たび
楽しむ
2009. 1. 12
たび(吉野ヶ里遺跡)
・・・巫女のお出迎え
●日時:12月19日
●場所:佐賀県神埼市/吉野ヶ里町
途中下車
長崎から博多に向かう途中で吉野ヶ里遺跡公園によってみようと思っていた。 どのくらい時間を要するか検討が付かなかった。 なるべく早く長崎を出発しようと考えていたが、1時間早い10時53分の特急かもめ18号に乗れた。
5両編成で自由席は先頭の5号車と4号車、私は5号車の先頭座席に腰を下ろした。乗車口が車両の真ん中にあり、前後にシートが別れている。
九州の特急電車は色とスタイルがちょっと変わってて、りうクンやママに人気がある。 「白いかもめ」がお気に入りのようで、乗車を勧められていた。 電車は移動手段で乗ってしまえばスタイルも色も関係ない、それほどのこだわりはない。 時刻表を見るとおよそ30分前に出発したかもめ16号と30分後に出発するかもめ20号は「白いかもめ」で運転と書かれている。 話にネタに乗ってみるのも一興かもしれない。
長崎駅は終着駅でこの先はない、少しばかりの乗客を乗せた電車はゆっくりとターミナル駅のホームをすべりだしていった。 しばらく走っているとトンネルに入った。このあたりは単線である。 帰宅後地図や時刻表を見て気づいたのだが、長崎駅と諫早駅の間は同じ長崎本線だがルートがふたつある、海岸に沿って走る線とトンネルを通るショートカットの線がある。 どうやら後からショートカットラインを造ったようだ。 特急などはすべてこちらを走るようだ。 地形からそのようなことになったのかもしれない。
右手の有明海を眺めながら車内販売の弁当を食べる。 幸い天気は上々、穏やかな海を見ながら体を運んでくれる現代の乗り物に感謝しながら、初めて訪れる吉野ヶ里とはどんなところだろうか、古代の人の移動に思いをはせる。
ときどき下り電車が交換に停まっている。 「あっ、あれが白いかもめか?」りうくんに見せようと思いシャッターを押す。 あとでりうクン曰く「これは白いソニックだよ」、「えっ?」 、正面の運転席の窓ガラスのまわりがブルーは「白いソニック」で、黄色いのが「白いかもめ」だそうだ。
それじゃ、長崎本線にソニックが走っているの???
環濠集落の中は・・・
12時05分肥前山口着、先に到着していた佐世保発の「みどり12号」に連結し博多へ向かう。 実はりうクンはこの連結するのが好きらしく、わざわざ東北新幹線の福島駅や盛岡駅へ見に行ってる、もちろんひとりで行けないからママに連れられてであるが・・・。 なんで連結が好きなのだろうか。
さて、新編成の電車で先ほどまで運転していた運転士はリラックスした様子で外を眺めている。 12時17分佐賀駅着、私は各駅停車の2両編成ワンマンカーの普通電車に乗り換える。 そして2駅先の神埼駅で下車する。
想像していた駅の風景と違って瀟洒な橋上駅であった、階段を下っていくと乗客のいない駅前に大きな像が立っていて東の方を指差している。 反対の西側にはバス乗り場がある、どうやら近くに大学があるようだ。
20年前の雑誌を・・・
20年前の平成元年7月5日号の「歴史と旅」という雑誌は特別増刊で「ついに邪馬台国が見えてきた/吉野ヶ里遺跡と邪馬台国」を買っていたがパラパラ眺める程度だった。
物見櫓にあがる
そのまた20数年前から安本美典氏らの邪馬台国もの・・は時たま読んでいた。 私が有名になった吉野ヶ里遺跡を知ったのはが発掘された20数年前、その前から部分的に発掘されていたらしいが・・・。 野次馬として見に行きたいと思っていたが、なんせ遠いところだ。 いまその近くの神埼駅に降り立った。 ある種の興奮を覚え鳥肌が立った。
誰でもそうであろうが、自分の祖先には関心をもつ。 現に私は祖母の出身地を歩いてきたばかりである。 おなじように民族の祖先がどこから来たのかというのは興味深いもである。 もっと古く人間の祖先は・・・。
