活きいき
2009. 8. 10
随録(八月雑感)
今年も八月が・・・
関東地方の梅雨明けは早かったがその他ほとんどの地域は8月になってからである。 それなのに7日は早や立秋、月日の経つのは早い。
8月はどういうわけか昔を振り返ることが多い。 どういうわけだろうか、月遅れのお盆があるから? いやおそらく終戦記念日があるからかもしれない。 もし4月に終戦を迎えていたら、その月はテレビ・新聞の終戦に関する報道が多いのかもしれない。
BSでも古い戦争ものの映画をやっている、「明治天皇と日露戦争」・・・etc。 この種の映画は将兵が銃弾に倒れても何の感慨もわかない。単なる映像としか見ていないのかもしれない。
私の中の戦争記憶
私なりに戦争について記してみようと思う。
終戦の年私は3歳だったから直接の記憶はない、物心ついたときは福岡県、大分県、熊本県の県境の山村だった。
生まれは県北部の小倉市(現北九州市小倉北区)で3月頃だったか疎開したと聞かされた。 この街は陸軍の施設が会ったところ、明治期には森鴎外も赴任した街である。
戦闘帽というのが好きだったらしい、いつも被っていて調子外れの音程で「異国の歌」を歌っていたと聞かされた、それは自分の記憶にもあるようだ。
戦車などが描かれた絵本を見て育った。
山深い山村だから戦火というものには程遠かったようだ、住処の前の山に焼夷弾が落ちたと大騒ぎになったらしい。
両親は食料を入手するのに苦労したようだ、農村だから野菜などはありそうなはずだが、芋ゴハンやサツマイモの茎などを食べ、あるとき座卓にのっていたトマトが”ものすごいご馳走!”と思ったことは今でも鮮烈に覚えている。
小学校5年のときに小倉市に転居した、繁華街には米兵がいっときの平和を楽しんでいた。 朝鮮戦争へ従軍している兵士が骨休めの時間を過ごしていた、帰休兵と呼んでいた。
中学校の脇には別の米軍のキャンプがあり、彼らの家族も住んでいて、小さい子供に対し金網越しに片言の英語でからかったりして遊んだ。
ノモンハン戦争
7月5日の新聞の書評欄に「ノモンハン戦争」(田中克彦著)が紹介されていた。 見出しに「ソ連の暴虐 関東軍の暴走」 目を引くものであった。 しかし私が参加している健歩クラブのUさんの話を聞いていなければ、この本を探してまで読まなかっただろう。
1年半くらい前だったか、ウオーキングのあとで「一杯」やる機会に、AさんがUさんにノモンハンのことを尋ねていた。 「従軍しましたよ」というUさんは1918年生まれ、今年91歳である。 そのときノモンハンという言葉が記憶に残っていた。 ノモンハン戦争(日本では・・・事件と言うが著者は・・・戦争と定義している)
この戦争は1939年5月から9月までの戦争である。Uさんは当時21歳、尋ねたAさんはまだ5歳になっていない、私は影も形もない。
一言で言えば当時日本の傀儡国家満州とソ連の傀儡国家モンゴルとの国境紛争、しかし本書は戦争が勃発した背景、状況を述べている。 満州もモンゴルもモンゴル系民族(バルガとハルハ)、戦争が起きた地域はどちらも遊牧民族で族境はあっても国境はいらないところに、国境線を強制的に確定しようとしたという。
著者は言語学者、モンゴル語造詣が深いらしい。 ソ連崩壊後、モンゴル、ロシアの学者らによる戦争の研究会が開催され、著者も招かれたそうだ。原資料を引用し暴虐ぶり、暴走ぶりを紹介している。
戦争によるモンゴルの死者は二百数十人、それとは別にソ連による粛清による死者は万の単位だとか、モンゴルは同じ民族同士、本気で闘う気はなかったのではないか・・・と。
最後に戦争に従軍せざるを得なかったそして運よく生還された、もう90歳を越えているであろう人に戦争の背景を知らせたいという趣旨のことが述べられていた。
しかし、Uさんがあの戦争はこうして引起こされたと告げられたとしてどう思うだろうか。
最近あちらこちらの国の民族紛争の報道をよく耳にする。 本書では遊牧民族は農耕民族が押し寄せてきて牧草地を耕して台無しにしてしまう・・・と恐怖を感じていたと述べている。
国境とはなんだろう。 私たちは日ごろ市境、都県境を行き来して何の違和感を感じない、国境を越えることは少ない、国境とはなんだろうか。
モンゴルの北に位置するブリヤート共和国はロシアだが民族は同じモンゴル系が多いらしい、そしてこのあたりが日本人のルーツという説が注目だとか。
ジョー・オダネル氏の一枚
だいぶ前になるが、ドキュメンタリ番組を表彰している時間帯に放映された「米兵が見たNAGASAKI」の中の一枚の写真に胸を抉られる思いがした。
米兵・ジョー・オダネルは被爆した長崎の(原爆の効果)を記録するため派遣された、人物を記録することは禁じられていたが、私的にシャッターを押したという。 その中の一枚がこの写真である。
10歳くらいのハダシの少年が背負っている赤ん坊は既に死亡し、焼き場で順番を待っているのだという。
一枚のモノクロ写真はいろいろなことを考えさせてくれる。
弟か妹かどうして亡くなったのだろうか、親はいないのだろうか、 何時間も何時間もジーッと”式”を待っている。 このあと少年はどう生きていったのだろうか。
戦争の酷さが伝わってきて涙が浮かぶのを禁じえない。
いつも弱い者に被害が集中する戦争は起こしてはいけない、しかし長い時間がたつといつの間にか喉元の熱さも忘れてしまう。
<私にとって衝撃的な写真だったので、敢えてここに掲載した>