オーキング
07. 6.  11
ウオーキング(鎌倉・史跡探訪) <東年協/健歩クラブ・イベント>
行程
日時:6月   8日(月)10時30分~15時30分
コース:京急線金沢八景駅⇒バス停朝比奈→朝夷奈切通→朝比奈やぐら→熊野神社→光触寺の近く(昼食)→報国寺→日蓮上人辻説法跡→妙本寺→本覚寺→鎌倉駅(約5km)
朝夷奈切通を下って・・・
やぐら跡
路上での昼食 く光触寺近>
光触寺山門
竹寺・報国寺
日蓮上人辻説法の跡
妙本寺
本覚寺


はじめに
実際歩いた道は当初のウオーキング案内とはだいぶ異なってしまったようだ。光触寺、明王院、鎌倉宮、理智光寺跡、鶴岡八幡宮がパスされた。
鎌倉は久しぶりであった、家内が健在の頃一緒に来たのだから10年くらいになるだろう。
鶴岡八幡宮はポピュラーとはいえ、久しぶりなので前夜「神奈川県の歴史」に記載されている境内の図を眺めたり、見学場所の記述を 読んだりした。もっとも読んでも右から左ではあるが・・・。
そんなわけで予定の見学を出来ず少々残念な思いがした。とはいえ「朝夷奈切通」を歩けたのは満足であった。

今日の現地集合は京急・金沢八景駅である、人ごみを避けたい私は江ノ島線・湘南台→上大岡も考えてみたが、乗換回数が多いのはオーバーヘッドが多くなる。
結局 Mqさんから教えてもらっていた、横浜線から京急線への乗換を横浜駅でなく東神奈川駅→仲木戸駅というルートを利用する。
7時少し過ぎ、40分くらいの余裕をもって家を出た。多摩センターから橋本へ行き横浜線に乗る。
新宿へ向うホームには勤めの人が何列も並んでいる。町田駅でラッキーにも座れた、それから夢心地で東神奈川駅に初めて降りる。
各駅停車の電車に座っていると、途中の上大岡あたりで、Mqさんと一緒になった。
金沢八景駅には9時半ごろに着いた、リーダーのKさんがひとり旗をもって立っていた。早くからご苦労様。

朝夷奈切通
「朝夷奈切通」近くのバス停、朝比奈に向う10時27分発の鎌倉駅行きのバスに乗る。一般の乗客のほかに51名が乗車、全員が乗れた。乗り切れないのではないかと話し合っていたがバスの収容力にビックリ。
バスは駅前の仮説ターミナルから国道16号(ここらでは横須賀街道という)に出て、しばらく南下し「六浦」の三叉路を右折する。

「環状4号」という県道を六浦、大道と言う地区名を通り過ぎおよそ10分弱で目的のバス停「朝比奈」に着いた。
道はやや登り勾配で周りに緑が多くなる。しばらく進むと「朝夷奈切通」の標識が見えた。
標識にしたがって細い道を入り点呼がはじまる。
今日の参加者は51名だそうだ。
細い道は山道になっているが県道の近くでは2、3軒の町工場があり、機械の稼動する音が聞こえてくる。

山道をのぼり自動車専用道路「横横」をくぐる。近くには朝比奈インターがある。
大昔は朝夷奈(あさいな)と呼ばれていたらしい。
この切通は昭和44年に「国史跡」に指定された。説明には概次ぎのように記されていた。

鎌倉幕府は仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、道改修を議定、翌年4月から工事にかかった。執権北条泰時が自ら監督し、自分の乗馬に土石を工事を急がせたという。

当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総などの関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港だった。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入った。六浦港の政治的。経済的価値は高まった。

また鎌倉防衛上必要な防御施設として、路の左右に平場や切岸の跡と見られるものが残っている。
鎌倉市境の南側には熊野神社がある。これは鎌倉の艮(うしとら=鬼門)の守りとして祀られたという。
鎌倉七口の中、最も高く険岨な路である。


朝夷奈やぐら
だんだん両側から山が迫って路が狭くなってきて切通しという感じがする。講師がウオーカーが揃うの待って右側のすこし高いところの洞窟を指差し説明をはじめる。
あれが「やぐら」といい当時はその底辺あたりが道の高さであった。
やぐらはそこに竪穴をほって墓所として使ったらしい。前日、俄か勉強中「朝比奈やぐら」という言葉が出てきた。現場にたって百聞は一見にしかずであると思った。
その本には「やぐら」について次のように記されている。

