オーキング
05. 5. 1
ウオーキング(in 大栗川)

京王沿線ウオーキング「マイペースで沿線景色を楽しむ」

日時:4月 16日(土)9時30分~12時
京王堀之内駅→大栗川遊歩道(番場公園・宮田公園・和田公園)→中和田天神→清鏡寺(大塚御手観音)→百草台公園→百草園→六地蔵→聖蹟桜ヶ丘駅

スタート
新年度の京王ウオーキングが始まった。今回のウオーキングは一部を除いていつもウオーキングしているところである。
スタートの京王堀之内駅まで歩けば45分くらいだろうと思い受付開始の9時半から逆算し9時少々前に家を出発した。
ルートの最初の所は重なっている、9時過ぎ頃にはもう歩いてくる列がある。ウオーキングの人たちとぶつかるので川の反対側にまわる。
いかにウオーキングが地元住民に迷惑をかけているか心しなければならないと痛感した。

大栗川畔の和田公園
大栗川遊歩道(番場公園・宮田公園・和田公園)
ウオーキングをはじめた人とぶつからないように少々遠回りをして京王堀之内駅に着き受付を済ませる。
駅前の通りを東に向う。1年位前まではテレビ局のスタジオがあった場所には新しいマンションが出来たばかりだ。広告が出ていないということは完売なのだろうか。
この駅前通りは母が入所していた施設に行くとき車でよく通った道だ。歩きなれた道を多少急ぎ足でウオーキング中の人を抜き去り大栗川に出た。川畔の遊歩道(地図の説明では大栗川遊歩道となっているが、現地の標識石には「由木緑道」と刻まれていた)の桜並木もピンクから黄緑が混じり始めている。まもなく遊歩道沿いに番場公園が見える。今日は昨日に比べ幾分寒く感じられる。地図に記されたとおり、番場橋を左岸に渡る。この辺りは両岸とも遊歩道が整備されている。
この遊歩道が整備されたのも数年前でその前は石ころの多いところだと記憶している。
いつもウオーキングして見慣れた景色だと何の感想も浮かんでこない。
次は洗馬川橋、名前からすれば昔、馬でも洗ったのだろう。そういえばこの辺りは平安時代小野牧の一部があったとも推定されている。牧とは官営の牧場で馬を育てていたとか。堀之内という地名もカコイの中といういみだろう。
東中野橋という橋の手前で遊歩道の形はおわり、これから先は砂利の多い土手路である。市の端には遊歩道も恵まれていない。少し北側に由木東小学校があるが、この学校の前身はかなり古いようである。
さて遠くに見えていたモノレールの高架橋の近くに来た。モノレールは野猿街道から多摩センター方面への都道上につくられている。
大栗川沿いに都道を横断できないので迂回して宮田公園に向う。この公園の側はいつも通るが中に入ったことがない。さらに川沿いを下るがこのあたりは遊歩道が整備されていない。段丘のようなところを歩く。
写真のように現在の大栗川は真っ直ぐだが以前は曲がりくねっていたようだ。
清鏡寺(大塚御手観音)
なんとも無粋な川だろうと思ったことがある。やがて多摩市にはいり桜も多少残っている和田公園に着いた。
近年出来た 中和田橋という歩道橋を渡り野猿街道に出る。再び西の方向に逆戻りすると中和田天神という小さな社が街道から奥まった丘の中腹にある。
昔は何度か参拝したが最近は失礼していたので、立ち寄ってみる。
ウオーキング用に配られた地図の裏面に記載された説明によると、
この社は正式には中和田天神天満宮という。祭神は大宰府の菅原道真公。25段の階段を上がったところに社殿があり、今年1月に新しくなった。小さな池もあり、隣には稲荷大明神もある。
天満宮などの社は平安・鎌倉時代の道しるべでもあったということを聞いた。その頃官僚などが旅をしなければならないときの宿のような機能もあったのかも知れない。したがって社の側には必ず古街道があったらしい。、
さて野猿街道に戻り信号を右に曲がり、帝京大学の近くに清鏡寺(大塚御手観音)というお寺がある。説明から引用するとご本尊の観音様は840年前、播州赤穂高藤守藤原阿尊が関東巡礼の折、当地で夢枕に現れた観音様が手をひとつ出してこの手を鎌倉の仏師に彫らせた千手観音という。
観音堂に向って右側(写真ののぼりばたの右)に斎藤一諾斎の顕彰碑が建っている。 斎藤一諾斎はもと僧侶だったが新撰組の隊士に志願し、戊辰戦争のあと仙台で隊を離れここ由木にもどり子供の教育にこの清鏡寺で携わったそうである。そのときの学校が由木東小学校の前身といわれている。子弟の教育に対し感謝の意を込めて顕彰碑が建てられたという。
ついでに記せば堀之内の保井寺に墓所がある。

