ウオーキング
06. 12. 1
ウオーキング(日本橋・神田)
<東年協/健歩クラブ・イベント>
行程
日時:11月 21日(月)10時10分~13時45分
コース:東京駅→旧常盤橋→日銀(貨幣博物館)→日本橋→三浦按針屋敷跡→小網神社→堀留公園→椙森神社→十思公園(吉田松陰終焉の地)→
お玉稲荷(お玉が池跡)→千葉周作道場跡→柳森稲荷→秋葉原駅(約5km)
はじめに
久しぶりに訪れた 丸の内北口
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このウオーキングは山手線を15~16回に分けて一周する4年がかりのシリーズだそうだ。今回がその第1回でお江戸日本橋が中心となる。
都内の史跡などを歩く機会がめったにない私にとって願ってもない企画であり、第1回から参加できるのはラッキーである。
4年間、頑張らなくては。とは言え山手線を一周したときは68歳になってるよ。
集合場所は東京駅丸の内北口10時。私の苦手な京王線、新宿乗換え中央線で東京駅というルートと別の小田急・多摩急行の千代田線乗り入れ二重橋前下車というルートを比較してみると、距離は前者36.6km、後者35.8km。所要時間は48分、49分。運賃は500円、520円と大して変わらない。後者の方が二重橋前駅から歩くが乗り換えなしというのは私にとってうれしい限りである。
8時26分多摩センター発の多摩急行は最後尾の車両が女性専用、私はそのひとつ前の一番後ろのドアから乗車、車内はほぼ通勤客でいっぱい、シルバーシートにひとり分の席が空いてた。ラッキー。
しかし目の前の席におばさんが座っていると女性専用車両に行けば・・・なんて思ったり、いけないんだよね、こういう考えは。
乗客は千代田線の国会議事堂前でいくぶん降り、次の霞ヶ関で大半が降りてしまった。官庁にお勤めの方々だったらしい。
東京駅で改札を出るということはほとんどなかった、駅舎を見るということもなかった。何年ぶりに東京駅を見たことだろう。和田倉門から中央口までの道路は工事中だった、意外に思ったのは歩いている人が少ないことだ。
丸の内北口>常磐橋門跡>日本銀行
旧常磐橋と門跡
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丸の内北口に行ってみると、先日の山歩きのときのおじさんがいた。ドーム内にはかなりの人が集まっていた。
今日の参加人数は57名とか、いよいよ山の手線一周のスタート。
八重洲口への自由通路のほうに向かい、すぐ左に折れて中央線の高架下を神田のほうに向かう。
「外堀アーチ橋の橋塔」が立っている。
外堀(日本橋川)に架かるアーチ橋は大正8年(1920)に日本で初めて造られた長大スパンの鉄筋鉄骨コンクリートの鉄道橋だそうだ。そのアーチ橋塔が中央線の重層工事のため支障となったのでこの地に移設したそうだ。
いつの時代に造られたか知らないが、京浜東北線のガード下の表面には昔ながらのレンガが貼り付けられている。
永代通りの丸の内一丁目の信号を渡る。57名という人数の多さばかりではないだろう、信号を渡りきれない。
JR線の高架と日本ビルの間を通って神田方面に向かい、三越別館の北側に外堀との間にある常盤橋公園に着いた。
切石が積み上げられた石垣が残っており門の一部だったそうだ。説明には常盤橋門は江戸城の外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、見方の出撃を容易にするため、大きな切石を「コ」の字型に積み上げた枡形門である。その常盤橋は天正18年(1590)の架橋、現在の石橋は枡形の石を使って明治10年(1877)に改架したと記されている。
橋の銘板にはには「常磐橋」という字が使われているそうだ。
上流のJR線高架の近くには新常盤橋が、また少し下流の一石橋の近くには現在の常盤橋がある。
日本橋銘は徳川家喜の筆
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その常盤橋を渡ると、左手にレトロ調の日本銀行が見える、ウオーカーは貨幣博物館に入り見学をする。この博物館は日銀・金融研究所の所管物らしい。ルートを予習しているときこんな博物館があることを知った。
日本の貨幣の歴史がわかるし、海外の珍しい貨幣も収集しているとか。
お金に円(縁)のない私はあまり興味がないが、日本の最初の貨幣である「和銅開珎」以降、鋳造できず中国銭も使われていたなどを知った。
高校生らしいグループも見学していた。お急ぎとご用のない人にはいい場所である。
ついでながら、日銀本店のレトロ調の建物は明治29(1896)年に完成した、それより4年前高橋是清が建築事務主任として採用された、また同じ年齢の辰野金吾がその1年前に建築工事監督に就いたそうだ。
日本橋>小網神社>堀留公園
いよいよ今日の目的のひとつでもある日本橋にやってきた。東京駅に来たのが、何年ぶりというくらいであるから、日本橋は来た回数を数えられるくらいだ。
日本橋は「国指定重要文化財」で中央区教育委員会の説明から概略を記す。
日本橋がはじめて架けられたのは家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられている。五街道の起点を日本橋とした。橋詰には高札場、魚河岸があった。
現在の日本橋は東京市により石造り二連アーチとして明治44年に完成。橋銘は十五代将軍徳川慶喜の筆による。
小網神社ではどぶろく祭りが・・・
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日本橋を渡って道路(そう、東海道である)横断し再び橋を北に向う、スルガ銀行の角を曲がる、ここを按針通りというらしい。三浦按針の屋敷跡だったという碑がビルの間にあった。言われて見なければ気がつかない小さな碑である。
