ウ
オーキング
06. 12. 11
ウオーキング
(横浜/三殿台・久良岐)
<東年協/健歩クラブ・イベント>
行程
日時:12月 5日(火)10時20分~14時45分
コース:横浜市営地下鉄・蒔田駅→勝国寺→三殿台遺跡→岡村天満宮→久良岐公園→黒船見物の丘→上大岡駅(約5km)
はじめに
地下鉄1号車搬入の記念モニュメント
蒔田駅近くの鎌倉街道
この健歩クラブに参加して3回目のイベントであるが、いつも参加者の元気さに感心する。 今回は横浜市磯子区を中心に遺跡や公園を訪ねる。
私にとって横浜はチョッと遠い、いや横浜線を利用すれば直結しているようだが、通勤時間帯に混み合った電車に乗らねばならないのが距離感を遠くしているようだ。
しかし三殿台と久良岐という文字に心を揺り動かされた。
三殿台は何かの本(なかなか本の名前を思い出せない)で縄文時代の遺跡と読んだ記憶があった。久良岐(くらき)も武蔵国が誕生したころの郡の名前として目にし、どのあたりだろうかと地図を眺めたことがあった。 現在は古い地名がなくなり、その名が公園、バス停、橋の名前として残っていることが多い。
集合場所は渋谷だが、現地集合は横浜市営地下鉄の蒔田駅で10時7分着と記されていた。
この日、朝5時半に起床。寒いこの時期には布団から抜け出せないでいる私にとって1時間以上の早起きだった。
8時6分小田急多摩センター駅発、新百合ヶ丘にて本厚木行き、相模大野で江ノ島行きに乗り換え湘南台駅で下車する。市営地下鉄に乗り換えて蒔田駅には9時40分に到着した。
蒔田駅から勝國寺、三殿台遺跡へ
勝國寺の本堂
本日の参加者は43名。私をこの健歩クラブに誘ってくれたMQさんも毎度参加されている。出発して、通りの向こう---この通りは鎌倉街道と呼ばれている---に地下鉄の1号車をこの駅から搬入したという記念碑が立っていると教えてくれた。
その鎌倉街道から南の方にまばらに商店が並ぶ道を進み、狭いなだらかな坂道を登って行く。
龍祥山勝國寺というお寺に入る。ここには昔、北条氏綱の娘婿の吉良左兵衛の城があったそうだ。お寺は吉良左京太夫政忠が開基し、その法名から寺号がついたという。
余談1
吉良家について、頼康は北条氏綱の娘と結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)をも領して「蒔田殿」と呼ばれたと記されている。
余談2
北条氏綱の孫であった氏照は八王子城の城主である。
山門を出て、岡村の方に向っているやや広い道を上る。岡村小学校の手前を右に曲がり、さらにかなりの長さの階段を上がると三殿台遺跡である。
高齢な方が多いこの健歩クラブは階段が苦手である、登りながらもブーイングが聞こえてくる。
三殿台遺跡の再現住居
右手の空き地は金網で囲まれ「貝塚跡/立入禁止」と表示されている、その向うには横浜の市街が見える。
遺跡は「国指定史跡」で(財)横浜市ふるさと歴史財団が管理しているようだ。 職員の方が迎えてくれ「ずいぶん高台に登ったと思いでしょうが55mの高さです」。
いろいろと説明をしてくれた。
●縄文、弥生、古墳の複合遺跡は全国でも珍しい。
●4500年前に人が住み、大岡川は弘明寺、上大岡あたりまで海であった。
●250基の住居跡が見つかっている。
▲その数は縄文;8、弥生;150、古墳;40
遺跡は台地の上にあり約10、000平方m、収蔵庫、展示室があり見学できる。 竪穴住居跡は保護棟(建坪431平方m)のなかにあり入館は出来ないがガラス越しに見ることが出来る。
住居跡が埋め戻された広場には復元住居が縄文、弥生、古墳の時代を代表するかのように3棟ある。
保護棟の中の住居跡には1棟分の広さの土が赤みを帯びている、火事にあい全焼したらしい。
赤みを帯びた住居跡(クリックすると拡大します。)
稲作が始まった頃にはこの台状の丘から下って農作業をし、再び丘の上の住居に帰ってきただろうと言う説明があった。しかし生活用水は壺に入れて運んでいたのだろうか、などと古代の生活を想像する。
復元住居跡を覗いていると「弥生、縄文、古墳、順番はどうなんだ?」という声が聞こえてきた。
展示室では3m四方くらいの地層を標本化したものを別の職員の方が熱心に説明してくれた。
やがて、一行はふたりの職員に見送られて再びさきほどの階段を下っていった。「せっかく登ったから降りたくないよ」やはり上り下りは大変である。
岡村天満宮に参拝し、久良岐公園へ
岡村天満宮
岡村小学校の角を曲がって元の道路へでる、緩やかなのぼりである。あとで地図を見るとこの道路を「天神道路」と書かれていた。しばらく進むと下り坂になる、車道との間にガードレールが備え付けられているが、人が並んで歩くには少々きつい。付近の住民の方が待ってくれている。
