しむ


2009. 1. 31
たび(大宰府跡)

●日時:2008年12月20日
●場所:福岡県太宰府市 
さすが!・・これは小学校の正門


はじめに
 私は福岡県の生まれだが太宰府天満宮には行ったことがない。 小学校高学年から高校卒業まで北部に住んでいた、大宰府は福岡の南方にあり少々遠いと思っていた。
 そういえばあまり福岡県内を歩き回ったという記憶はない。 今回の同窓会のついでに博多湾の突先にある志賀島を訪ねてみようと計画していた、もちろん、金印が発見された場所を見ておくのも何かの役に立つ(?)と思ったからである。
 細かい計画をする段になって、交通の便がイマイチピンとこない。 それで代わりの候補が大宰府政庁跡。 ここは松本清張の推理小説に「都府楼跡」として登場したように記憶のなかにあった。

 12月20日、午後3時から博多駅前での同窓会に間に合えばいい。といっても地理にそれほど詳しくないが、朝8時半ごろ博多駅近くのビジネスホテルを出て博多駅から地下鉄に乗る。
 天神で下車、かなり長い連絡通路を歩いて西鉄福岡駅へ、(昔の記憶では西鉄の駅が天神といったように思ったが、どうやら思い違いらしい・・・)大宰府駅行きの各駅停車に腰を下ろす。

都府楼前駅から政庁跡へ
政庁跡の礎石
 リタイヤする前の出張で南福岡に泊まったことがある、そのときJRの駅が「南福岡」とあるのに「えっ」と思った。 昔々、定かではないが「雑餉隈」だったと記憶があったからである。
 JRとほぼ並行して走る西鉄の近くの駅は雑餉隈である。 全国区の国鉄は読めない漢字の駅名を代えた方がいいと解釈したのだろうか。
 都府楼前駅で下車、都府楼とは大宰府政庁のことである。 東に向かい高架道の下をくぐり関屋という交差点を抜ける。

交差点を過ぎて道の北側に小学校と中学校が並んでいる。 水城小学校の正門が写真のような屋根付きの屋敷門のようであった。 お隣の学業院中学校の塀も武家屋敷の塀のように瓦が葺かれていた。 さすが古風な町である。 
 この通りは県道らしいが「政庁通り」と名付けられている。 しばらく道に沿って歩くと左手に生垣が続いていて切れたところから覗く、広場がありこのあたりが蔵司跡らしい。 その当時各国から租税として集められたものを格納していたという。

 その広場の東側に少し高く整地された広場が政庁跡であった。
大宰府は「遠の朝廷」といわれたそうだ、広い今は何もない空間にところどころ礎石(これもレプリカらしいが)が配置されている。 遠国の九つの国とふたつの島を統括していたそうだ。
古の雰囲気に・・・

 何もない方が却ってかってな想像をさせてくれる。 南門から中門を入ると左に西脇殿、右手に東脇殿、遠く正面に正殿が・・・。 正殿の奥に後殿、北門があり、まわりを歩廊が取り囲んであったそうだ。
 正殿跡に石碑が建っている、人がひとり調べ物をしているようだ。 遠く南門の方を犬を連れて歩いている人がいる。
 静かだ! と思っていると上空を旅客機が飛んでいった。

古を歩く・・・
 政庁跡の東に町の人が集まっている、この日は土曜日、イベントが催されるのだろう。 その脇を通って大宰府展示館に入る。
 発掘されたものなどの展示、大宰府のジオラマを見ていると職員らしい人がやってきていろいろと説明をしてくれた。 
 「福岡の鴻臚館跡はごらんになりましたか。 一見の価値がありますよ」・・・大野城(四天王山)、国分寺跡、水城などについて説明してくれた。
 古の大宰府の街は東西2km強、南北2kmだったという。
   「私の住んでいる近くには武蔵国の国衙跡が・・・」、「国分寺という市もあります」といいながら、武蔵国の国府と大宰府では格が違うだろうなぁと思いながら聞いていた。
 またこの地を訪れ四天王山にも登ってみたいと思いつつ、お礼を言って館を辞した。

僧正玄昉の墓案内 いたるところに

 このあたりは観世音寺という町名である、路傍に「地区 小字名案内板」というのが建てられていた。
そこには「町の区域住所を分かりやすくするため住居表示を整備した。大字名4、字名30が廃止され、新しく観世音寺一丁目~六丁目」が誕生・・・、歴史と文化を伝承する由緒ある地名を後世に伝えるため造られたもの」と記されていた。
 便利さの前には伝統・文化を捨てる・・・、時の流れとはいえ仕方がないことなのだろうか。 市も後ろめたい気持ちがあってこのようなものを造ったのだろう。
 その案内板は現在の施設などを記した地図の上に透明のアクリル板が取り付けられ、そこに大字名、字名が記されている。
 そういえば道端のあちこちに「旧小字 月山」、「旧小字 学業」という石柱が立てられていた。
案内板の地図をみると、条坊制のなごりだろうか政庁跡南方の道は100mくらいの碁盤目状らしき形が残っている。 
政庁跡から南下したところ、現在の国道との交差点は朱雀大路という名前だそうだ。
地図から大字、字名を拾ってみよう。
大字太宰府、大字観世音寺、大字通古賀
(以下は字を省略) 梅ケ谷、五条、建重寺、横岳、横岳口、高橋口。
朝日、御所ノ内、露切、今道、大浦谷、今光寺、山ノ井、千代岳、住ケ元、安養寺、堂廻、学業、月山、五反田、土居ノ内、日吉、松ヶ浦、大裏、蔵司、不丁、大楠、広丸、油田、来木。
東蓮寺、九郎田、鼓石、エリカド
観世音寺の講堂

