オーキング
05. 5. 11
古道ウオーク(奥州古街道 Ⅱ)
奥州古街道と小山田の里~義経と小山田一族 partⅡ~

歴史古街道団
前回、初めて参加し知り合ったKさんに薦められ入会した。
この日の古道ウオークは南側の相模国から奥州古道などを歩いて「小山田の里」へ迫るルートのpert2である。ウオーク記を記してみたい。
<<付記>>講師説明のキーワードをメモし記憶と写真から道中記を以下に記しているが細部は誤りがあるかもしれない。
箭幹八幡宮

ルート
ルートは町田市・矢部八幡宮、リサイクル文化センター、小山田緑地、多摩市・南野の一本杉公園が終着地という。 JR横浜線・淵野辺駅から北東方向に道路が伸びているが、ここのあたりに奥州古道があったという。

相模国から箭幹八幡宮へ
集合場所は淵野辺駅、ここ相模国からバスに乗って少々、たしかバス停の名称は「矢部八幡前」だった。
八幡の少し南に戻り境川のほとりでこの川の由来等の説明がある。昔高座川、高倉川と呼ばれたこともあったが、安土桃山時代に境川と名前が変わったそうだ。境川は津久井郡の城山湖付近に端を発し相模湾に注いでいる。名前のとおり相模国と武蔵国の国境になっている。現在も神奈川と東京の都県境になっている。
すこし北、一山をこえた小山田を流れる鶴見川は東京湾に流れこむ。さらに西を流れる相模川と境川に囲まれた部分は高座郡と呼ばれていた。現在は郡名が残るのは町や村しかなく、高座郡寒川町にのみ見ることが出来る。高句麗からの移住者がいたとも言われているようである。
さてこのあたりは八幡平と呼ばれていたようだ。矢部八幡という名前を聞いて、そこそこの神社だろうと思っていたが、どうしてどうして大きな社である。正式には箭幹八幡宮という。祭神は応神天皇、配祀、神功皇后。境内の碑にはおおむね次のように刻まれている。

康平5年(1062)源義家安部氏を討ち奥州より帰る途中木曾に宿り病にかかって毎夜悪鬼に責められる夢を見た。当社に祈願したところ夢に神翁が現れ悪鬼を射倒すと見て病怱に快癒した。
ここに於いて本宮、末社に至るまで尽く再興して神恩に報いたと言い、この時屋根に羽衣を挿入し、又境内に矢竹繁茂せるを以って箭幹八幡宮と名付けこの地を矢部と称したと伝えられる。
馬欠窪
保元平治の乱に敗れた源義賢は大蔵に拠り、これを迎撃した源義平は木曾仲三兼任、渋谷金王丸、鎌田正清等率いて図師原付近
(図師交差点の南あたり)にて会戦した。勝敗容易に決せず両軍乱戦死闘、義平の軍危うしと見えた時、突如老翁と童士現れ矢を拾って郷土軍に授けた。ここに於いて将兵等八幡宮の化身ならんと神意を恐れ遂に社前に和睦を誓った。
この時甲冑矢の根を埋めた所を根岸と名付けた後、小山田有重所領十七郷の総鎮守として尊信篤く社地建造物の寄進も多く社参道に今も鳥居坂の地名が残っている。
寛文5年(1665)代官高木伊勢守、大鐘を鋳て鐘楼にかけた後、代官簗田隠岐守亦社殿を再建して領民とともに盛大な祭儀を挙行した。明治に至り宮号は廃止されたが戦後再び古名を復した。


碑にもあるように神社であっても鐘楼がある。神社に鐘?という気もしたが明治以前は神社と寺院が一緒に祭られていたそうだ。
八幡神社は全国に3、4万あるという。講師ガイドの話によれば昔人は、この八幡神社を旅の中継地として旅をしたという。

