ウオーキング
05. 6. 21
ウオーキング(in井の頭線沿線)
京王沿線ウオーキング「井の頭線沿いに咲くアジサイ観賞」 こちらから沿線のアジサイを見られます。
はじめに
東松原駅前にて
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日時:6月18日(土)10時30分~
東松原駅→羽根木公園→井の頭線沿→玉川上水緑道→駒場公園→駒場野公園→〆切地蔵→鍋島松涛公園→渋谷駅
井の頭線の線路沿いには空き地にアジサイが植えられており、乗客の目を楽しませているという。
私は電車による通勤をやめて何年になるだろう。痛勤ともいわれるように朝の電車に乗らねばならない人々の痛みも少しは理解できると思っている。
ギスギスした車内の空気を線路沿いのアジサイが和らげているかもしれない。 そんな沿線のアジサイを巡る東松原駅から渋谷駅までのウオーキングである。
スタート受付の締切り間際、10時30分に東松原駅に着いた。
東松原駅から玉川上水緑道へ
玉川上水緑道
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東松原駅の南方にある羽根木公園は、ウオーキングで何度か訪れている。梅の名所で有名だそうだ。今日は暑くなりそうなので公園の入り口で早めの水分を補給する。
細い路地を幾度か曲がって進み井の頭線の線路沿いに出る。ちょっと覗くとアジサイがいっぱいだ。
やがて環七通りにでて、交差点を渡ると新代田駅だった。環七通りを北上する、もちろん歩道を歩いているのだが騒音と空気はほめられたものではない。通りの近くに小学校があるがあまりよい環境とは言えなそうだ。
羽根木という交差点から斜めに横切る細い道に入る。車が交差すると人は避けなければ危ない。こんな道路は怖いと思いつつ前後を見回しながら歩く。
笹塚駅の近くの観音通りに面した玉川上水緑道に入るとホッとした気分になる。緑道内にはクリーム色、青色、紫色のアジサイが気持ちを和らげてくれる。
アジサイのガク片の色は開花後の日数や土質によって変わるそうだ。
以前、サスペンスもののドラマで咲いているアジサイが青色をしていた。そこには死体が埋められ土質が酸性になったからだというのを思い出した。
駒場公園・旧前田公爵邸洋館
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さてここ玉川上水緑道は以前のウオーキングで通った記憶がある。玉川上水を暗渠にして緑地化したものだが、都会の中のオアシスといった趣が感じられる。
駒場公園・駒場野公園
今となっては玉川上水緑道といっても、橋の名称と緑道の道幅にそれを感じることしか出来ない。五條橋の信号を渡って続く上水緑道を常盤橋の信号で右折してしばらく進むと渋谷区立の代々木大山公園という緑のスペースがあったが、ここにはアジサイをはじめ花を見ることが出来なかった。
今歩いている道を真っ直ぐ進むと代々木上原駅に通ずるらしい。
このウオーキングでは途中から右折して井の頭通りに出る。このあたりは結構大きな屋敷がある。
ウオーカーのひとりがこの家は××××の社長の家で3000坪だって、と云うのが聞こえてきた。××××とは衣料品を海外で生産して廉売し急成長した会社の名前であった。振り返ってみると大きな石が並んで塀を造っていた。
さて井の頭通りはケヤキの大木が影をつくりちょっぴり涼しい風をプレゼントしてくれる。地図にはその先には古賀政男音楽博物館があると記されている駅前の信号を右に折れる。上原小学校、中学校に挟まれた道をぬけ上原三丁目南の信号を渡ると、ゴールまであと約4kmだそうだ、時刻は11時半。
東大先端技術センターの敷地の隣には年代物の石柱と三角屋根のレンガ造りの建物の駒場公園入り口が見えてきた。
駒場公園には旧前田公爵邸の洋館と和館があり、どちらも見学可能とのこと。また敷地内には日本近代文学館もある。
その旧前田公爵邸洋館は東京都指定の有形文化財だそうだ。
案内板には以下のように記されている。
旧加賀藩主の系譜をひく前田家の本邸として昭和4年(1929)5月に竣工した。
駒場野公園
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設計者は東京帝国大学教授塚本靖であったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。
建物の規模は地上3階、地下1階。建築面積は1,129.4平方m。鉄筋コンクリート造りで、外壁はスクラッチタイルを貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は銅板葺きである。
前田公爵邸は昭和20年(1945)9月、連合国に接収され極東軍司令官の官舎として使われていたが、昭和42年(1967)4月、東京都近代文学館に衣替えし一般に公開された。
この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使している。
内部の改造は少なく竣工時の雰囲気を良く留め、上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物である。
写真でもその一端を伺うことができるが、近寄りがたい雰囲気をかもし出している。
駒場公園を出て井の頭線の踏み切りを越え、駒場野公園に着く。
公園内には明治11年駒場農学校が開校したそうだ。その跡地に近代農学研究農業教育発症の地として「水田の碑」が建てられている。
時刻は12時を少し過ぎ、少々空腹を覚える。座ることができる場所を探し腰をおろす。
向こうの方では少年たちが昼食の準備をしている。側に先ほど井の頭線の踏み切りで缶ビールをぶら下げていたおじさん二人もいた。このグループは先生ではなさそうだ。
鍋島松涛公園から渋谷駅
鍋島松涛公園
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私のおなかの方もひと心地ついてきた。公園を出て南に向かい淡島通りという広い通りに出ると〆切地蔵というお地蔵さんが歩道から少し引っ込んだ位置に立っている。
そのむかし駒場野の隣村で悪病が流行し住人がこのお地蔵さんに祈ったところ住民に病人が出なかったので悪病締め出し地蔵としてこの名前が付いたそうだ。
さてウオーキングはゴールまであと約2km、駒場高校の側の狭い道を再び北へ、井の頭線のガードをくぐって山手通りの松涛二丁目の交差点から鍋島松涛公園に向う。
この公園はそれほど大きくはないが、木々に囲まれた池がある一周してアジサイを観賞する。池には大きな鯉と岩の上で甲羅を干す亀が見られた。都会の中でのホッとする場所ではないだろうか。ウオーカー以外にも大勢の人が腰をおろしていた。
昭和8年12月製の案内板によれば、この地一帯は元紀州徳川家の下屋敷址にして明治5年鍋島家の有となり同9年拓きて茶園となし松涛園と称へたり。
池は当時存し防火並灌漑用に供せられたるものの如く明治37年に至り茶園を畑地となせし
も池付近は遺存し大正13年に至りて此処を小庭園とし植物を植え運動器を備え公衆の慰楽並児童遊技場とし鍋島遊園地と名づけ今日に至れり
昭和7年10月1日市域拡張に際し挙げて公園地とし本市に寄付せられ新市域公園の先駆となる。本市は永く之を保存管理し鍋島候爵家の芳志を後世に伝えんとす
ちょっと現代文と異なれば疲れるが、言わんとすることは理解できる。近くには松涛美術館がある、一度来てみようかな。
再び都会の喧騒の中に戻り、Bunkamuraの方に下っていき松涛郵便局の交差点を右折し道玄坂を上る。またまた坂を下り12時50分、井の頭線・渋谷駅にゴールする。
谷があれば台地があり坂がある、ほんとに渋谷は坂が多いところだ。約17000歩、家に到着後、カウンタは22400歩となっていた。おつかれ。