[144] 天武元年(672)六月二十四日 2001-06-24 (Sun)

 大海人皇子吉野脱出、壬申の乱勃発。
 この前年天智十年十月十七日、重い病に沈む天智天皇は皇太弟の大海人皇子
(おおあまのみこ、天武)を呼び、後事を託そうとした。しかし、大海人は先
に使者の蘇我安麻呂(そがのやすまろ)から警戒するように忠告されていたた
めこれを辞退、自分は病気のためとても激務に耐えない、として大友皇子を皇
太子に立て、天下を皇后倭姫王(やまとひめのおおきみ、古人大兄皇子女、舒
明孫)に託すことを勧め、自らは出家して吉野に引退した。真意は自らの子で
ある大友皇子への譲位にあった天智はこれを許可、大海人の吉野隠遁を確認し
た後、群臣に何度も大友皇子への忠誠を誓わせて十二月三日に崩御された。
 その後吉野と大津との間の緊張関係は続いたが、この年五月になって大海人
の舎人(とねり、側近)の朴井雄君(えのいのおきみ)が近江方が山陵造営の
ためとして集めた人夫を武装させていることを告げた。そのほかの情報も近江
方が既に臨戦態勢に入っていることをうかがわせるものであった。
 このため、大海人は領地のある美濃安八磨郡(あはちまのこおり、岐阜県大
垣市周辺)への脱出を決意したが。ことは急を要するため、官道と駅馬の利用
を図った。そこで、去就がつかめなかった飛鳥古京の留守居役、高坂王(たか
さかのおおきみ)の動静を探る意味もあって彼に官道の利用許可証である駅鈴
の貸し出しを依頼する使者を派遣した。しかし、彼はこれを拒絶。この情報が
近江方に伝わるのは確実であるため、その夜迫り来る危険に大海人は妃の鵜野
讃良皇女(うのさららひめみこ、天智皇女、後の持統天皇)らを伴って吉野宮
を脱出、美濃を目指しての決死の脱出行が開始された。
(日本書紀)


[143] 和銅六年(713)六月二十三日 2001-06-22 (Fri)

 甕原離宮に行幸。
 この日、元明天皇は平城宮を出て甕原離宮(みかのはらのとつみや)に行幸
され、二十六日まで滞在された。
 甕原離宮は京都府相楽郡加茂町法花寺野付近にあったと思われる離宮。この
行幸を初出として和銅七年閏二月、霊亀元年(715)三月、七月、神亀四年
(727)五月、天平八年(736)三月、十一年三月と行幸が何度も繰り返
された。そして天平十二年十二月以降にはこの離宮付近が新しい都、恭仁京と
されて宮都が造営され、翌十三年閏三月には平城宮の武器が甕原宮に運ばれる
などの記録が残されている。そのほか、万葉集は神亀二年三月にも三香原離宮
への行幸があったことを記し、笠金村(かさのかなむら)の歌が残されている。
 三香の原 旅の宿りに 玉桙(たまほこ)の 道の行(ゆ)き逢ひに
 天雲(あまくも)の 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ
 よしのなければ 心のみ むせつつあるに 天地(あめつち)の
 神言寄(ことよ)せて しきたへの 衣手(ころもで)交(か)へて
 自妻(おのづま)と 頼める今夜(こよひ) 秋の夜(よ)の
 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも (巻四・546)
(現代語訳)甕原の 旅の仮寝で <玉桙の> 道中出会い <天雲の>
 遠くで見るだけで 言葉をかける 機会もないので 心ばかり
 むせるように息苦しくいたのに 天地の 神の思し召しで <しきたえの>
 袖を交わして 我が妻として もたれてくれる今夜は 秋の夜の
 百夜の分も長く あって欲しいものだ
(続日本紀)


[142] 天平宝字三年(759)六月二十二日 2001-06-21 (Thu)

 官人・僧侶の意見に基づく施策を実施。
 この年五月九日、淳仁天皇は五位以上の官僚と師位以上の僧侶に対して政治
に関する意見を密封して提出するように求めた。そうして集まった意見に基づ
きこの日いくつかの政策が実施されることとなった。
中納言石川年足(いしかわのとしたり)「律令の施行細則である格式(きゃく
しき)が未整備なのでこれを制定して欲しい。」
参議文室智努(ふんやのちぬ)・少僧都(しょうそうづ)慈訓(じきん)「毎
年正月に全国の寺院で行われる悔過で食費が国の負担となっているためそれを
目当てに乞食坊主が来る。いっそこの食事支給を停止してもらいたい。」
参議氷上塩焼(ひかみのしおやき)「三世の皇族はその出自を尊んで禄が与え
られているはずなのに実際には一般の官僚と同様に出勤日数に応じた支給とな
っている。令の規定通り出勤日数は不問としてもらいたい。」
播磨大掾(はりまのだいじょう)山田古麿「子沢山の百姓でその子たちが成年
に達したとき親子共に課税するのは酷。庶民が男子五人以上を生んだ時にはそ
の課役を免除していただきたい。」
興福寺僧玄基「破損した寺院の修理を励行して欲しい。」
元興寺僧教玄「私度僧(無許可で僧になる者)を禁断し還俗させて欲しい」
東大寺僧普照「七道の駅路(官道)の両側に果樹を植えて欲しい。そうすれば
往来の人々は夏は木陰で休み、飢えたらその実を食べられる。」
唐僧曇静「殺生禁断のため諸国に放生池を設置してもらいたい。」
 但し、日本の実状にあわずに結局実施されなかった施策も多かったという。
(続日本紀)


[141] 用明二年(587)六月二十一日 2001-06-20 (Wed)

 善信尼、百済で戒法を学ばんとする。
 この日、善信は蘇我馬子に「僧尼の道は戒律こそが根本です。願わくは百済
(くだら)に渡って戒律を学んで伝授したい」と語った。
 善信は鞍部司馬達等(くらつくりのしまのたちと)の娘で俗名は島(しま)
と言った。敏達十三年(584)九月、百済から弥勒菩薩の石像などがもたら
された時、十一歳で出家して日本最初の尼僧となった。そして出家したその弟
子で漢人(あやひと)夜菩(やぼ)の娘豊女(とよめ)、出家して禅蔵、錦織
壺(にしごりのつふ)の娘石女(いしめ)、出家して恵善らとともに馬子の邸
宅に建立された仏殿(後の石川精舎、飛鳥寺の前身)に居住することとなった。
 彼女たちは敏達十四年の物部守屋の破仏に際しては僧衣を剥がれて海石榴市
(つばきち)の亭(うまやたち、駅の施設)でむち打たれるが、六月には馬子
のみの崇仏が認められ、それとともに彼女らも馬子のもとに戻され、石川精舎
にて修行を続けていた。この日の申し出は独学で勉強することの限界から留学
して正しい師について学びたい、という意思表示であろう。
 この翌崇峻元年(588)、百済が僧を派遣し、あわせて仏舎利や造寺の技
術者たちを献上した時、馬子は百済使に受戒の方法を聞き、その結果彼女たち
は念願の百済留学を果たすこととなった。
 その後、三年三月になって帰国した彼女たちは桜井道場(後の豊浦寺)に住
んだらしい。その後の消息は残されていない。なお、飛鳥大仏を造像したこと
で知られる鞍作鳥(くらつくりのとり)は彼女の甥に当たり、鞍作氏は一族を
挙げて仏教の受容に貢献したことになる。
(日本書紀)


[140] 天平元年(神亀六年、729)六月二十日 2001-06-19 (Tue)

 背中に文字をもった亀、献上される。
 この日、左京職(さきょうしき、平城京の左京を管轄する役所)から一匹の
亀が献上された。その亀は長さ五寸三分(16cm)、広さ四寸五分(13.5cm)で
その背中には「天王貴平知百年」の文字が浮き出ていた。敢えて意味を取ると
「天王(天皇)は貴く、平らかに知る(統治する)こと百年」とでもなるだろ
うか。当時の京職の大夫(長官)は藤原麻呂(ふじわらのまろ、左京大夫・右
京大夫を兼任)であり、この年二月の長屋王の抹殺に続く光明子立后のための
布石であろうか。
 背景はともかく、この事件は当時は瑞祥現象、つまり名君の仁政をたたえて
天がめでたいしるしをつかわしたもの、と理解され、八月五日になってからこ
の文字から「天平」と改元されることになる。その日あわせて亀を捕った人、
河内古市郡の無位賀茂子虫には従六位上(通常無位の者がどんなに努力しても
一生達することは出来ない)の位と多くの物が与えられ、彼に献上を勧めたと
いう唐僧道栄にも厚い褒賞が与えられた。そうして八月十日には光明子がいよ
いよ皇后に立てられたのであった。
 平城京の繁栄を象徴するこの「天平」の年号は最初からかくもいかがわしい
ものであった。そしてその経緯が象徴するようにこの文字とは正反対にこの年
二月の長屋王の変に始まり、疫病の大流行、藤原広嗣の乱、頻繁な遷都・彷徨、
橘奈良麻呂の変、恵美押勝の乱、道鏡の専横と皇位簒奪未遂という陰惨な事件
を重ねた末、百年どころか五十年足らずで聖武天皇に連なる子孫は根絶やしに
されてしまう。
(続日本紀)


