ウオーキング
07. 10. 16
ウオーキング(銀座・築地・佃島)
<東年協/健歩クラブ・イベント>
日時:10月 4日(木)10時~14時
コース:JR・有楽町駅→銀座アーク灯碑→京橋大根河岸→歌舞伎発祥地碑→銀座地名碑→京橋自動電話交換碑→活字碑→本願寺→浅野内匠頭屋敷跡→アメリカ13州碑→あかつき公園・シーボルト碑→佃大橋→佃・住吉神社→月島駅(約5km)
有楽町に・・・
有楽町に集合
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久しぶりの参加である。あれ以来、そしてここのところ風邪気味で体調はイマイチでトレーニングもやっていない。
自信はないが、とりあえず踏み出さなければ始まらない。
この日は朝5時に起床、最寄り駅7時42分発、9時ごろに有楽町駅に着いた。
浜松町や田町へ行く場合は山手線の内回りを利用するが、さて有楽町へのルートは
①中央線・快速で神田乗換え、
②都営新宿線市ヶ谷でメトロ有楽町線に乗り換えるか
新宿駅での乗り換えは避けたいと思いつつも、それを選んでしまった。
今日の集合場所は東口改札口前と記されている。はて、駅の構内図を見ても東口
という改札口はない。
とりあえず、東側に向かうと、旗を持ったFさんが「あちらの方に集まってます」言う。
交通会館の近くに参集している。山手線で人身事故があったらしく集合時間を30分延ばすことになった。
駅の高架を新幹線が時間を空けずに走っていく。リウくんが喜ぶかもしれないと思いシャッターを押す。
おかげで私も500系だ、700系だという目で見るようになった。
”銀座発祥の地
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11時近くに、60名のウオーカーが歩き始める。
暇を見つけては街中を歩いているというMqさんと並んで歩く。子供のころもこのあたりをよく歩いたという。「私は子供のころは九州の山の中でした」と答えた。
「たしか丸の内線の駅は西銀座といいましたよね」
銀座のルーツを・・・
いつの間にか中央通りを歩いていた。今日は史跡めぐり、講師が都度説明をする。
アーク灯碑、ガス灯がついたときも世の中が急に明るくなったとか聞いたことがある。
銀座発祥の地と記された碑には「銀座役所跡」と書かれている。
講師「金座は日本銀行のところ、銭座は・・・・」。史跡めぐりは生活の歴史を紐解くようでもある。
続いて向かったところは「京橋の親柱」。
説明を聞こう
京橋の親柱
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京橋は江戸時代から日本橋とともに有名な橋で、橋は昭和34年に京橋川の埋め立てとともになくなった。しかし3本の親柱が残っている。
橋北詰東側、南詰西側に残る二本の親柱は明治8年当時の石造の橋のもの。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形、詩人佐々木支陰の筆により「京橋」「きやうはし」と彫られている。
南詰東側に残る親柱は大正11年にかけられた橋のもの。石、コンクリート造で、照明設備を備えている。
明治、大正、二つの時代のものが残り、近代の橋のデザインの変化が見られる貴重なもの。
江戸歌舞伎発祥の地碑、京橋大根河岸・青物市場跡という碑もあった。いろいろな野菜を上げた河岸があったそうだ。現在の街並みからは想像できない。
次はビルの壁面に「自動電話交換発祥の地」の文字が見え、その上にはリレー回路がアニメ風に描かれていた。
説明版には「わが国の自動電話交換方式の発祥は大正15年1月20日、旧京橋電話局の交換業務開始による。自動電話交換会氏50年に当たり京橋電話局跡であるこの地に記念碑を造り昭和50年1月20日除幕した。記念碑は当時の自動交換機の回路図の一部を図案化したもの・・・・」
そう、記念碑が出来て30数年が経っている。100年目にも
何か祝うのかな。
築地本願寺
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文明の発展の跡地をめぐって歩いている。現在の文明は橋げたの下には高速道路が走っている。
築地界隈
やがて中央区役所、築地警察署の前を通る。私の頭の中ではこのあたりの地図が浮かんでこない。
また、ビルの一角には「活字発祥の地碑」がひっそりと立っていた。この地で活字印刷が始まったらしい。
角を左に曲がりしばらく歩いていると異様な建物が見えてきた。築地本願寺である。我が家と同じ宗派だが、このお寺を訪れたのははじめてである。
建造物は日本の寺院というよりインド風の感じがする。
正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言うのだそうだ。不信心な私は我が家がXX派なのか自身がない。
浅野内匠頭屋敷跡
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インド風と書いたが、関東大震災で焼失した本堂は再建されるとき古代インド仏教様式を取り入れ昭和9年に竣工したという。
