しむ


2010. 7. 31
たび(長崎をさるく)
山の上から見下ろす龍馬像・・・


「さるく」とは長崎弁、ぶらぶら歩くことだそうだ。 地図を頼りにぶらぶら歩いたところを記してみようと思う。

  • 日時:4月30日、5月1日
  • 場所:風頭公園、亀山社中跡、中島川、光永寺、眼鏡橋、土佐商会跡、龍馬まちなか記念館、崇福寺、新地中華街
  •   :オランダ坂、孔子廟、グラバー園
次の写真集もあわせてご覧頂きたい
りうクン・長崎をさるく
りうクン・龍馬を歩く
りうクン・史跡巡る

風頭公園から・・・
 ホテル前の路面電車通りを渡ると長崎駅方面に向かうバス停がある、行き先別に4ヶ所くらいに分かれている。
りうクンのママは前もって調べていたらしく風頭公園行きのバス停に並び、まもなくバスが来た。
 勢いよく走り出したバスは途中で左折し、2年前にひとり歩いたことがある思案橋、崇福寺の方へ向かった。 やがて大きな道路を離れやや上り坂になったかと思うと道幅も狭くなり曲がりくねってきた。 街並みを見下ろすようになった。
 バス停でもないところで止まった、狭い道なので対向のバスが下って来るのを待っている。 曲がりくねった上り道をエンジン音を響かせながらスピードを落とさず登っていく。 終点の風頭公園に着いた。
上野彦馬の墓所
 あたりは住宅が立ち並んでいる。  公園は標高146mの小高い風頭山にある、港や長崎駅、さらに少し向こうには私たちが宿泊したホテルの建物も見える。
 家並みを縫うような急勾配の狭い道を小さな車が、精一杯頑張って登ってくる。 

龍馬通りへ・・・
 さてどちらへ行けば公園か?、観光客らしいひとりが歩いている。 ついていくと風頭公園と小さな案内板があった。 観光客向けの表示は整備されていないようだ。
 山の上の公園だからアップダウンが多い、入口近くに上野彦馬の墓がある、初めて聞く名前だったが、日本で最初の写真屋さんだとか。

   しばらくすると、坂本龍馬の銅像が見えてきた。 長崎に龍馬像?、たしかに長崎で活躍した時期もあった!!  しかし像まで建てるのか・・・というのが印象であった。  
 像は比較的新しい、おそらく大河ドラマにあわせて造ったのでは・・・と思った。  しかし聞くところによれば20年前に出来たという。 新しい観光スポットなのかも知れない。
 公園の中の遊歩道を歩く、小さな広場がありお年より夫婦が並んでウオーキング中である。 ここに登って来るだけでもいい運動になりそう。
 狭い「龍馬通り」と名づけられた道が続く、石段のアップダウンを繰り返しているときに、手に小さな包みを持った青年が下の方の家から登ってきた、どうやら郵便屋さんだ。  私の住まいも高台にあるが、郵便屋さん、新聞配達はバイクに乗ってくる。 だから郵便屋さんはバイクに乗っているものだと思っていたが、ここ石段の町長崎ではバイクが使えない。  こういう人こそ手当を余計に上げたって誰も文句は言わない・・・そう思って眺めていた。
 ようやく亀山社中跡の碑が立っているところが見つかった。

亀山社中跡・・・
眼鏡橋

 資料館に入る。 係りの人がいろいろと説明してくれる。
「亀山社中へ入隊条件は、脱藩者であること外国に目を向けている人間だった・・・」 なるほど、藩のことなど身内に目を向けている人間は不要ということらしい。  地元の代弁者、所属する党のことで頭がいっぱいという現在のまつりごとを担っている人にも聞かせたい・・・。 
 龍馬通りを下って行くとブーツを履いていたらしく、そのぶーつの像がある。 先客の子供がブーツの中に足を入れていた。
 巾1メートルくらいの狭い道をさらに下るとお寺や墓所が両側に見える。 下っていけば川に出るだろうと地図と見比べながらいくぶん緩やかになった勾配をあるく。
 この近くにはお寺が多いようだ、地図には光源寺、禅林寺、深崇寺、三宝寺、興福寺、皓台寺・・・。 ここを歩いているときは未だ知らなかったが、最近シーボルトの娘「お稲」を描いた小説を読んだが、お稲さんはこの近くの麹屋町に住み、娘を連れて興福寺、三宝寺、深崇寺などを散歩したと書かれていた。 そのお稲さんの墓所が皓台寺にあるそうだ。 シーボルトに「おたくさ」と呼ばれていた母親の「お滝さん」もここに眠っているそうだ。
 そのことを知っ以上お墓参りもしなければならないだろう。

