介護日誌
2005. 1. 21
介護(介護卒業)
最後の写真<12月25日>
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とうとう「母の介護」を卒業した。
1月5日午前施設から母の呼吸が荒くなったという電話があった。
4日は面会しなかったが、この日は面会を予定していたところだった。
3日の面会のときの様子から急に悪化するとは見えなかった。
正月3ヶ日
元日、3日は面会した。元日は前日の大雪が残っているので車では怖いと思い、施設には電車と徒歩で行った。
昼食の介助をと思い12時少し過ぎていたが2階の食堂に行って見ると昼食は片付けてあった。3ヶ日は早くなっているそうだ。
母は相変わらず覚醒していない。「目を開けて!」と言うと「目を開けたらどうなるの」と応答する。
介護士さんが「ご飯は食べないが、お茶をよく飲んでいる。夜起きているので同室の人が煩がっている。あのパワーはどこから来るのかしら」と話してくれた。
3日、まだ雪が残っている。日照はあるが、雪が融けない。最低気温は-4℃の予想である。
この日は施設まで往復歩いた。片道6kmくらいあるだろうか、歩道の残雪に気をつけながら1時間少々で着いた。
この日も12時前に食堂に行ったが昼食は終わっていた。
棺に入れる作品など<1月11日>
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車イスの母が「トイレに行きたい」と言って立ち上がろうとする。私は抱えることが出来ない。無理に抱え「イタイ、イタイ」と言われるとどうしていいかわからなくなる。介護士さんに頼むと自力で出来ないからあてがってある。もうしばらくしたら交換しますと言う。
いつも眠ってばかりいるのに目を見開いて車イスから立ち上がろうとする様子はすごいパワーだと思う。
まだまだ・・・と思いつつ、トイレを要求する叫び声を聞きながら介護士さんにまかせるしかないのか、トイレもままならないのかという複雑な思いで食堂を出た。
いよいよ
5日午前電話を貰ってとうとう”Xデイ”がきたかと思いつつ車を走らせる。施設に着いて医師から血圧が下がってきていると聞かされる。
昨日は水分を採ったが今日は採らないという。メモが枕元にあった、覗くと4日の水分はお茶、エンシュア、ジュースを合わせて200g弱と記されている。
11時頃から酸素吸入を施された。看護師さんから時間の問題だろうと告げられる。
叔母夫婦、思い出の写真を <1月11日>
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12月の時点で私は延命措置をしないことを決めていた。
自分以外の命のあつかいを委ねられているようだが、私しか決断する人間はいない。
盛者必滅・会者定離・・・とか、神様がもういいよとお許しになっている・・・とか、もう充分生きたのではないだろうか・・・。いろんなことが思い浮かんで来る。
その夜は施設に泊めてもらうことにして、準備のため一旦帰宅する。
看護師さんから「連絡をするところは・・・」など配慮していただく。
最後は私が看てればいいと思いながら娘たちには状況を伝えるためメールを送っておいた。
核家族化が進んでしまった今となってはそれぞれの生活があり、昔のように家族に見守られながら大往生ということは望むべくもない。母には我慢してもらうしかない。
部屋にソファ、掛け布団、電気ストーブを用意してもらった。夜間は暖房が停止されるそうだ。
看護師、介護士さんが定期的に見回ってくれ、血圧、体内酸素量、体温などを計測していく。夕刻まで声をかけるとうなずいて見せていた。夜遅くなるとだいぶ呼吸が荒くなってきた。
日付が変わってしばらくして私もソファに体を横たえるが、体のあちこちが痛くなり目覚める。母の荒い呼吸音を聞きながらいつしか眠りに落ちていた。
町内の方々も・・・<1月11日>
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午前2時半ごろ看護師さんたちの動きで目覚める。血圧もさがりいくばくもないと言われる。私はしばらく覗き込むようにみていると呼吸の間隔が長くなっていく。それでも時々思い出したかのようにフッと吐き出す。そのうち吐き出さなくなってしまった。
看護師さんが心臓マッサージを試みながら聴診器をあてる。やがてマッサージを止めた。午前3時22分だった。
私は何の感傷的な気持ちも起きず不思議なくらい冷静だった。
午前5時半ごろ自宅に戻り、葬儀屋さんとのコンタクト、6時過ぎには娘たちへ連絡する。入所している施設は病院と異なるので霊安室はない。リハビリ用の和室に仮安置してある。早急に遺体を自宅へ移動させねばならない。幸い入所者の朝食前に地下室から搬送できた。多分気づかれずに済んだことだろう。一安心である。
葬儀屋と打ち合わせをはじめる。話によれば年末年始は火葬場が休みのためかなり順番待ちだそうである。
通夜、告別式を10日、11日に行うことになった。かなり時間があるが、いろんなことを冷静に考えることも出来た。
6日は自宅で仮通夜を行い、翌日13時、通夜・葬儀を行う葬祭場に出棺という段取りとなった。「通夜」を辞書を引いてみると”葬る前に家族、縁者、知人などが遺体の前で終夜守護する”と記されている。
私の微かな記憶では”昔、はやまって死の宣告をしたため、生き返ることがあったので終夜、そのことがあるか見守る”と聞いていた。
現在は葬儀・告別式と同じ扱いで死者との親しみぐあいによりどちらかに参列すればよいと言う意味合いになっているように思われる。
ようやく帰宅<1月12日>
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通夜、告別式に町内の方にお手伝いいただいた。また思ってもみない大勢の方に参列して頂いた。
あらためて謝々。
火葬の後の集骨のとき、大きな金属製の平板つきボルトが2本出てきた。話によれば骨はかなり丈夫そうだということであった。
あれこれ
過ぎ去ってしまったことをいろいろ考えても仕方ないが、心の片隅では延命措置を取らなかったことに対する罪悪感のようなものがもたげてくる。
7日テレビのドキュメンタリ番組を見ていると高齢の入院患者に経腸栄養により回復しているシーンが映し出された。その患者さんは母より17歳年下であり比較すべきではないが「経腸栄養・回復」という表面的な状況を考えると自分の取った方法がよかったのだろうかと考える。
母の死因は老衰ということになっているが、遠因は昨年9月末の骨折であろう。
10月下旬退院、再入所。11月中旬頃から坂道を転がり落ちるような、その速度がはやくなったように思う。この頃は落ちていく力を支えることが出来なかった。
食べることを拒むようになった。肉体的に嚥下状態が何故起きるのか私は専門家ではないので分からないがそれだけではなく食べて生きようという気力が失せてしまったように思えてならない。
ともかく38年間の同居生活、4年間の介護は終わった。