私のホームページ(ぞうみかん)は定年後「毎日が日曜日」の生活の中での自分の思いを記し、いわば定年後の自分史にしたいと思っている。 2005年1月大部分を占めた「母の介護」を卒業した。いままで息抜きでやっていた「美術鑑賞」、「映画鑑賞」、「ウオーキング」、「たび」などを自分の仕事として精神生命を鍛えて生きたい。その中で感じたことを「藝」、「楽」、「生」などのテーマ別に記すつもりです。 |
丹沢山系を遠望<葬斎場にて> |
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本日は寒い中、母本河フミヨの葬儀にご参列頂き有難うございました。 92歳でした。あと3ヶ月で93歳になるところでした。 明治、大正、昭和、平成と4時代を生きました。 母は明治45年4月11日、九州福岡県の山村で生まれ、私の祖父にあたる父親の仕事の関係で 今の北九州で育ちました。 学生の頃は、テニスやバレーボールに励んでいたと聞いております。 結婚後、特に太平洋戦争による食糧難の時に病弱の私の父と姑、幼い私を抱えて大変だったようです。 昭和39年、私の父が亡くなり昭和41年には府中で私と住むようになりました。 昭和54年、現在の住まいにまいりました。 後半生は趣味の千切り絵や和裁の術を生かして人形を作ったり、ひとりで出歩いたり、妹や義弟、知人と旅行に行ったり好きなことをやっていました。 ここ4年は転倒による骨折を三度もするなどして、また私ひとりでの介護が難しくなり施設と自宅を往復するような厳しい生活だったと思います。 しかしヘルパーさんに支えられ、ご近所を散歩し、お知り合いの方から声をかけていただくのが一番うれしかったようです。 昨年9月下旬三度目になりますが左大腿骨頚部を骨折し92歳の高齢で手術し10月下旬には立ち上がりつかまり歩くまでになりました。 このままリハビリを続ければ摑まって歩くことが出来るようになると思いました。 ところが11月の下旬になるとリハビリどころか食が細ってきました。 液体状にした食べ物も拒絶するようになり経菅栄養とお茶、ジュースを少し取る程度となりました。 面会したときはいつも眠っているようになりました。 1月6日午前3時22分、文字どおり静かに息を引き取りました。老衰でした。 明治の女性は強かったというのを改めて感じました。 このようにご近所の顔見知りの皆様にお見送り頂き喜んでいると思います。 本日はほんとに有難うございました。 |
雑味館抄<あいさつ>
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