[139] 大化元年(645)六月十九日 2001-06-19 (Tue)

 群臣盟約、大化改元。
 蘇我氏討滅後、皇極天皇の譲位を受けて政権を掌握した孝徳天皇は皇祖母尊
(すめみおやのみこと、皇極上皇)、皇太子(中大兄皇子)らを引き連れ、飛
鳥寺の西にあった大槻の木のもとに群臣を集め天神地祇(天上の神々と土着の
神々)にかけて新政権への忠誠を誓わせた。またこの時初めて元号が定められ、
この年(それまで皇極四年)を改めて大化元年とされた。
 日本書紀では孝徳天皇は「仏法を尊び神道を軽(あなづ)りたまふ」とされ
ているが、ここでも飛鳥寺の西に群臣を集めながらその盟約は神の名において
なされている。また、中臣氏と並ぶ祭祀氏族、忌部(いんべ)氏の長老忌部広
成(いんべのひろなり)が専権を極める藤原氏とその同族中臣氏に圧倒されて
次第に古来の祭祀がおろそかになっていることを嘆き、平城(へいぜい)天皇
に献上した忌部氏の立場から歴史を綴った著「古語拾遺」には逆に孝徳天皇の
時代に神祇制度が整ったことを述べており、批判はまったく見られない。一方
で日本書紀は孝徳について「人となり、柔仁にましまし儒を好みたまひ、貴賤
を択(えら)ばず、頻りに恩勅を降(くだ)したまふ」とも述べており、事実
孝徳朝初期における果敢な政策は特筆に値する。しかし、治世後半になると明
らかに政治は孝徳でなく中大兄皇子を中心に動いており、最後には孝徳は中大
兄や皇極上皇、果ては皇后にまで見捨てられ、一人寂しく難波宮に取り残され、
最後を迎える。このことを考えると実際に大化改新を主導したのは孝徳天皇で
あり、あまりに性急な改革はやがて反発を招き、反対勢力の先頭に立った中大
兄皇子に実権を奪われたのではないだろうか。
(日本書紀)


[138] 天平十八年(746)六月十八日 2001-06-18 (Mon)

 玄ぼう、配流先で卒す。
 玄ぼう(げんぼう、「ぼう」は「日」偏に「方」)は俗姓阿刀(あと)氏。
霊亀二年(716)、多治比県守(たじひのあがたもり)以下の遣唐使に従っ
て学問僧として唐に渡った。唐の玄宗皇帝からその才能を買われ高貴な色とさ
れる紫色の袈裟の着用を許されるに至った。そしてその次の遣唐使、天平四年
(732)の多治比広成(たじひのひろなり)以下が帰国する際、ともに帰国
した。その時、五千巻以上もの膨大な経論や仏像などを将来、仏教を重んじる
聖武天皇を狂喜させた。そればかりか、聖武天皇を産んで以来その精神を病み、
久しく人と会うことが出来なかった文武天皇の皇太夫人宮子も彼と会ってから
正気に戻り、天平九年に聖武天皇と母子の対面を果たすことが出来たこともあ
って非常に重用された。
 しかし、彼や吉備真備(きびのまきび)などが唐で学んで得た知識を生かし
て活躍することに危機感を覚えた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は天平十二
年に彼ら二人を除くことを訴えて大宰府に反乱を起こした。この藤原広嗣の乱
自体は朝廷側の果断な処理と将軍大野東人(おおののあずまひと)の適切な指
揮で鎮圧されたものの、その後政権を掌握して行く藤原仲麻呂に逆ににらまれ、
天平十七年十一月にはついに大宰府観世音寺(福岡県太宰府市)に左遷され、
この日失意のうちに世を去った。時の人はその死は藤原広嗣の怨霊の祟りによ
ると噂したという。なお、この時の怨霊の噂は日本史上における怨霊(に相当
する)記事の初見であり、やがて恨みを呑んで死んだ者が特定の相手に祟る、
という怨霊は平安初期に御霊(ごりょう)信仰として定着して行く。
(続日本紀)


[137] 延暦元年(天応二年、782)六月十七日 2001-06-16 (Sat)

 大伴家持、陸奥按察使鎮守将軍に任ぜられる。
 この日の任官で春宮大夫(しゅんぐたいぶ、皇太子に関する庶務を司る役所
の長官)従三位大伴家持は陸奥按察使(みちのおくのあんせちし、福島・宮城
の行政監察官)鎮守将軍(ちんしゅしょうぐん、同地の常設軍事司令官)の兼
務を命ぜられた。
 家持はこの時六十五歳前後と見られ、この時点では兼任でもあり陸奥に赴い
た訳ではなかったらしく、翌年七月には中納言に昇進している。しかし、さら
に翌延暦三年には蝦夷(えみし)征討のための征東将軍(後の征夷大将軍)に
任ぜられ、結局高齢を押して陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)にまで赴任し
たらしい。四年四月には彼は陸奥のうち多賀城以南の十四郡を仮設の郡から通
常の郡に昇格させて統治することを求め、認められている。一方で軍事的な動
静は記録にないまま同年八月に亡くなってしまうのは恐らく彼が現地の実状を
よく理解し、強硬策でなく協調策で臨んだためではないだろうか。現にこの間
蝦夷の反乱関係の記事も見られない。長い長い下積みでの苦労や「万葉集」で
知られる彼の温和な人柄が偲ばれる。
 一方、この時の「春宮大夫」の職は亡くなるまで兼任した。皇太子早良親王
(さわらのみこ)は家持の強い影響下に育ったのであり、家持の陸奥赴任は或
いは二人を引き離す意図があったのかも知れない。そして家持の亡くなった翌
月に発生した藤原種継暗殺事件では既に鬼籍にあった家持が首謀者、皇太子の
早良親王が黒幕、とされて大伴氏が壊滅的打撃を受けると共に無実の疑いを受
けた早良親王は食を断って憤死する、という悲劇へとつながって行く。
(続日本紀)


[136] 文治二年(1186)六月十六日 2001-06-15 (Fri)

 源有綱、大和宇多にて敗死。
 平家を壇ノ浦に滅ぼすという大功を立てた源義経であったが、許可を受けず
に官位を与えられたことがきっかけとなり兄頼朝と亀裂が深まり、鎌倉入りを
も拒絶されて空しく京で時を過ごしていた。頼朝に反旗を翻そうとする叔父の
行家の誘いも最初のうちこそ自重していた彼であったが頼朝が刺客土佐坊昌俊
(とさのぼうしょうしゅん)を送り込むに及んで遂に立ち、文治元年十一月二
日、後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。そして反頼朝勢力を糾合し
ようと図った。これに応じた一人が源有綱(みなもとのありつな)であった。
有綱は宇治川の合戦で壮烈な戦死を遂げた源仲綱の次男で源三位頼政の孫にあ
たる。彼は源義経の娘婿であった上に代々大内守護、御所の警衛を任じてきた
家柄であり、院宣が出た以上は従うのは当然であった。また彼ら摂津源氏は源
氏の嫡流であり、河内源氏の頼朝は分家筋に当たった。心情的にも頼朝の下風
に立つことは出来なかったし、逆に頼朝から見れば目障りな存在であった。
 彼らは頼朝の抑える東国に対抗して西国に基盤を置こうと大物浦(だいもつ
のうら、兵庫県尼崎市大物)から出航して九州を目指したが激しい西風によっ
て流され、住吉の浦(大阪市住吉区)に打ち上げられ、軍勢も四散してしまっ
た。残ったのは僅かに義経、有綱と堀弥太郎、武蔵坊弁慶、そして義経の愛妾
静の五人だけとなった。彼らは吉野に逃れ、女人禁制の大峰山で静と別れ、消
息を絶った。有綱はその後義経と別行動を取ったらしい。
 そしてこの日大和宇陀郡で有綱は義経残党を捜索中の北条時定(時政の甥)
に見つかり、戦ったが衆寡敵せず深山に入って自決した。
(吾妻鏡 文治二年六月二十八日)


[135] 推古十六年(608)六月十五日 2001-06-15 (Fri)

 隋使難波津に到着。
 聖徳太子が推古十五年に派遣した小野妹子以下の遣隋使は目的を達し、隋の
使者を伴ってこの日難波津に帰着した。対等外交を目指す日本側は「日出づる
処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」で始まる国
書は当初隋の皇帝煬帝(ようだい)を激怒させたが、高句麗への軍事行動を予
定していた隋としてもその後背になる国を無視するわけにもいかなかった。恐
らく日本側も国書の書き換えなどを行ったのであろう。中華帝国にとって対等
外交というものは(武力で屈服されない限り)そもそもあり得ないものであっ
た。但し、この時派遣された隋の使者裴世清(はいせいせい)は最下級の官僚
であり、隋の意識はその程度のものでしかなかった。しかし、それでも中華王
朝から使者が来るのは雄略朝以来の出来事であり、この日は天満川に飾船三十
艘を並べて歓迎した。
 しかし、ここで大問題が発覚した。妹子が百済を通過するときに隋からの国
書を盗まれた、というのである。隋使の手前もあって妹子の処罰は見送られた
が、恐らくこれも紛失ではなく、あまりにも日本を見下した内容(妹子による
国書の書き換えを示すものでもあっただろう)のためにとてものことに提出す
ることが出来なかったのであろう。
 八月三日、隋使は京に入り、その時には飾り馬七十五匹を海石榴市(つばき
ち)の衢(ちまた)に並べて歓迎、そして十二日にはいよいよ朝廷に招いて隋
帝の書が伝えられた。この書が妹子の紛失したものと同じかどうかは不明だが、
その文書形式は明らかに日本をはるかに見下したものとなっている。
(日本書紀)


