たび
楽しむ
2009. 1. 4
たび(長崎/行けど・・・石畳!)
出島の中のミニ出島
●日時:12月18日~19日
●場所:長崎市
出島
ホテルを出てすぐ路面電車の通りである。 横断して100mも歩かないうちに旧出島神学校の建物があり、出島(復元施設)への入口となっている。 ついでに記すと、この旧神学校は明治11年(1878)に建てられた現存するわが国最古のキリスト教神学校だそうだ。
ところで出島は、現在その名の「出島」の面影がない。 明治以降周辺が埋め立てられ明治37年(1904)に姿を消したという。
南側の海に出っ張っていた部分には路面電車が走り、北側は中島川が島の一部を削り取っている。 市では公有化し復元を目指し、最終的には周りを海水が満たす島の形にするそうだ。川の流れを変えたり国道を変更したりしなければならないという。
うーむ、そこまでするのかね、という気がしないでもないが歴史文化遺産を後世に伝えたいという意欲なのだろう。観光施設としての期待もあろう。
入場料500円を払って中に入る、15分の1の模型・ミニ出島が全体の様子を見せてくれる。
復元された建物を歩いてまわる。 旧石倉は安政の開国後に建てられた石造り、新石倉は慶応元年に建てられたものの復元。 明治36年に建築された旧長崎内外クラブというものも。 平成12年、平成18年にそれぞれ5棟復元されたそうだ。 またバドミントン伝来の地という石柱も立っていた。
いずれにしても予習しておいた方がよかったかも・・・。
石畳のオランダ坂を上る・・・
建物はなかったが、西側水門の近くの一角に通詞部屋跡があった。通詞は町役人だそうだが、オランダ語との通訳や警備を担っていたそうだが、吉村昭の小説「海の祭礼」に幕末の通詞森山栄之助のことが描かれている。 新政府になってまだまだ活躍の場はあったと思うが、明治3年51歳でこの世を去ったという。 この通詞部屋にいたのだろうか。
巣鴨の本妙寺にお墓があるそうだがいつか訪ねてみたい。
オランダ坂を・・・
19日、今日は12時ごろ長崎を発って、吉野ヶ里に寄って博多泊の予定。
午前にオランダ坂を通って大浦天主堂、グラバー園へ行ってみるつもりだ。 案内を見ると朝8時から開園しているようだ。
とりあえず、近くの路面電車・築町電停から市民病院前まで一区間乗ることにする。 ここの路面電車は全線100円均一は安い。 築町電停では赤迫行きと石橋行きがあり乗り間違えないよう。
後ろの入り口から乗車、車内は巾が狭い、リュックを背負っているので気をつけながら前方へ移動。 ひと停留所はすぐだ。
左手の病院へ下車したお年寄りが向かっている。 私もその年寄りだが・・・と思いつつ、しばらく南へ向かって歩いているとビルの間にオランダ坂への道標が見える。
天主堂が見えます
切通しの登り坂が見える。 坂は石畳・・・、というよりコンクリートのようである。 車の往来を考えてのことであろうか。
「大浦東山手居留地跡」の石標が立っている。 この坂の先に学校があるらしい、学生さん、先生らしい人が登って行く。
このくらいの坂は私にとってどーってことはない、歩を速める。坂の途中に「オランダ坂」の石柱が立っていた。
右側の下り階段を下りて孔子廟の前を通り路面電車が走る松方枝通りに出る。 大浦天主堂下という電停を横切り全日空ホテルの前を通って大浦天主堂へ向かう。
大浦天主堂から・・・
グラバー園への近道を
時刻は8時45分、観光客はいないが拝観券を売っているボックスにはおばさんが詰めている、「朝早くからご苦労様です」私はそう言いながら300円を取り出す。
静かな天主堂に向かう階段を登りながら振り返ると朝日にあたり塔が輝いて見える。 脇に二十六聖殉教者の碑があった。
おそるおそる堂内に入り祭壇へ向かう、右の方へぐるりとまわり出口へ。 日本の聖母、慶応元年三月と記されたマリア像が立っている。
堂内は撮影禁止、マリヤ像の側から内部を・・・。
大浦天主堂は現存する木造ゴシック教会で最も古く国宝だそうだ、私の頭の中では浦上天主堂の方が国宝級だというイメージがあった。
