臼井城址から眺めた印旛沼
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長源寺
およそ1時間弱の電車の中も参加者との談笑で時の経つのを忘れる。 10時17分、京成臼井駅着。遠くの住宅の屋根の上は雪で真っ白だ。 千葉県・F市在住のOさん、Mさんにあいさつ。「来ましたよっ!!」 北口の住宅街を通る、道路の日影や車の上には昨夜からの雪が残っている。 坂道を登ってまた下る、長源寺についた。山号を龍澤山という。 屋根の上や、頭巾を被ったお地蔵さんの頭も白い雪が・・・ |
阿多津(おたつ)の碑
狭い道をいくどか曲がり、臼井小学校の正門に達した。 ここは長島茂雄氏が卒業したところだそうだ。正門脇の塀に名前を刻んだ石板がはめられていた。 この門塀は氏が寄贈したものという。 今日のリーダーのひとりHさんに話を伺うと、「いやぁ、下見のときに道を間違えた」と言う。 まぁ、よくぞリードしてくれると感心する。 畑の一角に「碑」が斜めに立てかけられている。この地の説明には「阿辰」と書かれていた。 碑の隣にお墓があった。 |
臼井八幡神社の御神木
県道から分かれてやや狭い道路を歩く、内水面水産試験場という施設がある。 印旛沼の水質を試験しているとか、今日はパスだそうだ。 八幡台の住宅へのゆるい登り坂を進む。 住宅の台地に囲まれたくぼ地に社が鎮座している。近くには古いお墓らしい石塔が立っていた。 公園で小休止のあとしばらく歩くと、うっそうとした森に囲まれた臼井総鎮守八幡社があった。 境内には今では枯れてしまった大樟が御神木として保存されている。 臼井城主の興胤が1338年に八幡社を祀り植えたものだが、115年前に枯損したそうだ。 |
太田図書の墓
臼井城址は公園になっている、そこへ続く道の傍ら少し高くなったところ(土塁)に大きな石塔が立っていた。 太田図書の墓だ。 図書(ずしょ)は太田道灌の弟、1478年ここ臼井城を攻めたときここで討ち死にしたという。 530年前のことだ。 ついでに記す、太田道灌は「山吹」と江戸城で有名だが、たしか伊勢原市に首塚があった。 500年前将兵が関東一円を走り回っていた・・・。 「わーあっ・・・」という下っ端の叫び声が聞こえてくるようだ。 |
臼井城址
臼井城は1114年に築城され、約450年間臼井氏が治めたが、1593年焼失した。 城跡は本丸と二の丸が残っている、二の丸から本丸へ向かうところには土橋の面影を残している。 ウオーカーの大半は本丸の方に向かい三々五々腰を下ろし昼食をとりはじめた。 土塁、空掘りには昨夜から降った雪があちこちに残っている。 風が多少吹いているが日差しが暖かさを包んでくれる。 城址は高台となり、崖の下には住宅が見える。その向こうには印旛沼の青い沼面が広がる。いい眺めだ。 |
臼井城址の桜は・・・
私も木々を背に枯れ草の上に敷物を置く。 「Mさん、今日はお箸で食べるんですね」 何回か前から冗談を言っている。私もそうだがいつもコンビニのオニギリだから 、今日はパック入りの弁当だ。 早々と済ませると、私はそれほど広くない公園内を歩き回った。 空堀、土橋、土塁には大きな木が数本並んでいた。 城址の端には桜の木があった。芽を探してみるといくぶん膨らんでいる。 やはり春は待ち遠しい。 |
雷電為右衛門の碑
午後は、京成臼井駅への帰路だが予定になかった”実蔵院”と”雷電の碑”に寄って雷電の墓へ向かう。 「ここはやけにアップダウンが多いね」 八幡台、臼井台、稲荷台などの町名が多い。 坂を上ったかと思えば階段を下る。休憩のための公園は丘の上にある。 雷電の碑は住宅が並ぶ小さな公園の一角にあった。実物大の手形に自分の手を重ねてみる人もいる。 お墓はまた別の所にある。 雷電為右衛門は江戸時代の力士だが出身は信州だとか、この地は奥さんの出身地と説明があった。 |
ウオーキング
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