なぜ人は対立するのか、民族間の争いが起きるのか、動植物を愛でないのか。
話が飛躍しすぎた。 人通りの少ない舗装された田圃のあぜ道を東に向かって歩く。 北に目をやると広々とした佐賀平野の遠くに脊振山系が見える。 南は長崎本線の線路、ときどき「白いかもめ」が走っていく。 のどかな田園風景、なんともいえぬ至福感にひたる。
東の方に背の高い物見櫓が木々の上に首を出している。 駅からの道を心配したが、途中にも道標があり人っ子ひとりいないところでも大丈夫だ。
やがて西口の駐車場に着いた、サービスセンターという建物があった。 入場料400円を自販機に投入していると、ベージュ色の衣服を纏った若い女性がやってきた。 「弥生人の服装ですか?」
内側の環濠
話をしているうちにここらのアクセントではないように思えた。 私は小学生の頃ここからそう遠くない筑後地方で育ったのでこの地方の訛りはそれなりに理解出来ると思っている。
東北地方のようでもある・・・、松本清張の小説に出てきた山陰地方の訛りだろうか。 もしかしたら「帯方郡から来た人かな・・・」 私も弥生にタイムスリップした気分になってきた。
城柵のなかへ・・・
発掘が始められたのは昭和61年、工業団地が計画されていたそうだ。 大規模な環濠集落遺跡が発掘されて工業団地計画は消え、今は大部分が国営公園と県立公園で分かち合っている。南の方に環濠集落ゾーン、西に古代の原っぱ、東は入り口(パーキングエリア)、北は古代の森ゾーンとして整備中とのこと。
私は原っぱの南の方から環濠集落のゾーンへ向かい、広い園内を歩きはじめた。 葦の生えた池の近くに来た、羽を休めていたらしい水鳥が数羽驚いて飛び立った。 弥生、古墳時代も同じような光景が見られたのかもしれない。 ここは時間が止まった所でもあるようだ。
さらに東へ進むと堤防のような盛り土の上に並べて丸太が立っている。 これが城柵なのだろう、なかに入る内側は柵に沿って溝が掘られている。
この溝が外壕なのだろう、資料によれば総延長2.5kmで外壕に囲まれた面積は40ha、野球グランドが30面もある広さだそうだ。
少し北に歩いて行くと「倉と市」エリアに出会う。 市で取引される品々を保管するための倉庫があったらしい、それが復元されている。 クニの交易の中心地だったそうだ。
南内郭と北内郭へ・・・
内郭には・・・
倉と市の東側の少し離れたところに展示室がつくられている、遺跡で発掘された甕棺、武器、農具などが展示されている。 時間をつくって立ち寄りたいところ。
展示室を出てすぐ北側に南内郭の入り口がある。 南内郭は内壕と城柵に囲まれ、入り口近くに物見櫓も立っている。 南内郭には支配者層が住んでいたという。
資料によればふたつの内郭を持つようになったのは弥生時代後期(紀元1世紀~3世紀)だそうだ、支配者と被支配者が厳然と別けられていたのだろう。 支配者になりえたのは何を持っていたのだろう。 力、頭脳、人心の掌握力も必要だったかもしれない。 この頃が邪馬台国の時代らしいが、魏志の倭人伝にはこの吉野ヶ里らしいクニは出てこないようだ。
聳え立つ物見櫓のひとつに登ってみる。吉野ヶ里のクニが見渡せる。
北の方には「北内郭」らしいエリアも見える。 遠くには脊振山系もみえる。 その山地を越えたところに魏志の倭人伝に記されている伊都国、西には末盧国、東に奴国があったのだろう。 直線で20km位しか離れていないのに特定できない。
奴国までは比定されているらしい、それ以降のクニグニがミステリアス。これからも発掘されて
だんだん邪馬台国が特定されていくのだろうか。
