    *** 「……そっか。」  叔父さんはマグカップにそっと口をつけてから、『夕暮堂』のテーブルに還ってきた初乗りの切符達を手に取る。 「もしかしたら、これは電車の少年が、くうちゃんに送ったのかもしれないね。」 「緑色の、電車が? ゆうちゃんじゃ、なくて?」  叔父さんの思いがけない言葉に、僕は幼い日々の回想から、大人になった僕の時間へと引き戻された。 「多分、ゆうちゃんは、こういうやり方でくうちゃんに手紙を送ったりしないと、思う。それに、切手もなしに鉄道郵便の印だけ押してあるし、今のくうちゃんの話からすると、その方が自然だよ……あくまで、僕の推論だけど。」  古びた封筒を手に取ってじっと眺めながら、叔父さんはまるで推理小説の探偵みたいな風情で言う。何だか、今にもパイプでも取り出しそうで、ちょっと可笑しい。 「……だとすると、少年は何で今になって僕にこれを送ったのでしょうね。」 「それだけ、長い時間が流れたということ、かもね。」  丸眼鏡にグレーのセーターの探偵さんは、こんな風に僕の話を、結論付けた。 「……そろそろ、行こうかな。お茶とお菓子、ありがとうごさいました。」  しばらく叔父さんととりとめもない話をしてから、僕は椅子から立ち上がった。  紅茶の香り、のほほんとした叔父さん、リビングの空気。  『夕暮堂』の風景は、ゆうちゃんと一緒に暮らしていた頃と、ほとんど変わらない。  時の川の流れの中で、あっという間に変わってゆく風景、ゆっくりと変わってゆく風景。  そんなことを考えていて、ふと北の町に帰る前に大切な風景を見ておこうと、想った。 「晩御飯までには、帰っておいでな。」  『夕暮堂』の店先へと出て行こうとした僕の背中に届いた、叔父さんの声。  まるで、おもてに遊びに出かける子供にかける、お父さんの言葉のように。 「泊まっていくんだろ? ゆうちゃん、きっと喜ぶよ。」  胸の中が何だかくしゃっと暖かくなって、思わず微笑んでしまってから、僕は応えた。 「ありがとう、ございます。」  店を出ると、ひんやりと冷たい空気が髪を揺らせた。  秋も終わりに近いこの季節の大気は、日が落ち始めると急激に街の温度を奪ってゆく。  生まれたばかりの夜風が椎の大樹の梢を揺らして、まるで坂道を下ってゆく僕を見送るように、深緑色の葉がさらさらと音を奏でる。  坂道のむこうに広がる空は、薄い雲に半ば覆われて、ぼんやりとした灰色が風にさらされている。  坂道を下って、幼い日の記憶に任せて、徒然に歩を進める。  紺色の制服を着た小学校の子供達が、陽気に笑いながら僕の脇を駆けてゆく。  未だかなしみを知らぬように、ぱたぱたと弾んで遠ざかってゆくその背中を見送りながら、僕はふと言葉にならぬ想いを、胸のうちに浮かべる。  あの子達にも、僕達にも、この街に暮らす無数の人達にも、それぞれたったひとつの時間は流れていって、止まらない。  時折迷いながら路地を選んでゆくと、やがて線路に沿った小道へと出た。  遠く、踏切の調べが、聴こえる。  しばらくして、金網を隔てて緑色の電車が軽快な音を立ててすれ違った。  緑色の電車の円い線路の中で、たったひとつの踏切。  それは十数年の時間を経た今でも、僕の記憶のままにこの街の風景に溶け込んでいた。  あの日にゆうちゃんと僕を隔てた紅いシグナルは、今は静かに眠っている。  時計廻り、反時計廻り、上下の貨物線と、二対の線路を歩いて、その先の空へと踏切を越えてゆく。  ゆうちゃんが僕に見せたかった、あの絵葉書の空へと。  踏切から先は、緩やかに曲線を描いてゆく線路に沿って、青色の電車と合流する地点まで丘を上ってゆく。  子供の足では随分遠かっただろうな、と思う距離を歩いて、僕の息が少し切れてきた、その時だった。  低みをくるりと廻る線路と、交差して伸びる車道の、小さな橋のずっと先に。  写真で見覚えのある、この街の空が、広がっていた。 「ここだぁ……。」  丘と下町の境界を削って、ふたつの電車が視界を横切っている。  ひとつは、カーブを描いてこの橋の下を潜り抜ける、緑色の電車。  もうひとつは、ずっと遠くを真横に通りぬけてゆく、線路。  その線路を、小さくかたことと音を鳴らして、暖かな我が家へと帰ってゆく人達をたくさん乗せた、青い帯を纏った電車が駆け抜けてゆく。  そして、叔父さんの写真と絵葉書にはなかったもうひとつの線路が、風景に加わっていた。  青い電車と平行に空と地上を分けて横切る高架。その高架を、僕の住む北の町へと向けて、流線型の特急電車が時を切り裂くように轟音をあげて走り抜ける。  淡い、まるで絵の具を何倍にも水滴で薄めたような淡い菫色の空を、細かくちりぢりになった薄雲が風に流れている。  僅かに灰色がかったその雲の底辺を、やわらかな橙色が照らす。  さらさらと、音を聴こえそうな、菫色と、橙色。 「……ゆうちゃんは、この空にかなしみを洗い流して、いたんだ。」  橋の下を、一日を暮らした人達を乗せて、かたこと、かたことと緑色の電車が廻ってゆく。