ウオーキング
07. 7. 30
ウオーキング(田園調布を歩く)
<東年協/健歩クラブ・イベント>
日時:7月 27日(金)10時30分~13時30分
コース:東急・田園調布駅→田園調布せせらぎ公園→浅間神社→多摩川台公園(昼食)→宝来公園→邸宅街→銀杏並木→田園調布駅(約5.5km)
はじめに
旧駅舎は田園調布のシンボル
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この予定表を見たとき、”え~っ、田園調布を歩くの?”と思った。
なぜか、田園調布って歩く街ではないという印象が頭にこびりついている。
今から46年前の1961年、ここから程近い川崎市ではあるが、そこの工場に入社した。
そして1年間この田園調布を通る東横線に乗って通勤した。
住まいは会社の寮だったが、自由が丘で大井町線に乗り換え等々力で降りていた。
話がだいぶそれたが、当時田舎から出たばかりの少年はものめずらしのあまり、この田園調布もひとりで散歩したことがあった。そして誰も歩いていない物静かな邸宅街は歩くものではない。そんな印象を今日までぬぐえないでいる。
そして今日歩いてみて今度は、”ベンツの街”という印象を持ってしまった。
それはそれとして、亀甲山古墳を訪れることが出来たのは大いなる喜びでもあった。
集合は田園調布駅・・・
”ベンツの街”を歩く・・・
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家の近くのコンビニでいつものようにオニギリを買う。
”なんで、今日はツナマヨばかり残っている?”だいたいオニギリにマヨを使うなんて。
これは若者向けだろう、それを大学生が買わないなんて。
レジの情報が生かされていないゾー、なんて思いながらしばし選択に黙考する。
多摩センター駅から稲田堤駅を経由して武蔵小杉駅で東横線に乗り換える。
武蔵小杉駅を歩きながら外の景色を見てビックリ、まるで浦島太郎である。
超高層ビルがニョキニョキと数棟建っているではないか。再開発されるとは聞いていたがあまりの変容に口を開けたままになりそうだった。
この駅にはいろんな思いが詰まっている。
武蔵小杉駅から名前は存じ上げなかったが、見慣れた顔の方乗車した。お話を伺うと同じ多摩川の東岸だが、小田急線沿線から来たそうだ。
田園調布駅は地下駅になっていた。昔の駅舎がシンボルとして保存されている。
今は地下を走っているが少し南の多摩川駅、そうそうこの駅も昔は”多摩川園駅”と呼ばれていた。田園調布せせらぎ公園
になっているが多摩川園という遊園地だった。
滝の音が・・・<せせらぎ公園>
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田園調布駅の南側に田園コロシアムというテニスコートがあり、メーンスタジアムは気品が感じられた。コロシアムは89年に廃止され、現在はテニス倶楽部が存在するようだ。
さて本日の参加者は50名、この暑さのなかよく集まったものだ。都内に住んでいる方が多いから田園調布といえば前回の町田に比べれば近いということかもしれない。
田園調布せせらぎ公園
ウオーキングは東横・目黒線の東側、二丁目の街中を南へ歩く。
道を歩いてすれ違う車、宅地内に駐車している車、なんとベンツばかりである。
下り坂が行く着いたところは多摩川駅のそば、せせらぎ公園のなかにある池の畔でひと休み。
またまた昔の話、ここ多摩川駅を通る電車”目蒲線”は分断され、目黒と武蔵小杉を結ぶ目黒線になり、多摩川駅から蒲田駅を結ぶ線は多摩川線と格落ちしたようである。
大田区と聞くと町工場が並ぶというイメージがあるが田園調布もその大田区。もともとは大森区と蒲田区が一緒になったと聞いたが。格差があるようだが・・・
。
公園内の高台に上がる、崖を利用して滝がつくられている。流れる水や池の水は清流とは思えない、それでも暑いときは一服の清涼剤となりうる。。
浅間神社
多摩川駅のガードをくぐり、東横線と多摩川線に囲まれた浅間神社に参詣する。
浅間神社の創建は鎌倉時代だそうだ。以下説明から引用しよう。
丸子橋と小杉の遠景
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源頼朝が出陣したおり、妻政子が身を案じ追ってきたがわらじの傷が傷みここで治療した。
そのとき亀甲山に上り富士山がよく見えた。富士吉田にある浅間神社に手を合わせ、持っていた正観世音像をこの丘に建てた。村人が冨士浅間大菩薩と呼んだ、多摩川浅間神社の始まりだそうだ。
境内にある食行霊神の石碑は勝海舟の直筆だそうだ。
源頼朝はあちこちに神社の由緒に関わっているようだ、古いこと、高いことを求めて因縁付けを考えるのだろう。
境内には多摩川に面し展望台が設けられている。
西の方を見ると、東横線・目黒線の橋梁が並んでいる、目黒線として開通してから7年くらい経つのだそうだ。
南に目を転ずると丸子橋が見え、その向うに高層ビル群が霞んで4~5棟見える。
右の方は武蔵小杉駅周辺、左の方は南武線の川崎寄りの向河原あたり。