[134] 皇極四年(645)六月十四日 2001-06-13 (Wed)

 皇極天皇、孝徳天皇に譲位。
 乙巳の変で蘇我氏本宗家が滅亡した後、この日に皇極天皇は皇位を中大兄皇
子(なかのおおえのみこ、舒明皇子)に皇位を譲ろうと詔を下した。しかし、
中大兄は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌足)の忠告に従い、辞退し
た。そこで天皇は次に軽皇子(かるのみこ、皇極弟)に譲位をしようとしたが
彼も再三辞退し、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、舒明長子)を推薦
した。ところが古人大兄も辞退した上、出家して吉野に入り仏道修行をする、
として法興寺(飛鳥寺)の仏殿と塔の間で剃髪して袈裟を着た。このために軽
皇子は辞退できなくなり、壇(たかみくら、高御座)に登って即位された。こ
の時、大伴長徳(おおとものながとこ、家持の曾祖父)と犬上健部(いぬがみ
のたけるべ)が金の靫(ゆき、矢を入れる容器)を帯びてそれぞれ壇の右左に
立ち、官僚たちが列をなして巡り拝んだ。これまで天皇の位はすべて終身であ
ったのがここに史上初めて生前譲位が実現されたことになる。また即位式の様
子が記述されるのもこれが初めてである。
 同日、中大兄を皇太子とし、阿倍内麻呂(あへのうちまろ)を左大臣、蘇我
倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣に任じ、中
臣鎌子を内臣(うちつおみ、側近の長?)に任じた。
 以上が「日本書紀」の伝える譲位の経緯であるが、実際には律令制以前の皇
位継承は同世代の皇位継承権者が順次皇位に立ち、対象者がいなくなってから
次の世代に移っている。それを考えるとき、この時の継承順位は古人大兄、軽、
中大兄の順になり、この時の中大兄皇子の即位は実際には考えられなかった。
(日本書紀)


[133] 推古二十二年(614)六月十三日 2001-06-12 (Tue)

 犬上御田鍬ら、遣隋使として派遣される。
 この日、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)・矢田部某(名は伝わらない)
以下の遣隋使が派遣された。
 遣隋使は日本書紀によれば三回派遣された。推古十四年の小野妹子(おのの
いもこ)らによる最初の遣隋使、十六年に彼らと共に来日した隋使の送還と留
学生(るがくしょう)たちの派遣を兼ねた小野妹子・吉士雄成(きしのおなり)
以下の使節、そして今回の使節である。が、その後隋自体が煬帝(ようだい)
による高句麗遠征の失敗などによりこの四年後には滅亡してしまうので、結局
遣隋使としてはこれが最後になる。なお、「隋書」には二回記録されるが、
「日本書紀」記載のものと合計のべ六回のうち日隋両国の記録が一致するのは
推古十四年の小野妹子(隋の記録では音写により「蘇因高」)によるもののみ
である。隋側の記録にのみ見られる開皇二十年(600)の使者は事実であれ
ば最初の遣隋使になるが、当時日本は新羅などとの外交では国書を用いず口頭
伝達による外交が行われており、この時の使者も国書を持たなかったため国書
不備で放還(国外追放)された結果日本側記録から抹消されたのではないか。
 御田鍬らの使節は翌二十三年九月、無事帰国している。帰国した彼ら遣隋使
と共に百済(くだら)の使者が来日している。恐らく彼ら遣隋使の航路は百済
経由のものであったのだろう。
 なお、御田鍬はその後舒明二年(630)にも今度は最初の遣唐使として渡
唐、翌年唐使と、今度は新羅(しらぎ)の使者を伴って帰朝し、再び大任を果
たした。
(日本書紀)


[132] 皇極四年(645)六月十二日 2001-06-11 (Mon)

 乙巳の変、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺。
 乙巳(いっし)の変は「大化改新」の幕開けとなった蘇我氏に対する政変を
指す。この日、朝鮮三国(百済・新羅・高句麗)からの使者の謁見の儀式に呼
ばれた蘇我入鹿(そがのいるか)は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌
足)の計略により剣を取りあげられた。そして皇極天皇が大極殿(おおあんど
の、宮の正殿)に出御され、次期天皇の最有力候補であった古人大兄皇子(ふ
るひとのおおえのみこ)が傍らに侍する中、入鹿の叔父の蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が三国の上表文を読み上げた。この
間に宮の門は中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の指示で閉じられ、皇子は長
槍(ながきほこ)を手に殿の側に隠れ、鎌子は弓矢でこれを守り、佐伯子麻呂
(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)の
二人が入鹿を斬る役目であったが、おじけづいて出られない。上表文も末尾に
近づき石川麻呂は冷や汗を流し声も震えた。そのために入鹿が不審を感じたの
を見て取った中大兄は子麻呂とともに躍り出て斬りつけた。入鹿は皇極天皇に
救いを求めたが中大兄皇子が蘇我入鹿の謀反の罪状を奏上、それを聞いた帝は
退出された。その後、入鹿は子麻呂や網田らにより斬殺される。古人大兄は自
邸に逃げ、中大兄は飛鳥寺に陣を構え、入鹿の遺体をその父の蝦夷(えみし)
に送り届けた。蘇我氏側に立とうと漢(あや)氏たちが武装して集合したが中
大兄の派遣した将軍巨勢徳陀(こせのとこだ)の説得で解散。翌日、蝦夷は自
宅に火を放って自決した。繁栄を極めた蘇我氏の本流はここに滅亡、いわゆる
「大化の改新」が幕を開ける。
(日本書紀)


[131] 天平宝字二年(758)六月十一日 2001-06-10 (Sun)

 帰順した蝦夷に種子を賜う。
 この前年、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ、恵美押勝)の子朝狩(あさか
り、「狩」は正しくは旁を「葛」に)は陸奥守に任ぜられ、北辺の経営に当た
った。その成果によってこの時までに蝦夷(えみし)の男女合計一千六百九十
余人が律令政府に帰服した。ある者は故郷を離れて多賀城などの城柵周辺に移
住し、時には命に応じて兵士として蝦夷と戦い、結果として昔の仲間と仇敵の
関係となり、不安におののきながら生活していた。
 この日、陸奥国は以上のような事情を申し述べ、彼らに種子を与え、農耕を
営ませることで定住・安定させることを申請し、許可された。
 中世以降において「蝦夷」は「えぞ」と読まれるようになり、少なくとも近
世においてはそれはアイヌ人を意味するものであった。そのため、「えみし」
と呼ばれた古代において彼らの実態は果たしてアイヌ人を指すものであるのか、
それともこれら辺境に住む日本人を指すのか、古くから議論があった。今日で
もその決着はついていないが、少なくともそのどちらか一方だけを指したもの
ではなく、両者が含まれていた、と考えるのが自然であろう。律令政府は公式
には彼ら蝦夷は農耕を行わないもの、と規定していたが、実際には古くから農
耕生活を営んでいた。その一方、狩猟を行い肉食を好んだのも事実であったら
しく、生活の相違から彼らを別種の人々、としていたものであろう。
 蝦夷の側としても律令政府の進んだ農業・土木技術を受け入れることで生活
を安定・向上させようとする人々とこれを拒んで自分たちの土地を守ろうとし
た人々がいたらしく、蝦夷内部でも両者の対立が見られたものであろう。
(続日本紀)


[130] 朱鳥元年(天武十五年、686)六月十日 2001-06-09 (Sat)

草薙剣を熱田神宮に遷す。
 天智七年(668)、新羅の僧道行(どうぎょう)は草薙剣(くさなぎのつ
るぎ)を盗みだし、新羅に帰ろうとしたが、途中で風雨のため進路を見失い、
戻ってきた。どこからどう盗み出したのか、その後どうなったかの記録はない
が恐らくはその後取り返されて宮中に安置されていたものであろう。
 時が流れてこの年五月二十四日、天武天皇はご不予(ご病気)になられた。
そしてこの日ご病気の原因を占ったところこの草薙剣の祟り、と出た。そのた
め即日熱田社に送り置かれた。
 三種の神器の一つ、草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ば
れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した
ときその尾部から出現し、それを天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上し
た、という伝承を持つ。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に
伊勢神宮にあった倭姫命(やまとひめのみこと)から授けられ、駿河の焼津
(やきづ、静岡県焼津市)または相模の小野(神奈川県厚木市)で尊が火攻め
にあったときに草を薙ぎ払い迎え火をして難を逃れたため草薙剣と称されるよ
うになったとされる。東征からの帰途、尊はこの剣を残したまま伊吹山に登り
そのため病を得て伊勢の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で薨去された。そし
て剣は熱田神宮に祀られたという。
 しかし、熱田神宮のほか草薙神社(静岡市)などの祀る剣と天叢雲剣、そし
て三種の神器の剣との関係ははっきりと記録されたものはなく、すべて同一だ
とすると壇ノ浦に沈んだ神剣は模造品となり、当時の大騒動は不審である。
(日本書紀)


