オーキング
05. 11. 1
ウオーキング(in調布・世田谷/秋の風)

はじめに
実篤公園の上の池
京王電鉄の沿線ウオーキングの秋バージョン、特別版があった。
実篤公園と旧居をはじめ、藤沢周平展が開かれている世田谷文学館を訪れるものだ。
前日、「実篤書画の魅力」と題する展覧会を見ていたので、実篤公園を訪ねるのはいい機会だった。
私はあまり小説は読まないが、今夏たまたま藤沢周平の小説「一茶」を読み世田谷文学館を見学するのもいいなと思っていた。
しかし前日からあまり体調がよくなく、いつも40分近くかけて歩いている駅までをこの日はバスに乗った。

日時:10月22日(土)9時40分~
コース:京王線・仙川駅→仙川寺町→実篤公園→六所神社→烏山寺町→旧甲州街道→世田谷文学館(約8km)

実篤公園
実篤旧居への下り坂
仙川駅の南に商店が並ぶ細い道がのびている。向かい側に私立の学園が見える交差点を渡りしばらくして斜め右のやはり細い道に入る。その道の両側にお寺が六つほど並んでいる。
仙川寺町らしい、やはり関東大震災で疎開してきたのだろう。住宅が並ぶ道をVターンして北に向かい。保育園、児童館のそばを左折すると実篤公園に着いた。公園の管理棟の脇を通ると下り坂になっている。
「あー、この坂だ」と一瞬思った。といっても私は初めて見て、初めて通るのだが。
このウオーキングの前日の展覧会で求めた「仙川の家」というパンフの中にこの坂を登る実篤の後ろ姿の写真を見たばかりであった。
その写真は昭和30年代。現在のように舗装もされていない。坂を下ったところに旧居があり、見学することも出来る。昭和30年、70歳のときにこの家を建て20年間、夫人と住み、小説をはじめ、書画を制作したという。

「君は君、我は我也、されど仲よき」などの書画は私も記憶の中にもあるが、制作拠点の住まいなどを見ると生きかたが多少は理解できるような気がしてきた。

公園は約5000平方m。この広さの中に国分寺崖線の近くらしく、湧水池や上の池、下の池、菖蒲園竹林などがあり、竹林や木々に覆われた庭園は薄暗くさえ感じる。随所にあずまやなどが配置され武蔵野が感じられる。
地下道を潜り抜けたところに記念館があるが、9月4日の大雨で浸水したとかで休館中であった。

六所神社
六所神社
仙川駅の方へ戻りさらに東へ住宅が並んだ道を進むとそこは世田谷区給田である。保険会社のグランドを曲がると六所神社が見える。
今年2月のウオーキングでも訪れている。私の記憶の中には去年か一昨年と思い込みがあった。それほど昔でないのに印象が薄い。あまり特徴的でないのか、私の記憶力が低下しているのか。ただこの神社は府中市の大国魂神社の分霊を招請したことは憶えていた。

案内書きには祭神大国魂大神。一の宮:小野大神、二の宮:小川大神、三の宮:氷川大神、四の宮:秩父大神、五の宮:金佐奈大神、六の宮:杉山大神と記されている。
相殿:天照大神
由緒には
創立年月、古代由緒沿革は未詳。古老口碑に武蔵国府中の大国魂神社の御分霊を招請して鎮座の由 天文年間(1532~54)の創立と申し伝えられる。元社号は大国魂神社と称し六所とは中古以来近代まで前記大国魂神社(府中)社号を六所宮と称せられしより当社も右に準じ六所神蛇と改称す。明治六年神撰幣帛料供進神社に指定せらる。明治四十二年千歳村給田八五○無各社神名社の御祭神天照大神を合祀。
(以下略)
私は確認しなかったが、社名の通り武蔵国六社も祀っている。

高源院境内の鴨池(烏山寺町)
烏山寺町
仙川を渡り京王線北側の線路沿いの道を千歳烏山駅へ向っている。この道は電車に乗ってここを通過するとき何気なく眺めている道である。駅前から北に向う石畳の道路を歩き「千歳烏山入口」という信号のある旧甲州街道を越える。
烏山寺町は昨年12月はじめ、介護の息抜きのためひとりで訪れ、そのときの入手した資料にお寺の一覧表を記したものがあった。
こちら
そのときは数の多さに驚いた。大小様々あるが、今回はあるお寺の境内に入ってみて、その境内の広さに驚いた。

話はそれるが散歩の途中、神社には断りもなく境内に入っていけるが、寺院には人の生活が営まれているからだろう入っていくのは気後れがする。
烏山鴨池のこうほね
ウオーキングのときは他の人がぞろぞろと入っているので「みんなでXXすれば悪くない」と思っているようだ。
専光寺というお寺には江戸時代後期の浮世絵師・喜多川歌麿の墓所がある。
都旧跡だそうで、都教育委員会の説明があった。
歌麿(1753~1806)は武州川越の生まれというが、定かでない。初号を豊章と称し、最初黄表紙や洒落本のさし絵を描き風景画を得意とし、精密な自然描写にすぐれたが、後に美人画に転じ、版元蔦屋重三郎の援助を受けてから、本領を発揮、浮世絵界に新風を送った。
喜多川派の祖であり作品は天明、寛政期の浮世絵版画の黄金時代を代表する。
文化元年(1804)「太閤五妻遊」をかいたため入牢に処せられた。歌麿の画風はフランスの印象派に大きな影響を与えた。文化三年(1806)54歳で没し浅草新堀端専光寺墓地に埋葬された。
関東大震災のため歌麿さんも烏山に連れてこられたわけだ。墓所には生花が生けられていた。

高源院というお寺には「烏山の鴨池」という名の池があり、秋も深まるとシベリアから鴨が飛来し、コガモ、カルガモ、マガモなどが泳ぐという。
武州烏山村の大場橋跡
この池の湧水は涸れることがなく夏にはスイレンなどが咲き乱れるという。訪れたときには「こうほね」がその盛りを過ぎたからなのか、ひっそりと咲いていた。ここへ来る途中、足の速いオバサンに声をかけたが、その人が池の花を「こうほね」と教えてくれた。

世田谷文学館へ
寺町通りのもうひとつ東の通り「松葉通り」にも何軒かのお寺があったが、あるお寺に次のようなことを書いたものが貼リ出されていた。「経験というのは単なる時間の積み重ねではなく人を感じる眼であり耳であり皮膚感覚なわけだ」・・・なるほど、ウオーキングも勉強になるものだ。

旧甲州街道との交差点付近のバス停は「中宿」と記されている。もうすこし芦花公園駅に近いところは「烏山下宿」という。甲州街道の宿場の名残だろうか。
このあたりに平塚らいてう(1886~1971)が住んでいたという。
平塚らいてうは当時の街道のようすを次のように記しているという。
「都会に住んでいる人達よ。あなた方はご存じですか。冬の真夜中を、一時から二時、三時にかけて、木枯らしのヒュウヒュウふきぬけるあの甲州街道の長い長い凍てついた夜道を、山とつまれた大根や、蕪や、漬菜の牛車をひいて行くお百姓さんたちを」

昔の人はそうやって生活していた。寒々とした光景が眼に浮かぶ。
店のまえに車が止めてあり、若い男が荷物を運んでいた。
烏山川らしいところに「武州烏山大橋場の跡」という碑が建っていた。大橋場って?
芦花公園駅から南に500mのところに世田谷文学館があった。


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