やぐらは鎌倉地方を中心に三浦半島、房総半島などに集中して存在する方形の岩窟で、その多くには五輪塔などの石塔がおさめられている。
石塔には供養の年月日、被葬者の戒名、供養者の名前などが記されている。

遺骸を埋葬するとともに供養の仏殿として機能をもつとされ、やぐらは山すそを人工的に切り落とした切岸と呼ばれる崖に掘り込まれている。
鎌倉では13世紀後半に造営が行われたと考えられている。その数は数千基ともいわれ、新しく発見されているという。著名なやぐら群は建長寺境内、覚園寺境内、など。

ウム、ウム、なかなか興味は尽きない。

熊野詣で
峠近くに「左熊野神社」と刻まれた石柱があった。その参道は人が並んで歩けないほど狭く曲がりくねっている。
道の両側にはシダが茂り、しかもよく成長して葉も大きい。
シダの成長に必要な水分と陽光の配分が適量なのかもしれないと思った。後のほうからジュラシック・パークから移植し・・・と言う声が聞こえた。

およそ200mくらい杉木立の中を進むと一段と高い所にその神社が見えてきた。思ったより新しく大きな神社だった。
この熊野神社は祭神が速玉男之命、伊邪那岐命、伊邪那美命
由緒は源頼朝が鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神 を勧請し・・・(以下略)だそうだ。
講師によれば、当時は熊野三山の霊験があると信じていたらしい、そういえば熊野神社はいろんなところでお目にかかる。

ふたたび参道から峠道へ戻り下りはじめる。
下り坂は前日から朝方まで降った雨のため、道は水浸しで滑りやすい。足の悪い方は難儀そうである。
いやー、見るところが多くて充実しているためかスケジュールからだいぶ遅れているようだ。

光触寺
時刻はとうに正午を過ぎている、光触寺(こうそくじ)には参詣しないまま、近くの道路に腰を下ろして昼食タイムとなった。 時間も短縮して40分間。
本来なら理智光寺跡で昼食の予定だったが・・・。
私は早めに食事をすませ光触寺の境内に入ってみる。山門には「文化財頬焼阿弥陀」の文字が見える。阿弥陀様が身代わりになって焼印を押された・・・そうだ。
本堂脇には塩嘗地蔵が祀られている。裏庭には花菖蒲が咲いていると書かれていた、まわってみると庭の入り口には「檀信徒以外立ち入り禁止」と。
信徒だけに見せるのなら「花が咲いてる」なんて書く必要はないだろう。

午後は金沢街道の沿いの仏閣を
スケジュールの遅れを挽回するのは難しいらしい、午後はコースを変更し金沢街道を通らず裏道を通り竹寺と呼ばれる報国寺や妙本寺を訪ねるという。
滑川の南側の木陰の多い道を通る。 大江広元邸跡碑、北側の小高いところにあったという 大慈寺跡にまつわる話を辻辻で歩を休め講釈を聞く。
さらに 足利公方邸跡碑から竹寺・報国寺で一休み。
文覚上人屋敷跡碑土佐坊昌俊邸跡碑日連上人辻説法跡碑などなど。
多人数の団体が碑を訪ねるのはたいへんである。場所によってはその地域の人の交通の邪魔だし、交通量の多い幹線道路では見学者の交通禍を招きかねない。そしていしぶみは読まなければ意味がないし読めないし!?!?!?
妙本寺の見学を終わったところで15時、鎌倉駅へむかう途中の本覚寺の頃は私もだいぶ疲れてしまった。

おわりに
史跡たっぷりの鎌倉を短時間で見ようというのが、もともと間違っている。事前に勉強しておいてそこを確認する、そんな方法で満足感が得られるのかもしれない。
しかし今日は「朝夷奈切通」を歩いたことで満足であった。鎌倉には七口と言われる切通がある。それぞれを訪ねるのも面白いかも。

反省会には参加せず、大船、藤沢、相模大野経由で帰宅、ひとり反省会を。


ウオーキング