オーキング
06. 9. 11
ウオーク(葛飾・柴又です!)
はじめに
「そこのおいちゃん、おばちゃん元気かい」
9月になって涼しい日が続いていた。5日、明日は雨が降るらしいのでこの日に思い立ったように柴又へ出かけてみた。
柴又には、20年位前になるだろうか、いちどだけ家族連れで行ったことがある。
何年だったか記憶にない、もちろん寅さんの出身地として知ってのことだが、帝釈天、裏の江戸川に行って渡しにも乗った。行ってそのまま引き返したことを憶えている。

柴又は東京の東の端、西の端に位置する我が家から東京砂漠を縦断していかなければならない。私の頭では新宿・乗換、山手線、日暮里・乗換、京成線というルートが浮かんだが、ターミナル駅の人ごみを避けたく乗換案内を試す。
小田急・多摩線では多摩急行というのが、千代田線直通で走っている。町屋という駅で京成線に乗り換えができる。
少し遠回りになること本数が少ないことを我慢すれば、金町まで乗換なしで行くことができる。
帝釈天の参道

隣に座った年配の外人さんがワシントンポスト紙のクロスワードをやっている。
<歳をとると何処の国も同じかね>。
そのおっちゃんは二重橋駅に着くと網棚からアタッシュ・ケースを取り降りていった。
1時間ほど乗っていると町屋駅に着いた、はじめて降りる駅である。京成線に乗るため地上に出る。
都電荒川線がそばを走っている。りうくんのために写真を撮ろうと思ったが行ってしまった。 帰りもここを通ろう。
車窓から見る風景は緑が少なく、家が建て込んでいる、暑そう。しかし何となく親しみをおぼえる。

柴又です
町屋駅からいくつかの駅を過ぎる、また隅田川、荒川、綾瀬川、中川を渡り高砂駅に着く。金町線に乗換えて次の駅が柴又駅である。
電車の中は、この電車を足として使っている人はそのまま座って、帝釈天にいく人がゾロゾロと立ち上がる。
ホームを降りて線路を渡って改札を出る。私の住んでいるあたりは、このように駅構内で線路を歩いて渡るという駅は少なくなってしまった。安全第一なんだろうが、味気なくなってしまった。

若いおニイさんが「よってらっしゃい」
駅前は下町らしく小さなお店が軒を競って並んでいる。右の方にさくらという名のコーヒースタンドが見えた。寅さんの妹にちなんでつけたのだろうと思う。
少し先の方に寅さんの像が建っている。狭い道の両側に商店が並ぶ、商店たって八百屋、米・駄菓子屋、お茶やなどだ、自転車やバイクに乗った人もいる。高い建物なんてない、空がやけに広い。
まもなく「帝釈天参道」と書かれたゲートが見える。
右手に映画の碑が建っている。柴又は帝釈天、寅さんと切っても切れない関係となっている。柴又街道を渡ると両側にだんごや、せんべい、仏具やなどがぎっしりと並んだ参道である。

参道にはだんご屋が数軒、競っている。それぞれ映画に出てくるだんご屋「くるまや」に関わりがあるようだ。モデルとなったなったところ、1~4作まで実際に撮影されたところ、スタッフが休んだところ・・・。
私もそんな一軒のだんご屋さんに入り、名物草だんごと泡般若を注文する。となりの席に杖をついたおじいさんが来て同じようなものを食していた。いくつかまとまった席には予約のカードが立っていてやがて、昔の若い衆がやってきた。

帝釈天
帝釈天の二天門
参道の正面に山門が見えてきた、ニ天門というのだそうだ。石柱に柴又帝釈天と刻まれている、経栄山題経寺というのが正式なお寺の名前らしい。そのニ天門の左に大鐘楼がある、門をくぐると帝釈堂が正面に、右手にあるのが本堂である。左手に御神水がある。寅さんがよく言う「帝釈天で産湯をつかい・・・」の産湯はここの御神水らしい。
庭をぐるりと回ると大きな案内図が建っている。奥の方に庭園があり回廊がそのまわりを囲っていて有料で公開されている。庭園の向うにはルンビニーという名の幼稚園がある。このルンビニーというのはお釈迦様の生誕地の名前だそうである。

