オーキング
05. 8. 1
ウオーキング(in鮎の道・絹の道)

はじめに
城跡公園のハス
京王電鉄の沿線ウオーキングである。前回が井の頭線の沿線だったが、今回は多摩地方でどちらかといえば「いなか」であり私にとって安心できるコースである。ただ気懸かりなのは7月中旬で最高気温が真夏日を超える予報が出ていることだ。
スポーツドリンクとお茶を入れた小さいペットボトル2本、日よけのために折り畳み傘もリュックに、なるべく午前中にゴールするように早めに出かけた。
スタートの多摩境駅に降りてみると、結構お年寄りのおばあさんがぞろぞろと歩いていくではないか。 熱中症のことなど気にも留めないのかしら。昨年だったか、その前の年だったか、夏場のこのウオーキングで救急車が出動したのを見た。やはり細心の注意は必要だろう。

日時:7月16日(土)9時00分~
コース:京王相模原線・多摩境駅→小山内裏公園→鮎街道→鑓水板木の杜→絹の道資料館→絹の道→道了堂跡→慈眼寺→片倉城跡公園→湯殿川遊歩道→北野駅(約10km)

多摩境駅⇒鮎街道
鮎街道
多摩境駅はこのウオーキングなどで数回利用したことがある。この辺りは多摩ニュータウンでも比較的最近開発されたところで、駅前の通りにはスーパー、赤ん坊用の用品スーパー、ホームセンター、ファミレスなどが並んでいる。なかでも会員制のスーパー(2回ほど付き合いで入店したが)は、米国資本らしく店の構造、商品もアメリカ並みのようである。商品が山のように積み上げられており、販売の単位も私のようにひとり暮らしには向かない。大量に購入し友人たちと分けるらしい。この駅が開業したのが14年前、それまで何もなかったといってもよい所に道路が開通し、新しい大型店が次々に開店している。

話が横道にそれたが、その新しいニュータウン通りを跨ぐように都立小山内裏公園がある
公園内は大きな4つの「サンクチュアリ」があり人間は許可なく立ち入りできないようになっている。木々におおわれ小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。
園内の遊歩道は尾根緑道と呼ばれ先の大戦末期に相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テストに使われた「戦車道」を遊歩道としたものである。戦車が走行していたくらいであるから道幅は広くゆったりとして緑を楽しめる。
その尾根緑道から離れサンクチュアリをはさんだ所に小さな大田切池があり、脇の山道を登ると「鮎街道」と呼ばれた津久井往還がある。世田谷の三軒茶屋から世田谷通りを通って登戸、鶴川を経て多摩丘陵を抜け津久井に至る旧街道だそうだ。昔、津久井で採れた鮎を江戸の町まで売りに行くのに通ったことから「鮎のみち」と云う名で呼ばれ、今の都立大の東門辺りを抜ける尾根道があった。そこには茶屋、休憩処があったという。

絹の道⇒道了堂跡
絹の道の指標
新しく開発されたばかりのニュータウン内の「絹の道」を通り抜け、「鑓水板木の杜緑地」へ。
この「鑓水」、「板木」という名のいわれが案内板に記されてあった。それによるとなんとこの地に古くはアイヌ民族が住んでいたという。これは驚きであった。記載されている内容を以下に転記しよう。
この地域一帯は、岩盤の層があり、山の中腹に槍状の先の尖った道具で突いていくと、地下水が湧き出てくる。
この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯え、飲料水として利用してきた。これを筧(かけい)といい、更に瓶から水を流れるようにしたものを、『遣り水』というが、これが鑓水という地名の由来と考えられている。

【中断】子供の頃大戦末期、疎開して山村に住んでいたが上水道というものはなく、まさしくいま記されているような方法で水を得ていた。家の中の台所に瓶が置いてあり、裏山の湧き水から筧を用いて導水していた。祖父が住んでいた都市に行くと蛇口をひねり水が出るのが珍しく思っていた。現代ではなんでもないことだが・・・。

絹の道
「板木」という名は、古文書のある古絵図に記されている「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で『きれいな清水が湧き出るところ』という意味として伝わっているが、この地には古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。というのはこの地域から発掘された縄文土器の紋様とアイヌ人が現在でも使用している衣装の紋様とよく似ているのが何よりの証拠と考えられる。
「伊丹木」が「板木」に変化したのではないかと考えられている。
なおこの緑地内の尾根道は旧鎌倉街道とと呼ばれ、相模を通り、甲州・秩父へと通じ、浜街道と共に重要な街道であった。

坂を下っていき、見慣れた柚木街道を横断し、大栗川にかかる御殿橋を渡り道を登っていく。この御殿橋から大塚山公園までは市指定の史跡「絹の道」となっている。この道のそばに絹の道資料館があり、さらに進むと「絹の道」の指標が見える。
安政6年(1859)の横浜開港から明治はじめの鉄道開通まで、八王子近郊はもとより長野、山梨、群馬方面からの輸出用の生糸がこの街道(浜街道)を通って横浜へと運ばれた。
八王子の市に近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」と呼ばれた。「絹の道」という名称は昭和20年代末に名づけられたそうだ。

片倉城跡公園⇒北野駅
道了堂跡
ここの絹の道の登り坂もかなり急で山頂は213mであるが、汗がほとばしってきた。 今は大塚山公園となっているが、道了堂は明治8年(1875)に浅草の花川戸から勧請し、生糸商人として活躍した鑓水の豪商によって建立されたそうである。お堂は昭和58年に解体されたという。
それに先立つこと20年前にお堂のお守りをしていた老婆に不幸が起きたという。この辺りは人里離れているためかおぞましい事件があったらしい。そちらの方に興味はないので・・・。

この日公園内を数人のボランティアの人たちが清掃をしていた。堂跡から左の方に坂を下ると北野台という住宅地にでた。しばらく矢印が記された道案内に沿って歩き、高嶺小学校、北野台中央公園などのそばを通る。ずう~っと下り坂が続き、途中で慈眼寺というお寺に参拝した。このお寺は山の片裾にあるこじんまりとしており、朱塗りの山門は閉まっていたが、仁王像が静かに迎えてくれた。そんな感じである。境内は広くなくすぐ本堂がひっそりとたたずんでいる。
片倉城跡

国道16号の兵衛川にかかっている橋を渡って、JR横浜線の高架下をくぐる。左に住吉神社の案内がある。ここは今年の冬、寒い頃に来たことがある。片倉城跡は小さな丘の上にあり、北側に住吉神社がある。この神社は大坂の住吉大社を勧請したものらしい。今回は南の方から直接城跡へのかなり急な登り坂を歩く。おバアさん連れのウオーカーが 休み休み登っていた、ご苦労さん。

片倉城は室町時代、長井氏により築かれたそうで、現在は本丸、二の丸の跡が広場として子供たちの遊び場となっている。
ウオーカーの中には最後の休息と、昼食のため腰を下ろしている人がいる。
ゴールの北野駅までおよそ2km、私は住吉神社の方へ向い参拝したあと、急な階段をくだり住吉池から公園内の菖蒲池の方にも足を運んでみた。そこには時期を過ぎた池に写真のようなハスがひっそりと開いていた。
湯殿川沿いの単調な道を北野駅に向けて最後の歩を進める。本日の総歩数は32000歩、二日分は歩いたかな。


ウオーキング