活きいき
2007. 9. 7
随録(天国と地獄)
天国から・・・
避暑地から眺めた学校と住宅
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「天国と地獄」という言葉を聞いたとき私はオッフェンバックの軽快なリズムを思い浮かべる。
原題は「地獄のオルフェ」と言うのだそうだ。
黒沢映画にも同名の映画がある。
ここでもタイトルを借用し、「天国と地(痔)獄」。そして地(痔)獄からの脱出を記してみたい。
その病院が見える場所は私のウオーキング・ルートのひとつであった。いずれお世話になるだろうと思いつつ
、”今日は違和感がないからいいや”と先送りしてきた。
8月22日は、気持ちの上で”もう騙し続けるのはよそう”であった。
受診すると若い先生は「入院して手術しましょう。時期はあなたが決めてください」と軽やかな口調で言った。ひそかに日帰りで済まないだろうかいう期待は砕かれた。
事前にネットで調べると1週間程度の入院と書かれていた。
受付で手続きをする「明日からでもいいですか」。
31日にりうクンのお迎えを頼まれていたので1週間なら何とかなるかも。早く入院しよう。
そもそも、この”お友だち”との付き合いは10年近くなるように思う。
家内が健在だった頃、健康診断で血糖値が高めだからと健康保険の施設に一緒に出かけ、食事療法の教室に出席した。
摂取カロリーを押さえ血糖値も下がった。食事量が極端に少なくなったように記憶している。
インプット量が少なくなれば、当然アウトプット量も減少しスムーズさもなくなった。このあたりにお付き合いの原点があるように思う。
先週のランチ・クルージング、Cats観劇など「天国」の状態から「地獄」の週へ・・・。
入院
院内には毎週火曜日に・・・
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私は幸いにもこの歳になるまで入院の経験がない。ここ10年くらいは、娘、家内、母のたびたびの入院に付き合ってきた。
娘は入院するたびにすぐ「帰りたい」と言ってた。やはり誰しも病室に閉じ込められるのはイヤなものだろう。
今回その立場に立たされて”イヤな思い”を実感するだろうと、少々沈んだ気持ちになった。
私は自分が閉所恐怖症ではないかと思っている。もちろん狭いところもだが、閉じ込められるのが苦手なのだ。
CTスキャン、真冬の真夜中の自宅、寝台車の最上段、病室・・・ムショ(これはないなぁ)。
8月23日(入院日)
リュックと大き目のバッグに替え着など詰め込んだ。4日間くらい入浴できないというので出かける前にシャワーを浴びる。
1時ごろ受付を済ませる。
今日は心電図などのチェックを受けたあと、看護師さんから明日手術を受ける8人が院内の説明を受ける。
いろいろなことを一度に説明されても記憶に残らない。
私は眼の持病があり、朝晩点眼しなくてはならない。その点眼薬は冷蔵庫に保存しなければならないので
冷蔵庫の付いている部屋をお願いした。
ふたり部屋で同室者は、30代半ばの青年だった。なんと私が40数年前に入社した会社に勤めていると言う。しばらく寝食を共にすることになった。
若くても痔になるのかと思った、「痔ろう」だそうだ。私のは「痔核」(通称、いぼ痔)。
野球の選手に”イチロー”と”サブロー”はいるが”ジロー”はいないなぁと思う。
さて、今日は夕ご飯を食べて寝るだけだ。まさしく俎上の鯉の心境である。
8月24日(手術日)
朝食は8時、11時診察そのあと浣腸、人間の体はかくも脆いものかとトイレに駆け込む。
手術時間は外来患者の様子に左右されるそうで、12時ごろ教えてくれるという。
オプションで大腸がん内視鏡検査を行ってもらう。7月に市の健診で検便による検査は行い異常なしであったが、ついでだからと思った。
12時その内視鏡検査、前開きズボンを後ろ前にしたような検診着をはいて診察台に乗る。カメラが映し出すわが腸内を眺めながめる。
カメラが進んでくると突き上げられるようにゲップが出そうになる。地下鉄の駅で電車が入ってくると強い風が吹き荒れる、あれと同じかなと思う。
若先生の優しい声で我に帰る、「S字結腸まで大丈夫だよ」、”えっ、S字結腸ってどこにある”と思った。
娘ふたりが来てくれ手術中待機してくれることになった。
部屋に戻り待っていると手術は1時半からと告げられた。どうもトップバッターのようだ。
点滴を受けながら、ベッドに寝かされたまま1階の手術室に運ばれる。かなりの急ぎ足で・・・。
手術室に入るとオペ着をきた看護師さんがずらっと待っている。ほんとに鯉だよ。
横向き、体を丸められ腰椎麻酔が始まる。歳を取って体を丸めるのはなかなかシンドイ。
私はこれまで麻酔といえば抜歯のときしか経験がない。あの自分の顎でもあり、人のもののような感覚が来るのだろうか。
「ジットして」腰あたりにブツッ。さらにもう少し上の方にブツッ。
