オーキング
05. 6. 11
ウオーキング(in玉川to多摩川)

私鉄リレーウオーク「多摩川とその支流を歩く」(東急二子玉川→小田急和泉多摩川)

はじめに
玉川から多摩川、すなわち二子玉川から和泉多摩川までのウオーキングである。
地名に玉川、多摩川を使い分けているようだが、由来は何だろうか。川の名前も江戸時代は玉川という説もあるようだ。

日時:5月28日(土)10時30分~
東急二子玉川駅→岡本かの子文学碑→二ヶ領用水・久地円筒分水→二ヶ領用水→生田緑地・枡形山→広福寺→伊豆美神社→兜塚古墳→小田急和泉多摩川駅

通算第7回で、今年度初めての私鉄リレー・ウオークが行われた。
この日、京王多摩センターから稲田堤、武蔵溝ノ口を経て二子玉川駅に10時20分ころ着いた。
幸い天気は上々、いよいよスタートだ。

二子玉川から二ヶ領用水へ
岡本かの子文学碑
溝の口駅から渋谷方面に行くのは久しぶりだ。二子玉川駅でウオーキングの受付を済ませ再び川崎市へ。二人並んで歩くことが出来ない狭い歩道、しかも直ぐ横は車が通っていて空気がこの上なく悪い、そんな二子橋を急ぎ足で渡る。
渡りきったところ多摩川沿線道路を少し上流に行ったところに「岡本かの子文学碑」が立っている。この文学碑はかの子の実子である岡本太郎が、昭和37年に建築家丹下健三らの手を借りて建立したという。写真の通り「爆発しそうな文学碑」である。
昭和37年といえば私は20歳だったが、この地の少し西の方、今の高津区野川にある会社の独身寮に住んでいた。
私の頭の中はタイム・スリップしてきた。
当時、東急線は溝の口から大井町まで4両編成くらいの少々やぼったい電車がトロトロと走っていた。私はその1年前に就職して、ここ二子玉川からふたつめの等々力のオンボロ寮に入った。二子玉川にはその名のついた遊園地があったっけ。
そう田園都市線は昭和41年(1966)に長津田まで開通した(そうである)。今の第3京浜もなく野川は田んぼの中のでこぼこ道をバスが走っていたっけ。

久地・円筒分水
タイムスリップのついで、岡本かの子は明治22年ここ二子の旧家に生まれたよし。
文学碑の近くに二子神社という寛永年間に創建された社がある。
さてウオーキングは多摩川堤防のウオーキング道路をしばらく歩き支流の平瀬川に沿って上る。
府中街道を越えてしばらくすると二番目の見どころ「久地円筒分水」に着いた。
円筒分水工という分水装置は送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置だそうで、昭和16年(1941)に造られた。平成10年(1998)国登録有形文化財となった。
なぜこのような分水比が一定になるような装置が必要なのか。それは江戸時代にさかのぼるようだ。
慶長16年(1611)に14年の歳月をかけて完成した二ヶ領用水は「稲毛領」、「川崎領」にとって米の収穫量が飛躍的に伸びたそうだ。しかし1世紀もすると用水も荒廃した。水争いをなくすため川崎宿の名主が久地に分量桶を作ったことに始まるそうだ。
円筒分水の近くに久地神社というそれほど大きくはないが社がある。村の鎮守様だったのだろう。
二ヶ領用水の河畔道を歩きJR南武線の久地駅近くを通る。用水にかかる橋を鷹匠橋という。
江戸時代に川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があった。そこには 常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ鷹や鷹匠は手厚くもてなされたという。

生田緑地・枡形山
東名高速道路の高架下に野草が植えられた公園があり、すぐそばには桜の木がある。そこには宿河原で取水された二ヶ領用水が流ている。ここは用水というより小さな小川のようで今は公園となっているようだ。ほどなく川崎市緑化センターが見えてきた。ここで私もしばし休息をとり、タニウツギ、ハコネウツギなどを楽しむ。宿之島橋という橋の脇にお地蔵があり「武蔵国御岳神社代参祈祷神璽・講中安全」というお札が掲げられていた。二日前の26日に武蔵御岳神社に参拝し講中の碑が多いのに驚いたばかりであった。

