オーキング
07. 4. 17
ウオーキング(上野~谷中霊園) <東年協/健歩クラブ・イベント>
行程
日時:4月   10日(火)10時30分~14時
コース:上野駅駅→寛永寺輪王殿(両大師堂)→寛永寺霊園(徳川家墓地4代家綱、5代綱吉)→寛永寺→浄名院(江戸六地蔵)→谷中霊園(15代慶喜墓、子ども広場・昼食)→瑞輪寺→大円寺→全生庵(山岡鉄舟、円朝の墓)→天王寺→日暮里駅(約5.5km)

山手線一周巡り・その3
両大師堂  <輪王寺>
山手線の一周巡りのウオーキング、その3である。
前回の秋葉原~上野間を私はサボってしまった。いつかひとりで補講しておこうと思っている。
10時15分上野駅の公園口に集合となっている、8時半ごろ家を出て新宿に9時半に着いた。相変わらず人の群れに ウンザリする。
京王線からJRへの乗換え通路は身動きできないほど詰まっている。Suica、PASMOで改札はスーッと抜けられるが、あの地下道は幅が狭くネックだ。

今日は神田経由で行こうと思い中央線快速の東京行きへ、10時前に上野に着いた。詳細は記さないが、この新宿・上野間で私はふたつの思い違いをしている。これは不慣れなためなのだろうか、それともボケのはじまりだろうか。
東京文化会館の横に集合した 本日の参加者62名、しかし「XXさんがお亡くなりになりました」という紹介があった。ああ~、近いのだ。

輪王寺両大師堂から・・・
重文の綱吉霊廟勅額門
国立科学博物館の横を真っ直ぐ北に向かい信号を渡って輪王寺両大師堂へ入る。境内にはもはや葉桜となってしまったが、それなりの美しさを残している。一本の木に一重と八重の花をもつ珍しい桜もあった。
両大師とは慈恵大師、慈眼大師のことだそうだ。

俄か勉強を披露すると
慈恵大師、慈眼大師とも謚号で、天海さん(慈眼大師)は上野寛永寺の創始者で江戸時代初期、家康、秀忠、家光に仕え1643年108歳で亡くなっている。
良源さん(慈恵大師)は天海さんが尊敬していた人で、ズーっとむかし平安時代の985年に74歳でお亡くなりになっている。


ウオーキングのリーダーが動き出した、そこそこに境内を後にする。
左手の国立科学博物館敷地に大きなクジラのモニュメントが聳えている。
「なっ、なっなんだありゃ」、「なんでここにクジラがある?」
「科学博物館だからだよ」なんとなく分かったような気になったのかその後の言葉はなかった。
国立博物館の正門を過ぎたところに重文の旧因州池田屋敷表門(黒門)があった。

この門はもと因州(現鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内三丁目)に建てられていた。明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、高松宮に引き継がれる。表門は昭和29年ここに移建された。形式から江戸時代末期のもの、大名屋敷表門として最も格式が高い、昭和26年重文に指定される。
重厚な門構えにしばし見惚れ、隊列から遅れる。

・・・徳川将軍墓所へ
15代慶喜の墓(左)、右は夫人
このあたりにはレトロな建物がかなりある。角を右に曲がる、黒田記念館、国際子ども図書館も昔の洋館といった風情である。国立博物館をグルッとまわって寛永寺の霊園に向った。
この霊園には徳川家の墓地があり4代将軍家綱(院号:厳有院)、5代将軍綱吉(院号:常憲院)霊廟の勅額門は重文だそうだ。
家綱の霊廟の近くに大きな石灯籠が立っていて、そのひとつには次のように刻まれていた。
厳有院 尊前 延寶九年辛酉五月八日 従五位下現姓松平山城守重治
帰宅後、日本史年表をめくってみると延宝は1673年~80年となっている。
手製の干支表では「辛酉」は1681年となっている。??
延宝から天和に改元されたのは9月29日だと分かった。

綱吉霊廟わきの説明には次のように記されている。
五代将軍綱吉は延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63歳で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と讃えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
元禄11年(1698)9月、綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂佐衛門である。
綱吉の霊廟は宝永6年12月に竣工したが、歴代将軍の霊廟のを通してみてももっとも整ったもののひとつである。
一部が維新後に解体されたり、第2次大戦で消失した。以下略


霊園の中、子ども広場で昼食
寛永寺霊園のなかを通って寛永寺の境内から上野桜木二丁目へ向う。江戸末期までの寛永寺は現在の10倍の広さがあり上野公園一帯を堂塔伽藍、子院があったそうだ。
東叡山寛永寺は京都の比叡山延暦寺を、清水堂は清水寺を、不忍池は琵琶湖を、弁天堂は竹生島を見立ててつくられたという。

ここで、先ほど歩いた道でレトロな風景で私のお気に入りを紹介しよう。(クリックすると拡大します。)


東叡山浄名院へ入る、境内には明治12年からつくられた八万四千体地蔵があり、整然と並んだ地蔵には圧倒される。
谷中霊園に入り徳川15代将軍慶喜の墓所を訪れる、墓地は庶民のものに比べれば広いが勅額門などはなく石で固められた盛土がふたつ、夫人のものと並んでいる。将軍の墓所としては質素なものだと思われる。
少し離れたところに横山大観の墓、その隣に鳩山一郎の墓が並んでいた。
まもなく、子ども広場に着き12時少し前だがお昼タイムとなった。すぐ横には天王寺の五重塔跡が生垣に囲まれていた。