ウオーカーはその地域の方を優先して道を譲るくらいの気持ちが必要だろう。今日はバスに乗らないが、大人数の団体がバスを占有すれば「公害」だと言ったメンバーもいた。まったくだ。
再び階段が待ち受けていた、高台にある岡村天満宮は鎌倉時代の創建らしい。眷属の牛の像は「撫でれば患部の苦痛が除かれる」といわれ光っているが石像だそうだ。
脇の階段を登り岡村公園のなかを走る道路に出る。公園の紅葉を見ながらなだらかなのぼり道から、住宅の玄関脇を通って坂を下る。
このあたりは丘が多いせいか、アップダウンの繰り返しである。
このウオーキングのイベントにはリーダーと補助者がいるらしく、コースの設定と事前の下見をやっているようだ。それにしても住宅地での入り組んだ道を案内してくれるのには感心する。たぶん地元の人もいるのではないだろうか。
今日はクラブの会長さんと道々話す機会があったが、「30年もやっているので見るべきところほとんど歩いてしまった」とおっしゃる。
久良岐能舞台の山門
このウオーキングには地図が配られないので土地不案内の私は帰宅後Googleーmapで再確認しているが細部は確認できない。
笹堀交差点の近くを通り再び上り坂になり、階段を登ることになる。後に向かって「もう、これで最後だよ」
公園の一画となっている「久良岐能舞台」に着いた。
能舞台、なんともウオーキングには似つかわしくない場所のように思えたが・・・。
昭和のはじめ頃、ある偉いお坊さんが隠居所となる禅寺を建てたそうじゃ。そして禅や漢文を教えとった。
やがてお坊さんがお亡くなり、奥方様が住んでおられたが、この景色をいつまでも残したいと昭和三十年代のはじめにある実業家にお譲りになったそうじゃ。
この実業家さんが、東京芸大で不用になった能舞台をここに移築された。
そうして昭和60年に横浜市に寄贈され、練習舞台として使われたそうじゃが、10年前横浜能楽堂が完成したので、以後姉妹施設となんたそうじゃ。
久良岐公園の池にカワセミが・・・
能舞台と言っても能楽だけではなく舞踊、詩吟などの稽古・発表に貸室として使われている。
敷地面積は8、000坪の谷合には、赤みを帯びた楓の色も落ち着いた色合いを見せてくれている。
久良岐公園は磯子区と港南区にまたがっている、南の方の原っぱで昼食の時間となった。そして集合は12時50分、大池のそばにあるあずまやとなった。
この日は寒くはないが陽が射すでもない、そこそこに昼食を終え雑木林の広場へ上がってみる。 ほとんど人の気配がしない広場の落ち葉を踏みながらぐるりとまわり池の畔に降りていく。
楓の色づき具合を楽しみながら歩いていると池から離れた所で大きな、重そうな望遠レンズをベンチに置いた男性がいる。
”鳥ですか”と尋ねると「カワセミです、池にいますよ」という。
私はカワセミは長い時間辛抱強く待たねば、見られないものと思っていた。
池の方に近づいていくと、ウオーカーも騒ぎながら近づいていく。
”おいおい、そんなに騒いじゃ逃げちゃうよ”と思っているが、カワセミは人なれしているのか逃げない。少し横を向いたり自分の美貌を誇示しているようであった。
黒船見物の丘へ登り上大岡駅へ
黒船見物の丘
集合して公園内の歩道を登っていく、右手の坂には桜の木が並んで植えられている。今回のウオーキングで説明をしてくれている先生がおっしゃるには、記念植樹で子供の誕生や結婚の記念に植えられたものだという。
公園内の歩道を半周した所で住宅が並んでいるところへ出た。いくつかの曲がりをいくぶん登っていくと見晴らしのよいところに出てきた。遠くにベイブリッジやランドマークタワーが霞んで見える。
そこには「黒船見物の丘」と書かれた説明板が立っていた、
嘉永7年(1854)1月アメリカからペリー艦隊が7隻の編隊で横浜に来航した。その時、黒船を一目見ようと村人たちが集まったのがこの丘で、うわさを聞きつけた近隣の村人たちも加わり大変な人だかりが出来た。そのうち、おだんごやお茶を売る者までが現れていっそう賑やかになった。
いつの世にも野次馬はいるし、ちゃっかり小銭を稼ごうというのもいる。なあ~んて言っちゃいけない。 正直でいいよ。
これから上大岡駅への坂道を下っていく。しかしウオーカーはこのあたりの坂道の多さには驚いたようで「年寄りは住めないね」
私も帰りの電車で居眠り、帰っても夕食の前も居眠り、けっこう疲れたウオーキングでした。
このページを書いてるとき、どこやらの県知事が三人目、談合で逮捕されたニュースが報道されていた。
ウオーキング