私の模型歴
フリー走行のプラモデルに不満を感じていた
模型関連のホームページを開設している私ですが、実はプラモデルを作っていたのは中学1年までで、中学2年頃からはラジコン装置の自作の方に興味が移ってしまい、長年プラモデルからは遠ざかっていました。今振り返ってみると、モーターライズモデルが全盛だったのですが、モーター1つでただ走るだけの自動車やひもが付いていてコントロールはできても一緒について回らなければならないリモコン戦車に、物足りなさを感じていたのです。やはり、ラジコンでなければおもしろくないと思っていましたが、そのころのラジコンは装置自体が高価で私の小遣いで簡単に買えるものではありませんでした。
ラジコン装置自作の世界に飛び込む
そんなころ、友達からラジコンの受信機を自作すれば安くできると聞かされ、ラジコン装置自作の世界に入ってしまいました。その友達によれば、送信機はむずかしいが買っても安いので、受信機だけ作ればよいとのことでした。その言葉に従って、いちばん安い押しボタンスイッチが一つしか付いていない送信機を買い、受信機を自作することにしました。その受信機とは、「模型とラジオ」という雑誌に載っていた超再生式の受信機で本当は非常に作るのが難しい受信機だったのです。ただ、部品数は少なく雑誌で見る限りは簡単そうでした。それからが長い道のりで、中学の時には結局完成させられませんでした。
こだわりを捨てきれず
ちょうどその時、学校の文化祭でラジコン戦車を出展することになりましたが、受信機を完成させられず兄からお金を借りてヒノデの受信機を買って急場をしのいだ経験があります。夜なべをして、日本ホビーのM41に受信機と科学教材社の順序式サーボを組み込み何とか間にあったのですが、この戦車のスプリングサスペンションのばねが弱く、ラジコンを載せて走らせると重さでぐしゃっとなってしまったのでした。見学者には笑いものになり、悲しい思いをしました。今考えるとそのとき田宮のM4シャーマンやハーケンクロイツも持っていたのだから、それに組み込めばよかったのにと思います。日本ホビーは今はもうないメーカーですが、私にとってはそのころ最も好きなメーカーだったのでそういう選択をしたのだと思います。何かこだわりがあるのは今も昔も変わっていない悪い癖のような気がします。文化祭の時の悔しさと一度始めたらのめり込む性格から、それ以降ずっとラジコン装置の自作が趣味となってしまいました。そのころは、テスターすら持っていない全くエレクトロニクスに無知な人間でしたから、完成させられるはずがありません。
期待はずれの無線クラブ
高校に入学すると、受信機の原理がわかれば完成させられるのではないかと考え、無線クラブに入って先輩の指導を仰ごうと早速入部しました。ところが、無線クラブといってもアマチュア無線専門でセイヤングやオールナイト日本といった深夜放送のことを話しているだけのだべりクラブで、全く無線のことを教えてくれない無意味なクラブでした。クラブはすぐにやめてしまい、友達の中に同じ趣味をもっている人を捜しましたが、見つけられませんでした。逆に友達からフォークソングクラブに誘われて、音楽は嫌いではなかったので少しだけ在籍していたこともありました。何か、勉強以外で自信のもてるものがほしかったのです。しかし、受信機を完成させられないことへのこだわりを捨てきれず、つまらない高校生活を送ってしまいました。それでも、一応高校の頃、受信機を完成させることができました。ただ、あまり性能が良くなく、ヒノデの受信機の性能におよばす、その後も尾を引くことになります。なお、大学に電子通信工学科を選択したのもラジコンの装置に関する技術を本格的に学びたかったからです。
ラジコン装置の大きな変化
ところで、ラジコンの世界では、そのころ大きな変化がありました。それは、デジタルプロポの出現です。実は、私が、中学の頃、日本ではアナログプロポも製品化されていて、私がはじめてラジコン受信機を買ったヒノデ電工というメーカーから発売されていました。比例制御ができるのですが、アナログ式はチャンネルを多くとることができず、デジタルプロポの低価格化とともにすぐに姿を消してしまいました。ついでに取り上げておくと、デジタルプロポ全盛になる直前にはそれ以外にシングル-マルチ方式というのもあり、双葉電子は、これでラジコン界で有名になりました。私の記憶が正しければ、先に登場した日本ホビーから発売されていた、ホビーコーンという戦車用ラジコンは、双葉電子が作っていたと思います。とにかく、デジタルプロポが低価格化されるまでの数年間、いろいろな製品が存在しました。これらは、メカニズムとして非常におもしろいものなので、私のホームページで取り上げることにします。
デジタルプロポで変わった業界地図
