ウオーキング
05. 6. 1
ウオーク(内堀・愛宕通り)
九段下
ゴッホ展
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5月の下旬のある日、三田で30余年前の職場の同窓会が開かれた。
ついでに国立近代美術館で開催されている「ゴッホ展」を見ようと甘い考えで出かけた。都営新宿線の九段下で下車、北の丸公園の田安門を通って美術館へ。武道館の前にも無数の若者たちが座って、コンサートを待っているようだ。
美術館近くに近づくと、いやな予感がした。公文書館前あたりから人が並んでいる。美術館の前に行くとそこにも人波が渦のようだ。
並んでいるのは入場制限されているからだろう、私も並んでみようかと思ったが何時になったら入場できるかわからないし、たとえ入場したとしても人の流れに押されて、人の肩越しに見ることになるだろう。とても鑑賞できる状態ではないと思い諦めた。
自分もその一人だが、日本人のゴッホ好きは有名だ。しかしここまで並ぶほどとは・・・・。
内堀通り
さて、夕方までどうやって時間を潰すか。皇居東御苑はこの日、閉園している。通りを南下しながら公園で瞑想するのもいいか。
和気清麻呂像
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小さな公園で名前があったか否か記憶はないが、銅像が建っていた。この像は昭和13年に建てられたようだ。少し離れたところに説明の鉄製の碑が建っている。和気清麻呂という文字が見える。お世辞にも見やすい説明とは言えず、国難を排するため・・・という意味の文が記されている。
近くで腰を下ろしてお堀の方を眺めていると、いろんな人が像が誰だろうかと周りを回って、ようやく説明碑に気づく。
年配の親娘がきた、母親の方が碑を読んでいる。やがて像を一周した娘が「誰?」と言っている。母親は「そこに書いてあるよ」。
それほど分かりにくい説明碑なのである。
和気清麻呂は私が少年期を過ごした北九州・小倉にも伝承がある。小倉の東部に足立山という600mくらいの山の麓に湯川という土地がある。和気清麻呂は足を負傷し、ここの湯に浸かったところ傷が治り立つことが出来た。以来足立山というようになった・・・ というものである。
和気清麻呂の像は皇居の方を見守っているという。公園の一部に排気口のようなものが見え、時おり地下鉄・東西線の電車らしい騒音と振動がする。。
皇居前広場
広場を歩く人
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皇居前の広場・・・、数回は来たことがある。修学旅行、母を上京させたとき。
若いときはここに来ると何となく田舎者みたいに思って見えた。
今ひとりで歩いてみるとそんなことは感じなくなっている。
植え込みの中の標識にはマラソン禁止と記されている。ランニング姿のひとが大勢走っていては日本の品格が落ちるというのかもしれない。ここではベンチもなく腰を下ろすところがない。縁石に座ってみたりしたが品位がなさそうだ。
坂下門のところではあまり人を見ない、若い女性の巡査が警備の交代のためだろうかやってきた。
石橋のところに来ると若干の観光客が見える。よく耳をかたむけるとアジア系の言葉のようだ。
桜田門の方に行ってみる。内堀通りから桜田門までの間、端っこの方にベンチが並べてある。桜田門のちかくのベンチに腰を下ろし人の行き来を眺める。隣のベンチでは外国のご婦人が書物を読んでいる。ツーリストなのかリヴァーなのか。
ここではジョギングをしている人、サイクリングしている人、ホームロストの人も見受けられた。少し正面から離れるといろいろな人がいる。
内堀通りからかなり離れているので車の騒音がはるか別世界のことのように聞こえる。物理的距離が非日常の世界をつくっている。
ベンチに座っていた年配のご婦人が東京駅のほうに方に向って歩いていく。日常の世界に戻っていくように。
日比谷公園
自由の鐘
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時刻は4時半を過ぎていた、三田までの時間はたっぷりある。さてどこへ行こうか。目の前の日比谷公園に入ってみよう。交差点で信号を待っていると、聞きなれない言葉を口にする若い二人連れが同じ方向へ行くようだ。祝田門から入り正面の小高い丘に登って南側に降ると自由の鐘がある。アメリカにあるものの複製だそうだ。台座の碑には次のように記されている。