(クリックすると拡大します。)
日本橋小網町のビルの一角に小網神社が、神社も肩身が狭い思いだろうか失礼だがコンパクトに立っていた。由緒によれば伊勢神宮を本宗として文正元年(1466)に鎮座した由。当初は稲荷神社だったとか。11月28日はどぶろく祭りだそうだ。
足の方はビルの間の細い道をいくたびか曲がり、堀留公園にやってきた、予定ではここで昼食であったが、時間に余裕がありもう少し歩くことになった。公園の北側入口から出た足は角をひとつまがり椙森(すぎのもり)神社に立ち寄った。
この椙森神社も古く千年昔の創建され。江戸三森のひとつだったそうだ。江戸商人発祥の地でもあり富くじが盛んだったとか。富塚というのが記念に建てられたそうだ。
大伝馬町を抜け人形町通りに出て、小伝馬町の交差点を渡る。信号を待っているとサイクリング車に乗った若者が「どこまで行くの?」と聞いてきた。「秋葉原駅、お主は?」東京中を走り回っているとか。
小さな道に曲がり大安楽寺というこれまたコンパクトなお寺に入ってみる。道を隔てた北側が十思公園である。
お玉が池跡
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椙森神社>十思公園>お玉稲荷
このあたりに伝馬町の牢屋敷があったそうだ。慶長年間、常盤橋際から明治8年まで約270年間、全国から入牢した者は数十万人だという。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園一帯が伝馬町牢屋敷だった。敷地面積2618坪、牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の種別があった。それぞれ旗本の士、士分僧侶、平民、百姓、婦人が入れられた。安政の大獄といわれた安政5年9月からの1年3ヶ月の間に吉田松陰、橋本佐内、頼三喜三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺したという.
公園内の木々の下、少々わかりにくいが、吉田松陰終焉の地と刻まれた碑がひっそりと建てられている。
この公園にはもうひとつ史跡「石町時の鐘」が中央のやぐらの上に残されている。江戸時代最初の時の鐘は二代将軍秀忠のとき、江戸城内の西の丸で撞いていた。鐘楼堂が御座の間近くでは差しさわりがあるということで、太鼓に変えて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を作ったのが起源だそうだ。三度の大火にあい破損したため、宝永八年に鋳造したものが現存している。
さて、ここで昼食をとることになった、数少ないベンチはすぐ埋まってしまった。近くの企業で働いているサラリーマンもあちこちに腰を下ろして弁当を食べている。中にはいつもと違ってベンチに座れないというサラリーマンがいる。そうだろう、57名のじっちゃん・ばっちゃんが早々と占領してしまっている。
小1時間の休憩後、再び人形町通りを北に向う。岩本町一丁目の交差点と三丁目の交差点のあいだ、通りから直ぐのところにお玉稲荷がある。なんとも可愛らしい小さな、おもちゃのような神社である。近くに「お玉が池跡」の標柱が立っている。このあたりにお玉が池という池があった、江戸の初めの頃は不忍池より大きかったと言われたが、徐々に埋め立てられ姿を消した。最初は桜が池と呼ばれていたが、畔にあった茶店のお玉という女性が身を投げた古事からお玉が池と呼ばれるようになったそうだ。
千葉周作道場跡>柳森稲荷>秋葉原駅
柳森稲荷のたぬきさん
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道路に面した間口のそれほど広くない民家の空き地のような所に碑が立っていた。
千葉周作玄武館跡、東條一堂の瑶池熟跡
千葉周作はここに玄武館を開いて北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政四年東條一堂は瑶池熟を開いて諸生に儒学と詩文を教授した。現在の千代田区神田東松下町。
突き当りには小学校があったらしい、コンクリートの運動場跡が寂しい空間を広げている。
そこから少し北の方、須田町の神田川のそばに柳森稲荷がある。お稲荷さんといえば狐、口は尖っているが顔つきは穏やか「たぬきさん」だそうである。稲荷と狸も妙な取り合わせのような気もするが。
JRの高架線近くになる、電機の部品を売っている間口の狭い店が時おり見えてくる。秋葉原が近いことを思わせる。
万世橋を渡って角を曲がる、ゴールの秋葉原駅である。ここ南口は以前とあまり変わらない。駅の構内を抜け北口の広場に集合する。再開発され高層ビルが並んだ新しいAkihabaraがあった。
南口、北口という呼称はなく私が便宜上呼んだまで、正式にはあわせて「電気街口」。このほかつくばEXへの乗換には「中央改札口」、「昭和通り口」があるようだ。
付記
「嘉永・慶応/江戸切絵図」を見る、常磐橋御門は石垣に囲まれ北と東が出入り可、東は堀に橋が架かっている。さらに東に金座(現日銀)がある。
三越のあったところは駿河町、品川町。按針町という町名はかなり広い。新材木町には杉の森稲荷と記されている。
その北方、小伝馬町一丁目の北に「囚獄」とある。さらに北方には玉池イナリ・お玉が池跡がある。
この絵図は大名・士分は名前が出ているが、町人は町家としか記されていない。
ありました、千葉周作という名前が。しかしまわりに東條一堂らしい名前は見当たらなかった。
神田川のほとりには柳並木が描かれている。柳森イナリの文字も見えた。
さて・・・
次回は二月ごろだそうだ、ここ秋葉原駅がスタートとなるらしい。
参考文献
嘉永・慶応/江戸切絵図(尾張屋清七板) 人文社 1995.4