ウオーキング
07. 2. 26
ウオーキング(両国~浅草)
<東年協/健歩クラブ・イベント>
行程
ヤグラ太鼓の・・・
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日時:2月 21日(木)10時~15時
コース:JR総武線・両国駅→相撲博物館→江戸東京博物館→旧安田庭園→横網町公園・東京都慰霊堂(昼食)→隅田公園・牛島神社→三囲(みめぐり)神社→長命寺→言問団子→桜橋→隅田公園→東武浅草駅(約5.5km)
な、な、なんと・・・
今日の参加者は71名!!。 天候がいいせいかな、それともコースが都内で、アップダウンがない、その上集合時間が10時と比較的遅いからなのか。
私はいつもより30分早く6時半に起床、8時に家を出た。昨日はシトシトと雨が降り寒い一日だった、その名残りか出かける時はヒンヤリする。
両国駅までのルートは京王線・総武線。PCの「乗換案内」では御茶ノ水まで快速に乗るようになっていたが、座って体力温存を図りたく各駅に乗る。遅れて到着した電車は集合時間ぎりぎりに両国駅に着いた。リュックを背負った人が数人電車から降りているのを見てホッとする。
集合場所は江戸東京博物館に近い広場、71名がまず相撲博物館に入る。私は相撲にトンと興味がない、いろんな力士の色紙があり「根性」、「努力」など書かれていた。ひとつ雰囲気の違う色紙が目についた、「春は曙」と書かれていた。
江戸東京博物館
両足を広げた巨大な・・・
<怪獣>のよう
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続いて江戸東京博物館、私は初めての入館である。皆さんのあとについてスロープを上っていく、2階らしい広場には何もない、その景観がやはり異様な雰囲気をしている、両足を広げた巨大なコンクリートの怪獣のように見える。
常設展示は5、6階にあるそうだ。怪獣の左足のところのエスカレータから上がっていく。長いエスカレーターは途中の階で水平になり、ふたたび勾配となる。さらにエスカレーターを乗り継いで6階にたどり着いた。
江戸の街並みや日本橋が再現され、当時の大名から庶民までの生活がビジュアルに見られる。エスカレーターを降り5階には東京と名前を変えてからの様子が再現されている。
江戸城の松の廊下、大名屋敷のミニチュア・映像、大名が乗った駕籠の復元などは一見して武士の様子、つまり歴史の一部を知ることができそう。
見学者のなかには、アジア系の若者のグループが数組見受けられ、お試しのXXを担いでみては
笑っていた。
集合時間の11時半が近づいてきた、ふたたびエスカレーターで降りて行く。1階の企画室展示は「江戸城展」をやっていて、そちらにいった人が「人が多くて見られなかった」と話していた。
点呼を取る、一人足りない!。「71名もいると、遅れるのがいるよ」、まもなく一人が駆け足でやってきた。
旧安田庭園、横網町公園、公園がつづく
旧安田庭園、優雅な趣が・・・
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もと来た道、相撲博物館の入り口をグルッとまわって「国技館北側」の信号を渡る、庭園が見えてきた。
墨田区の説明によれば
この庭園は”潮入式回遊庭園”で隅田川の水を水門から池に導き、隅田川の干満の差を利用して
池の水を上下に変化させ、その水位の差により池・石組などの景色に変化をあたえ、島の浮き沈みなど、その眺めを鑑賞するもの、世界にも例がないという。
潮入の池を持った庭園は旧浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園があるが、いまは海水の汚れでいずれも水門を閉じてしまい潮入は見られない。
区では旧安田庭園の潮入の再現のため地下に800トンの貯水槽
をつくり池に水の浄化と人工干満を行って潮入を守っている。
そうだ。ウーム、潮の干満で景色が変わるのを愉しんだ昔の人は
優雅だった、いやノンビリしていた。
現代人には、そんな悠長に待てないよ。急いで干満をやってくれ・・・そんな声が聞こえそうだ。
庭園の北西に見えるドーム型の建物、両国公会堂はかなり古風で庭園にもマッチしている。
庭園の斜向かいに都立横網町公園が続いている。
横網公園・東京都慰霊堂・・
鳩に餌をやるオッちゃん (少々ボカシてます)
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面積はそれほど広くないが都立公園である。関東大震災の犠牲者を慰霊するお堂があるからだろう。
震災の犠牲者はおよそ58,000人、昭和5年に完成した慰霊記念堂は東京市に寄付されたそうだ。
それから15年後の昭和20年の空襲によりおよそ77.000人が犠牲になったという。納骨堂を拡張し東京都慰霊堂として
祀った。
境内には復興記念館、災害時の人々を救ったといわれている日本風林泉を記念した日本庭園がある。
私も慰霊堂に入り、また復興記念館に展示されている被災物を見てまわった。熱で融け曲がった鉄筋、車のシャシーなどは破壊力の強さを見せ付ける。