自由の鐘は一七七六年米國の獨立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。しかしこの鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての國とその住民に自由を告げる」自由の象徴である。米國民間の匿名有志はその複製を連合軍總司令官リツジウエイ大將に託し、これを廣く日本國民に贈りたいと申出た。よつてリツジウエイ大將は自由の擁護者たる新聞を通じ廣く日本國民に贈ることが最も寄附の趣旨に副うものとして昭和二十七年四月日本新聞協會に寄贈された。日本新聞協會は日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し廣く國民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。
昭和二十七年十月
社團法人 日本新聞協會
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日比谷公園のバラ 写真をクリックすると名前がわかります
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自由の鐘の側にあるベンチでは毛布をまとって眠っている人がいる。これも自由なのだろう。
テニスコートの脇を通り第一花壇に行ってみると、そこにはバラに見とれスケッチしている人もいる、自らつかの間の自由を得た人々がベンチに腰を下ろしている。ここには緋扇という名の通り緋色の大輪、黄色の秋月というバラなどが見られた。
ある一角に写真のようなバラを見つけ立ち止まって見とれていると、年配のご婦人が「それを知っていると歳がわかります」といわれた。バラの名前にはイングリッド・バーグマンと記されていた。暗紅色の花弁35枚、1983年デンマークから来たらしい。そのご婦人は「バラもそんな名前をつけられて幸せですね」と言いながら去って行った。
私はこのバラを見つけただけでこの公園に来たかいがあったと思う。
しばらくバラに見とれた後、草地広場の横を抜け霞門から愛宕通りに出て南に向う。次は愛宕神社に参拝してみよう。
愛宕通りから日比谷通りへ
愛宕神社
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通りの西側は霞ヶ関の官庁街だ、合同庁舎が並んでいる入り口にはガードマンが立っている。時刻は5時を過ぎている、建物からぞろぞろと退庁する人が現れる。
民間にいた私は退社と言っていた。「退社」とは会社から退くという意味であり、会社を辞めるということと勤務を終えて退勤することのふたつの意味がある。私のまわりでは退勤の意味で使っていた。会社を辞めることは「退職」という言葉を使っていた。なあ~んてどうでもいい事を思いながら歩いていると町は虎ノ門となっていた。とたんに歩道が狭くなり、ビルは先ほどの合同庁舎と異なりごちゃごちゃした民間のビルになっていた。
ビルの間の狭い路地に葵のご紋にかこまれた愛宕神社参道という文字が見えてきた。
そこを入って坂を登っていく。ホテルや飲食の店も並んでいる。登りつめたところ、左に愛宕神社がみえる。狭い土地を有効に活用している都会ならではの神社といえる。
愛宕神社は慶長8(1603)年、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られたという。どうりで葵のご紋があったのか。
さて正面の参道から降りようと上から見て、一瞬たじろいだ、この坂は出世坂ともいわれているそうだが、何と急な石段だろう。先ほど来た道を下ろうかと思ったほどである。
あとで知ったが曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬に乗って登った石段はここだったのである。この話は子供の頃父からその人の名を聞いていた。ただし間垣と誤って記憶していた。
その石段を手すりをつかまりながら一段一段数えながら降りた。途中に踊り場があればそれほど恐怖感は覚えないだろうが。
御成門
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再び愛宕通りに出て、あまり時間がないことに気づき歩を早め南下する。やがて通りをさえぎるような敷地に出くわす。
いまは一部にホテルがあるが、徳川家の菩提寺の増上寺の寺領地であろう。左に折れて日比谷通りを行くことにする。通りに出る前に「御成門」がある。説明板によれば、この門は増上寺の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際、この門をよく用いたので「御成門」と呼ばれるようになった。初め門は現在の御成門交差点にあったが、明治25年の東京市区改正計画で内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築された。
その後、増上寺三門、旧庫裏門、墓地の惣門、二天門とともに関東大震災、太平洋戦争の戦火から難をのがれた。
さて時刻は6時をまわって、歩道はアフターファイブ、いやシックスを楽しもうという若者であふれている。ぶつからないように急ぎ足で目的の会場へ向った。