[129] 延暦八年(789)六月九日 2001-06-08 (Fri)

 紀古佐美、蝦夷に大敗し独断で退却。
 この前年十二月七日、律令政府に激しく抵抗する阿弖流為(あてるい)の率
いる胆沢(いさわ)地方の蝦夷(えみし)を制圧するために桓武天皇の寵臣紀
古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする二万七千四百七十人に及ぶ大軍が派遣
された。五月十二日になって成果が挙がらぬことにいらだつ天皇に督促された
征討軍は衣川を渡って蝦夷を攻撃することとした。
 その征討軍から届いた六月三日付の報告は朝廷を驚倒させるものであった。
副将軍入間広成以下は前・中・後各二千人からなる部隊を編成、北上川の渡河
攻撃を企てた。中・後軍は渡河に成功、蝦夷軍三百がこれを迎撃したが退却、
征討軍は途中の蝦夷の村落を焼きながら巣伏村(江刺市?不詳)まで進撃した
が、合流しようとした前軍は蝦夷の抵抗により渡河に失敗していた。そこへ蝦
夷軍八百が猛攻を加えて来たため征討軍が押されて後退し始めたところを蝦夷
の伏兵四百に退路を断たれ挟撃を受け、壊滅的な敗北を喫したのである。別将
丈部善理(はせつかいべのぜんり)以下戦死者25、矢に当たった負傷者245、
川に逃れて溺死した者1036、裸で泳いで逃げた者1257という惨敗であった。
 これを聞いた桓武天皇は激怒、一部の分遣隊のみを派遣したからこうなった
のだ、として主力による攻撃を命じた。しかし、この日古佐美からは再び驚く
べき報告が届けられた。胆沢は奥地であり補給が困難であるため征討軍を解散
して戦地から退却する、というのである。怒り狂う天皇の再三に及ぶ督戦を無
視して九月八日に古佐美は帰京してしまった。それでも結局古佐美は処罰され
ることもなく終わった。
(続日本紀)


[128] 大宝元年(701)六月八日 2001-06-07 (Thu)

 庶務を新令により行うことを命ず。
 この前年六月十七日に完成した大宝令はこの年三月二十一日、大宝改元と共
に官名・位号に適用されたのを皮切りに、いよいよ全国的に施行されることと
なった。四月七日から官僚たちに新令を講習し、また六月一日には大安寺で僧
尼令の講習を行った。そしてこの日、いよいよ庶務をこの新令によって行うよ
うに、という文武天皇の勅令が出された。また、あわせて国宰(くにのみこと
もち)・郡司は大税(地方に蓄えられる不動穀)を法で定められた通りに貯え
置くことを命じた。これら大税は田租をもととして各地の正倉に備蓄され、非
常時の備えとされたものである。
 またこの日七道諸国(全国)に使者を派遣、大宝令によって政治を行うなど
この日の勅の内容を知らせ、あわせて諸国の国印の様式を頒布した。但し、実
際に国印が鋳造されたのはこれから三年後の慶雲元年(704)四月九日のこ
とになる。
 大宝律令は行政法である令(りょう)十一巻と刑法に当たる律六巻からなる。
この時点では律は未完成であり、この年の八月三日に至って完成している。こ
の大宝律令そのものは一部の逸文が伝わるのみであるが、養老二年(718)
にこれを改訂した養老律令と大差がないものであったらしい。律令国家とはこ
れら律令を基本法として政治を行ったのであり、鎌倉幕府が御成敗式目を制定
した際にも形式的にはこれを尊重する立場を取り、明治維新に至っても公式に
は廃止されることなく今日に至っている。しかし、それが形式的なものであっ
たことはこのうち律の大部分が散逸して伝わらないことに端的に示されている。
(続日本紀)


[127] 用明二年(587)六月七日 2001-06-06 (Wed)

蘇我馬子、炊屋姫を奉じ穴穂部皇子を殺す。
 この年四月九日、用明天皇が崩御された。この急な事態は蘇我馬子(そがの
うまこ)・物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の二大豪族の対立を次期
大王を巡って先鋭化させた。
 五月、守屋の軍勢は三度鬨の声を挙げて示威を行った。その一方で彼は穴穂
部皇子(あなほべのみこ、欽明皇子)の擁立を図り、淡路での遊猟にかこつけ
て彼を密かに自宅に招いた。しかし、これは馬子の知るところとなった。
 機先を制すべく馬子はこの日炊屋姫尊(かしきやひめのみこと、敏達皇后、
後の推古天皇)を奉じて佐伯丹経手(さえきのにふて)・土師磐村(はじのい
われ)・的真噛(いくはのまくい)たちに穴穂部皇子及び宅部皇子(やかべの
みこ、宣化皇子)を殺すことを命じた。そこでこの日夜半、丹経手たちは兵を
率いて穴穂部皇子の宮を囲み、これを殺した。そして翌日穴穂部皇子と親しか
った宅部皇子を殺した。
 仏教受容を巡って争ったと伝えられる蘇我・物部両氏の抗争は実際には朝廷
内の地位を目指すものであったと見られる。この時、蘇我馬子に先手を取られ
て穴穂部皇子の擁立に失敗した物部守屋は泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の
崇峻天皇)や厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)らを奉じた蘇我馬子
側の攻撃によってこの翌月に敗死する。
 なお、炊屋姫尊と「尊」が付されるのは天皇崩御後は後継者が確定するまで
皇后が王権を代行する慣例によってこの時彼女が大権を代行していたためと見
られる。
(日本書紀)


[126] 宝亀六年(775)六月六日 2001-06-05 (Tue)

 紀馬養ら漂流するも五日後無事漂着。
 紀伊国安諦郡(あてのこおり、和歌山県有田郡湯浅町)の人、紀馬養(きの
うまかい)と海部郡(海草郡下津町)の人、中臣祖父麿(なかとみのおおじま
ろ)の二人は日高郡の紀万侶(きのまろ)に雇われ、酷使されて網を引き魚を
捕っていた。
 この日、突然強風が吹き、豪雨が降って河口に水があふれ、そこにつないで
あった材木が流されて行った。そこで万侶は二人に命じてその木を取らせた。
二人は材木を集めて筏に組んで風に逆らって漕いで行ったが、激流のためにつ
ないだ縄が切れ、筏はバラバラになって河口を過ぎて海に入ってしまった。二
人は何とかそれぞれ一本の木につかまって流されて、どうしようもなく、ただ
「南無釈迦牟尼仏、どうかこの災難からお救い下さい」と必死に叫び続けた。
 五日後の夕方、祖父麿は淡路国の南西田町野の浦(淡路島、詳細不明)の塩
焼きの人が住む処に流れ着いた。馬養は更に翌日になってこちらも同じ処に流
れ着いた。土地の人が見つけて事情を聞き、憐れんで世話をして、国司に報告
した。国司も気の毒がって食糧を与えてやった。
 そして祖父麿は「殺生を仕事とする人に使役されてひどい目にあった。これ
で帰ったらまた酷使されて殺生をやめられないだろう」と淡路の国分寺(兵庫
県三原郡三原町)に入り、そこの僧に従った。馬養は二ヶ月後に帰郷したが死
んだと思って四十九日の法要も済ませていた家族は驚き、事情を聞いて互いに
悲しみ、喜び合った。そして発心して世を捨てて山に入り、仏道の修行を行っ
たという。
(日本霊異記 下・25)


[125] 天平神護二年(766)六月五日 2001-06-04 (Mon)

 大隅の新島の鳴動により賑恤。
 天平宝字八年(764)十二月、西方に大きな音が鳴り響いた。その音は雷
(いかずち)の音に似ていたが雷ではなかった。その時、大隅と薩摩(鹿児島
県東部と西部)の堺に煙と雲が充満し、稲妻のようなものが光った。そして七
日後に漸く空が晴れたが、鹿児嶋信尓村(かごしましなにむら、鹿児島県姶良
郡隼人町か、地名「鹿児島」の初出)の海に砂や石が集まって三つの島(隼人
町南沖合の沼田小島・弁天島・沖小島の三島からなる神造島)となっていた。
その島はまるで鋳造したかのように炎や煙が上がっていた。そしてこの島の出
現などに伴い、民家六十二軒が埋まってしまった。
 それから一年半を経たこの段階になってもまだその島周辺は地震が続くため
に多くの民衆が流浪を余儀なくされていた。そのため、彼らに対して賑恤(食
料の施し)が行われた。
 現在の桜島の大噴火の記録である。桜島は大正三年(1914)の大噴火で
陸続きになるなど活発な火山活動で知られるが古代においてはこれは神の所行
と理解され、人々は祈る以外何もできなかった。もっとも今日においても三宅
島の三原山噴火に対して人間は余りにも無力であり、古代の人を笑う資格はな
いだろう。この時の「神の造った島」を祀る神社に対してはその後宝亀九年
(778)に国家祭祀の対象とされており、延喜式に見える大隅国曾於郡の大
穴持神社がそれであろう。当時は東の富士山も「竹取物語」で知られる通り噴
煙を上げ続けており、特に延暦十九年(800)の大噴火では足柄を通る東海
道が通行不能となり、代わりに箱根の道が臨時に使用された。
(続日本紀)