手術台の上にうつ伏せに動かされ、患部を扱い易いようにだろうか、ガムテープのようなもので左右に引っぱり貼り付けている。
やがてオペがはじまる。なにかで突付かれているような感覚がある。
気分が悪くなるということもなく弄られていることに心地よささえ感じられる。
やがて若先生の声「どちらの方に違和感があった?」、「右です」
優しい声で「三つ取ったからね、スッキリすると思うよ」
「見るかね」、「はい」メガネを外しているのでよく分からない。
「家族の方にみせる?」、「いや、いいでしょう」
時間は感覚では20分くらいのような気がする。(あとで聞いてみると30分くらいで出てきたと言う
ふたたびベッドの上に仰向けに寝させられる。
下半身がどこかへ行った!、ずっぽり何かに覆われているような、氷付けされているような感覚だ。親指はあるがどうしたら動くのだろう。
「足の先を台に載せているんですか?」思わず聞いてみた。
夕方6時に重湯が出るという。
頭を持ち上げてはいけない、読書はダメ、眠るしかない。麻酔は徐々に切れてきた。
夜8時頃、少し尿意を催してきた。ベッドの下に尿瓶がおいてある。6時間くらい経てば立ってもよいがトイレに行くことは不可だそうだ。
尿意は催しているが出てくれない、そのまま待ち続けること十数分で出始めた。
しかし神経が麻痺しているのだろう、いつまでも出続ける。
お腹にガスが貯まってなかなか寝付かれない、眠剤と夜半に痛み止め服用。
8月25日(術後1日)
ある日の昼食、茶そばに・・・
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この日は安静日、午後1階に下りて診察してもらう。
食事は朝から普通どおり。とにかく私にとってここのゴハンは多い、どんぶり茶碗に一杯入っている。
30代の若者と同じカロリーかよ、などと言いながら、それでも最初は完食していた。
そのうち、胃にモタレを感じるようになり少し残すことにした。
8月26日(術後2日)
今日は術後はじめての通じのため、浣腸が予定されている。しかし私は朝4時ごろトイレに行き自力で処理した。
診察カードに「自力」と書かれた紙片がクリップされた。看護師さん「この部屋はふたりとも自力、優秀です」
しかし私はガスが貯まって仕方がない。
看護師さん「いかがですか」
私「七回(え)八回(え)、音はすれどわが山吹、実のひとつだに出(い)でぬ悲しさ」
「俳句ですか?」
「むかし、むかし太田道灌という武将が・・・」
午後、長女が来てくれた。
8月27日(術後3日)
診察、若先生「ガスが貯まっても、実が出てればいいんだよ。がんばって出しなさい、きょうお風呂いいよ」
お風呂はひとり用の湯船が5個配置されている。
20分間で入浴しなければならない。この日は12時40分から。
お湯を溜めている間にシャワーで体を洗う、しかし目的は体を洗うことではなくお尻を暖めることだそうだ。
何はともあれ久しぶりにサッパリ。
2階のホールでお話と手術の様子を撮影したDVDが上映される。
病院の案内「本日入院された方と手術前の方は見ないで下さい」それを聞いたとたん、刺激が強すぎて逃げ出す人がいるのかもしれないと思った。
実際見ると、軽い症状思い症状それぞれ手術の場面では目を瞑りたくなる。しかし確立した技術で安心して任せられる。
同時に、これから
大事にしなくっちゃと思う。
8月28日(術後4日)
今日の診察は大先生(院長)「はい、絶好調」。
11時過ぎに入浴。
夕方、傷が傷むが、出血は少なくなってきた。
8月29日(術後5日)
今日は若先生「痛みはあっても、排便してれば大丈夫だよ」。
心強いお言葉、11時ごろ入浴。
午後、次女が来てくれた。
8月30日(術後6日)
大先生「傷口はキレイ!。みんなに見せてまわったら!」冗談が過ぎるヨ。
「退院、聞いている?。明後日以降いいよ」、「明後日にします」
8月31日(術後7日)
若先生「明日退院だね、通じて帰りなさい」、「えっ!」
看護師さんが通訳してくれた。
病室に心得帳のようなものがある。そこには7日目ごろから糸が取れはじめ、痛みや出血が多くなる人もあると記されている。
まだヤマがありそうだ。
明日からの在宅に備え、少し院内を歩いて見る。
すると突然、便意と出血。看護師さんに見てもらう。
まさか退院が延びるのでは・・・。
9月1日(術後8日)
とうとう9月になった。昨日と同じように出血あり。
診察のあと支払いを済ませ、娘たちの迎を待つ。
10日ぶりの娑婆だ。
地(痔)獄からの脱出・・・
今日、9月7日は手術から2週間目である。だいぶ回復していることは実感できる。
見えないところなので粗末にあつかったのかと反省している。
予防は三度の食事と一日一回の排便、しかも5分以内だそうだ。
座りっぱなしもよくない。
雨戸を閉めっぱなしで留守にしていたのでご近所さんにも心配していただいた。
また、ふたりの娘には動きが鈍くなった私をサポートしてくれた。
謝々