きいき
2006.6. 21
随録(7年目にして)

「堀辰雄論」Web化のあとがき
ちょっと寄らせて貰うよ
”7年目してようやく、思いを達成できた。!”  今そんな心境である。これを機に振り返ってみようと思う。
次女が7年前に書き上げた卒業研究「堀辰雄」をWebに載せようと思ったのはずいぶん前だった。
HTMLで記述するにはかなりの物量(400字詰め用紙が100枚強、結果的に文書だけで90KB)になり、キーボードをそれだけ叩くのかと少々気後れがしていた。 最近キーの押し間違いが多いことに自分自身ウンザリしているところである。
しかし今年春ごろからその気になりかけて、 5月10日に府中の浅間山公園にムサシノキスゲを見に行った折、近くの多磨霊園の堀辰雄の墓所を訪ねてみた。 それを契機にWeb化に取りかかった。

最初は”すでに原稿があるから、考えることもなくキーを叩くだけ”の作業だと思っていたが、単調な作業がそうさせるのか、それとも年齢による集中力の維持不能なのかすぐ飽きてしまいなかなか進まない。
しかし論文を読みながら、堀辰雄が生きた時代ー私の父も同年生まれでたつお(龍雄)という名前だった。 そして、同じ病魔に冒されていた。-つまり父の時代へ思いを馳せながら、また7年前の大変厳しい年にも思いをめぐらせていた。
いくたびか現在から過去の平成11年、想像でしかありえない昭和初期、大正時代へと自身の中でタイムトラベルしながら考える機会をもらった。
父は昭和39年、東京オリンピックの年に60歳で他界した。父系はみな短命で、いや昔はみな短い。病弱だった父が一番長生きだったようだ。私の兄は私の生まれる数年前に3歳で亡くなっている。
みんな短い人生を懸命に生きたようである。
母系は長命である、母は92歳、祖父、祖母とも80半ばだったと思う。母は父の死後40年、自らの罹病(狭心症-私も一人でやった看病などで疲れたという記憶がいまだに残っている)以後32年生きてきた。 このようなたくましさはどこから来ているのだろうか、と常々思っている。
論文の主、堀辰雄も若いときからの罹病で享年49歳である。論文から読み取れる堀辰雄の姿を生前の父に重ねてしまう。
父は堀のような「学」は無かった、尋常小学校しか出ていなかったが、いつも自分なりに勉強していた。 私が物心ついたとき、病臥していることが多くそれでも私に「書き取り」を強制した。大人になってからは 「字」をキレイに書こうと思っても遅いと言ってた。
言うことを聞かない幼い私を夜でも外に放り出し雨戸を閉めてしまうことがあった。泣きながら私は「大きくなったら、飯食わせてやらないから・・・」と思った。父は怖い存在だった、母がそれをかばってくれた。
論文の中に「結核患者が世間から冷たい目で・・・」とあるが、父も母系が出身した見知らぬ山村に疎開し、そのような目で見られていたであろう。
私が就職して3年後に他界したが、何もしてあげれなかった。絵画を趣味としていたので美術館巡りなど一緒にやりたいと思っていたが果たせなかった。

さて論文には平成11年6月19日題目提出と記されているがその1ヵ月後に妻が他界した。
おそらく、この論文は次女にとって母への鎮魂の書であったろう。
私は40日かけてようやくWeb上にまとめることができひと区切りがついた感じがする。
家内も遠方でこのWebを見てくれるだろう。イヤ、ITは苦手だったか。

14日別の目的で歩いているとき、我が家の墓所のある霊園の近くにやってきた、
何も供物を持ち合わせていなかったが、”ちょとばかり寄らせてもらいますよ”と少々雑談に花を咲かせた。
7年がたった。


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