オーキング
07. 2. 5
ウオーキング(水子貝塚公園・難波田城跡) <東年協/健歩クラブ・イベント>
行程
水子貝塚公園への道すがら
日時:1月  30日(火)10時~14時
コース:東武東上線・みずほ台駅→水子貝塚公園→大応寺→新河岸川→難波田城公園→興禅寺→金蔵院→富士見市役所・文化会館・総合体育館→氷川神社→諏訪神社→谷津の森公園→東上線鶴瀬駅(約8km)

はじめに
今日は東上線の沿線をウオーキング。
東武線にはほとんど乗ったことがない私は駅や電車の表示に戸惑いを感じた。日常見慣れている人にとってはなんでもないことだが、初めて接するとドギマギしてしまう。
池袋駅集合だが、私は武蔵野線経由で行くことにする。
朝8時過ぎに家を出る、勤務していた頃は7時ごろに出かけていたのでずいぶん遅い出立である。武蔵野線は1月12日、大宮氷川神社参拝以来だ。
北朝霞駅下車、朝霞台で乗る。ホームに急行が入ってくる、乗っていいのやら、路線図を見直す。その前に二本のホームどちらに下りればいいのか瞬時の判断に戸惑う。
少し早めの時間に出かけてよかったと思う、ようやく現地集合のみずほ台へ着く。 数人の参加者が見える。

水子貝塚公園
縄文住居の骨組み <水子貝塚公園>
階段を下りて駅舎を、といっても見上げると高層住宅になっているが、出て集合。今日は49名。いつも感心するのが参加意欲。
10時半過ぎてスタート、駅前をまっすぐ北東に伸びる広い道路を一団が歩いている。はじめてみる町の人は怪訝そうな顔をしている。
私は最後尾を、Fさんと話しながら歩く。このFさん私より20歳も年上であるらしい、杖をついているがすこぶるお元気のようだ。
私の勤めていた会社のOBであることは聞いていた。
「XX号館にいたよ」
「私もXX号館にいました」
「3階だった」
「私は4階でした」
てなわけで、時間軸はずれていたかもしれないが共有するものがあった。

駅前の広い通りが終わり緩やかに上っている狭い道は水子貝塚公園に続いている。
あとで地図を見ると、このあたりには「水子」、「貝塚」、「水谷」という地名がある。公園には縄文時代の復元住居、貝塚の資料を展示した施設があった。
すぐ近くを流れ川は新河岸川であるが、少し東へ行けば荒川が流れている、ここ富士見市は地形的には荒川低地と武蔵野段丘に位置するそうだ。
  大応寺の門
公園内の資料によると荒川の位置はむかし海だったという。奥東京湾と記されていた。
今でこそ内陸地と呼ばれるが、縄文時代は海に面し人々は海産物、貝などを食べていたことは遺跡が教えてくれる。

この貝塚は昭和12年(1937)に発見され、その後数回の発掘で縄文前期の竪穴住居跡に捨てられた貝が小貝塚をつくった。環状に分布する集落であることがわかったという。
住居跡から、シジミをメインに。ハマグリ、カキが混じってた貝塚が見つかり、30歳代の女性人骨も見つかったそうだ。
展示館のなかに復元されている。

新河岸川のほとりを
大応寺というお寺の山門を抜け、下り坂で歩道の狭い道へでる。
「ここは一列になって歩いてください」声がかかる。
正面に川が見える、左には「寺下商店街」と看板がかかっている。なるほど先ほどのお寺から見れば坂の下に位置している。
川の堤防が舗装され遊歩道になっている。川の名前は「一級河川荒川水系新河岸川」と表示されている。
川幅はそれほど広くない、よく分らないが40mくらいだろうか。
新河岸川に流れ込む江川に架かる橋を渡りふたたび新河岸川の堤防の上を歩く。
この健歩クラブへ紹介してくれたMQさんとしばらくパソコンの話しなどを愉しむ、MQさんも勤めていた会社のOBだが地区は違っていた。
難波田城の本城門  跡
やがて新河岸川を渡り広い車道をもつ道を越える。このあたりはまわりに高い山も見えず、人家も少ない、関東平野のド真ん中といえそうだ。
先ほどの新河岸川も昔からの用水路のように思えるが・・・。
ほどなく難波田城公園に着いた、時刻は12時少し前。