生田緑地・枡形山
二ヶ領用水を後にして住宅が立ち並ぶ間のそれほど広くない道を進む。宿河原にある稲田小学校のわきを通り、やがて府中県道に出る。この県道を所要で通ったことがあるが、私は多摩川沿線道路の方をよく通っていた。あれは何年前のことだろうか。
県道を渡って山道にはいる。地図によると生田緑地が近い。安立寺の側の細い道を通り抜け、左に曲がり坂をしばらく登ると生田緑地の入り口が見えてきた。
生田緑地には、岡本太郎の美術館や枡形山がある。枡形山は標高80数mで枡形山城址がある。
枡形山城主の稲毛三郎重成は源頼朝の義弟(頼朝の妻、北条政子の妹を娶った)だそうだが、その父小山田有重は秩父桓武平氏の出で、平有重を名乗っていたが、(町田市の)小山田に来住・開拓し、別当となった。有重の三男重成は一の谷合戦の恩賞として稲毛郷を賜り、稲毛三郎重成を名乗ったといわれている。
稲毛三郎重成の墓・五輪塔がここ枡形山から下った広福寺の境内にあるそうだ。私は少々疲労感を覚え、このお寺はパスした。ここからゴールまでまだ4kmが残されている。
ウオーキングは小田急線を越え、五反田川、二ヶ領用水を渡り、府中県道を横断し商店が連なっている狭い道を通り抜け登戸駅近くの多摩川沿線道路に出た。
多摩川にかかる多摩水道橋を渡る。橋から河原を眺めるとスポーツの後の宴席の準備をしている人たちが数多く見える。

伊豆美神社と兜塚古墳
伊豆美神社
多摩水道橋を渡り、堤防上のウオーキング道を上流に向う。この道は砂利道で一部区間が車道と共用となっており車が通るたびに砂煙が舞い上がる。この先約1kmは単調で退屈なウオーカーにとってなんとも悲惨な道である。まあ何ごともガマン、いずれ嫌なことも終わるものである、そう言い聞かせながら歩く。
西河原公園という緑地の遊歩道から水神前という名の信号を右折し畑の中に住宅が点在する風景を眺めながら歩を進める。
道路わきに万葉歌碑が建てられている。この碑は当初文化二年(1805)に建てられたが、洪水で流され大正11年に再建されたそうだ。この通りを万葉通りというそうだが、ここ狛江は高麗に通じ高麗人が移住したともいう。
そんな昔に思いを馳せていると前方に抜きん出た木々が見えてくる。伊豆美神社の森であった。伊豆美は和泉に通じるのだろう。
長い参道の途中にはやや低い高さ2.5mの鳥居があり、なぜ?と疑問を持たせる。境内には都天然記念物で、高さ35m、目通り5.6mのアカマツが老化のためかやや傾いて立っている。伊豆美神社が天文21年(1552)に水害を逃れ遷座したときに植えられたらしい。

神社の脇を抜けると住宅の横に公園のような森がある、都史跡「兜塚古墳」である。直径約30m、高さ約4mの円墳で墳丘から円筒埴輪片が出土しているそうだ。付近には経塚古墳、白井塚古墳、亀塚古墳がある。亀塚古墳からは高句麗的色彩の強い遺物が出土、帰化人系集団との関係があると見られている。この古墳は5~6世紀に築造されたらしい。
また近くには狛江市立古民家園という公園があった。

ゴールの和泉多摩川へ
兜塚古墳
だいぶ疲労も蓄積されてきた。古い民家も見ようという気力がなくなってきた。気持ちは早くゴールしたい!!。

後に多摩川の名称について気懸かりとなり少々調べる。「東京都の地名」辞典には次のように記されている。
最上流部は「一之瀬川」、奥多摩湖までは「丹波(たば)川」、奥多摩湖の下流は「多摩川」、河口付近は「六郷川」と呼ばれている。
古くは「岩瀬川」(承知2年6月29日「太政官符」類聚三代格)、「和名抄」東急本国郡部にみえる多磨の訓「太婆」は丹波川の呼称に通じる。
多摩川を玉川と記すのは歌枕である。井手(京都府井手町)、三島(大阪府三島町)、野路(滋賀県草津市)、高野(紀州高野山)、野田(宮城県塩釜市)の各玉川とともに六玉川(むたまがわ)と称されたことによる。

江戸時代の絵地図などを見ると「玉川」と記されているが、歌川広重画の「名所雪月花」には「多満川」、絵本江戸土産には「多摩川」と記され、万葉歌碑には「多麻河」とも記されている。
しかし「玉川」と呼ばれてそこから導水された上水に「玉川上水」と名付けたと考えると納得できる。
多摩川の流域の地名に「玉川」の名前が付いたところも多い、「玉川通り」というのもある。私が入社した当時の工場も「玉川事業所」といった。


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