[124] 天智十年(671)六月四日 2001-06-04 (Mon)

 百済三部の使者要請の軍事について宣言する。
 日本と友好関係にあった百済(くだら)は斉明六年(660)、唐と新羅
(しらぎ)の連合軍の攻撃を受けて滅亡した。そして鬼室福信らによる再興百
済も天智二年(663)に救援の日本軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで壊
滅したため、百済はついに完全に滅亡してしまう。
 そして旧百済領域は唐による直轄支配を受けることになった。唐の百済駐留
軍は翌天智三年に日本に遣使し、様子を窺うなど、緊張の中にも小康状態が続
いた。しかし、天智七年には今度は高句麗(こうくり)が唐・新羅連合軍の攻
撃に内紛が重なってとうとう滅亡してしまう。そしてこれを機に新羅はその野
心をむき出しにする。旧百済領域の併呑を図ったのである。次第に旧百済領域
(唐の熊津都督府の支配領域)に侵攻していく新羅に対し当然唐は怒ったがそ
れでも新羅は謝罪使を派遣する一方、侵攻はやめなかった。この年一月には熊
津(くまなれ、もと百済の首都で唐の都督府の所在地)の南で激戦が行われ、
六月からはいよいよ本格的に唐の救援軍を相手に戦闘を繰り返すに至った。
 一方、百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)はこの年一月に日本に使者を派遣
した。恐らくその時、百済の五部(地方区分、上・前・中・下・後の各部)の
うち三部の代表をも派遣、窮状を訴えて援軍を乞うたのであろう。逆に言えば
残る二部は既に新羅に併合されていたのであろう。
 この日、天智天皇はそれに対する回答を宣した。しかし、その内容について
は伝えられていない。将来の出兵を承諾した可能性もあるがこの年九月からの
天皇の不予と十二月の崩御、翌年の壬申の乱で日本は援軍どころではなくなる。
(日本書紀)


[123] 継体二十一年(527)六月三日 2001-06-03 (Sun)

 筑紫国造磐井の反乱。
 皇統の断絶によって越前から応神天皇五世の孫に当たる継体天皇を迎えたこ
とは大和朝廷にとって重大な危機であった。その影響力の後退は特に遠隔地で
顕著に現れたため、朝鮮半島北部に高句麗(こうくり)、南部に百済(くだら)
・新羅(しらぎ)・任那(みまな)が並立して微妙な均衡を保っていた情勢に
重大な影響を及ぼした。日本の影響力後退を見越した百済は任那のうち四県の
割譲を申し入れ、大伴金村(おおとものかなむら)はこれを受諾。これに怒っ
た任那の一国伴跛(はへ)は日本から離反して戦い、また新羅も活発な動きを
示した。
 このため、この日近江毛野(おうみのけの)以下六万の軍を任那に派遣して
かつて新羅に併呑された南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくことん)を
奪回することによって任那諸国の不満を抑えようとした。
 ここに新羅と結んだ筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)は毛野
の軍を遮り、半島諸国の貢職船を誘致し、毛野に対して「お前は今でこそ使者
としていばっているが少し前には俺と肩を並べ肘を触れあって同じ器のものを
食べていたではないか。いくら使者と言ってもお前に俺を従わせることはでき
ない」と豪語し、毛野と戦端を開くに至った。
 この反乱に対して大和朝廷は八月になって物部麁鹿火(もののべのあらかい)
以下の鎮圧軍を派遣、二十二年十一月に漸く磐井を斬り鎮定に成功するが、翌
二十三年三月には刀伽(とか)・古跛(こへ)など任那の八城が新羅に奪われ、
ついに任那は事実上滅亡してしまう。
(日本書紀)


[122] 欽明九年(548)六月二日 2001-06-02 (Sat)

 百済に半島情勢を問う。
 欽明八年四月、百済(くだら)は真慕宣文(しんもせんもん)らを遣わして
援軍を乞うた。あわせて人質としての王族東城子言(とうじょうしごん)を送
り届けてきた。
 宣文は翌九年一月帰国するが、その時には「依頼された救援軍は必ず派遣す
るから早く百済国王に伝えるように」と念を押した。
 ところが、四月三日になって百済は掠葉礼(けいしょうらい)らを遣わし、
意外なことを告げた。この年一月に馬津城(ましんのさし)を巡って高句麗と
百済が戦ったのだが、その時の高句麗の捕虜が今度の戦闘は安羅(あら)と任
那(みまな)日本府(やまとのみこともち)が高句麗に百済を討つように勧め
たために攻撃を開始したのである、ということを自白した。また実状を調査し
ても符合する点があるし、真偽を糺そうとしても三度の喚問に応じない。そこ
で日本としては援軍を一時見合わせ、まずは実状の調査をして欲しい、という
のである。それに対して日本側はそのようなことは信じられない、安羅が撤退
した跡地には兵を派遣するので任那と共に高句麗の攻撃を防ぐように、という
回答を行うにとどめた。
 この日、欽明天皇は百済に使者を派遣し、その後の情勢を確認した。
 この事件はその後の調査によって日本府の執事である延那斯(えなし)・麻
都(まつ)ら親新羅派が高句麗と結ぼうとしていたものであることが判明して
いる。安羅の動きもそうだが、任那日本府についても日本の出先機関という性
格ではなく、かなりな主体性をもっていたものらしい。
(日本書紀)


[121] 宝亀八年(777)六月一日 2001-06-01 (Fri)

 遣唐副使、大使を臨時代行。
 奈良時代最後の遣唐使となる遣唐大使佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、
副使大伴益立(おおとものましたて)以下の使節はこの前年肥前松浦郡合蚕田
浦(あいこたのうら、長崎県南松浦郡上五島町相河、五島列島中通島)に至っ
たものの順風を得ずに空しく帰京した。その後に副使の益立を小野石根(おの
のいわね)、大神末足(おおみわのすえたり)の二人と交替させ、この年四月
十七日に遣唐使一行は改めて辞見(暇乞い)を行い、改めて唐を目指すことと
なった。しかし、出発して羅城門に至ったところで大使今毛人は病と称して都
に留まったため、副使以下が先発した。今毛人も二十二日には輿に乗って一行
を追い、難波津に至ったが、病が癒えない。これを待っていてはまた今年も派
遣ができなくなることを恐れた朝廷はやむなく副使以下に先に出発し、順風を
得たならば今毛人を待たずに唐を目指し、その場合大使の職務は代行すること
を命じた。
 この日になってついに朝廷は今毛人の派遣を断念し、改めて副使以下に出発
を命じ、身分は副使のまま大使の職務を代行すべきこと、唐朝に大使不在の理
由を問われたときには正直に答えること、副使のうち石根については任務のた
め臨時に三位の格とする(実際は従五位上)ことなどを告げた。
 今毛人の病がどのようなものであったか、極言すれば本当に病であったのか
も明らかではないが、今毛人はその後病が癒えてから後に参議にまで昇進した。
しかし、石根は渡唐して無事大任を果たしたものの、翌年十一月、彼の乗った
遣唐第一船は帰路暴風のため真っ二つになり唐使と共に遭難死してしまう。
(続日本紀)


[120] 雄略九年(465)五月 2001-05-31 (Thu)

紀大磐の専横による内紛などのため新羅征討失敗。
 古代の画期とされる雄略朝は半島情勢も激動の時代であった。これは直接的
には高句麗(こうくり)の南下政策によるものであり、圧迫された百済(くだ
ら)、新羅(しらぎ)、そして任那(みまな)の間で合従連衡が繰り返された。
南朝の宋への遣使もこの間の立場を強化するのが目的であった。
 雄略八年、高句麗と結んでいた新羅はふとしたことから高句麗の意図が侵略
にあることを知り、急ぎ任那王(みまなのこにきし、任那諸国連合のいずれか
の王?)に使者を派遣、日本府(やまとのみこともち、ここでの「日本」は日
本書紀編纂時の修辞)に救援を求めた。そこで任那王は膳斑鳩(かしわでのい
かるが)などを派遣、高句麗軍を破って新羅を救援した。
 しかし、その後も新羅の動向は不透明であったのか(南北を強国に挟まれて
いた当時の新羅なら当然とも言えるが)、この年三月、雄略天皇は自ら渡海、
新羅征討を果たそうとした。しかし、胸方神(むなかたのかみ、宗像大社)の
神託により断念、代わりに紀小弓(きのおゆみ)、蘇我韓子(そがのからこ)、
大伴談(おおとものかたり)、小鹿火宿禰(おかいのすくね)らを派遣。遠征
軍は大いに新羅を破ったとされるがこの時大伴談らは戦死、紀小弓も病死する
など相当な激戦であったことが窺われる。
 小弓の死後、この月にその子紀大磐(きのおおいわ)が新羅に渡り、専横を
極めた。これに怒った小鹿火宿禰や蘇我韓子らは遂に大磐を殺し、分裂状態の
遠征軍も撤退、結局この度の征討計画は失敗したらしい。
(日本書紀)


[119] 霊亀元年(和銅八年、715)五月三十日 2001-05-30 (Wed)

