雑味館抄 <あいさつ> 2005. 1. 21
私のホームページ(ぞうみかん)は定年後「毎日が日曜日」の生活の中での自分の思いを記し、いわば定年後の自分史にしたいと思っている。
2005年1月大部分を占めた「母の介護」を卒業した。いままで息抜きでやっていた「美術鑑賞」、「映画鑑賞」、「ウオーキング」、「たび」などを自分の仕事として精神生命を鍛えて生きたい。その中で感じたことを「藝」、「楽」、「生」などのテーマ別に記すつもりです。


丹沢山系を遠望<葬斎場にて>
今年になってもう20日が過ぎた。ここのところ寒い日が続いている。

こういうことは余り経験したくないものである。
1月6日午前3時過ぎ、母が入所中の施設で他界した。
肉親の命が尽きたのであるから悲しみがないわけではないが、介護が終わり肩の荷を降ろしホッとした気持ちとこれからやらねばならないことがいろいろと浮かび、悲しんでばかりはいられないという思いがいり交わっていた。
これから最小限、四十九日の法要、新盆、一周忌、三回忌をこなしていかなければならない。
おそらく手抜きするだろうが、家内の七回忌もある。
仏様も大事にしなければならないが、生き仏もすこし労わってやろうと考えている。

不謹慎かもしれないが、私は上述したように死の瞬間、悲しさよりホッとした気持ちの方が大きかった。 告別式でもそれほど悲しまないだろうと思っていた。しかしいざ生花を棺の中に入れていくときは涙が溢れてきた。
何故だろう。通夜、告別式のときに昔の写真を見てもらおうと準備した中に、50歳、65歳の時の写真があったが、私の記憶の中にそのときの母が思い浮かばないのである。70歳を越えた時の姿はイメージできる。20年より30、40年前の記憶が薄れている。ただそれだけだろうか。
50、60歳時代の母が晩年の母と異なり、今の私より年下のひとりの女性として思え、その命が終わったことに何故か物悲しくなり涙が溢れたのだろうと思えてならない。

家内の葬儀のときも喪主挨拶で涙で書いた文字が滲んで見えなかった。今度は大丈夫だと思ったが、涙は溢れた。
あいさつ文を事前に用意しておいてよかった。
以下は告別式・出棺に際して読み上げた喪主である小生のあいさつ文である。

本日は寒い中、母本河フミヨの葬儀にご参列頂き有難うございました。
92歳でした。あと3ヶ月で93歳になるところでした。
明治、大正、昭和、平成と4時代を生きました。

母は明治45年4月11日、九州福岡県の山村で生まれ、私の祖父にあたる父親の仕事の関係で 今の北九州で育ちました。
学生の頃は、テニスやバレーボールに励んでいたと聞いております。
結婚後、特に太平洋戦争による食糧難の時に病弱の私の父と姑、幼い私を抱えて大変だったようです。

昭和39年、私の父が亡くなり昭和41年には府中で私と住むようになりました。
昭和54年、現在の住まいにまいりました。
後半生は趣味の千切り絵や和裁の術を生かして人形を作ったり、ひとりで出歩いたり、妹や義弟、知人と旅行に行ったり好きなことをやっていました。

ここ4年は転倒による骨折を三度もするなどして、また私ひとりでの介護が難しくなり施設と自宅を往復するような厳しい生活だったと思います。
しかしヘルパーさんに支えられ、ご近所を散歩し、お知り合いの方から声をかけていただくのが一番うれしかったようです。

昨年9月下旬三度目になりますが左大腿骨頚部を骨折し92歳の高齢で手術し10月下旬には立ち上がりつかまり歩くまでになりました。
このままリハビリを続ければ摑まって歩くことが出来るようになると思いました。
ところが11月の下旬になるとリハビリどころか食が細ってきました。
液体状にした食べ物も拒絶するようになり経菅栄養とお茶、ジュースを少し取る程度となりました。
面会したときはいつも眠っているようになりました。
1月6日午前3時22分、文字どおり静かに息を引き取りました。老衰でした。
明治の女性は強かったというのを改めて感じました。

このようにご近所の顔見知りの皆様にお見送り頂き喜んでいると思います。
本日はほんとに有難うございました。



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