きいき


2010. 2. 16
随録厳冬雑感 2)  

 立春を過ぎもうすぐ雨水だというのに東京でも雪の予報、二十四番花信風の迎春、桜桃、望春を探せどもまだまだ・・・、 期待する春は未だ遠い。

ことの善悪の基準は?
額に大きなタンコブ!  
 一般人の私たちが最低限守らなければならないルール、その上で身につけなければならないマナー、さらにほかのものへの思いやりがあると考えるが、最近の町中や電車の中での行為を見ていると、そのルールが守られていないように思われる。 例えば電車に設けられている優先席で携帯電話を扱っているひと、幼い子供を連れた親も携帯を操作しているのには驚くばかりだ。 自分の子供にルールを守ることを教えていないことになる。
 まずルールを守って、その上でマナーを身につける・・・、車内放送で「車内マナーにご理解とご協力を・・・」と要求される現状は嘆かわしい。
 幼い子供を持つ親の世代を教育しなかった(私たち年代)の責任が大きいとつくづく反省している。
 そのルールはいつの時代にも変ってはいけないと思うのだが・・・

 ここ何年かの傾向として加害者の人権を考える人たちが死刑制度の反対を訴えて国際的にもそのような流れにあるように思う。
 ところが死刑制度の存続を求める声が多くなっていると最近の新聞が報じていた。 その理由は被害者の感情に配慮してのことだという。
 私は死刑制度に反対するつもりはない、犯した重い罪に対して重い罰を受けるのは当然だと思う。
 今回の新聞報道は日本ではそれがブレていると思った。 
気がかりなことはブレることである。

 新聞の一面を賑わしている一連の事件をみても、所属する方々の「善悪」の判断基準は世論調査の支持率であるらしい。 そんなあやふやなものを善悪の判断基準としているように見える。  
選挙に勝てばそれが全て「善」となるようで保身以外の何ものでもない。 極端に言えば「赤信号みんなで渡ればコワくない」と同じ基準ともいえる。  良し悪しの基準が常にふらつくのである。

 話は急に身近なことになるが、りうクンはちょっといたずらが過ぎて椅子などを蹴飛ばすことがある。 そしてママからのお咎めを受けて椅子に「ごめんなさい」 と謝るハメになる。 自分の行為が人にどういう影響を与えているか、幼いときから教えられることは重要なことであると私は思う。

りうクンはピュア人?・・・
 りうクンは毎日の出来事を一行の日記に記している。 そして一ヶ月たったら、パパのコメントを貰うのだそうだ。
それを内緒で見せてもらった。 「じびかにいきました」、「じいじがあそびにきました」、「じいじとままとふうせんであそびました」
 時々りうクンにお相手をしてもらって遊んでいる、そのことが印象に残っているようだ。 遊び方はりうくんのご指定である。
 ゲーム機はまだ与えられていない、テレビも限られた番組しか見せてもらえない。 寒い日は室内でチョロQや風船をボール代わりにバレーボールもどきを・・・。  これらの遊びはひとりでも出来るがママがお相手するようだし、私が訪ねたときもいっしょになって遊んでいる。 機械との遊びではなく対人との遊びだ。

 先日狭い私の家で冷蔵庫のカドに頭をぶつけて大きなタンコブをつくった。 ママも私も床に転んだと思っていた、ママは 「床も痛かったんだから謝りなさい!」と。
家に帰って相手は冷蔵庫だった、そして「冷蔵庫にごめんなさいを言いのを忘れた」と告げたそうだ。 
 同年齢の子供に比べてあまりに素直と言おうか、ピュアだと感じるのである。
 一般的に幼い子供の心というのは紙のように真っ白であるが、年を重ねるにつれて現実社会の影響を受けてリアルになっていく。 私は最も影響を与えるのがテレビであり、ゲーム機であり、それを意識せずに与える母親であると思っている。 若い親は自身の時間をより多く持ちたいという考えからだろう、幼い子供にテレビを見せその時間を自分の自由時間とするのであろう。 子供の純粋な心はリアルな環境の中で年を経て瞬く間に染まってしまう。 もうピュアな心は取り戻せない。
 りうクンもママの影響で、テレビを相手にせず本を読んでもらう習慣が身につき、遊びもどちらかと言えばピュアな遊びが多い。 
いずれ年を重ねればリアルな心になっていくのだろうが私はピュアな心が少しでも長く続いてほしいと願っている。

無縁社会?・・・
 ある日の午後ウオーキングをと思い車が行きかう車道で信号待ちをしていると向こうに買い物帰りのSさんがいた、久しぶりだったので道の中ほどの分離帯でお話をした。  老々介護とか老後のことなど、私は毎朝仏壇に向かっているが自分の位牌もだが、仏壇もなくなるのだろうと話した。
 今の住んでいるところで住民の繋がりのため懇談会という集まりがあり、年に2回のイベントが催されている。 どうやら この会も解散という話があるようだ。 煩わしいと考えている人が多くなったように聞いている。
 身近なところでも無縁社会が始まっているようだ。

 少し前に無縁社会の孤独死をテーマに放映されていたらしい。 小生もその候補であろうが解決策がない問題だから見なかった。
 そのことを報じた新聞に古希を過ぎた方が「遺体も遺骨も引き取る人がいない人生は生きた痕跡がない・・・」と、 また僧侶は「アパートの一室での孤独死も行旅死亡人として扱われる・・・現代社会のもろさ」と言われている。
ご本人がどのような環境か分からないが、私はそれが当然と受け入れ、「色即是空」の心境で乗り切って生きたいと考えるのだが・・・。 
 都市化と言うのは単位が極小化することだと思っているが、都市化が進みその極限になった現在の当然の結果だと思う。   極端に言えば家族という単位がなくなりつつあるようだ。人と繋がることが煩わしい、ひとりでも生活できる環境にある。
何十年もまえから無縁社会は進行していたようだ。

村がなくなり市に・・・!?
 2月1日の新聞に私が幼い頃を過ごした九州の山村が編入合併され「市」になったと載っていた。
私が住んでいたのは昭和20年から28年、記憶では5~6000人の人口だったと思うが合併される前は1500人前後まで減少していたようだ。  山深い山村では若い人は住みつかないのだろうか、村がなくなるのも致し方のないことなのだろうか。 
少々寂しい気がする。



隋録