きいき
2006.3.11
世迷い言(2)
いくつかの辞書で「世迷い言」の意味をみると”(他人に通じない)ひとり言に愚痴や不平をいうこと、わけのわからぬ繰言”ということがまた「愚痴」の意は”おろかなこと。道理の善悪がわからないこと。言ってもかいのないことを言って嘆く”という趣旨が記されている。私の思っていることはまさしく「世迷い言」である。



この「よまいごと」のページが増えていくのは、自分自身が世の常識の変化について行くことが出来ないことに相関がある。
世は良きにしろ悪しきにしろ変化している。ITの分野でもこれでもかこれでもかと進んでいる。そういう社会(世界)にいると、それに染まってしまいそれが新しい常識となる。

日本の中で新しい常識とともに誕生する新しい人種について書いてみる。
1歳半のりうクンは携帯電話や電話機の子機のボタンを触るのが好きのようだ。そして自分の耳のところへ持っていく。何も教えなくても・・・・である。
子供は親の背中を見て育つとはよく言ったもので、親の行動をちゃんと観察している。
私は自分が子供に観察されて大丈夫だったかといわれても自信はない。

小学生のインターネットによる教育は常識らしい、そのうえ英語教育を実施すか議論されているようだ。
しかしそんなに性急に詰め込むこともあるまい。生まれたときからまわりに英語、ITはあふれているのだからと思う。
そのような環境で生まれ育ったこどもたちの思考様式は、私たちには理解できない何かを宿しているようだ。
テレビの普及率を振り返ってみると、1960(昭和35)年は33%、1961年:49%、1962年:64%、1963年:75%、1964年には83%、この年昭和39年は東京オリンピックが開催された。
この時代に生まれた人は物心ついたときにはテレビを見ていたはずである。いま46歳前後より若いひとたちは映像社会で育った年代と言える。
私のように活字メディアしかなかった時代に育った”活字人間”に対して”映像人間”と呼んでおく。思考様式が違うらしい。
インターネットが普及したのは、I-Modeサービスがはじまった1999年、ブロードバンドが普及しはじめた2001年前後であろう。あっという間に後期映像人間に染み渡ってしまった。
もうひとつの要素、ゲームは1983年にファミコンが、94年にはプレステが発売された。1983年に生まれた人は23歳になる。この年代を含め30歳以下のひとたちはコンピューターの中で育ったといえる。
私は”ヴァーチャル人”と名づけた。つまりゲームやネットの社会が住み心地がいいと思う人たちだ。

整理してみると、活字人間(私は文字を意味するキャラクタを略しキャラ人と呼ぶ)は1960年頃以前に生まれ、よく活字本を読み、直接話すことつまりフェイスtoフェイスのコミュニケーションを好む。
映像人間(同じようにイメージを略しイメー人と呼ぶ)は1960~80年頃の生まれでテレビ、漫画本大好き。通勤時間帯の駅のホームでスーツを着て電車を待つ間も分厚い漫画本を読んでいる人はここの人種である。
ヴァーチャル人(私は略してヴァーチャ人と呼ぶ)は1980年頃以後の生まれである。歩きながらのケータイ、車を運転していてもケータイ。信号待てでもケータイ。ジコチューで、人のことを思いやるなんて全くない。直接会話が苦手でパソコンやケータイなどのマシンを通してのコミュニケーションを好む。ベビーカーを押しながらケータイやってるのもこの人種。
読売新聞の「よむサラダ」という欄に寺田農という俳優が「若い女優さん」という題で書いていた。要約すれば次の通り。
この人は1942年生まれというから同年代だ。
テレビドラマの撮影中の話。年とった監督が若い女優に「石原裕次郎知ってるか」
と聞いたら、恥じらいもなく「知らない!」。自分の業界の先人の名前も 知らないのか。文学を目指す人は漱石や龍之介をしってるだろう。
この業界にいる若い人たちの価値観が「テレビにどれだけ出ているか」、「売れているか」しかない。
昔の映画を見たからって芝居がうまくなるわけではないが・・・。
私はこういう若者達と一緒に仕事しているのです。ツカれますぞ。

私は彼女たちもヴァーチャ人に思え、思わず「ご苦労様!」と言いかけた。

それでは私たちは完璧か、そんなことはない。先輩から見れば私たちも「今どきの若い奴らは・・・」と言われてきたハズである。
しかし私たちと先輩の間の時間は緩やかに文明も進んでいたのではないだろうか。少なくとも共有しようとした。

年代別に分類したが総ての人がそうだというわけではなく入り混じりはあるものだが、大多数が含まれるのではないだろうか。
それぞれ思考様式が異なってくる。近ごろの若い者は・・・。といってもしょうがないのである。
人種が違うんだから。


世迷言