 坂東の富民千戸を陸奥に移す。
 この日、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野(千葉県中部以南を除く関東
地方全域)の富裕な人々一千戸を陸奥国に移住させた。前年十月二日に尾張・
上野・信濃・越後四国の民二百戸を出羽柵(いではのき、山形県藤島町?酒田
市?)に移住させたのに続く、陸奥国への移住策の最初の記事。
 ここではこれらの人々を「陸奥に配す」と書かれているだけであり、強制移
住が行われたものであろう。一千戸というのは大規模な郡一つ分に相当する数
字であり、大家族制の時代、しかも「富民」であれば恐らくは数万人規模の移
住が行われたのではないだろうか。
 当時の技術では大河川から直接灌漑用の水を得ることは出来ず、そのため開
発可能な場所はかなり限られていた。班田収授の制度の実施によって個人や豪
族ではなく、国家が田地の総量管理に乗り出してしまったため、口分田の不足
は深刻な問題であり、これらの措置と前後して関東地方に亡命百済人などを配
置してその開発に当たらせていた。恐らくは開発の一段落した地域や渡来人を
配置するために場所を空けた地域の人々を移住させることによって北の新天地
の開発に当たらせたものであろう。
 しかし、住み慣れた故郷を捨てて無理矢理移住させられる方の人々にとって
たまったものではない。移住させられた人々の中から逃亡者が続出した結果が
後には移住は希望者を募る形になった原因かと思われる。
 また、このような大規模な移住は共存関係を築いていた蝦夷(えみし)との
摩擦を生み、やがて両者の激突は避けられないようになっていく。
(続日本紀)


[118] 朱鳥元年(天武十五年、686)五月二十九日 2001-05-29 (Tue)

 新羅使金智祥ら来着、筑紫に饗応し帰国させる。
 この前年十一月二十七日、新羅の国政報告と進調のため金智祥(こんちしょ
う)以下の使節が筑紫に来着した。金智祥の官位は日本の令制の正三位に相当
し、新羅の王族の一人。また副使の金健勲(こんごんくん)も従三位に相当す
る高官で破格の大物が使節として来日したことになる。遣使の目的は請政(国
政報告、少なくとも日本側はそう理解した)ではあるが、恐らく非常に重要な
役割を帯びていたのであろう。
 彼らはしかし都に招かれることなく、その代わりに饗応のためこの年一月、
川内王(こうちのおおきみ)、大伴安麻呂(家持の祖父)らを筑紫に派遣、さ
らに四月十三日には川原寺の伎楽(ぎがく、古代チベット・インドの仮面劇)
を大宰府に送った。新羅使からは進調物として名馬一頭、騾馬一頭、犬二匹、
金細工の器、金、銀、高級織物、虎皮、薬など百余種もの珍宝が献上された。
またほかに大使・副使が個人的に献上したものや皇后・諸皇子に献上した物も
多数あったらしく大変力の入った使節団であったことがわかる。
 来日から半年も経ったこの日、彼らには筑紫で饗応を行い、答礼の品々を贈
って帰国させた。日本から贈られた物の内容については記載されていない。
 これほどの高官を派遣されながら都に招かなかった理由は明確でないが、或
いは当時藤原京が既に造営中であったと見られ、都が未完成であったためかも
知れない。一方、天武朝では(新羅と唐の緊張関係を反映して)対日本外交に
力を入れた新羅はその後その格を落とし、そのことがまた日本側の心証を害し、
奈良時代には日羅関係は最悪の状況になっていく。
(日本書紀)


[117] 天武六年(677)五月二十八日 2001-05-28 (Mon)

 神社神税の配分を定める。
 この日天武天皇は天社地社(あまつやしろくにつやしろ)の神税は三分して
そのうちの一を神への供え物とし、残り二を神主の所得とせよ、という勅を出
された。
 上代には畿内を中心に皇室などに関係のある主な神社は国家祭祀の対象とさ
れていたが、中央集権国家構築の過程でその対象は広げられ、やがて全国の主
要な神社が国家祭祀の対象とされていくようになる。ここでいう天社とは高天
原(たかまがはら)から降臨した神(天神:あまつかみ)を祀る神社、地社と
は国土土着の神(地祇:くにつかみ)を祀る神社であるから、その対象には既
に皇室関係以外の神社も含まれていたのであろう。ある意味では神社の保護で
はあるが、同時に全国の神を国家の中に組み込むことによる全国の直接掌握の
意図もあるだろう。
 神社の神主は本来は任命制であったがやがて世襲化し、地域の有力者となっ
て行く者もあった。阿蘇、宗像(むなかた)、諏訪、宇都宮(二荒山神社)、
千秋(熱田神宮)といったこれら宮司家は戦国時代の頃まで有力な武将として
活躍する。それは宮司家にはこの時認められたように神社の社領からの収入を
支配できたことが原因ではあるが、このように独立した勢力となることが出来
なかった多くの神社は他の有力社寺の庇護下、或いは村落の鎮守として細々と
存続するか、別当寺の支配下に置かれた。なお、これら神主家の武装はむしろ
土豪としてのもので僧兵により自ら武装した有力寺院とは異なる。
(日本書紀)


[116] 天平十五年(743)五月二十七日 2001-05-26 (Sat)

 墾田永年私財法を発す。
 班田収授の法が実施されてから回を重ねる毎に次第に口分田の不足が表面化
していった。これは一つには新しく開墾した土地を開墾者が所有できないため
に開墾意欲が失われ、耕地が増えないことが一つの原因である、と認識した律
令政府は養老七年(723)四月十七日、三世一身法を発し、開墾した者は三
代までは私有地として所有を認める、という方針を打ち出した。これによって
開墾者の権利を保証すると共に、長い目で見れば口分田を増加させることが出
来る、という目論見であった。
 しかし、この見通しは甘かったらしい。その三代を経ることなくこの日改め
て出された勅によると、どうせ収公されるのだから、と「農夫怠り倦(う)み
て地を開きし後荒(すさ)みぬ」という状態になっていたらしい。そのため、
先の方針を撤回し、「三世一身を論(あげつら)ふこと無く」永久に所有を認
めたのであった。但し、その開墾の上限は身分によって一位の五百町から庶人
の十町に至るまでの制約が付された。この上限までの未開地を国司に申請して
判許を得てから開墾を行うのであるが、開墾は三年以内に実施しなければなら
ず、完了しなかった場合はその地の権利を失った。
 この墾田永年私財法はその後天平神護元年(765)三月に廃止されるが、
宝亀三年(772)十月に再び開墾が認められるようになった。また、この時
に墾田の上限が廃止されたらしい。
 なお、これらの地はあくまでも私有を認められ相続が許される地ではあるが
無税というわけではなく、田租などの賦課は行われた。
(続日本紀)


[115] 持統六年(692)五月二十六日 2001-05-26 (Sat)

伊勢・大倭・住吉・紀伊四所大神に遣使奉幣し新宮のことを告ぐ。
 この日、持統天皇は使者を伊勢・大倭(やまと)・住吉(すみのえ)・紀伊
(き)の四ヶ所の神社に奉幣し、間もなく新しい都、藤原京に遷都することを
報告した。
 恐らくこの四ヶ所の神社が当時国家にとって最も重要な神社であったと考え
られる。このうち、伊勢はもちろん伊勢神宮であり、皇室の祖神を祭る神社で、
天武天皇の時以来制度が大きく整備拡充された。二十年に一度(古代において
は足かけ二十年、即ち十九年毎)の式年遷宮の制度が確定したのもこの時で、
第一回の式年遷宮は持統四年(690)に行われた。戦国時代の中断を経て、
第六十一回の式年遷宮は八年前、平成五年に実施された。
 大和坐大国魂神社(おおやまとにいますおおくにたまのかみのやしろ)は大
和の地にもともと鎮座されていた神社であり、現在は天理市にあるが、古代に
は今長岳寺のある場所にあったのではないかとの説もある。
 住吉大社(すみのえのおおやしろ)は大阪市住吉区に鎮座する航海の神であ
り、第一本宮から第三本宮までが一列に並び、第四本宮が第三本宮に隣接する
という特異な形式、また古代の形式を伝える丹塗り・白壁の御社殿(これは土
壁ではなく板壁に彩色したもの)は住吉造として知られる。
 紀伊は日前(ひのくま)神社と考えられる。和歌山市に鎮座されるこの神社
は現在国懸(くにかかす)神社と同地に祭られ、日前国懸神宮と称されている。
伊勢神宮のご神体で三種神器の一、八咫鏡(やたのかがみ)の試作品を祭る、
とされる。しかし、その本来の性格については必ずしも明らかではない。
(日本書紀)


[114] 和銅六年(713)五月二十五日 2001-05-25 (Fri)

