雑味館抄 <あいさつ>  2004. 5. 11
私のホームページは定年後「毎日が日曜日」の生活の中で、大部分を占める「母の介護」と、介護の合間を縫っての 息抜きである「美術鑑賞」、「映画鑑賞」、「ウオーキング」、「たび」などで感じたことを「藝」、「楽」、「生」のテーマ別に記す。 いわば定年後の自分史になるものと思っている。
パソコンに接し、文章を作ることで自分に刺激を与え「ボケ防止」になることも期待している。
家を出た娘たちへ私の状況を知らせるメッセージでもある。
2004年の秋にはCDに書き込み保存しようと考えている。



多摩市・恋路原通り

前回「ウオーク・古道」で紹介した
奥州古道(中尾道)や鎌倉裏街道が通っていたとされるところの多摩市・和田や百草には鎌倉時代の遊郭伝承(恋路が原、女沢、鎌倉沢)があるそうだ。
恋路が原、女沢とはなかなか粋な名称がつけられたものである。
写真は現在の通りの標識であるが、恋路原「こいじっぱら」通りと呼んでいる。
また近くには稲荷塚古墳という7世紀前半に築造されたらしい珍しい八角形の古墳がある。
明治時代に墳頂に神社が建てられ、恋路稲荷神社といわれているそうだ。
字、小字などでそう呼ばれていたのだろうか。
この周辺にはけっこう古墳があり、和田古墳群と呼ばれているらしい。
いずれ歩き回ってみたいと思っている。


父の思い出
今回も、私の父の生誕100年を記念し少々、父の思い出に浸りたいと思う。
父から貰ったものに大正13年12月7日付の新聞がある。新聞には「感心な青年表彰さる」と言う記事が掲載されている。
大正13年は1924年、記事は「本河滝夫(21)は17歳で父を失い、老母と妹を病弱の身で養育した、東洋陶器の職工として働いた云々。」とある。
滝夫は龍雄の単なる誤りだろう。少年の頃から八幡製鉄所などでボイラーの清掃をし、その後東洋陶器(現在の東陶)で小倉市(現在の北九州市小倉北区)の工場に勤務して、皿など陶器の絵付けをしていたと聞いていた。
祖父が亡くなったとき、父は17歳、病弱でしかも尋常小しか出ておらず、収入を得るのが大変であったろうことは想像に難くない。

新聞には老母(私の祖母、当時55歳であったが、)とあるが、老人扱いだったらしい。
当時の日本人の平均寿命は、男:42歳、女:43歳。55歳といえば、老母というのも納得できる。
祖父は56歳で亡くなっており「若死」と思っていたが平均寿命並だったことが分かった。
時代がかわり長命の現在からすれば考えられない数値である、受け止め方もかわることに驚く。

祖母は疎開先で78歳でなくなった。私はそのとき5歳で、かすかに記憶している。
父が美術を趣味にしていたことは話から、持ち物から想像できた。
油彩も描いていたようで、展覧会にも出品していたらしい。絵葉書を見つけることが出来たのでアイネット個展の続きとして用意した。
私も父が亡くなった2年後、24歳のときから母の扶養を始めた、父に比べれば成人し、職についており恵まれている。
母とは以来38年間、顔をつき合わせているが、父とは話す期間が少なかったこと、美術館めぐりをさせてやれなかったことなど残念でならない。
せめてここで思い出すのが供養になるかもしれない。合掌


80年前の新聞





ウオーキング距離:5535 km!!(2002.7.19カウント開始)

WHAT’S NEW

介護日誌(04春・在宅一ヶ月)
随録(私も加害者!)
アイネット個展5(父生誕100年記念Ⅱ)



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