難波田城跡
この地域には南畑という地名がある。難波田(なんばた)が読み換わったのでないかと思う。
この難波田公園は中世にこの地を活動範囲とした難波田氏の居城跡だそうだ。公園は城跡を復元したゾーンと古民家を移築したゾーンがある。
城跡の曲輪(くるわ)1には「難波田氏館址」の石碑が立っている、またそのそばには難波田直次郎墓と刻まれた石塔がある。難波田氏が深くかかわった土地らしい。
このほか、本城門、曲輪2、曲輪3、曲輪4、復元木橋、追手門、水堀、菖蒲田、十玉院主墓地などからなっている。

ウオーカーたちは城跡のなかで、座る場所を見つけ昼食をとった、私も数人のひとたちともうすでにベンチなどに座ることは出来ず、曲輪3の草むらに腰を下ろした。
古い民家で日向ぼっこ
いそいで食事を済ませ、城跡の中を歩きまわり、さらに古民家の方にまわってみた。

城跡には建造物は見当たらず、復元された門があった。古民家は明治初期から中期、このあたりで名主など旧家の屋敷が移築復元されたものが数棟見られた。
内部には囲炉裏、へっつい、五右衛門風呂がある。かまどには大きなお釜がのせられ、薪が燃やされている。昔の生活を思い出させる。
私が小さい頃このように大きな家ではなかったが、かまどや、五右衛門風呂にも入ったことがあった。
民家の縁側に座っていると、暖かな陽射しがまぶしく中庭の向うに続く表門が逆光でまぶしく目を細めていると半世紀ほど前にタイムスリップしそうである。
いつまでも座っていたい気分になった。

敷地内の一角にはじめてみる「水塚(みづか)」というのがあった。
荒川や利根川の川沿いの低地はたびたび洪水に見舞われた、宅地全体を盛り土しさらに一部を塚のように高く盛って土蔵をつくった。これが水塚といい洪水の非常事態に備えたそうだ。 富士見市は野方と里方の地域にわけられるが、水塚は里方に特徴的なものだという。
水塚(みづか)の跡
水塚のまわりにはスギ、ケヤキ、モチノキなどを植林し防風林としたという。

みなさんそれなりの年配でありこのような眺めを懐かしんでいるようだ。
午後1時、もうひとつの中庭に集合、そして出発。
畑などの間を走る道を歩き出す。上南畑神社、興禅寺、金蔵院、など神社仏閣をめぐりやや広い道路に出て左折した。

立派な市の施設
新河岸川に架かる南畑橋を渡りしばらくまっすぐな一本道を進む、1kmくらい歩いただろうか 、そろそろ足の異常を訴える人も現れてきた。
「もうすぐ、公園があります。がんばって!」リーダーの声が響く。私も腰を下ろしたくなってきた。単調な道ほど疲れが増加するようである。

交差点を渡ったところに立派な施設が並んでいる。
富士見市の文化会館、市役所、総合体育館、図書館が広いエリアを4等分して建てられている、外から眺めただけであるがどれも立派な建物である。
市民サービスの行き届いた街なのであろう。

話は変わるが
平成の大合併で、お隣に「ふじみ野市」が出来た。よく似通った名前で混乱しそうである。
東上線にある「ふじみ野駅」は富士見市内だそうだ、駅前にはわざわざ「ここは富士見市です。」と断り書きの看板が立っているという。
氷川神社の境内
両市に住んでいる人は分かるだろうが、よそから来た人には混乱がプレゼントされそうだ。

氷川神社、谷津の森公園
市の新しい施設でひと休みしたあと、住宅、畑が混在する風景を眺めながらだ緩やかな坂道を上る。
電柱に張られている住所表示は諏訪となっている。遠くに森が見えてきた、鎮守さまだろうか神社があった。氷川神社という、道を隔て諏訪神社が鎮座している。
氷川神社の右手は谷になっていて滝があると記されていた。ひとりがそれを見に下りて行き数人が続く。
滝らしいものは見えず、そこにいた人に尋ねると小さな水が落ちる場所を指差す。「あ~あ」
氷川神社は埼玉県に多く、220社以上あるそうだ。なるほどこの地域の地図を見ると氷川神社がそこかしこに。
出雲からお出ましになった神々ということらしい。
谷津の森公園という小さな公園でひと休みして東上線・鶴瀬駅に向かい解散した。
鶴瀬駅のホームのプラスチックのベンチには小さな座布団がくくりつけてあった。隣に座っていたおばさんに伺うと近隣のお年寄りのボランティアだそうだ。座ると心まで温かくなってきた。

このあと
今夕18時から下北沢で昔の職場の先輩同僚たちとの新年会が待っている。
池袋、新宿駅を通って向ったがほとんど利用したことがないところを歩くと心臓が高鳴る。嗚呼、にぎやかなところは苦手だぁ。
でも懐かしい顔を拝見でき、阿無法比。


ウオーキング