 山背国に乳牛戸を置く。
 この日初めて山背(やましろ、京都府南部)国に乳牛戸(ちちうしのへ)五
十戸を設置した。これは恐らく典薬寮に所属して牛乳や乳製品を朝廷に貢納す
る乳戸のことであるが、このとき乳戸自体が初めて設置されたのかそれとも山
背に設置されたのが初めてなのかは明らかでない。
 知られているように古代においては牛乳や乳製品も生産され、飲用及び食用
にされていた。乳製品としては蘇(そ)の存在が知られるが、この蘇にしても
具体的にどのようなものであったのかは不明。蘇は遠方からも運ばれているの
で腐敗に強いチーズのようなものとも考えられるが容器は壺なのでヨーグルト
状のものの可能性もある。
 現在のホルスタイン種などの乳牛は一頭あたり一日25リットル、多い場合は
30〜40リットルほどの牛乳を産する。しかし、平安時代初期の行政施行細則で
ある「延喜式」典薬寮の条によれば供御(くご、天皇の食膳に供える)の牛乳
は一日に三升一合五勺。当時の一升は現在の四合に相当するので換算すると約
2.27リットル。これを生産するために乳牛が七頭飼われていた。とすると一頭
あたり僅か320ccにしかならない。また同書の民部省の条によれば蘇の原料の
牛乳は肥牛で一日八合、痩牛はその半分。つまり条件がよい場合でも600ccに
満たない。そうして得られた牛乳一斗から蘇はやっと一升を産した。
 こういったことからわかる通り、牛乳も乳製品も大変な貴重品であり、とて
も庶民どころか一般の官僚でさえ容易に入手できるものではなく、典薬寮が扱
うことからも明らかなように高級貴族の薬用として使用されていた。
(続日本紀)
◎本日の記事につきましてはみるく工房飛鳥さんからご教示を得ました。工房
さんのサイトでは復元された蘇の販売などもしておられます。
http://www.office-doris.com/client/nishii/


[113] 文武三年(699)五月二十四日 2001-05-24 (Thu)

 役小角を伊豆嶋へ流罪とする。
 この日、役小角(えのおづの)が伊豆嶋(伊豆大島?蛭が小島?)に流罪と
された。小角は葛城山に住み、呪術で世に聞こえた人物であった。しかし、そ
の力を悪用して人々を惑わした、という讒言をされ、遠流とされた。噂では彼
は鬼神を使役して水を汲んだり薪を採ったりさせ、もし従わなければ呪術で縛
り上げた、という。
 役小角は修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)。「続日本紀」に
記されたのは上記の内容であるが、この段階でも既に半ば伝説化しているのが
わかる。さらに平安初頭に成立した「日本霊異記」上巻二十八話によれば、彼
は葛木上郡茅原村(奈良県御所市茅原)の人で、孔雀王の咒法(孔雀明王を本
尊とし、一切の毒物・怖畏・災悩を滅ぼすことを念ずる呪法)を修得し、その
結果鬼神を自由に使役することができたという。そして吉野の金峰山と葛城山
の間に橋をかけよ、と鬼神たちに命じたため、神たちは苦しみ、とうとう葛城
一語主大神(かつらぎのひとことぬしのおおかみ、御所市の葛城坐一言主神社
の御祭神)が託宣によって彼が謀反を企んでいる、という讒言をしたので追捕
を受けたが、それでも験力によって容易に捕らえられないため、その母を代わ
りに捕らえたため、やむなく彼も出てきて捕らえられ、伊図の嶋に流された。
しかし、日中は勅命に従って嶋で修行をしたが、海上を自由に歩き、夜には駿
河の富士山に渡って修行をした。この間帰京を図ったため再度一言主神の訴え
によって死刑にされそうになったが、今度は富士の神の託宣で助かり、大宝元
年(701)正月に漸く許されて帰京、仙人となって天に飛んだ、という。
(続日本紀)


[112] 斉衡二年(855)五月二十三日 2001-05-23 (Wed)

 東大寺大仏の頭部転落する。
 この年四月二日に地震があった。そのの後暫く鳴りを潜めていたが、この月
十日、十一日と続けて地震があって人々を驚かせた。またこの頃、豪雨が続い
たり、左右馬寮所属の馬が次々に病死してほとんどいなくなってしまう、とい
うこともあった。そんなこの日、東大寺からの急使は大仏の頭部が自然に落下
してしまったことを告げた。完成から百年、技術的な問題に経年劣化が重なり
さらにうち続く地震の影響でついにこの事態に至ったものであろう。
 こういった天変地異は社会不安を引き起こしたが、宮中でも当時前代未聞の
醜聞が発生していた。皇后染殿后(そめどののきさき)に取り付いた狐を払っ
た金峰山の聖人が后に横恋慕の挙げ句に暴行に及び、捕まって後鬼となっても
思いを遂げようとの誓願を立てて死に、実際に悪鬼となって皇后をたぶらかし
関係を続けたが誰もこれを制止できなかったという(今昔物語集20-7)。
 そんな中、斉衡三年十二月二十九日には常陸鹿島郡大洗磯前(いそさき)に
新たに神が降り、託宣して「我は大奈母知少比古奈命(おほなもちすくなひこ
なのみこと)なり。昔この国を造り訖(をは)り、去りて東海に往きき。今民
を済(すく)はんが為、更にまた帰り来たれり」と告げた。大洗磯前神社(茨
城県大洗町)及び酒烈(さかつら)磯前神社(茨城県ひたちなか市)の創建に
まつわる挿話であり、その背後には自らの氏神である鹿島神宮の神を藤原氏に
奪われた(春日大社に遷座)東国の人々が代わりに本来の自分たちの神を改め
て祀ったという事情があるものの、当時の社会不安と救いを求める人々の叫び
が聞こえるようである。
(文徳実録)


[111] 持統三年(689)五月二十二日 2001-05-22 (Tue)

 土師根麻呂詔を奉じ新羅使の非礼を責めて貢物を返還する。
 この年三月二十日、新羅(しらぎ)は日本の令制の従五位に相当する金道那
(こんどうな)らを遣わし、天武天皇の弔問を行い、あわせて学問僧二人を
送り届けてきた。また、金銅の阿弥陀三尊像や織物などを献上してきた。が、
彼らは入京を許されず、大宰府に留め置かれた。
 そしてこの日、土師根麻呂(はじのねまろ)が新羅使に以下の勅を告げた。
 昨年、田中法麻呂(たなかののりまろ)を派遣して天武天皇の喪を告げた時、
新羅では日本からの使者の口上を以前より格下の者が承ろうとしたので、法麻
呂らは伝達することができなかった。また天智天皇崩御の際の弔使はわが従四
位相当のであったのに今回は使者の格が下がっている。元来、新羅は「我が国
は日本(やまと)の遠つ皇祖(みおや)の代(みよ)より、舳(へ)を並べ梶
を干さず奉仕(つかまつ)れる国なり」と言っていたのに今回は船も一艘しか
ない。不誠実きわまりないので献上物は封印したまま受け入れない。しかし、
法度を守れば代々の通り慈むので、今後は戦々兢々と努めよ、と。
 僅かの差であっても格を下げられることは当時の日本には耐え難いことであ
った。一方、新羅としては唐も結局朝鮮半島の領有を認めた今、日本との関係
も従属的・迎合的なものから対等のものへと転換を目指しており、そのために
敢えて徐々に格を下げて行くつもりであったのであろう。両者の姿勢はそれか
らも毎回のように対立的なものとなっていく。また、この中での新羅の誓約は
神功皇后の新羅征伐以来の文言であり、外交に用いられるということは神功皇
后の事跡自体新羅も承認せざるを得ないような事実が背景にあったか。
(日本書紀)


[110] 養老四年(720)五月二十一日 2001-05-21 (Mon)

 日本紀の功成り奏上。
 これより先、舎人親王が勅を奉じて日本紀の編集を行っていたが、この日そ
の功成って奏上した。紀三十巻、系図一巻から成るものであった。
 日本書紀の完成記事であるが、この書の書名はもともと日本書紀であったの
かそれともこの記事にあるように日本紀であったのか、意見が分かれている。
また、ここにある系図一巻は現存しない。
 日本書紀本文を音韻・文法などから分析、その成立過程を復元させた森博達
京都産業大学教授の研究によればその編纂過程は次のようであったとされる。
 日本書紀編纂を目指した天武朝当時の日本には正史を編纂した経験がなく、
また正史の要件である漢文でこれを著述するだけの力量を有する適格者がいな
かった。が、持統三年(689)、浄御原令が成立、それの編纂に当たってい
た続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)の二人(百済救援戦争
の過程で捕虜となり来日した唐人)に白羽の矢が立ち、古代の二つの画期であ
る雄略朝と大化改新からの著述を始めることとなり、それぞれ雄略紀、皇極紀
からの述作が開始された。しかし、続守言は崇峻紀の終了間際に倒れ、一方の
薩弘恪は大宝律令の編纂にも参画し多忙を極めた末、天智紀までの述作を完了
した段階で卒去した。やむなく残った推古紀、舒明紀、天武紀及び当初予定に
なかった雄略以前についての著述は山田御方(やまだのみかた)に託されて一
応の完成を見、さらに持統天皇の崩御によって持統紀を追加することになり、
紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂がこれに当たった。あわせて既存の巻に
ついても漢籍による修辞を行って漸く完成したのが日本書紀だという。
(続日本紀)


[109] 推古三十四年(626)五月二十日 2001-05-20 (Sun)