邪馬台国はおおまかに畿内説と九州説がある、この吉野ヶ里遺跡が大々的に報道された20年くらい前に刊行された雑誌「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国」では、吉野ヶ里が邪馬台国だという論調もある。 最近の新聞記事などでは畿内説の方が有力だという、それは箸墓古墳が卑弥呼の墓に比定しているからだそうだ。 魏志の倭人伝には邪馬台(臺)国とは記されておらず、邪馬壱国と記されている。江戸時代の学者がヤマト政権に結びつけたため邪馬台国が標準となったようだ。
邪馬壱国を福岡県の八女地方に比定している学者もいる。 おおっ、私が育った近くではないか。 魏志の倭人伝には帯方郡から邪馬台国まで「万二千里余」と記されている、伊都国までが1万500里と記されているから残りは1500里(90km)である。
この場合の1里はおよそ60mくらいとなる。 対馬と壱岐の間・実距離60kmを千余里と記されていることによる。
弥生人(?)がお話を・・・
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近くに邪馬台国が見えるのかもしれない・・・そう思いながら物見櫓から下りた。
淡紅色の服装を身につけ弥生人の姿を模したおばさんが立っていた。
「何人くらい住んでいたの?」・・・1200人くらいだそうだ。
2~3人家族だとすれば400戸から600戸、ちょっと少ないような気がしないでもない。
魏志の倭人伝に記述されている対馬国:千戸、壱岐国:3千戸、末盧国:4千戸、伊都国:千戸、奴国:2万戸に比べると・・・。
弥生おばさんが「あちらの脊振山にも行ったようだヨ」。 「えっ、馬に乗っていたの?、かなり距離があるから歩くのは大変だったでしょう」 馬を使ってはいなかったようだ、有明海の方には行ってたようよ。 「うん、ありうるね」
私は北内郭に足を向けた。
この内郭は南に比べて厳重な柵に囲まれていた、中が見えないように厚手の板がビッシリ詰めて塀がつくられていた。そして入口も通路が曲がって出来ている。
ここでもベージュ色の弥生お姉さんが迎えてくれた。 「このような板で造られていたの?」
北内郭はクニの重要なまつりごとが行われていたそうだ、いわば国会議事堂と政庁だろうか。
物見櫓のような建物に登った、この建物の上層階部分の広間には20人を越える弥生人形が座って
、なにやら話し合っているようなシーンがつくられている。
その上の階にあがると数人の巫女がひとりの巫女を囲んで祈っているようだ。 これぞ、卑弥呼の姿なのであろう。 どこのクニでもこのような巫女がいたのだろう。
「ア、ナムハンダラ・・・」と言いながら髪を振り乱していたのだろうか。
卑弥呼は邪馬台国の王として鬼道につかえ、よく衆を惑わしたという。
北墳丘墓は・・・
甕棺墓列
北内郭を出るとすぐ西に「中のムラ」という一角がある、ここでは祭り、政治的儀礼に使われる道具が作られていたそうだ。 4,5棟の高床式の倉庫が並んでいた。
そこから北に向かうと甕棺墓列が並んでいる、これはもちろん観光用に作られたものだが、600mにも渡って2列に甕棺が埋葬されていたそうだ。 そしてその北側に祠堂、北墳丘墓が見えた。 墳丘墓は内部が展示室になっており弥生時代の葬禮が見られる。 ここに吉野ヶ里を治めていた歴代の王が葬られていたそうだ。
甕棺は弥生時代の北部九州に見られるものだそうだ。死者を甕棺に納める様子も人形を使って
展示されている。 葬祭は現代と違って自分たちで営む生活の一旦だったのだろう。
これで見学を終わった。 田手川に架かる天の浮橋を渡って東ゲートに向かう。
広い駐車場を横断して国道385号線を南に向かい、さらに国道34号線を東に向かう。
歩いていればそのうち吉野ヶ里公園駅に着くだろう。
ついでに記すと吉野ヶ里駅公園はむかし三田川駅と呼ばれていたようだし、三田川町といわれていた町名も2006年の平成の大合併で有名になりすぎた吉野ヶ里を町名にしてしまったようだ。
2000年も昔のクニの名前が分かるはずがない。