フィリピン(レイテ島)慰霊旅

2000/11/15〜11/19

3回目の海外旅行は私の大叔父の戦没地レイテ島。
名前に一字貰った縁で、慰霊旅行に同行しました。


11月15日(水曜日)
 会社を午前中で早退して、高速で福岡空港へ直行。ツアーの添乗員さんから簡単な説明を受け、4時の飛行機で一路フィリピンへ出発しました。三時間少しのフライトでマニラ空港へ無事到着。帰りもそうだったのだけれど、フィリピン近くで大変揺れる空域がありました。
 空港からは、一般のツアー客と別行動で父とマニラホテルで宿泊。マニラホテルは日本で言う帝国ホテルにあたるホテルで、戦争当時はマッカーサーの執務室が置かれ、今でもその部屋が残っているとか・・・。広大なロビーで生演奏のバンドなどもいたりして、確かに豪華でした。仕事できている父とツインの部屋に泊まることで、少し安くして貰ったんです(^^;。
 別行動のおかげで夕食を食べ損ねた私は、父にお願いしてホテルの日本料理屋に連れて行って貰い、銀だらみりんとみそ汁、サラダを食べました。これがなかなかの味でした。


11月16日(木曜日)
 朝4時半にホテルを出てマニラ空港へ直行し、ツアーグループに合流しました。当然4時間しか寝ていませんが、会社に行ってる普段と違い、旅の興奮からかそんなに眠くなかったです。
 6時発の飛行機に乗り、一時間後レイテ島のタクロバンへ到着。空港では、父の30年来の現地友人二人と、右の写真のような派手なバスが待っていました。乗り心地は・・・でしたが、なかなか雰囲気があっていいでしょう?(笑)フィリピンでは車検が無いそうで、何十年も前から走ってると想像される車がいっぱい走ってました。

 ハエの飛び回るレストランで風変わりな食パンとジャム、ベーコン、マンゴーなど簡単な朝食を取り、皆で自己紹介をした後に、バスで戦跡巡りに出発!参加者は全部で15人で、私も含め、そのうち13人は皆レイテ島で戦死した兵士の遺族でした。
 まず行ったのは、マッカーサーの上陸したレイテ湾。ここには実際の1.5倍くらいの身長のマッカーサーの銅像が立っていました。上陸作戦当時、米軍の船がこの湾一面を覆っていたそうです。「I have returned.」という台詞で有名な話ですね。

 写真撮影を終え、そのまま北上し、ドラグの飛行場跡地へ。ここで戦死した方の遺族が同行していましたので、第一回目の慰霊祭を行いました。跡地は公園になっていて、大きな慰霊碑が建っていました。あらかじめ遺族の方々や、添乗員さんが準備してきたお線香、お菓子、お花、お位牌などを飾って、皆で祭壇を準備し、お参りしました。慰霊祭では、父がこの地の戦時の状況説明、黙祷、遺族の弔辞、般若心経(テープに合わせて皆で読む)、お焼香と結構本格的でした。

 そこから所々戦場の説明を受けながら、山を越えて西へ西へと移動。昔と違い、道路も舗装が進んでいて、随分行程は楽になっているとのことでした。レイテ島の人達はとても人なつっこく、バスを見ると手を振ってくる子供達がいっぱいいます。おみやげを楽しみにしている人達も居て、ボールペンや古着をあげるととても喜ぶんです。家の前に置いた長椅子に家族で座り、道路に向かってにこにこしている。・・・こういう生活もいいな〜って、ちょっと思いました。(笑)

 途中バスの故障などのアクシデントも発生しましたが、お弁当(ごはんとフライドチキン、春巻きみたいなのでした)を食べ、カンギポット山へ行って、二回目の慰霊祭。ここは、レイテ島全土で生き残った日本軍の最終集結地で、救いの船も無く、多くの人が飢えと闘い、死んでいった地です。そこである人が弔辞を読んだのですが、その中で戦死した兵士の奥さんが読んだ短歌を披露していました。あまりに悲しい内容で、涙をこらえるので精一杯でした。

 更に、そこから少し行った(レイテ島北東の先端)シラドという所へ行きました。海に面した地で、ここが父の叔父が死んだとのことです。終戦間近のこの地では、もう組織的な戦闘は行われず、米軍も放って置いた為、恩賞目当ての現地ゲリラと飢えが敵だったとのこと。皆夕暮れ時には海岸が見える丘に出てきて、海の向こうに思いを馳せていたとか・・・。戦後、結局この地から帰ってきた人は一人もいませんでした。
父の叔父も、現地のゲリラに頭を打ち抜かれて戦死したとのことです。

 父は、旅行会社に就職した三十数年前、戦争に関わったお客様に頼まれ、独学で勉強しこのツアーを始めました。このツアーを始めてしばらくして、父が祖父と仕事について話す中、初めて自分の叔父がこの地で死んでいた事実を知ったのです。何か運命的なものを感じた父は、ちょうどその時生まれた私に、戦死した叔父の名から一時貰い、私をと名付けたということです。そのような話を小さい頃から聞かされて来た私は、ずっといつかお参りに行かねばと思っていました。今回その思いが達成され、若くして亡くなられた大叔父の分も、一生懸命に生きて行かねば・・・という感慨に包まれました。

 その後、日が暮れる中バレンシアにてもう一度慰霊祭を行った後、レイテ島第二の都市オルモックにあるホテルで宿泊しました。
食事は中国風な味付けで、以前フィリピンに出張したことのある会社の先輩に聞いて覚悟していた程、食べられないといったものではありませんでした。美味しいという程のものでも無かったけど・・・。(笑)
 ホテルでは、お風呂のお湯のでない部屋があり、添乗員さんは深夜までバタバタしていたとのことです。このホテルでは、5年前の慰霊の旅でも使ったそうですが、ある部屋で大量の羽虫が発生したらしく、その時は部屋を変えて貰ったとか・・・。今回はそういうことが無くてホント良かったです。(笑)


