オーキング
05. 4. 1
ウオーキング(in 早稲田)

京王沿線ウオーキング「花と緑と歴史をめぐる」

日時:3月 26日(土)9時30分~12時
新宿駅→鬼王神社→小泉八雲終焉の地→水稲荷神社→廿泉園→穴八幡宮→厳島神社(抜け弁天)→西向天神社→花園神社→新線新宿駅

スタートまで
この日の京王ウオーキングは今年度最後である。といっても20日もすれば2005年度の第1回が始まる。
今回は前記したルートのとおり新宿から大久保、早稲田あたりで未知のルートである。新しい発見が楽しみな反面、人込みのところが苦手な私は少々億劫でもある。
この日は幸い天候もよかったので、受付開始時間の9時半を目指し朝早く起床した。といっても6時半だが・・・。
8時50分の急行に乗り新宿駅には予定通り着いた。改札口が多い新宿駅での受付場所を探すのは大変である。ゴールの受付が新線新宿駅、スタートはJR連絡口ではなく西口だろうと思いながら階段を上る。
出口を間違えると受付までに5、6分の時間はまたたく間に過ぎてしまう。大きな駅はいやなものだ。
改札を出て見渡すが、受付らしい場所は見当たらない。改札は機械式だから、駅員を探し尋ねる。
なんとか受付を済ませ頂いた地図を見ながら準備運動。見渡すとかなり参加者らしい人が多い。
最近の健康ブームの影響だろうか。

八雲記念公園
鬼王神社から水稲荷神社
地上に出て人ごみをかき分けて大ガードの交差点を右に曲がる。信号待ちの間、地図で次は「新宿区役所前の信号を左へ」とあるのを確認する。さすが若者の町、いろんな格好したのが多い。野球帽かぶってリュック背負ってスニーカーはいている私などは彼らから見るとホームレスに見えるかもしれない。
さてどのくらいの距離だったかな。
指定された通りに曲がるとやや人通りは少なくなる。少々場違いな感じがするガッシリした区役所に続いて立ち並ぶ雑居ビルの入り口は昨夜の賑わいのあとが残されている。
しばらく歩くと右方のビルの谷間に鬼王神社が見えてきた。
この神社は新宿山の手七福神の恵比寿神を祭っている。境内には平成16年11月に復活した「天水琴」がある。雨水を甕に溜め、少しづつ水琴窟に注いで音を奏でるもの。また「水鉢」は区の文化財に指定されている。文政年間(1818~1829)に作られたものでうずくまった鬼の頭上に水鉢を乗せたもの。
鬼王神社を出て広い通り(抜弁天通りと後で分かった)を横断し細い道を歩くと右手に「小泉八雲終焉の地」と記された碑があった。転記しよう。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年ギリシャのレフカダ島に生まれ明治23年、アメリカの新聞記者として来日。その後記者をやめ小泉セツと結婚、松江、熊本で教鞭をとった。
明治29年日本に帰化し東京帝国大学、早稲田大学で英文学を講じながら「怪談」など幾多の英文による名作を執筆した。
明治35年市ヶ谷富久町からこの地大久保に居を移した。明治37年9月26日、妻子の身を案じ自分の仕事を気にしながら「ああ 病気のため・・・」悲愴な一語を残し帰らぬ人となった。時に54歳であった。以下略
少し離れたところに小泉八雲記念公園がある。

ついでながら、私はこの通りに10年以上も前に亡き家内と訪れたことがある。その頃家内は膝を痛めていて治療の器具を購入するためだった。私にとっても「ああ・・・」である。
廿泉園
戸山公園を抜け、諏訪通りに出て諏訪神社に立ち寄る。西早稲田の交差点には説明板がありこのあたりに「高田馬場があった」と記されていた。
それによると馬場は寛永13年(1636)に旗本たちの馬術練習のために作られた。後に北側に待つ並木が作られ、農民が人出の多いことを見こし茶屋を開き八軒があった。
馬場の一角茶屋町通りに堀部安兵衛が叔父の決闘の助太刀をしたところがある。

西早稲田の交差点を北上し甘泉園という公園に着いた。

甘泉園から抜け弁天
甘泉園に入る前に水稲荷神社に参拝する。水稲荷神社に若い男性がお参りしていた。
都電・早稲田近く
稲荷神社とはいえかなり大きな神社で、941年に観請したのが始まり、富塚稲荷、将軍稲荷ともいわれたそうだ。境内には聴松亭という徳川家の遺構や大田道灌の駒繋松というのがある。ついでながらこの一帯を山吹の里というそうだ。
先ほどの若い男性がまた参拝していた。たぶんお百度参りというのだろう。若いのに感心。

甘泉園という名は園内に湧き水があり、清冽で茶に適したところから起こったという。この地は江戸中期、徳川の御三卿の一つ清水家の下屋敷がおかれた所。戦後、都から区に移管されている。北側には新目白通りを都電が走っている、さらにその北には神田川が流れている。その新目白通りを東に向かい早稲田大学を囲むように進む。八重桜だろうか咲き乱れている正門前の通りから「馬場下町」の交差点に立つと、正面に穴八幡宮が見える。
穴八幡宮
この八幡宮は1636年、松平直次が射術の練習のため的場を弓矢の守護神として祀ったのが始まりだそうだ。
お城のような大きな石垣の脇を降りていく。交差点を渡って右手の戸山公園での野球の歓声を聞きながら箱根山通りを上って行く。統計局前の信号を通り更に進むと抜け弁天通りに出た。通りの向こう側に小さな厳島神社(抜け弁天)の社が見えた。
境内の由来書には次のように記されている。 白河天皇の御代応徳3年(1086)源義家は後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。奥州鎮定後、その御礼に神社を建てた。
江戸時代、参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から抜け弁天として庶民から信仰され江戸六弁天の一つに数えられている。
以下略

厳島神社(抜け弁天)
西向天神からゴール
さてゴールまであと2km少々となった。文化センター通りという名の通りからすぐ脇の通りに入ると、左手の丘の上に西向天神という社が見える。階段を駆け上がって参拝し元の通りに戻る。地図の説明にはこの神社は1228年に観請されたのが始まり。大宰府の方に向かい社殿が西向きに造ってあるために昔から西向天神と言い慣らされた。
境内には今人気の歌手宇多田ヒカルの母、藤圭子の歌碑があると記されている。
新宿六丁目の交差点を左に曲がり明治通りを進む。すぐ右手に花園神社の社が奥まったところに見える。ここにも藤圭子の歌碑があるそうだ。花園神社は芸能浅間神社と呼ばれているらしい。
話は違うが、わざわざ宇多田ヒカルの母と記されていることが時代を感じさせる。ウオーキングはいよいよ最終楽章だろう。新宿五丁目、三丁目の交差点を通り四丁目の交差点を右折し、甲州街道を歩いて新宿駅にたどり着いた。


また四月から8回が計画されている。


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