谷中霊園・子ども広場で昼食
子ども広場は霊園の中の一般道に面し横に下谷署の天王寺駐在所がある。交番と違っておまわりさんの住まいも兼ねているようだ。
広場の中には礎石のようなものが転がっている。その上に腰を下ろして昼食である。
桜の木はいくぶん花を残してくれているが若芽が春らしい。

五重塔跡には往時の写真と火災で炎上、そして残った柱の写真が展示してあった。資料によれば2度火災に遭ったそうだが最初の火災は目黒行人坂の火事だという。一度火災がおきると江戸中を焼いたのであろうか。
瑞輪寺山門をくぐります
五重塔は谷中のランドマークだった、また幸田露伴の「五重塔」のモデルになったそうだ。
駐在所の横にこのあたりの案内図があり、少し西の方に幸田露伴の旧居跡が、また著名人、長谷川一夫、獅子文六、渋沢栄一らの墓があると記されている。

瑞輪寺・大円寺・全生庵・天王寺、お寺巡りが続きます
地図を見ると日暮里駅の西側、谷中七丁目はほぼ谷中霊園であり、そのさらに西の四丁目、五丁目あたりは寺町、お寺さんばっかりである。
世田谷の北烏山も寺町と言われるようにお寺が並んでいるが、そこには霊園は見当たらないようである。 境内の墓地で間に合っているのだろうか。
ついでに青山霊園、多磨霊園、小平霊園のまわりにはお寺が少ないようである。こちらの霊園は比較的新しいからだろうか。

さぁ~、昼からはお寺めぐりである。
左がお寺、右が神社  <大円寺>
霊園内の一般道を南に向っていると、リーダーのTさんが「あれが高橋お伝のお墓・・・」と指差す。
かなり立派なお墓である、ジョークが好きなNさん「良い事、悪い事、どちらでもいいから有名にならなくちゃ」
一行は大きな道、小さな道を幾度か曲がる、あるビルの入り口に「日本美術院」という表札がぶら下がっている。院展などをプロモートしているようだ。

瑞輪寺 には家康から江戸水道の創設を命ぜられた大久保主水の墓がある。
神田上水を造った人だそうだが、一揆の時に足を負傷し戦列に加わらず餅菓子を作り、以後家康に献じたそうだ。武士といえども何か生きる道を考えるものだが、それを受け入れる家康も偉かった。
ついでに、主水はモンドと呼ぶが、家康は水は濁っては困るからと、”モント”と濁らずに呼ぶように言ったそうだ。
境内には葉が茶色の八重桜が咲いていた、Oさんが「これは関山(カンザン)という桜です」と教えてくれた。

不忍通りの団子坂下への道を下っていく、谷中三丁目の大円寺に入る。
境内に入りその造りに驚いた、話を聞いてまた驚いた。権現造りだろうかひとつ屋根にふたつの拝段を持っている、神仏習合の表れらしい。 左の扁額には「経王殿」、右には「薬王殿」と掲げられている、瘡森稲荷が祀られている。

円朝師の墓所  <全生庵>
大円寺を出て元の道に戻り坂を登って、谷中五丁目にある全生庵に入る、境内のボタンの花があでやかだ。ぞろぞろと奥の墓所へ向う。
そろそろお疲れの方もいる、入り口の石に腰を下ろして「戻ってくるんでしょう」
墓所には著名な人のお墓がある、童謡「しかられて」の作曲者・弘田龍太郎、江戸時代の噺家・三遊亭圓朝、幕末の山岡鉄舟、それぞれ見学者のために木標が建てられている。

ふたたびいくつもの寺が並んでいる街並みを通り抜ける。
「(リーダーの)Tさんはこんな道よく知っているね」
「オレは街はダメだ、山ならいいが」
リードする人はコース予定の道だけでなくその周辺の道も習熟しておかねばならない。突発的に工事などが 行われることもあるから臨機応変にルートを変えねばならないことも発生する。

谷中霊園を抜けて、最後の天王寺にたどり着いた。、
霊園の一角に「鬱金(うこん)桜」という珍しい桜があり、次のように説明があった。

名木  鬱金(うこん)桜
花の色が淡黄緑色で写真ではよく分からない・・・
鬱金(うこん)桜は別名「浅黄桜」と呼ばれており、開花はソメイヨシノより2週間ほど遅く4月中旬ごろに淡黄緑色の八重の花が咲く。
旧天王寺境内であった谷中霊園内には、江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、二代目歌川広重が描いた「江戸名所図会 天王寺」のなかで「谷中天王寺・・・境内には桜木が多し、なかんずく浅黄桜の名木あり」と評されている。以下略

天王寺の境内をグルッとひとまわりする。
時刻は2時に少々、間があるが解散。

反省会は・・・
前回の反省会は、参加できなかったので今日は参加すべく後について歩く。
日暮里駅前の雑居ビルの1Fにある居酒屋の暖簾をくぐる。午後2時。こんな時間にも開いている、さすが。
向かい合ったカウンターに7人づつ14人が座る。Uさん、Iさん・・・。
お新香・X人前、焼き鳥・X人前、モロきゅう・X人前・・・。もちろん注文した数Xは<14である。
「串は1本づつだよ・・・」
これだけ計算していれば、脳は活性化する・・・、そう思う。
しかしお酒が進むうちに、細かいことを言わなくなった。

「還暦、□□□□円以上の方粗品進呈」の貼り紙
帰りに発泡酒の小缶パックを頂いた。
阿無法比。  (I’m happy)


ウオーキング