厳かな気持ちになりながら堂の脇からグラバー園への近道を歩む。 小高い丘へ向かってエスカレーターがつくられている。
階段を上がってグラバー園の入り口へ。
修学旅行で訪れた半世紀前はグラバー邸と言っていたが・・・と思いつつ入場券売り場に向かう。
グラバー園へ
♪或~る、晴れた日に~
9時少し前、売り場の建物の中には数人のおばさんや若い女性がいる。
「朝早くからご苦労様です」声をかけながら入場券を求める。
中へ入りかけ、持参した修学旅行の写真を取り出しおばさんたちに見せる。 「1957年3月10日の写真です」
突然古いモノクロ写真、一番年上のおばさんも生まれていないであろう時代のものを見せられ、ビックリしたようだ。
その女性はまわりの数人の同僚に写真を見せている。
「右の柱のそば一番後ろが私です。 昔はグラバー邸と言ったと思いますが・・・」
「面影がありますよ」
後ろの女性に向かって「ここに植込みがあったんだネ・・・」
1973年ごろ市内の洋館を集めグラバー園と名を改めたそうだ。
旧グラバー住宅の庭園に着いた。
庭園では整備の人たちが植木に水をやったり、庭を掃いたりしている。
長崎湾が良く見える。 正面にタンカーが停泊、左手は造船所らしい。
半世紀ぶりのグラバー邸
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1957.3.10
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中学生の頃父に連れられて1955年制作の映画「蝶々夫人」を見た、マダムバタフライは八千草薫。 当然のことながら理解できないまま・・・。
ここグラバー住宅を建築したトーマス・B・グラバーのツル夫人はよく蝶々の模様の付いた着物を着ていたそうだ。
まだ観光客はいない、静かな住宅の内外を見てまわる。 大きな樹齢300年のソテツがある、グラバーと親交のあった薩摩藩主島津候から贈られたそうだ。
住宅のなかを歩き回る、ダイニング、リビング、キッチン、奥の方の天井裏に隠し部屋があった、坂本竜馬など志士たちをかくまったという。 一室に坂本竜馬の等身大の写真パネルが背比べのために立っていた。 私も立ってみる、それ程の差はなかった。
グラバー住宅を出て坂道を上って行くと「西洋料理発祥の地」と書かれた看板が立っている。 近くには日本最初のアスファルト道路があった、いかにも西洋文明がなだれ込んで来た土地らしい。
長崎駅へ向かうため電車に・・・
旧自由亭、旧ウオーカー住宅、旧長崎地方裁判所長官舎、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧スチイル記念学校、旧三菱第2ドッグハウス・・・洋館がずらり。
幻のオペラ歌手、日本に生まれながら日本でよく知られていない喜波貞子展をやっている洋館を覗く。 広場の噴水の側には三浦環、プッチーニの像が並んでいる。
そろそろ、お暇しよう。 正面入口から出る。
坂道の両側にはみやげ物を売る店が並んでいる、この時間になると数人の連れ立った観光客グループを見るようになる。 聞きなれない話し言葉が聞こえる。 近くの隣国から来たのかもしれない。
何気なく坂を下っていく、ふとさっき果物屋さんがあったと立ち返る。 ザボンをお土産にしよう、数枚の送付伝票を書いた。
♪坂の長崎ザボン売り~・・・。私も子供の頃よく口ずさんでいた歌を思い出す。
路面電車の電停「大浦天主堂下」に立つ。 ここは道が狭いためか電車は単線だ。 終点の石橋まで行った電車が折り返してくる。
午前に乗車した築町で下車し、赤迫行きに乗り換える。乗り換えるときに申告すれば乗り継ぎ券をくれる。
出島、大波止、五島町、長崎駅前で下車。 10時53分博多行きの特急「かもめ」の自由席・最前列に腰を下ろす。
リウくんの好きな「白いかもめ」ではなかったが、ひと仕事終えたような気分になり長崎を離れた。