11月17日(金曜日)
 朝7時から、希望者を募って南の戦跡へ。希望者といっても、結局みんな参加しました。毎日寝不足でも、旅行ってなんとかなるもんですね。(笑)
 フィリピンのこの時期は雨期なのですが、旅行中奇跡的に雨はほとんど降りませんでした。前日慰霊祭は全て済ましていたので、ざっと説明を聞きながらの移動でした。途中、当時日本軍が使っていた大砲を記念に飾ってある場所があり、そこで写真を撮りました。よく見ると大砲の根本の部分が破裂しているのですが、これはこれを放棄する際、敵に接収されて使用されるのを防ぐ為にわざと日本軍が破壊して撤退したからだそうです。
 ホテルに戻って簡単な朝食を取った後、再び山を越えタクロバンへ。市内で昼食を取りました。ここは春雨みたいなのと魚のフライが美味しくて、たらふく食べました。
 そしてレイテ島とお別れし、空路マニラへ戻りました。
 夜は日本ーフィリピンの観光交流会の前夜祭で、日本から600人もの観光客が集まって、フィリピン観光省の大臣とかお偉方が集まって、マニラホテルで現地の踊りなど見ながら会食しました。



11月18日(土曜日)
 朝9時にツアー客の泊まっているホテルのロビーに集合して今度はマニラの南にある日本兵の慰霊碑がある、日本庭園へ慰霊に行きました。十年以上前に、日本政府が作った場所だそうです。
 バスに揺られて、なんと三時間!バスは日本の観光バスと変わらないような近代的なものでしたが、冷房の効きすぎで風邪を引いてしまいました。
 一時間程度慰霊祭を行った後、今回父は別行動でしたので、添乗員さんが中心となって、慰霊祭を行いました。

 慰霊祭の後、風が強かったのでバスの中でお弁当を食べ、マニラへ戻りました。しかし既に夕方で、市内観光はほとんどできず、日本ーフィリピンの観光交流会のイベントを一時間くらい見た後、スペイン料理のお店で夕食をしました。
 ギターとか、コントラバスのような楽器持った三人の専属楽団の人達が、各テーブルを回ってリクエストに応えていました。いい雰囲気で食事できて上機嫌だったのか、メンバーはなんと軍歌を歌い出しまして、私も手拍子で答えました。・・・三曲も歌ってました。(笑)


11月19日(日曜日)
 帰国の為、朝5時にホテルからマニラ空港へ直行。別行動のツアー仲間を待つ間、話しかけてきた現地の若い警察官と仲良くなり、ラッキーコインだと言って1ペソ硬貨を貰いました。私もお返しに、五円玉をあげ、思わず心温まる交流ができました。
 同行していたカメラマンから3.9万円という写真を1万円まで値切って買い、いざチェックインという段になって、二つ事件が起こりました。
 ツアー仲間の一人が、思わず禁煙のロビーでたばこを口にしたのですが、警察に引っ張られてしまい、パスポートを取り上げられてしまったのです。添乗員さんが必死に謝って、なんとか事なきを得たのですが、あまりの剣幕で恐かったです。
 また、その添乗員さんが、コンタクトを無くしてしまい眼鏡をかけていたのですが、パスポートと人相が違うと指摘されました。で、眼鏡を取ると、寝不足で赤い目をしていたのを見て、医者に行って診断書を貰ってこいと言われてしまいました。その時点で、ツアー客だけ先に荷物検査を通って、ゲート前に行ったのですが、結局それが添乗員さんとのお別れでした。
 機内で他グループの添乗員さんから事情を聞いたのですが、診断書を持って行っても納得して貰えず、結局発券の許可が下りなかったとのことです。目が赤いだけで出国拒否されるなんて、いちゃもん以外の何物でもないですよね。結局添乗員さんは翌日無事帰国したそうですが、海外旅行の困難さを示す体験でした。
 添乗員さん以外のメンバーは、無事7時半発のチャーター便に乗り、12時頃、福岡空港へ帰ってくることができました。そしてそのまま流れ解散となり、皆とお別れしました。


 めちゃめちゃハードな四泊五日でしたが、自分のルーツを知る旅に行けて、本当に良かったと思います。レイテなんて僻地に、二度と行くことはないでしょうね・・・。(笑)
 フィリピンってどんなところかというと、今回の旅だけでは、内容が偏っていたのでよくわからなかったのですが(笑)、想像してたより、危険なところではなかったかな。旅行の一ヶ月前に邦人が強盗にマニラ空港から連れ去られて射殺された事件があったり、クリスマス後に爆破事件が起こったり、本当は危険と隣り合わせなのかもしれないのですが、そういうのって、日本を離れればどこでもある話なのかもしれません。ちょっと誇張され過ぎてる面があるんでしょう。
 また、全般に英語が通じるのはいいのですが、ヒアリングは大変です。アクセントが強くて、もともと英会話が苦手な私には、コミュニケーションは非常に難しかった(^^;。
 気温は30度くらいだったでしょうか。昼はやはり暑くて、少し日焼けしました。
 中華風料理、鳥や魚のからあげ、スペイン料理、日本食。でも、日本人でも口に合うお店を選んでたのかもしれませんね。
 貧富の差はやはり大きいみたい。
 車の渋滞の中、物乞いの女性が窓を叩いたり、スラム街が点在してたり、こういう所はまだまだ発展途上といった感じです。
 いずれまた、ゆっくりマニラ観光へでも行ってみようと思います。


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2001/01/17更新

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