字名を読んでいると何かしら想像することができる。「XXノ内」というのは武将の勢力を表しているのでは・・・、「油田」というのは灯明などの油を採った田なんだろうか・・・これが「一丁目」では想像もできないし、なんの面白みもない。

観世音寺から天満宮へ・・・
 古の雰囲気を味わえるこのあたりには「大宰府学校院跡」、「僧正玄昉の墓」など史跡への案内や、説明した案内が随所に建てられている。 
 字月山、字学業を通り、字堂廻にある戒壇院を経て観世音寺の講堂にやってきた。 観世音寺は天平年間に完成したそうだが、現在の金堂、講堂は江戸時代の黒田藩主が再建したものだそうだ。
 「府の大寺」とよばれたそうだが、境内の趣は落ち着いた雰囲気であり、こういうところを散策できる人をうらやましく思う。

 北のやや広い道に出て西のほうに目をやると、清掃している地元の人たちがいた。 土曜日だからなのか町の美化に貢献しているようだ。 そういえば、歩いてきた道にわが町でよく見かける空き缶、空きペットボトルなどは転がっていなかった。
 御笠川にかかる白川橋を渡って住宅が立ち並ぶ町並みを歩く。 たぶん左方向(北)へ行けば天満宮だろう。 左前方高台に筑紫台高校と記された建物が見え、広い駐車場も見えてきた。 観光バスがその駐車場に入っていった、天満宮が近いようだ。
太宰府天満宮の太鼓橋

 道が右にカーブし西鉄の大宰府駅が見えてくると人の波が多くなった。 参道の両側にみやげ物を売る店や、名物の「梅が枝餅」を食べさせる店が並んでいる。
 このあたりの案内はどこでも中国文字、ハングル文字が併記されている。 境内の人ごみからもその国の言葉が聞かれる。 九州のこの地は国が近いことをあらためて感じる。
 境内を歩いているとひっそりとした末社が目に入った。「志賀社」で祭神は海神綿津見三柱神、古から海外貿易を行っていた安楽寺(天満宮)が祀ったとか。
 境内の茶店に入り梅が枝餅を頂く、甘味が少ないさっぱりした味と微かな記憶だったが、少々異なっていた。

 たしか数日前だったと思うが、日中韓の首脳が九州国立博物館で・・・というニュースを耳にしていた。 ここからだいぶ歩かなければならないようだ、パス。
 話に聞いた水城跡へ行ってみよう筑紫名所絵図というパンフレットで場所を探す。JRの水城駅で下車すべく西鉄からJRへの乗り換える方法を大宰府駅の駅員さんに尋ねる。下大利駅から水城駅へ歩くことにし、福岡行きの各駅停車に腰を下ろした。

水城跡まで見られ・・・幸運
水城跡


 少しでも時間を稼ぐため西鉄二日市駅で急行に乗り換える、下大利駅では学生数人が降りた、よそ者が下りる駅ではないような雰囲気だ。
 南の方へ歩けば良いはずと思うが、念のため歩いて来るおばさんにJR駅の方向を確認する。 住宅と小さなスーパーが並んでいる新興住宅地でよく見かける光景を眺めながら歩いているとJR水城駅が見えてきた。
 現代の生活に関係のない水城跡なんて見えそうにない、そんな駅前にはあまり建物も見当たらない。 一段と高いところにある駅舎への階段を上がりながら、”ここへ来たのは無駄だったかなぁ”と落胆し、駅付近の地図を見る。
 地図には駅の少し南の方角に「水城跡」と記されていた。 俄然疲れも吹き飛んで階段を駆け下り道を南下する、こんもりとした林が横たわっていた。
 水城は堤防を築いて壕をつくったものだったらしいが天智天皇の頃だそうだ。 木々が生茂った小高い土盛の上に上がってみる、白村江の戦に破れ大宰府を守るために懸命に働いたのだろう。 
 駅の改札口を通るときフリーきっぷを見せるため一人しかいない中年の駅員に声をかける。 「見せなくてもいいですよ」

あとがき
 この回で2008年冬九州旅行についての日記を終える。 公園化された遺跡を巡るのも面白いと思えたのが収穫だった。
 わが生まれ故郷には遺跡公園がたっぷりあるようだ、また訪れてみたいと思っている。


たび