中島川を下って・・・
土佐商会跡碑

 八幡町の坂道を下りやがて川の畔にでた、川には石橋が通り毎に架けられている。 大井手橋、編笠橋を渡り光永寺の前を通る。 このお寺には福沢諭吉が寄宿していたという。
 いくつかの石橋を眺める、また川縁まで降りてみる。 眼鏡橋の近くでひと休み、橋を渡って古川町を歩いていると路面電車も川のこちら側に線路を移す。 銕橋近くの電停脇に土佐商会跡碑が立っている。
 時刻は11時を少しまわっている、浜町アーケードの中を西に向かう。 こういうアーケードというのは古い町に多いような気がする、私の生まれたところにもあり何かしら郷愁をおぼえる。 
 アーケード街の一角にある「まちなか龍馬館」を覗いてみる、展示されているのは写真が多くちょっと興をそがれる。

 アーケードには「熱烈歓迎」の横断幕が掲げられている、文字は今の日本語で使われる漢字ではない、幕の上部には五星紅旗と日の丸が並んでいる。 この地も日本各地からの観光客より大陸からの客を期待しているのだ。
崇福寺・媽祖堂

 もしかしたら江戸時代に戻ったのだろうか、当時のこの地の外国人はオランダ人と清国人だったそうだ。圧倒的に清国人の方が多かったのではないだろうか。  この次に訪れたときは唐人屋敷跡も行ってみよう。

崇福寺から思案橋、そして・・・
 万屋町から油屋町を抜け崇福寺通りを歩く。 この油屋町は私の父方の祖母の出身地で1年半前に訪ねたが、名前から油を商っていた人が多かったのだろうか。  前記「お滝さん」も再婚後の亭主の商売がうまく行かなくなったあと、油屋を営んだことがあるそうだ。 
 崇福寺の三門は竜宮門と呼ばれているそうだが、その次の第一峰門は国宝、大雄宝殿も国宝だとか。 
 りうクンと媽祖堂わきの階段を登ってみる、そこには在り来たりの墓地のようであった。 
思案橋横丁から銅座町へ・・・

 
 時刻は12時をまわった、ママは新中華街で昼食を考えているようだ。 路面電車の通りに出て電停「思案橋」から電車に乗るべく、まさに電車に乗りかけたときご親切な長崎の人が「新中華街なら歩いた方が早いよ」とアドバイスしてくれ、電車のステップから足を下ろすハメになった。
 
 さて歩き始めたが、地図を片手に歩いている身である。 写真の思案橋横丁を通り抜け本石灰町から船大工町を経て銅座町へ、1年半前宿泊したホテルが見えてきた。 この銅座町には「お滝さん」の実家があった・・・。
 新中華街のゲートをくぐりママのお目当てのお店に入る。 食事待ちの人がかなりいた、ひと心地ついたときには1時半をまわっていた。  いやぁ、りうクンはよく歩いてくれた。
 電停築町から乗ってホテルへ。 どちらかといえば私のほうがへばったのかもしれない。 しばらくするとりうクンとママはお土産を買いに長崎駅へ出かけた。

さらに異国風の街並みを・・・
孔子廟にて・・・

 その日の夕食は長崎駅でりうクンご希望の「まわるお寿司」。 自分が食べられるネタは少ないのに・・・。 海に近いこともあってか新鮮な、そして珍しいネタを。 ママも満足した由。

 翌5月1日、長崎最後の日はグラバー園へ。私が前回歩いたコースをたどることにした。 路面電車に乗って市民病院前で下車、電停のすぐ側に「運上所跡」、「わが国鉄道発祥の地」の碑が立っている。 営業用の鉄道は新橋~横浜らしいが、トーマス・グラバーが慶応元年にここで鉄道を走らせたそうだ。 

 オランダ坂を登って、活水女子大の近くを通り、坂を下って私は前回は入場しなかった孔子廟の中に入る。 このあたりは東山手町、近くには唐人屋敷跡があり、むかしから唐人が多く住んでいたのだろうか。
 孔子廟の中はやはり大陸的な雰囲気がする、中庭に建っている72堅人像をみていると大らかな気持ちになってくる。  「りうくん! こんにちは・・・は?」  恐る恐る「こんにちは」

   「お稲さん」は医者の勉強をするために14歳のときに長崎を離れ、四国の卯之町へ行く。 電停の終点に蛍茶屋というのがあるが、蛍茶屋まで家族がついて行き別れの盃を酌み交わした。日見峠を越えてその日は諫早へ泊まり、8日目に目的地へ着いたという。
私達はこのあと、大浦天主堂、グラバー園へそして長崎をあとにし、その日のうちに小倉に泊まった。

<以下次号・・・あるかな>


たび