震災当時の写真、新聞などは貴重な伝承品となるのだろう。
日本庭園にまわってみる、片隅に石原町遭難者碑などと刻まれた石塔がいくつか立てられている。
小道にひとりのオッちゃんが鳩にパンくずを与えている。
足もとには食パンが2斤転がっている。”買い物の帰りに公園によってパンを与えている”のではなさそうだ。
話を伺ってみると、下町の公園をまわっては鳥にパンを配るのを”職業”としているそうだ。「14年になるかな」。不忍池の生態系が変わったとか、「川鵜は害鳥」とかおっしゃる。
そうかこういう”職業”もあるのか、私は”歩いてパソコン弄ってる”のが仕事なのに、そう思った。
パンが2斤ということはあと2か所まわるのかもしれない。ちなみにこのオッちゃん、住まいは上野の近く。私よりひと回り年長である。「それじゃ、がんばってください」と言って集合場所に向った。
隅田川畔をあるいて向島界隈へ
北十間川、水門は源森川水門という
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横網町公園から蔵前橋通りへ出て隅田川の畔歩道を川に沿って北上する。天気は上々、気温も寒からず絶好のウオーキング日和。
厩橋、駒形橋、吾妻橋、通り過ぎるたびに次に現れる橋の形を楽しみながら眺める。ときおり、下流の方に目をやると逆光の中で水面がキラキラとまぶしい。
ウオーカーの中にUさんを見つけた「先週はお見えになりませんでしたね」、山は×とおっしゃる。
リュックを背負ってない、尋ねると「街中は、食事処があり、暖かいものが食べられるから・・・」と。なるほどなるほど。
首都高の下、吾妻橋のたもとに石塔が立っている、震災慰霊の碑だった。
歩道の脇に「勝海舟の像」の案内が立っていて、像は墨田区役所の近くにあった。勝鱗太郎は本所・亀沢の生まれとか、墨田区役所の一角に立っているのが納得できた。
区役所の北を流れる北十間川に架かる橋、枕橋を渡る。橋の上から見える水門は源森川水門というのだそうだ。
すぐ北に日本風の庭園、墨田公園の門柱が立っている。
当時このあたりは小梅村と呼ばれ、ここに水戸徳川家の下屋敷があったという、明治以降は本邸となり小梅邸と言われたそうだ。
現在の公園の門柱は写真に写っている小海邸門と同じもののように見えた。
牛島神社
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公園に牛島神社が並んで鎮座している。ここの狛犬もかなり年代物のようだ、「享保十四巳酉歳本所中之郷横川町若者中九月十五日」と刻まれている。享保14年は1729年、280年前、吉宗将軍の頃だ。
境内には寒桜がいくつか開いている、ああ、春は近い。
小梅小学校の脇を通って、隅田川と水戸街道の間の道を北東に向いやがて、三囲(みめぐり)神社に入る。
それほど大きな神社には見えないが、奥の方には末社か摂社か分らないがかなりの数が祀られている。本社近くにはおキツネさんがある、稲荷神社のようである。江戸の切絵図を見たとき、あちこちに「オイナリ」と記されていた。稲荷は稲生の転訛とすれば農村に多かったのかもしれない。
境内には老翁老嫗の石像があり、こんな説明があった。
三囲神社はお稲荷さん
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元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいた。願いごとがある人は、老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼んだ。どこからともなく狐が現れ
願い事を聞き去っていった。他の人が呼んでも現れなかった。
俳人其角は「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んだ。
老婆の死後、里人が徳を偲んで建てたのがこの石像と伝えられている。
老嫗像には「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年・・・略・・・四野宮大和時水、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれている。
ついでだが、老嫗は老翁の半分くらいの大きさだが
狐に信頼されるようになるには、なかなか・・・。
先ほどの通りにもどる、あたりはやたらと料亭が多い、通りには「見番通り」と表示されている、ナルホド。
しばらく歩くとお寺がふたつあり「長命寺」というお寺に入る、リーダーの方が気を利かせたのかな。境内には「長命水」という湧水(?)があった。そう思って頂けばご利益があるかも・・・。
いよいよラストスパート?
隅田川の川べりに出て、桜橋を渡って台東区の隅田公園へ、遊歩道を川の流れに沿って、東武浅草駅前で解散。15時、歩数計は2万歩。
帰りのルートを考えていなかった。Google検索すればよかったが、銀座線に乗って千代田線・小田急線に乗換えた。都営浅草線から新宿線のルートの方が早かったのだが、まっいいか、眠れたし。
阿無法比。 (I’m happy)