きいき
2006.2.11
随録 (ひとつの道)
IDさんと<05年7月19日>

最近、ある方と出合った。その方は奥様を亡くされて3ヶ月という。突然のご病気だったが、お二人で受け止められたという。もちろん今の悲しみはいかばかりかと思う。

私は7年前のことが思い出され、あのとき私がとった判断は正しかったのだろうかと思う。
家内は検査入院したときは、すい臓がんが肺などに転移し手の施しようがなく余命6ヶ月と言われた。
医師から呼び出しを受けた日、退社後直接病院に向かい、まず私だけ話を聞かされた。医師に告知するか否かを迫られた。
病棟の5階にあるダイニング・ルームのなかを歩きながら事態を受け止めるのに必死だった。
薄暗くなった窓から外の下を見てこのまま逃げ出したい気持ちだった。何でこんなに重い事態を誰に話すことも出来ないのだろうか
私の頭の中には何のためらいもなく否の方を選んだ。
家内といっしょに医師から「慢性膵炎」と説明を受けた。
病室へもどりながら、家内は「重い病気じゃなくてよかった」といった。

結果的に家内を騙し続けたわけだが、最近になってなんと身勝手な考え方をしたのだろうかと思うようになった。
自分の意思のままに生きられないような方法を与えてしまった。人は誰でも知る権利があるはずだ、私はその権利を傲慢にも奪ってしまっていた。
家内に余命、半年と知らせることが怖かったのかもしれない。そんなことはないだろうが、取り乱すかもしれない、毎日短くなっていく余命と向き合いながら暮らしていく家内にどう接していけばいいか不安だったのかもしれない。
知らせないで、そっと逝かせることが思いやりだという思い上がった考えだったのかも知れない。
知らないで済めばそれが一番いい。知らぬが仏という言葉もある。今の自分の余命だって、あと半年なのか10年なのか20年なのか知らない。知らないから不安であるが、生きていけるのである。自分の余命がタイマーで分ったら、どのような行動をするだろう。
知らない方が幸せだ。当時の私はそう思っていた。しかし自分の持ち時間を自覚して、悔いのないような過ごし方も出来たかもしれない。そういう権利を奪ってしまった。しばらく自責の念がもたげてくる。

個室に移されたころ、隣の部屋に脳卒中らしい男性が入院していた、前を通ると「おとうさん」という呼びかけの声が聞こえてきたが応答はなかったようだ。私はどちらが・・と思ったことがあった。しかしこれしかないのだと現実に戻ったことを思い出した。
自分が選んで歩いた道はひとつしかない。
ある本に載っていたが、仏教の世界ではわれわれを含め万物はお釈迦様の手の上で、お釈迦様の記した台本の通り生きているのだそうだ。短い命も、長い命も、悩み苦しむのもお釈迦様のシナリオによるのだという。科学的にDNAに刻まれているというより心が安らぐ気がする。
昨夏の七回忌、墓所に出かけ供花読経を行った。この時亡妻がパートで勤めていたお店に勤務されていたIDさんがお参りしてくれていた。6年経っても忘れずにいてくれたのに感謝の気持ちでいっぱいだ。


髄録