デジ・カメ | 私はデ爺・カメとも書く。デバ・カメの対語である。 同じディジタル・カメラのことだが、オバタリアンが使っているとデ婆・カメであり
オジタリアンが使うとデジカメとなる。
単なる言葉遊びです。娘からはオヤジ・ギャグと酷評されそうだ。 現在デジタル真っ盛り、テレビの地上波放送もデジタル波が開始されたし~、ケータイ、パソコンなどもデジタル産。 デジタルの方が加工しやすいのであろう。前回の私の写真もデジタルだからできたし~、最近の映画では、再編集された名画もデジタル・エデット版というのがあるし~、アクション・シーンに多いCGもデジタルだからできることだろう。
| 2004. 1. 21
日常性の私、非日常性の私 | 日々の時間を介護に費やすときを「日常性の私」、介護から離れて別の次元に身または心をおくときの私を「非日常性の私」という。
この用語は1999年7月21日、自らを処した評論家江藤淳氏が最後に書かれた夫人への鎮魂記といわれている「妻と私」のなかに記されている表現を参考にしている。 一部を引用する。
『・・・・日常的な時間のほうは窓の外の遠くに見える首都高速を走る車と一緒に流れている。しかし生と死の時間のほうは、こうして家内の傍にいるかぎり・・・・』
夫人を看取るまで日常的な時間と生と死の時間を行き来したようである。
| 2004. 1. 11
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