たび
楽しむ
2008. 12. 25
たび(長崎は・・・晴れだった!)
長崎駅ペデストリアンデッキで
今年10月に博多で12月20日高校の同窓会開催のハガキを受け取ったとき、久しぶりに九州へ行き、ついでに祖母の出身地である長崎を訪ねてみようと思った。
長崎から博多へ向かう途中で吉野ヶ里に寄って、同窓会の当日は金印が発見された志賀島を歩いてみよう。そんなことを思い浮かべていた。
ときに訪れる北九州からみると長崎は少々遠いと言う印象だったが、今秋に娘が子供を連れて九州の特急に乗せるため長崎を旅していた。
私もその手法を利用することにした。
●祖母の出身地は戦前の戸籍で油屋町49番地と記されてた。
●1957年に中学校の修学旅行で行った崇福寺、グラバー邸など史跡も訪れよう。
●勝海舟が4年間寄宿した本蓮寺、海援隊の前身土佐商会の跡地、出島などの史跡も歩いてみよう。
●最近、健歩クラブの反省会Ⅱで口にする「長崎は雨・・・」が多いのか体験しよう。
長崎へ
勝海舟も住んでいた本蓮寺
11月1日に飛行機、ホテルを予約するため数日前にコース設定を行ったが、
出発の二日前くらいになって娘から、準備の状況を尋ねるメールを貰ったとき、たぶん歳のせいだろうと思うが旅行自体が面倒になっていた。
前日に気合を入れなおし、朝食のパンを焼いたりした。
羽田発10時45分に搭乗するには8時に家を出れば十分間に合う。 しかし通勤時間帯の電車に乗る元気はない。
南大沢、多摩センターを通る羽田行きのバスを予約するがなんと7時発である。
6時30分頃のモノレールに乗った。前日雨が降り寒い朝だった。
久しぶりの羽田である、出発ロビーの椅子にはハングル文字、中国文字で優先席と記されていた。
羽田もその国の人が多くなったのであろう。 早めに搭乗手続きを済ませる、ペットボトルの水も検査された。
機内では久しぶりに落語を聞いて頬が緩み放しだった。 長崎駅までバスで小1時間、駅近くのバスターミナルで降りる。
とりあえず駅へ行ってみる。
長崎駅近くの本蓮寺へ向かう。 3年位前に「咸臨丸出航」という本を読んだとき勝海舟が長崎海軍伝習所時代にこのお寺に寄宿した、長崎駅から徒歩5分と記されていた。 いつか訪ねることもあるだろうとメモしておいた。
ちょっと狭い道を通り階段を上ってふたたび曲がると、入り口が見えた。 さすが、坂の町アップダウンが多い。
境内も傾斜地に造られており階段が多い。 山門は原爆で焼失し礎石だけが残っている。
市役所、そして・・・
眼鏡橋も・・・
境内を出て、西の方角の坂の上にその名の通り西坂公園があり「日本二十六聖人殉教地」となっている。 外国人6名と日本人20名が処刑されたそうだ。私はキリシタンでもないが立ち寄ってみる。
次に訪ねるのは市役所である。南東の方角だと見当をつけて歩きはじめる。 中町公園の側を通って路面電車(系統3)が通る道へ下ると、桜町電停の近くに市役所がありそうな雰囲気だ。
坂を上って市役所の入り口はすぐ分かった。 当初戸籍係りに行けば教えてもらえるかもしれないと思っていた。 ロビーの真ん中のカウンターに中年女性が案内している。
戦前の戸籍に記されている住所を知りたいという趣旨の話をすると、都市計画総務課を教えてくれた。 スンナリことが運びそうだ。
ちょっと離れた商工会館ビルの5階にある教えてもらったセクションへ行ってみる。 若い男の吏員に趣旨を伝えると、パソコンに向かって検索してくれる。 そして油屋町1-20、1-21であると教えてくれた。 さらに居住者が祖母の父親(つまり曽祖父)の姓と異なっていることも調べてくれた。 私は場所さえ分かればそれでいいのである。 目的達成!
