きいき
2006.2.21
世迷い言 
いくつかの辞書で「世迷い言」の意味をみると”(他人に通じない)ひとり言に愚痴や不平をいうこと、わけのわからぬ繰言”ということがまた「愚痴」の意は”おろかなこと。道理の善悪がわからないこと。言ってもかいのないことを言って嘆く”という趣旨が記されている。私の思っていることはまさしく「世迷い言」である。



先日、ご近所の私より少し先輩のご夫婦と歓談する機会があった。奥様は最近、民営化された某店でパートをされている、CS(custormer satisfaction)とやらでお辞儀するときは体をXX度に傾けてとかあいさつのやり方を教育された、知人が来たのでその通りやったら笑われたとおっしゃる。

私も一昨日、立ち寄ったスーパー(ストア)でそのような光景を見た。その小規模のスーパーはレジが7列くらいあるがその日も2列しか使われていなかった。私は2、3人の買い物客が並んだ後についた。レジ係りはひとり顧客の処理をすませる前後に丁寧に両手を前にあわせ「いらっしゃいませ」、「有難うございました」とゆっくりとのたまう。
その店長の教育なのか、その社の方針なのか知らないが、私はサッサと済ませてくれたほうがうれしいのだが・・・。

私の前の客が商品の価格が違うとクレームを言っていた。レジ係はひと言二言話していたが、その商品の置いてあるところへ出かけていった。 前の客は私に「すみませんねえ」という。レジ係は何も言わなかった、おそらく私はまだ「顧客」になっていないのだろう。 しかし「少々お待ちください」と言ってくれたら、気分を悪くしなかったのに。
私は隣の列のレジが空いているのを見てそちらへ移動した。

レジ係りは商品をレジスターのバーコード読み取り機に通すときに「XX円」、「X円」と大きな声で確認している。おそらく間違いのないようにこれもCSの一環ということだろうか。それともバーコード読み取り機を信用していないのか、しかし割り引いた商品の「XX円引き」までいうこたねえだろう。なかにはそういうのを求めている人だっているのだから・・・。 顧客の心を読んでいないね。

以前この店で商品をさがしていると、急ぎ足で店員が向ってくる、私は少し避けて店員が通りすぎるのを待った。その店員は何も言わずに通り過ぎてレジ係りの仕事をはじめた。レジをオープンする時間に間に合わせようと急いでいたのかもしれない。おそらくレジ係りを務めるまでは店員ではないと思って私が避けたのさえ当たり前と思っているのかもしれない。
マニュアルに記されたCSには従うが一歩はずれたところでは気遣いはしない。
形ばかりのCS教育より伊丹十三監督の映画「スーパーの女」を見せた方が勉強になると思うよ、店長さん。

形ばかりの教育といったが、今の小学校では「右側通行」なんて教え、訓練しないのかしら。
ある会合で、昔小学校の先生をやっていたとおっしゃる方と知り合い、以後ときどきお話をしている。その方に「右側通行」の話をしたところ、そんなもの教えませんよだって。
「えっ、ほんと」信じられない、聞き間違えたのかな。もう一度聞いてみよう。

私の住んでいる近くにはT大学があり学生が多い。彼らは自分の歩くルートの最短距離を歩き右も左もない、道の真ん中だってケータイ見ながら平気で歩いている。
おそらく悪気はないのであろう。
噺家の圓窓師匠の講演で「話す・聞く」ことをしないで「映像」のみ見ていると「思い描く」ことが出来ず、その結果「気遣いなど思いやる」心を持てなくなるということを聞き、大いに共鳴するところがある。
彼ら自身もそういう環境で育てられた私と違う"異質な人種"なのであろう。

講演会の進行係りの若い女性、おそらく「映像人種」であろうが、圓窓師匠のプロフィールを紹介するとき六代目圓生(えんせい)師匠に入門・・・と。これは「えんしょう」師匠が正しい、また「噺」を読めずに一瞬止まったが、なんのためらいもなく飛ばしていた。「文字人間」の私は 事前にリハーサルくらいやっておけばいいのにと思った。これも年寄りの世迷い言なのだろう。


世迷言