きいき
2007. 5. 3
随録(ハッピー・ジャーニー)

久しぶり・・・
朝9時、そろそろ始動する黄金商店街
  ほんとうに久しぶり、実に3年半ぶりにこの地を訪ねた。
お供をした”りうクン”が曽祖父に会えた、ほかの親戚の人たちとも会うことができた、 そして喜んで貰えた。
”りうクン”も大好きな電車をいろいろと見ることができた。 娘もこどもを祖父に見せることができ満足しているに違いない。

私も今回の訪問でこの地の人と接し、ふるさとに帰ってきた思いを実感しハッピーな旅であった。

ここ北九州・小倉は私の生地であり、ふるさとであるはずなのにそれほどの思いはなかった。 いったん疎開し戻ってからの定住感を持てなかったからかもしれない。
離れて時間も距離も遠くなっていたからかもしれない。
しかし今回、ふるさとが身近に感じられるようになった。
寅さんではないが、ときどきふらっと帰ってみるのもいいかもしれない。

町は変わり・・・
九州の鉄道スタート0里<門司港駅>
義父の住む町並みを久しぶりに歩いてみる、古くからあった建物がなくなり、商店街、市場のシャッターが下りたままになっている。
変わりに高層マンションが立ち並んでいる。
新しい住人が増えているのだろうと思うが、統計情報では人口は減っているという。
地方都市の姿であろう。

古くからある商店街を通り過ぎる、やはり客も店の人もシニアが目立つ。店の人が声をかけてくる。
不思議ではあるが安心感を持つことが出来る、なぜだろうか。
今私が住んでいるところは、通りには学生や若い人が多い。いつも私は通りながら落ち着かない気分になる、違和感を持ってしまう。
例えが悪いが、老熟期の山は丸みを帯び、草創期の山は尖っている。そんなことを思い浮かべた。

商店街を抜け、5分も歩けば義父の家がある。道路のわきにあった病院が移転し駐車場になっている。
朽ち落ちた家の庭には草が伸び、空き地がコインパークになっている。住人がいなくなったのだろうか。

出あった人びと
子どもの頃よく見たSLも展示物・・・
義父の家の周りにも高層マンションが立ち並び、なにか圧迫されたような気分になる。
しかし昔からの古い家も残っている。義父の家もそのひとつだ。
西側には製麺所があり朝早くから働いている。東側には一軒おいて床屋さんがある。

この地を訪ねた折、いつも通りすがりに覗いていた。いつもオヤジさんが鋏を持って調髪している。
言葉を交わした記憶はないが見慣れた顔が懐かしい。
今回は外で植木に水をやっていた。

通りがけに頭を下げる、「どなたでしたかね」
こちらは憶えていても客商売の床屋さん、私のことなど憶えていないのが当然である。
私は亡妻の名前を言う。
私がどういう者かわかってくれたようだ。

関門海峡、巌流島も霞んで・・・
「何年になりますかね」、「あなたはいくつになったとですか」
義父のこと、今回訪ねたわけを話す。
このオヤジさんは大正元年生まれ、今年82歳だそうだ。現役で床屋をやりながら、ある施設でボランティアとして 調髪を続けて40数年なるそうだ。
義父も月に一度、この床屋にくるのが唯一の外出だと言っていた。
家内はここで床屋のオヤジさんの顔や、近くの黄金市場の人たちと声を声を交わしながら生活していたんだろう。

娘がその黄金市場で食料品を買っているとき、店の人と言葉を交わし義父、家内のことも話題になったという。
子どもの頃からその地に住みついていると、町内の人たちと濃密な人間関係が出来る。
私のように定住の経験がない人間にとってときに煩わしいと思う。
都会の中では隣の人とめったに言葉を交わすこともない。淡白な人間関係しか生まれない。

今は製鉄所からの煤煙はなく・・・
門司にある親戚のK家を初めて訪ねる。Kさんは義父の末妹で家内も年が近いことでよくお相手をしてもらっていたようだ。
4年ほど前、そのすぐ上のひとり暮らしの叔母が亡くなって以来である。お花でも上げてもらおうと思っていた。
場所を知らないのでタクシーに乗って番地を告げると「すぐそこだよ」
乗車拒否かと思ったが、歩いていける距離だと言いたかったようだ。
運転手は家の住所標を見ながらゆっくりと車を進めてくれた。目的の住所に近かづくと叔父が立っていてくれた。
不慣れな土地ではこちらの思いが伝わるのが一番うれしい。
帰りには叔父がいつまでも見送ってくれていた。
この叔父夫婦は翌日の夕方、足が悪いと言っていたがわざわざ義父宅に娘への手土産を持ってきてくれた。

娘が子どもに特急電車を見せたいと一緒に小倉駅に行った。
ホームに運転手らしい若い男が立っている。
特急電車の先頭を尋ねたらその場所を教えてくれたらしい。
やがて特急ソニックが入線しその運転手が乗り込みしばらくして動き始めた。 
”りうクン”は電車に向かって手を振る。
するとその運転手は手を振ってくれた。
ただそれだけのことだが、都会化してギスギスした人間関係を忘れることができ、うれしい気持ちがこみ上げて来た。

寡黙な義弟は姪と”りうクン”のために休日を返上してあちらこちらと案内してくれた。
義兄とその息子大学生の”R君”も訪ねてきた、つかの間の時間ではあったが、”R君”の素直な話しぶりに私もうれしくなった。  

義父は・・・
りうクンのママが大好きな「み」・・・
義父は4年前、お土産にこれを買いに・・・
  義父は大正元年生まれ、現在94歳である。少し耳が遠くなったようだがひとりで暮らしている。
何から何までひとりで出来るわけではない、近くに住む義弟が毎夕訪ねて様子を見たり家事の一部をやっているようである。
義弟は一緒に住むように勧めたらしいが、頑なに今の生活を選んだようだ。
食事は宅配のお弁当を食べたり、時に自分で作ったり。
残飯は雀の餌に庭に撒いている。そして雀と話しながら縁側で昼寝をしている。
今回訪ねることを決めたとき、電話したが出なかった。間をおいても呼び出し音だけだった。私は義弟の携帯を呼び出した。
縁側で昼寝している、耳が遠くなったから聞こえなかったんだろう、と言っていた。

  新聞の福祉欄によく高齢者用の住宅には、バリアフリー、食事付き、介護付きなどの紹介が載っている。
私も、将来は一般のマンションより、これらが付加されている方がいいかな。なんて思うこともある。
しかし、義父の生活を見ているとこういう生活が理想ではないかと思う。
出来れは、特養などに入所せず、自分の力で生活する。

いつまでも・・・
いつものように縁側で日向ぼっこをしながらいねむりをする。暖かい陽射しが心地よい。
夕方、いつものように訪ねて来た息子が声をかける。

今回の旅でふるさとの人々の暖かい心にふれることができた。
阿無法比!


随録