鳥居峠を越え有重夫人祠る神社から馬場窪へ
向うの山に小野路城が・・・
手前は日大三高
広い境内を抜けると町田街道にでる。桜美林大学の間の坂を上り北東方向にさらに住宅地を進む、奥州廃道がこの辺りの尾根を通っていたという。尾根緑道という遊歩道の入り口がある。戦時中、戦車道といわれたところを整備したもので昨年歩いたことがある。尾根道というくらいだから高いところだったのだろう。講師ガイドは昔は旅をするとき山などを目印としていた、したがって高いところを通ることが多かったと説明し、はるか丹沢山系が望める高台に案内してくれた。
リサイクル文化センターという再生品をつくり販売している福祉施設があった。その横にある公園で昼食をとることになった。公園には中央に大きな岩が数個配置されている。一瞬石舞台をイメージしたが残念ながら単なる置石のようである。その置石に腰を下ろしまだ少し残っている八重桜の下で昼食をとる。
1時間の休憩後、歩を進め奥州廃道があったという現在の道路を歩き、なんでもないところにもそれらしき雰囲気を感じる。昔人もここで眺めたであろう鳥居峠から町田市外を遠望する。すぐ真下に馬欠(まがけ)という窪地がみえる。いまは芝溝街道(津久井往還といったそうだ)に馬駆という交差点やバス停がある。

鳥居峠を越え今は住宅街となっている道路を鶴見川がつくる谷に向かい下る途中、手前の小高い丘には日大三高の白亜の校舎が見えた。その向うの山波には小野路城があったという。
有重の正妻を祀る小山田神社
鶴見川のほとりには蓮田がひろがり、田の間に小さな社が見える。
昨年この地を歩きこの社にも立ち寄ったがそのときは地図も持たず、多少不安な気持ちになったが北の方向へ行けば帰れるだろうと歩いたことを思い出す。
この社は小山田神社という社名だが、地図には「嶽の内御前神社」と記されている。昔の地図を見るとこの辺りは竹ノ内という小名が記されている。境内には末社などが数社並べられその脇に発掘された品などが鍵ののかかった建物のガラス戸から覗けるようになっている。
小山田神社は小山田有重の夫人を祀った社だそうだ。小山田有重は承安年間(1171~4)、秩父桓武平氏・平有重がこの地に来て牧の管理者となり小山田別当有重と名乗ったそうだ。 牧は朝廷直轄の馬の飼育場で今でもこのあたりにそれに関わったような名前、馬場(ばんば)、馬欠(馬駆:まがけ)、馬場窪などが残っている。
蓮田を横に見ながら鶴見川を渡りやや広い道を歩きまもなく狭い山道を登っていく。道の両端は木竹が生い茂っているが雨水などで崩れかけており、昔の道はもう少し高い位置だったらしい。
やがて眺望が開けて、運動場のようなところに出た。現在は都立小山田緑地の一部になっているが、馬場窪と呼ばれ「扇谷上杉の軍馬の牧」ではないかと説明される。
馬を走らせ調教していたのかもしれない。

奥州廃道を馬場窪へ
馬場があったと思われる馬場窪
小山田緑地はかなりアップダウンがある。小高い丘の上に砲台状の場所があり、ここには物見塔跡ではないかと推定しているそうだ。少し西の方は塔ヶ谷戸と呼ばれていたそうだ。配られた古い地図には塔谷(トーガヤト)と右からの文字が記されている。物見塔の西の谷をそう呼んだのかも知れない。

いっときの休息のあと東の谷へと下っていく。途中に土塁状のものという鬱蒼とした木々の間に少し盛り上がった場所を見る。言われてみれば、そうかと思うがただ漫然とウオークしていたのでは気づかないだろう。また少し下ったところでは山道の端、数か所でにここに窯があったという。そんな道を下って小山田緑地の沼地に出てきた。溜池、上池、下池という名前が付いている。
白山神社が見えてきた時に時刻はもう4時を過ぎているが目的地の一本杉公園はまだまだである。講師ガイドは本日はここで終わりにしようと言う。私も少々疲労感を憶えてきた。

万歩計の距離を確認しても10kmに達していない。帰りは皆さんと一緒に近くの扇橋というバス停から多摩センター駅までバスに乗った。なぜこんなに疲れたのだろうバスの中で少し考えてみた。
  • アップダウンが多かったから?
  • このウオークは自分のペースで歩けないから?
  • 歴史を吸収しようと気を張ったから?

    まっ、いいか。



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