大塚観音から百草八幡へ
百草八幡神社
御手観音からもとの道に戻り百草団地へ向かう。 右手は小高い丘になっていて帝京大学が山の上にキャンパスがある。
この通りは日曜日以外は学生に通りが 多く警備員のホイッスルの音がいつも聞こえてくる。
さて道路も急な上り坂になり峠あたりで多摩市に入る。竜が峰通りというこの道路から左に折れて団地の西端の道を 進む。団地の集会所の空き地で皆さん、急坂で疲れたのかひと休みしている。私も腰を下ろしていると隣に少し年長の ご夫婦が座った、話によると北烏山にお住まいだとか、しばらく寺町通りやウオーキングのお話して立ち上がる。
団地内のメーンストリートに戻ると表示は見つからないが日野市である。バス停「百草センター」を通り過ぎ「七生丘陵散策コース」の指標にそって進む。百草台小学校の横を過ぎ、浄水場の脇の狭い道を上ると百草台公園に着く。このあたりの最も高い所で見晴らしがすばらしく、左手には高幡、日野方面、右手には多摩ニュータウンの愛宕方面の建物が見える。地図の説明には天気のよい日に新宿副都心や富士山が遠望できると記されている。
頂上から降るとそんなに広くないが草花が、今はチューリップ咲き誇っている
三沢台小前という信号を右折し中層住宅の間の道を上り、こんどはマンション建築中脇の急勾配の道を下る。 このあたりは台地なので当然、道もアップダウンが多い。野菜を売る無人の小屋を右に見ながら上り坂に向う。 この道は桝井坂といわれている。道脇に日野市の由来板が立っており、次のように記されている。

この緑地の西側、山路に囲繞された台地は古くから桝井の旧跡と語り継がれ、地元では作業場の別名で呼んできた。百草八幡宮社殿修復の度毎に大工達が木どりを行ったことに因ると言われた。この台地には大昔、椎や樫、杉などの巨木がうっそうと生い繁り、その根方から清冽な水が湧き出ていた。人々はこの湧水源を桝井と名づけ、桝井の名はやがて八幡宮や古代松連寺の山号に用いられた。山の南斜面の中腹の民家をマシイ、その下をマシイ下と呼び夫々の家号(いえな)として来た。
百草の田園風景
また八幡宮下から百草観音に通じる坂路をマシイ坂と呼ぶ。マシイはマスイ(桝井)の土地訛りである。その後巨木の倒損、伐木等により この湧水は次第に衰え、やがて路傍にその痕跡を留める姿に変わってしまった。桝井の原泉跡については昭和45年に精査されたが、所在を確認することは出来なかった。

桝井坂を上った所の山道の更に高台に百草八満宮がある。

百草八幡、百草園からゴール
石段を登ると途中の踊り場に両部様式の木製鳥居がある。なぜこの様式なのだろうか、少し気にかかりカメラに収める。
更に石段を登ると社殿が見える。右手の少々窪地には京王百草園、斜め右にはうっそうとした木々が生い繁っている。 百草八幡宮は由来板によると、その創始は康平5年(1062)、源頼義が勅により、陸奥の国に出向の折、山城国男山八幡の土を携え来り、この百草の山頂に埋めて神を祀ったと伝承される。即現在の百草八幡宮だそうである。
六地蔵
先ほどの由来板にも記されていたが、百草園の裏山からこの八幡神社境内にかけてシイノキが群生している。幹周り1m以上のものがおよそ60本あるという。
シイノキの他にシラカシ、アラカシをまじえており、多摩丘陵の中でもめずらしい常緑樹林だそうだ。
この地のシイノキはスダジイで本殿裏山には根廻りの幹周囲が6.15m、高さ18mもある大木がある。このほか樹齢3~400年のと推定される大木があるそうだ。
その裏山には古城郭の主郭が、さらに北方には新城郭の主郭あったらしい。
境内には阿弥陀如来坐像が安置された社がある。この坐像(銅造)は武蔵国多西郡吉冨郷の真慈悲寺(廃絶)の僧侶が建長2年(1250)源氏一門の願により造立したものだそうだ。
さて八幡宮をでて京王百草園の前の通りから右の細い道に入る。園の前の通りを真っ直ぐ進めば百草園駅にでることができる。ゴールまであと2kmと記されている。
更に細い農道に入り畑の間を進み、急な下り坂の手前にお地蔵さんが6体並んでいる。まわりを見渡すとこれでも東京かと思うほどの田園風景が広がる。
さらに農道を下ると新興住宅が立ち並ぶ間に出てきた。この辺りを私は余り歩いたことがない。車が通れるがそれほど広くない道をさらに下る。ほんとに下るという感じであるのはそれほど百草八幡の鎮座するところが山の上ということだろう。
やがて見慣れた街道に出て残り1kmくらいでゴールの聖蹟桜ヶ丘駅に着く。
ゴールしたが、私は家まで歩いて帰らねばならない。踵が痛いと思って見ると靴下、ズボンの裾に血が滲む。
本日の歩行は23000歩だった。お疲れ。


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