きいき
2009. 3. 24
随録 (ブルトレ雑感)
ブルートレイン「あさかぜ」のナハネフ22 1

 3月14日を最後に消えてしまった東京発着のブルートレイン、東京近郊ご出身の方にピンとこないようだが、九州出身の私には東京駅と九州を結ぶ客車寝台特急、長距離の列車については若干の思い出がある。

(1)
といっても、それほど多く乗ったという記憶はない。 私にとって「高嶺の花」だった。  

 私は「ブルトレ」と短縮形で呼ぶのが嫌いであるが・・・。 記憶ではブルートレインには「あさかぜ」が東京ー博多、「はやぶさ」が東京ー鹿児島(駅は西鹿児島駅だった)、「さくら」は東京ー長崎、「富士」が東京ー大分、「みずほ」東京ー熊本だったと思う。
 東京の会社に就職して、最初の帰省は「急行」に乗って帰った、そして東京に戻るとき、叔父がブルートレインの寝台をとってくれた。  
   急行券が200円、特急券(座席)は1500円、くらいだっと思う。 九州の入り口まで急行で21時間くらい、特急で16時間くらいかかった。
今の最速の新幹線だと4時間40分という。 そして1時間に数本走っているから容易に乗れる。 当時は1本だけだったので特急券を入手するのも大変だった。 乗れる人と乗れない人の”格差”があった、しかしそれは仕方がないことと思っていた。 今で言う格差社会だったと思う。

(2)
 急行にも山の名前が愛称としてつけられていた、「桜島」、「阿蘇」、「霧島」、「雲仙」・・・そんな名前だった。 年末の帰省時には仕事を終え、退社すると東京駅の八重洲口の指定された場所に並んだ。 その日に乗るのではなく翌日に発車する列車に乗るためだった。 そうやって自由席の座席を手に入れた。
 たしか列車の種類、行き先別に並ぶ場所が設けられていた。 
 今思えば、コンピューターによる座席予約システムはまだ一般的ではなく、座席や寝台の指定は手作業だったのだろう。
 いつごろか記憶にないが、東京に戻る急行列車は超満員、姫路駅まで6時間以上も立っていたことがあった。
 いつも需要>供給の関係が成り立ち、車内は立錐の余地がない。 座席を確保できないときは通路に新聞を敷いて座った。 通路は人の足、体が横たわっていた。 トイレに行くときは、人の足を跨いで行かねばならない。 洗面所にも人が立っている、トイレの扉の前も人が立っていた。
 弁当の調達も大変だった、座席を確保できているときでも、駅に着くや窓を押し上げて体を乗り出しホームを見渡し 「お~い! 弁当!!」声の大きいほうが有利だ。  席がないときは座席に間に体を入れさせてもらうか、ドアに行くしかなかった。

(3)
 当時は東京から岡山まで(あるいは広島だったか、記憶はだんだん怪しくなったが)は電化されていてがそれ以西は 蒸気機関車(今はSLというが)だった。 特急では窓が開かないので弁当を買うのも大変だった。
急行の車両は窓の開閉は自由であるが、SLが牽引する区間では煙が入ってきて大変だ、特にトンネルに入る前に汽笛が鳴り、それに合わせて窓を閉める。 夏の暑い間は閉め切った時間は蒸し風呂のようであった。 窓を下ろすタイミングが遅れて汗で濡れた白いシャツの襟を煙の煤が黒く染めてしまった。 当時はエアコンなんてシャレたものはなかった。
 山陽本線を走る列車が下関に到着すると、関門トンネルをくぐるために牽引車が電気機関車(EL)に入れ替わる。 海峡の下を通って門司駅で再びSLが牽引する。 海峡下のトンネルは比較的長く、たしか東海道線・山陽線では丹那トンネルに次ぐ長さだったと思う。 機関士たちの健康のためなのだろうか。
 
(4)
 電車と違って列車(機関車が牽引するという意味で使うが・・・)は列の後部に乗っていると、車両が動力を持っていないので、動力が伝わってくるまで、車両が動き出すまで時間がかかる。 連結器を通して動力が伝わる音が聞こえてくる。ガタン、ガタン、ガタン・・・そして乗っている車両が動き出す。 電車に比べればおそらく効率の悪い乗り物なのであろう。 しかしなんとも優雅なものである。
 現在は電車も軽量とするためステンレス化され、省エネが進んでいるという。
   当時は、特急と急行にずいぶん格差を感じたものであるが、 今思えば、新幹線と在来線ほどの差はなかったのだろう。
   昭和39年、東京オリンピックの年に新大阪まで新幹線が開通したことは有難かった、たしか当時の東京・新大阪間の所要時間は4時間。 九州から新大阪まで来ると、もう帰り着いたような気になった。
 その後昭和47年(1972)、新幹線は岡山まで開業し帰省もだいぶ楽になった。 昭和50年(1975)、博多まで新幹線でいけるようになった。
私も在来線を利用することは少なくなってきた。
 在来線を走るブルートレインはいずれ使命を終えることを知っていたのだろう。


涙もろく・・・
 ブルートレインから離れるが、これも少し古いはなし。
   7、8年前だっただろうか、娘からエリック・クラプトンのCMTを貰った。 ウオーキングしながらの通勤に聞いていた。 貰ったとき、「何じゃこりゃ」と思ったが、独特のサウンドにウムウム・・・。
 つい最近、ジャパンツアー2009の模様をBSで放映していた。1945年生まれというから私より3歳ほど、お若い63歳。 老眼鏡をかけてギターを持つ姿に涙が浮かび「がんばっているね~」 と声をかけたくなった。
 私も歳のせいか、すぐ涙もろくなる。 歳を取ると眼球もしわがよりそこを水分が流れるんだって。
 
 違うBSの局では昨年亡くなったフランク永井の曲が流れていた。 1932年生まれというからちょうど10歳違うことになる。
中学2年のころ、「有楽町で・・・」が流行って、九州の田舎街でもたまに耳にするその曲を・・・・テレビはもちろんラジオもない貧乏暮らし。・・・・羨望の思いだった。 当時は東京に住むなんて考えもしなかった。
 それも私の一時代を一緒に過ごしたのだ。

どうしようか・・・と
 先日の介護家族会のときに介護している相手の方が、だんだん弱っている話を聞いた。 母を介護しているときにその方を見かけたことがあった・・・。 また、今は在宅でイロウも、併用も出来ると伺った、時の流れを感じずにはいられない。
   私は次の様なことをお話した。
 ●延命治療を行うか決断を迫られたこと。 
 ●預金などは介護者が管理できるようにしておくこと。
 ●持ち物の整理
 最後の項は、家内が記載していた家計簿が20数冊残っていることを意識して話したのだが、自分の所有物もなかなか整理(廃棄)出来ずにいる。
ようするに家の中にはガラクタがたくさん残っている。 何時か廃棄しておかなければ残された者が大変な目にあう。
 私は整理をはじめようと、引っ張り出したが結局、厚さ数センチの紙切れを捨てただけだった、とお話した
Miさんは一戸建てに住んでいるとガラクタが多くなり、いきなり老人ホームに入るのは無理があると仰っていた。 
 30年前の家計簿を眺めていた次女が、亡妻が書き記したコメントを見て「私たちよく熱を出していたんだね」。
もう少しおいて置くか!
 今日、義父に駄菓子と曾孫の写真を入れたダンボールを送った。 
もうしばらく、現状を維持しよう。


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