デジタルプロポははじめ、アメリカのオービットというメーカーがアポロで使われているという歌い文句で日本に紹介しました。そのころの価格で16万円ぐらいでしたから、相当高価なものでした。まだ、フリップフロップもモノマルチもトランジスタで作られていたので、部品が多く、高価だったのです。その後、ハーフショットマルチというモノマルチのトランジスタを半分にする技術で送信機の部品数が減りました。また、受信機では、はじめはフリップフロップの16進カウンターとダイオードマトリクスのアンドゲートで作ったデコーダーが使われていましたが、その後、NPNとPNPトランジスタを組み合わせたゲートコントロールスイッチの出現で部品数が減り急速に低価格化が進みました。このころから、ラジコン装置は日本製の方がアメリカ製よりも上になりました。そして、ICを使う時代になると、プロポのメーカーも現在の双葉、JRプロポ、三和、KOが主流となり、それまで日本のラジコン装置で有名だったOS、ヒノデ、三共、デジコンなどは姿を消しました。なお、KOだけはラジコンの初期から生き残っています。ついでに言っておくと、このごろはパソコンの周辺機器のサードパーティーのひとつであるLOGITECも以前はプロポを出していました。というより、プロポ以前からラジコンの世界では有名で、私も組立キットではお世話になっています。はじめてテスターを購入したのも、東京電子科学機材(LOGITEC)の外神田の店です。
現役での大学受験に失敗し、浪人する事になっても私はやはりラジコンにとりつかれていました。デジタルプロポの値段がやっと私の手の届くところまで下がってきたので、買うことにしたのですが、大学に合格するまではダメだと言われ、それを励みに予備校に通いました。
楽しかったラジコン同好会
大学に入学するとともに、ラジコン同好会を結成し、高校と違い楽しい日々を過ごしました。メンバーとラジコン旅行にも行きました。多摩川の河川敷でメンバーがラジコンヘリコプターを飛ばすのを手伝ったりもしました。電子通信工学科もラジコンの関連知識を身につけたくて選んだ学科だったのですが、必ずしもラジコンと関係ある科目ばかりでなく、通信関係の勉強では苦しみました。また、マイクロコンピュータが急速に発展した時代でしたが、ラジコンへのこだわりからあまり興味はありませんでした。いつも、時代の先端とは違ったところに興味を持っているのです。後悔しても遅すぎます。さらに、大学時代には、ラジコン以外にも電気研究会というクラブに在籍し、高校の時と違って先輩からいろいろ指導してもらいました。たまたま、先輩がラジコンの知識のある人でラジコンに関しても相談に乗ってもらえました。
ラジコン全面禁止
ラジコン同好会のメンバーの一人とはその後社会人となった今でも、つきあいが続いていて、ラジコンをいっしょにやっていたのですが、多摩川の河川敷でラジコンによる人身事故が多発したり、騒音が社会問題化して、全面飛行禁止になってしまったため、思うようにラジコンを続けられなくなってしまいました。模型店の中には、会費を取って専用飛行場を持っているところもありましたが、そんな特別なことをして、やる気もしなくて現在に至っています。
ラジコンカーブームの後に
さて、話はプラモデルに戻ります。本当の所、私は、ずいぶん長い間プラモデルとは遠い存在でした。それには、趣味がラジコン装置の自作に移った他にもう一つ理由があります。ラジコンカーブームです。模型屋(プラモデル屋といった方が正しい)という模型屋がすべてラジコンカーに比重を置くようになり、プラモデルの新製品が出なくなってしまったのです。田宮も大滝も日模も競争が激しく続いたようです。(実はよく知らないのですが。)そして、競争の結果は田宮の一人勝ちです。大滝は倒産し、日模は衰退しました。1989年ごろ、それまでずっと遠ざかっていたプラモデルでしたがある日何となくなつかしくなりふらっとプラモデル屋に寄ってみました。その時、もうあれからずいぶん時間が経つからきっと田宮の1/25戦車にも新製品が出ているのだろうななどと心の片隅には期待を持っていました。ところが、事態は予想に反し、1/25シリーズは絶版、モーターライズのプラモデルは縮小方向でした。私は、長いブランクの時期に発売された1/35のリモコン戦車の在庫を探して、東京23区とその周辺の模型屋をできる限り回って買いあさりました。それもラストチャンスだったようで、現在ではリモコン戦車を買いたくても、法外な値段を付けたアンティーク模型店で買えるかどうかという時代になってしまいました。その上、モーターライズ関係の部品も次第に入手が困難になってきましたので、私はできるだけまとめて購入するようにして来ました。
私の目指すものと不安
1997年の時点ではプラモデルはスケールモデルというジャンルで復活し、新製品がプラモデル屋の店頭に並ぶようになりました。モーターライズモデルはミニ4駆に姿を変え、ラジコンカーは短い周期で新製品が発売されています。私が、ブランクの時代に使われ始めたと思われることばにAFVがあり、知らない間に発達したのがジオラマであり、やはり知らない間に一般的になったのは型どりシリコンゴムとキャストプラスチックです。これらは、最近の模型関係の本でたびたび取り上げられているので、きっとこれらが現在の模型作りの主流の言葉、ジャンル、技術なのだと思います。しかし、私のこだわりからすると、これらはアートの分野でけして私のめざすメカニカル模型の分野ではありません。したがって、これらの分野は他の人たちにおまかせし、私は私の範囲で情報提供して行くつもりです。私が一番不安に思うのは、これらの情報をできれば大人だけではなく、中学生、高校生のような次の世代の人たちに受け継ぎたいのですが、はたしてどのようにしたらそれができるのかがわからない点です。