驚くことに本堂内にパイプオルガンが設置されて今では毎月1回ランチタイムコンサートが開催されるという。
本堂内正面には阿弥陀如来像のほか、聖徳太子像も安置されているが、入り口の上部にはステンドグラスもはまっている。
お寺も変わったというか、ここだけが変わっているのか・・・。
本願寺からいくつかの角を曲がったところ明石町の聖路加看護大学の近くに「浅野内匠頭屋敷跡」と「芥川龍之介生誕の地」が並んでいる。
浅野内匠頭というと忠臣蔵で切腹した赤穂の藩主が思い浮かぶが、その浅野家の江戸上屋敷がここにあった。
切腹したのは長矩で祖父の長直の代に常陸笠間から播磨赤穂に領地替えになり五万三千五百石を領し内匠頭を称した。
父長友の代に五万石となったそうだ。
芥川龍之介は明治25年にこの地にあった乳牛の牧場主(新原敏三)の長男として生まれた。
七ヶ月のとき母の長兄芥川道章に引き取られ12歳のとき養子となったそうだ。もしかしたら牛の世話をしてこの世に芥川龍之介はいなかったかも・・・。
文明開化の足音を・・・
聖路加病院
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ST.LUKE'S INTERNATIONAL HOSPITALと建物の入り口に表示されている。今やここは聖路加ライフサイエンスセンター、聖路加ツインタワー、・・・一大ライフエリアなのであろう。
聖路加病院の一角にアメリカ公使館石標がある。明治8年から23年3月に赤坂の現大使館の地に移るまでここ外国人居留地内に新築されたそうだ。
アメリカ13州碑、蘭学泉の碑、など文明開化のころの面影を残すものが次々と私たちの目の前に現れる。
築地七丁目にあるあかつき公園で昼食となった。
目の前の聖路加国際病院、ツインタワーを眺めながら園内の縁石に腰を下ろす。
公園の中央には噴水がある、その近くに水蒸気を発する穴がありそこから発せられた蒸気があたりを霧状に包んでいた。
シーボルト像がある公園
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公園の東側にシーボルトの胸像があった。
シーボルトと言えば私は、国禁の地図などを持ち出したシーボルト事件が浮かぶ。
しかし行為は日本にとっても有益だったらしい、説明を読もう。
シーボルト(1796~1866)はオランダ商館の医員として長崎に1823年に来て診療の傍ら塾を開いた。
3年後、商館長とともに江戸に向かい日本橋の長崎屋に止宿し、一ヶ月の滞在期間中江戸の蘭学者に面接指導する。2年後の文政11年(1828)シーボルト事件が発生、日本から追放された。30年余り後の安政6年(1859)幕府顧問として再来日したがまもなく帰国しミュンヘンで没した。来日した安政6年は安政の大獄の真っ只中である。
このあたりが江戸蘭学の発祥の地であり、彼が長崎でもうけた娘イネが築地に産院を開業した。
近くには「電信創業之地」碑が立っている。
明治2年12月25日、横浜との間で開通したそうだ。
新・旧佃島
がんばってる・・・
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隅田川の河畔、明石町河岸公園に入る。佃大橋が見えその向こうに高層住宅が10棟近く空を覆っている。頂いた地図を見ると、佃リバーシティ地区、XXXXタワー、○○タワー、□□タワー、◇◇◇タワー・・・・と記されている。その異様な姿に驚く。そういえば数年前、ウオーターフロントと言う言葉をよく耳にしたがこのことだろうか。
佃大橋の袂に「佃島渡船」の碑があった。
佃島は自然に出来た寄洲で、徳川家康が摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いたとの伝えられているそうだ。ちなみに大阪の地図を広げてみると神崎川と左門殿川に囲まれた島が「佃」となっている。ここが元祖佃なのだろう。
佃の渡しは将軍家光のころ、大橋の西詰あたりと島の間を行き来したという。
昭和2年には、無賃の曳舟渡船となり、昭和39年8月佃大橋が完成し渡船は廃止された。東京オリンピックの2ヶ月前ということになる。
佃大橋を渡り、歩が島に近づくころ、島の水際に高層住宅に対抗するかのように2階建てくらいの民家が見えてきた。
佃島と聞くと「佃煮」を思い浮かべるが、民家にはそれを製造しているらしい看板が掲げられている。
佃一丁目に入ると狭い佇まいだが、古き良き町並みの奥に住吉神社がある。この神社の鳥居の扁額は珍しい陶製で明治15年製だとか。
境内には「東洲斎写楽」終焉の地碑が立ち、近くには「鰹塚」があった、鰹節が作られていたのだろうか。
人ひとりがようやく通ることが出来る民家の路地というか軒下と言おうか、そこの途中に「佃天台地蔵尊」が祀られている。
後で聞いたところこの路地は公道だそうだ。
ふたたび佃大橋の通りに出てしばらく歩くとゴールの月島駅に着いた。
反省会はパス・・・
今日の反省会は、月島でもんじゃ焼きを食べながら・・・らしい。
私は久々のウオーキング、反省会はパスすることにして地下鉄有楽町線に乗った。
市ヶ谷駅で都営新宿線に乗り換えるつもりだったが、後方に乗ったため乗換え口が見つからず、地上に出てJRで新宿へ向かった。
お疲れさん