さらにその遠くに鹿島田あたりのツインビルだろうか。時がたてば様子が変わるのは当たり前であるが、大きな変容にはただ驚くばかりだ。
多摩川台公園
前方後円墳・・・<亀甲山古墳>
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浅間神社から多摩川堤通りを少し上流に向かって歩き公園への階段を登ると水生植物園が広がっている。
ここは調布浄水場跡を利用した植物園で、昔の姿を残し沈殿池だったところには池をつくり湿生植物を植え、ろ過池だったところには四季の植物と地被植物を植えた。地下の配水地だったところには雨水を溜めて池の水として利用しているそうだ。
浄水場は大正7年から昭和42年まで使用されていたという。ということは私が東横線で通勤していたときは現役だったのだ。ウ~。
スイレンなどの水生植物を板製歩道を歩きながら眺める。
土塁跡のように小高いところを越えて階段を下りると片側に桜の木が植えてある広場に出た。
広場の右手(東側)にこんもりとした林がある。この林が「亀甲山(かめのこやま)古墳」だそうだ。
都内でも有数の古墳ということで知られている。
説明板には次のように記されている。
国指定の史跡で、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中最大の前方後円墳である。
発掘調査は行われておらず、詳細は不明だが、埴輪や葺石等がないことや、形から5世紀前半頃の築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。
後円部南端が浄水場建設で削られているが比較的よく原形を保っている。
港区芝公園内の丸山古墳と並んで都内の代表的古墳である。
昭和3年、国の史跡に指定された。
浄水池跡の水生植物園
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5世紀前半とは、仁徳天皇の頃か。年表を見ると4世紀末に「前方後円墳がの盛行」と記されている。この頃はまだ大和の勢力は及んでいなかったのではないだろうか。地図には胸刺(ムサシ)国に亀甲山古墳と記されていた。
この古墳の北側に1号墳から8号墳まで比較的小型の古墳が並んでいる。資料によれば6世紀から7世紀前半に築造されたものらしい。
さらに少し離れて都史跡の宝来山古墳は首長の墓、こちらは前方後円墳で発掘調査を終えているようだ。
亀甲山古墳は発掘調査が行われていないという、あまり墳墓を荒らすのは問題だがなぜ調査しないのだろう。
時刻は12時少々前、ここで昼食となった。
私は早々とオニギリを食べ終え、近くを歩きまわる。近くの公園管理事務所に併設された古墳展示室に入る。
発掘品が並べられているが、ネコに小判でさっぱりである。しかし木棺に収められた首長の姿や、当時の人々の姿服装をした人形が展示され当時の様子を垣間見ることが出来る。
1号墳のそばに行ってみると丘の上に人が踏み歩いたあとがあり小生も歩いてみる。
宝来公園の池
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本当はいけないのかもしれない、お墓だもの。
教会の鐘の音が聞こえてきた、カトリック教会、フランシスコ修道院が並んでいるようだ。
宝来公園
12時20分、午後のスタート。古墳群を左に見ながら木陰が続く遊歩道を歩く、木陰とはいえ少々蒸し暑い。程よい距離で休憩がとられる。
公園を出て街中を歩きはじめる。坂を下る途中、民家の百日紅が鮮やかな紅淡色をまきちらし疲れたものを癒してくれる。
けっこうこの街はアップダウンが続いている。やはり歩く街ではないのかもしれない。
坂を下ったところの宝来公園に着く。
園内の緑と池が都会の中とは思えない雰囲気をかもし出している。
園内の遊歩道をぐるりとまわる、この公園はいろんな草花が植栽され目を愉しませてくれる。
邸宅街を歩いて田園調布駅
田園調布駅前は静かな佇まい
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どうやら、最後の行程らしい。ハイソな住宅が並んだ通りを上る。左手からの射してくる西日が疲れを倍加させるようだ。
一、二度角を曲がりながら軽い上り坂が続く。
銀杏並木が現れた、駅も間近いようだ。
選挙カーがやってきた。「ウオーキング中の皆さん・・・」
赤いユニフォームを着た若いお嬢さんが走りながらビラを配ってまわる。
”私は選挙区がちがう・・・”
その先生候補は全国区だそうだが、さて結果はどうなったでしょう。
シンボルの旧駅舎はゲートのようになっていて、建物内に地下へのエレベータがあった。
時刻は13時半少し前、少し早めだが解散。
駅の東側にはレストランやカフェがありそうだが、どうやら反省会をやるお店はなさそう。
反省会は自由が丘
その向きの御仁は事前に田園調布では反省会は出来ないから自由が丘へ行くことが織り込み済みだったようだ。
自由が丘駅前の交番で尋ねることになってしまった。
13時半、鳥めしやさんだったかな、14、5人が入った。
喉の乾きが潤ってくる、小一時間が過ぎその店を出て目の前のカラオケルームに入る。
阿無法比。 (I’m happy)