広辞苑には「帝釈天」は梵天とともに仏法を護る神。十二天に一で当方の守護神、須弥山頂の忉利天の主で、喜見城に住むとされる。インド神話のインドラ神が仏教に取り入れられた。と記されている。
柴又帝釈天は江戸時代に開かれたとそうだが、江戸の東方の守りにためなのだろう。帝釈堂の扁額には「喜見城」と記されている。
帝釈堂の東に回廊でつながった本堂がある、ここの扁額には「経栄山」と書かれている。

境内に建っている説明には次のように記されている。
柴又七福神・毘沙門天/題経寺  甲冑を着けた毘沙門天はインドの神様で右手に宝棒を持ち、左手に宝塔を捧げ、足下に悪業煩悩の天邪鬼をふみつけている。仏教の教えを守るとともに招福・財福を授けてくれる神様である。別称多聞天といい、四天王のひとりとして北方守護神として祀られている。
この題経寺は帝釈天のほか毘沙門天も帝釈堂に祭られているそうだ。

寅さんが産湯をつかった御神水はここにも
二天門をはじめ帝釈堂、祖師堂などは木彫りによる建築浮き彫り装飾が施されている。帝釈堂彫刻ギャラリーとして拝観することができる。現在の関東大震災により焼失したため総檜造りの帝釈堂は昭和4年に、大客殿は10年に完成したものだそうである。

邃渓園(すいけいえん)と名づけられた庭園の拝観は有料である。この奥にまで来る人は少ないようで広大な日本庭園を巡る回廊に入ると世事を忘れられる別世界である。回廊の途中にも「御神水」と名づけられた湧水がある。

寅さん
庭園と木彫りを鑑賞して境内をニ天門の方に向かっていると、東門の出口に「寅さん記念館」は門の外にあると案内があった。
すぐ近くなら寄ってみるかと思い門を出たが、マンション以外にそれらしい建物はない。
矢切の渡し<柴又公園>
江戸川に向かって歩いてみると「山本亭」という大正末期に建てられた当時の実業家の邸宅を現在は区で管理公開しているのが目に入る。
あまり庶民的でないようなので遠回りして柴又公園に上がってみる。少しの木々やあずまやが建っていて、木陰で高齢者のグループがお昼の弁当を食べている。別の木陰には腰を下ろしている人が見える。高齢化社会になりどこの公園も高齢者であふれている。

江戸川の方に向かって歩いてみる、あの辺りが矢切の渡しだろうか今でも観光用に営業しているという。
二十年位前に来たときに乗ってみたが、対岸の河川敷にも何もなくすぐ戻ってきた。
遊歩道をウオーキングやジョギング している中年がいる平日なのに・・・。
公園のこのあたりは下がトンネルで車道になっているようだ。
公園の最も高いところにエレベーターがついて、下りたところに「寅さん記念館」があるらしい。私は階段をおりて遠回りをして入り口に向う。入場料500円を払う。
実際の撮影に使ったという「くるまや」のセットは大船撮影所から移設したものだそうだ。そこに座れば映画のシーンが思い出される。また「くるまや」の模型は二階と一階を別々に上下に移動させる、お店自体の広さに驚く。
寅さんの系図も掲げてあったが、母親は芸者さんだったとか・・・。

寅さんが卒業したらしい柴又小学校
帝釈天を出てふたたび参道に向う。参道の左に丸い郵便ポストが立っている。都内でも数か所しか残っていないという。 ここのように昭和の街並みにはピッタリである。
柴又街道を南のほうに500mくらい行ったところに寅さんが卒業したといわれている柴又小学校がある。学校は下町のそれらしく狭い敷地に建てられているようだが小奇麗にしていた、時刻はお昼過ぎ1年生だろうか下校していた。

昭和15年生まれの寅さんは最後の第48作のとき、55歳ということになる。テキヤ稼業も潮時だったかもしれない。
もし稼業を続けていたら今年65歳、冬の旅では雪駄も冷たかろう。もしかして冬は南の方、夏は北国へ旅していたかも。
それともおいちゃん、おばちゃんが老人ホームに入ったあと、だんごやをやってる?  それはないだろう。
柴又街道にある介護のデイ・サービス施設らしき建物の前を通りながら、そんなことを想像した。
いや、やっぱり潮時ってぇものがあらぁ。


ウオーキング