オーキング
05. 3. 21
観梅記 Ⅱ(高尾梅郷)


山は梅花一色
暖かさに浮かれ
東京のサクラの開花予想は3月27日と2日早まった。話は変わるが東京湾岸沿いは他地域より早い。梅が咲き続ければ梅桜同時に花見が出来そうだが、観梅は今の時期がベストだろう。16日は天気予報でも暖かいと報じていたので高尾梅郷に出かけた。
高尾梅郷は高尾山の北麓を通る旧甲州街道の周りに点在している。この日は東から「関所梅林」、「天神梅林」(梅郷遊歩道)、「湯の花梅林」(梅郷遊歩道)、「木下沢梅林」、「小仏梅林」を訪ねた。
このほかにもちょっとした空き地に梅林があったり、民家の庭にも梅の木があったり、街道筋にも並木のように植えられていた。高尾山北麓は梅の谷といえそうだ。
しかし梅林の名前が表示されていなかったり、案内板が整備されているわけではない、実は「小仏梅林」がどこにあるのか探しきれず見たという実感がないのだ。
近くのお寺で「梅林はどこか」と尋ねている人がいた。やはり分かりにくいのだろう。

民家も梅花一色
往き
10時少し過ぎに家を出て、いつものように高幡不動駅まで歩いた。ちょうど高尾山口行きの各駅停車の電車が来た。10分後に準特急があったが各駅停車もいいかなと思う。
ひとつ手前の高尾駅で降り、JRの改札口から甲州街道にでる。駅前には花屋さんが何軒かあって墓参用の仏花が並んでいる。ここには霊園が多い。
目的地までの道のりをだいたい頭に入れておいたので甲州街道を西に向かう。だんだん山が迫ってくるようだ。約1km行き西淺川という交差点を右折し旧甲州街道に入る。 道幅も狭い、ここらは駒木野というらしい。その名前のついた病院もあった。アルコールという文字が目に入る、お世話にならないようにしなければ・・・。
まもなく道の右側にまとまった梅の木があった。小仏関跡の碑や駒木野宿の碑が建っていた。
小仏関は国の指定史跡になっている。戦国時代は小仏峠にあったが、武田、今川、織田氏が滅ぶとふもとに移され、北条氏の滅亡により現在地に移り整備されたそうだ。明治2年に太政官布告で廃止された。

サンシュユも咲き乱れ
梅林
ここが 「関所梅林」だ。 この梅林には写真のような大きなサンシュユの木も花が満開のようだ。
草、花や木に疎い私はこれがサンシュユとは知らなかった。私より年長と思われるの男性に尋ね初めて知った。私「五木の子守唄に出てくるアレですか・・・」。男性はまた「実を採るための梅林は白梅が多いが、ここには紅梅をありきれいだ」と言っていた。
世田谷から来た男性は街道を下ってきているところだそうでそろそろ鼻がムズムズしてきたと言って遠くの茶色に染まった杉林を指さした。

さあ私も今日は杉花粉症が発症するか試されるのだ。
男性が教えてくれた川沿いの梅林遊歩道に出かけてみることにした。小仏川の左岸に沿って梅の花を見ながら歩くやがて右岸に渡り杉木立の間を抜ける。
小仏川の左岸には築後間がない住宅が並んでいる。山あいの雰囲気に浸りたいのでなるべくこの方を見ないようにする。
足元があまりよくない右岸は遊歩道とはいえお年寄りには少々きびしい。
やがて斜面に白梅林が見えてきた。ここが「天神梅林」だろう斜面の上の方に高尾天満宮という社が見えてきた。

梅花之下昼食
もとの道にもどり小さな橋を渡ると「湯の花梅林」だ。ここに梅林の案内板が建っていた。
蛇滝まで30分、小仏梅林まで40分と表示されている。 とりあえず蛇滝を目指す。右手の高台に千代田稲荷が見えるので、また寄り道をする。もとの蛇滝への道は途中まで車が通れるほどの道幅だが勾配はかなり急である。
修験場のすぐ下に車がとまっていた。修験場を過ぎたところで人ひとりが通れる山道となった。ここでUターンする。

再び旧甲州街道を西へ摺指、裏高尾、日影などのバス停を通り過ぎ中央線のレンガ造りのガードをくぐり右の坂道を登ると、中央道の北側に「木下沢梅林」が見える。山一面、梅花一色と言ったところ。
さて旧甲州街道を小仏めざして進むが、バス停あたりにもこじんまりとした梅林はあるが、「小仏梅林」らしいものは見当たらない。
やがてJR中央線が旧道より低い位置になり、トンネルに入る。トンネルの上にお寺があり境内に都天然記念物のカゴノキがある。幹囲4m、高さ23mの大木は周囲を圧倒している。
さて道はまだまだ登り、右手の中央自動車道と同じ位の高さとなる。道は小仏峠へと向かうが、この先は別の機会としよう。

帰り
ひたすら高尾駅を目指して降ることになる。このようなとき私はいつか着くだろうと思いつつただ歩を進めるのみである。
16時少し前に自宅に着いた。本日の歩行は19300歩、約14~5km。グーっと喉を潤す。


ウオーキング