その度に、時間の粒子に積もったかなしみが、かたこと、かたことと洗われて、空へと還ってゆく。さらさらとした、菫色と橙色に流されて。  特急電車の高架に切り取られた地上側には、遠い下町のビルの灯りが燈っている。  地上に創った星座のように、幾つも燈るその灯のひとつひとつに、人がいて、かなしみを感じて、時間が流れていって。  そのたくさんのかなしみが洗い流されて橙色になった空。  あの緑色の電車の少年は、積もるのはかなしみだけじゃない、と言っていた。  かたこと、かたこと、かたこと。  またひとつ、緑色の電車が街を駆け抜けてゆく。  言葉にできないけど、確かに、ささやかな、何かがこの街に広がっているのを感じた。 それは多分、まるで鳥がひとりでも、なお風を受けてその翼を広げて飛び立ってゆくような、想いのようなもの。 「もう、帰ろう。」  何本もの、緑色、青色、流線型の電車達を見送ってから、穏やかな気分で僕は呟いた。 東京という名前の、この街の空の下で。  晩御飯には間に合わないかな、と心の中で笑いながら踏切まで戻ってきた時には、もう日は暮れかけていた。  『夕暮堂』のある向こう側へと渡りかけたその時、紅いシグナルが、燈った。  かん、かん、かん、かん。  その高く切ない調べに乗せて、僕は懐かしいあの歌を口ずさむ。   もう帰ろう 日暮れてゆくよ   何度も呼んでみたけど 返事がない   十数えて 目を開いたら   知らない景色の中で 風が前髪を巻き上げた   遠いビルの窓が 明り灯してる   人の欲望(ゆめ)が 高く高く 空を突き上げる   ***  青色の電車と別れるポイントを抜けて、速度に気をつけながら、弧を描く坂道へと電車を走らせる。  もうすぐ、たったひとつの踏切を通過して、『夕暮堂』の最寄駅。  だけど、今日はまだあと三周分電車を走らせなくては、いけない。  ファン、と軽く汽笛を鳴らしながら、軽くため息をつく。  子供の頃は、あの踏切で弟と別れてまで、この電車を運転したかった、けど。  何だか、今日は昔のことばかり思ってる、と軽く苦笑いをした、その時だった。 「ゆう、踏切で緊急停止信号! 停車して!」 「え、うそっ!」  物思いを破る少年の叫びに、慌てて私は緊急ブレーキをかける。  あの踏切でだけは、事故なんて絶対に起こしたくなんか、ない。  激しく車輪が軋む金属音を響かせて、急激な抵抗を十一の車両に与えながら電車は停止した。踏切の手前数メートルの所で。 「何よ、なにも異常なんか……。」  私が少年に文句を言いかけた、その時だった。  高く鳴りつづける、遮断機のシグナルの音に混じって、ほんの微かに。  誰かが、懐かしい歌をうたっているのが、聴こえた。   もう帰ろう 振りかえったら   大人になったあの子が 駅の人混みに隠れてた   緑色の電車 街を駆け抜ける   耳の奥で ずっとずっと 歌が続いてる 「くうちゃん……。」  私は、運転席の大きな窓の隅に映った人影に気づいて、ぽつりと呟いた。  別れた踏切の傍らにたたずんで、歌をうたっている、ずっと手を繋いでいたはずの私の弟。  あの幼い日から、ずっと、ずっと違う空の下を歩いてきた。  だけど、まるであの青い電車と緑色の電車が、別れても何時かまた逢えるように。  永い時間が流れていったその果てに、同じ踏切で、くうちゃんと一緒にいる。  もう、子供の頃のように手は繋げないけど。  まるでさらさらしたお湯で洗い流したように、胸のうちがすうっと、暖かくなる。  ちょっとだけ瞳を手袋でぬぐって、軽く敬礼をしてから、私は再びゆっくりと電車を走らせた。 「ここってさあ、貨物線が隣に走っているじゃない?」  プラットホームに止まった時に、ふと緑色の服の少年が言った。 「あの貨物線のおやじさんがさあ、よく遠くまで郵便貨車を引いて遠くまで走っていくことがあってさ、結構こっそり手紙とか頼んじゃったり、するんだ。」 「それがどうしたのよ? 停止信号なんて、人をだましておきながら。」  何やら悪戯っぽく笑いながら、楽しげに言う少年を横目で睨んでやる。 「運転してるゆうちゃんだって、例外じゃないよ。僕は、この街の人みんなの時間を、洗ってる。」 「ふんだ。さあ、遅れた分取り戻して、頑張ってあと三周しよう。」  ふわりと笑う少年に文句を言うのを諦めて、私は微笑んで応えた。 「……きっと、くうちゃんが『夕暮堂』で待ってるから。」  そして、私は人々の時間を洗い流す緑色の電車を、くるくると走らせる。  東京という名前の、この街の空の下で。  未だに胸の奥に聴こえている、あの歌の続きをそっと口ずさみながら。   街は大きな手拡げて 人の限りない夢を抱くよ   みんな眠らせて今夜も 深い悲しみも忘れさせて   もう帰ろう いつもの道   もう帰ろう 日暮れてゆく                               Fin. (挿入詩:『東京の空の下』/アルバム『桃と耳』遊佐未森 より  作詩:工藤順子 作曲:外間隆史)