少々晴れやかな気分になった。 念のために三文判も持参していた。 役所というところはハンコが必要だから・・・。
土佐商会跡碑
商工会館ビルの脇の道を南東方向に下って行く。 この方角だろうと思いつつ・・・歩いていると路面電車(系統5)の通りに出た。 通りを横断しビルの間を進むと川が見えてきた。 そしてこの川には石橋がいくつもあり、有名な眼鏡橋が近くだという。
光永寺というお寺には福沢諭吉が滞在していたそうだ。 当時の先進文化を吸収しようという人々が集まってきたのかもしれない。
この川は中島川といい、畔には遊歩道が設けられており、お年寄りが散歩していたり、観光客がカメラを向けたりしていた。
中島川沿いに
遊歩道に「シーボルトの桜」という小さな八重桜の木が植えられていた。 シーボルトがヨーロッパに紹介し「ホクサイ(葛飾北斎から)」と呼ばれたそうだ。 桜は香りはしないが、この花は芍薬のような香りで、7~12の花びらがつくそうだ。
140年後にこの地に帰ってきた!!。
川に沿って下ると賑橋の近くで路面電車(系統4、5)と合流する。西浜橋の交差点側に「土佐商会跡」の碑が見えた。 三菱造船所を興した岩崎弥太郎は土佐商会長崎出張所の主任だったそうだ。
路面電車の分岐点に来た、時刻は3時半になっていた。 にぎやかな歩道に自転車を止めていた同年配の男性がどこへ行くのかと声をかけてきた。
「すうふくじ(崇福寺)」というと「そうふくじ ネ」と言って道順を教えてくれた。
観光通、思案橋・・・電停の名前を確認しながら歩く。 明治末期のガス灯の下には「丸山は寛永19年ごろから賑わっていた・・・」と書かれていた。
福地桜痴生誕の地の碑があり(1841年~1906)、私の100年前かと思いにふける。
崇福寺三門にて
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1957.3.10
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広い道が左に曲がり崇福寺の案内にしたがい進むと右手に三門が見えてきた。
1957年3月10日、修学旅行で訪れこの山門の前で記念写真を撮ったのだ。 三門の奥のボックスにいるおじさんに入場料を払う。 そして持参した写真を見せる。 ムー。
地図で油屋町は近くだと確認していた、おじさんに尋ねると”そこは今、ビルになっているよ”と教えてくれた。
父から聞いていたことをろ覚えながら思い出してきた。
”祖母の父がこの崇福寺の山門の造営時に作業に参加した”ということだった。
この三門は嘉永2年(1849)に造られたそうだ。 祖母は明治2年生まれ、曽祖父の生年は不明だが、1830年代後半の生まれならあり得るだろうし、この距離ならあり得るのかもしれないと納得する。
左に曲がり階段を登って国宝第一峰門をくぐる。もう一つ本殿も国宝だそうだ。
猫に小判・・・・、三門でカメラを置く場所を探し自画像を撮る。
写真を比べてみると、50年前は狛犬のところに鉄製のガードが設けられていた。
いよいよ、目的のひとつを・・・
ここがルーツか?
三門を出て路面電車の通りに向かう、手前の商店が並ぶの通りに入る。
「油屋町市場」と書かれた看板には「1-19」と番地が記されている、私はカメラを向け店を覗き込んでいるとオバさんとオジさんが出て来た。
しばらくお話をする。
「私たちは戦後、ここに来たので戦前のことは分かりません」 そうだろう。このあたりも原爆で焼失したのだろうか。
市役所で聞いてきた1-20、1-21はお隣らしい。
長崎に来た目的のひとつを達成した感じがした。
商店街を通り抜け、電車の通り(系統1,4)に出る。 「春雨」という変わった名前の交差点を渡り、銅座町を通る。
今夜のホテルが見えてきた。 しかし今日は電車など乗り物に乗らずよく歩いた。
長崎の日没は遅い、「出島」に出かけてみた。 5時半過ぎ少し薄暗くなりかけた街をホテルに戻った。
「たまにはいいでしょう」 ビールがうまい。
<以下次号>