 蘇我馬子薨じ桃原墓に葬る。
 この日、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)が薨じた。そのために
桃原墓(ももはらのはか)に葬られた。日本書紀は年齢を記さないが扶桑略記
という後世の史書によれば七十六歳。
 馬子は蘇我稲目(そがのいなめ)の子。敏達(びだつ)天皇即位の際に大臣
(おおおみ)に任ぜられた。用明二年(587)、対立する崇仏派の物部守屋
(もののべのもりや)を倒して政権を掌握、崇峻五年(592)には崇峻天皇
を弑殺するなど横暴を極めたが、姪の推古天皇が立つに及んで聖徳太子と協力
して政治を行った。古代以来の雄族葛城(かつらぎ)氏の一族と称して推古
三十二年にはその故地葛城県(かつらぎのあがた)の賜与を望んだが推古天皇
は許さなかった。仏法を厚く敬い、飛鳥寺を創建した。飛鳥川のほとりのその
邸宅には小池を掘り、そこに中島を築いていたため島大臣(しまのおおおみ)
と称された。後、その邸宅跡は島宮という離宮として長く使用される。
 桃原墓は現在の石舞台古墳のことだと言われる。一辺50mほどの方墳であ
ったが、封土を失い石室が露出している。もしこれが馬子の墓であれば誰がこ
の墓を破壊したかは全く不明。乙巳の変で蘇我本宗家が滅亡した後、政界の中
心にあった石川麻呂は馬子の孫であり、その弟赤兄(あかえ)の娘たちは孝徳
・天智・天武の後宮にあって元明はその娘であり、文武や聖武などにも蘇我氏
の血統は色濃く流れていた。また石川麻呂の弟、連子(むらじこ)の娘娼子は
藤原不比等の妻の一人で、武智麻呂や房前(ふささき)はその子であり少なく
とも同時代に馬子の墓を破壊する理由は見いだせない。
(続日本紀)


[108] 天平勝宝八載(756)五月十九日 2001-05-18 (Fri)

 聖武上皇を佐保山陵に葬り諡号を奉らぬことを詔する。
 この日、聖武太上天皇を佐保山南陵(奈良市法蓮町)に葬り奉った。その葬
礼の様子は仏に対するものに準ぜられ、供具として獅子座の上に乗った香、天
子の座に乗った金輪の幢(どう、旗のついた矛のようなもの)、大小の宝幢、
香幢、華縵(けまん、花輪)、蓋繖(きぬがさ、貴人などにさしかける日傘)
の類が用意された。なおこれらの供具の一部の残欠は正倉院に残されている。
また、葬列では笛人が行道(仏座の周囲を巡る儀式)の音楽を奏でた。
 この日、孝謙天皇は詔を出され、「上皇は出家して仏に帰依されたのだから
改めて諡号を奉らない」とされた。戒名があるので普通の名前はもはやつけな
い、ということになろうか。
 しかし、この異例な措置は当時の人々には受け入れられなかったのか、天平
宝字二年(758)の八月九日に即位されたばかりの淳仁天皇が詔を出され、
勝宝感神聖武皇帝の尊号と、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらき
とよさくらひこのみこと)という諡号が追上された。
 異例と言うならば、そもそも天皇が仏道に帰依したということ自体がおよそ
想定され得ない異例なことであった。聖武天皇の場合、扶桑略記によれば天平
二十一年(749)一月十四日に大僧正行基を戒師として菩薩戒を受けて出家
されたとしており、同年(天平勝宝元年)七月二日に孝謙に譲位される以前に
既に出家されていたらしい。この後出家されたまま重祚された称徳天皇、出家
されたまま立太子して悲劇的な最後を遂げた早良親王といった忌まわしい例が
続いた末、平安以降は在位中の天皇が出家される例はなくなる。
(続日本紀)


[107] 暦仁元年(1238)五月十八日 2001-05-18 (Fri)

 鎌倉大仏の頭を挙ぐ。
 この日相模国深沢里の大仏の頭部を挙げ奉った。その周(高さか?)は八丈
(24m、但し立像の場合の高さであり座像の場合は約半分。現存の鎌倉大仏
は像高11m)であった。
 鎌倉大仏の造営については史料が非常に少なく、不明な点が多い。ここに記
されているのは最初に僧浄光の勧進(募金)によって造営された木造の大仏像
であると考えられる。この仏像は寛元元年(1243)に完成するがその後建
長四年(1253)には金銅の大仏の造営が開始されるが、これは釈迦如来像
と記録され現存の阿弥陀如来と異なる。また何故短期間に木造から金銅と仏像
が造り直されたのかについても全くの不明である。
 これらの造営については西大寺流真言律宗が関与していた可能性が高い。西
大寺を中興させたのは叡尊であるが、彼は早くから高弟忍性を東国に送ってお
り、その忍性は大仏建立の節目の度に鎌倉を訪れていた可能性が高い。特に銅
像の完成の時と見られる弘長二年(1262)には叡尊自ら鎌倉に下向してお
り、東国での布教の中心としてこの新しい大仏を位置づけていた可能性が考え
られる。叡尊は当時鎌倉幕府を実質的に牛耳っていた最明寺入道北条時頼の帰
依を受けており、何度も懇願されての下向であった。また完成後鎌倉大仏は忍
性が本拠とした極楽寺の管理下に置かれており、何らかのつながりがあったの
ではないか。
 当時は鎌倉新仏教の興隆期には当たるが、同時に唐招提寺や西大寺を中心と
した戒律復興運動など旧仏教も積極的な動きを見せていた。
(吾妻鏡)


[106] 和銅五年(712)五月十七日 2001-05-17 (Thu)


 諸司・諸国に律令の遵守などを命ず。
 この日、中央官庁の主要官僚、及び諸国から上京してきていた朝集使たちに
次の五項から成る詔が発布された。
一.律令が公布されてから随分とたつのに未だ習熟せずに多くの過失がある。
 今後まだ違反する者があれば律によって処断する。
二.弾正台(中央の行政監察官)の役人は毎月三回、諸司を巡察し、間違いが
 あれば正させよ。もし違反者を摘発したら式部省に報告、勤務評定に反映さ
 せよ。
三.諸国から任を帯びて上京する使者は適切な人材を任命し、中央での質問に
 答えられるようにせよ。もし不適格であれば在国の担当者も含め前項の如く
 勤務評定に反映させる。
四.今後は毎年巡察使(地方の行政監察官)を派遣、地方政治を検校させるの
 で国司は隠さずにすべて報告せよ。もし隠していたことが監査により発覚し
 たなら前項の如く処断する。
五.国司は毎年官僚の勤務評定を式部省に送れ。式部省はこれを巡察使の所見
 と突き合わせて判定せよ。
 律令制下において、官僚の勤務評定は文官については式部省、武官について
は兵部省の管轄であった。ここで度々言われているように一般の官僚について
はこのような勤務評定の結果により何年かに一度昇進の機会が与えられた。但
し、五位以上の貴族については蔭位の制により最初からある程度の官位が与え
られるが、一般の役人は一生かかってもその地位に達することは難しかった。
(続日本紀)


[105] 霊亀二年(716)五月十六日 2001-05-16 (Wed)

 元興寺(大安寺?)を平城京に移す。
 この日、「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建」てた。
 但し、この「左京六条四坊」とは大安寺の建てられた場所であり、これは恐
らく大安寺を大官大寺から移建した記事の誤記であろう。元興寺については二
年後の養老二年九月二十三日に「法興寺を新京に遷す」という記事があるので
こちらが正しいと考えられる。
 元興寺は蘇我氏の建てた飛鳥寺(法興寺)がその前身。蘇我本宗家の滅亡後
事実上国家の寺としての地位を与えられたこの寺は平城京においても最も重要
な寺の一つとして機能し、東大寺建立後も東大寺に次ぐほどの寺格を有してい
たらしい。後に衰微した結果、化け物を意味する「ガゴゼ」の語源が元興寺に
出た化け物のことから転じたもの、という俗説も生じた(実際には化け物が発
する「噛もうぞ」の語から転じたらしい)。
 大安寺は聖徳太子によって創建された熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)をそ
の前身とし、これを舒明天皇が百済川のほとり(北葛城郡広陵町百済)に移建
して百済大寺とし、空前の九重塔を建てるなど大規模なものであったらしいが
火災で失われた。それを天武天皇が高市郡夜部村(明日香村小山)に移建して
高市大寺または大官大寺と号した。それが更に平城京に移建されたのであり、
東大寺創建以前は平城京内で最大の規模を誇る大寺であった。そのため、東大
寺・西大寺に対して南大寺とも称されたという。この寺から勤操(ごんぞう)
や良弁(ろうべん)などの名僧が輩出したが、こちらも平安末期以降衰微の一
途をたどった。
(続日本紀)


[104] 敏達元年(572)五月十五日 2001-05-15 (Tue)

 黒羽の表を王辰爾が解読する。
 この二年前、欽明三十一年の四月に高句麗(こうくり)の使者が風浪に流さ
れて越国(こしのくに、北陸地方、ここでは加賀市付近か)に漂着した。欽明
天皇の命により山背国相楽(さがらか)郡に客館を設けてここに案内したが、
翌年天皇の崩御によりこの使者は宙ぶらりんの状態になっていた。
 この年五月一日、敏達天皇は高句麗使がどうなっているかと確認、相楽館に
いると聞いて使者を派遣、献上物などを都(百済大井宮(くだらのおおいのみ
や、広陵町百済、橿原市天香具山西麓、河内長野市、南河内郡太子町など諸説
あり)に運ばせた。
 この日、高句麗からの国書を大臣(おおおみ)蘇我馬子に授けて解読を命じ
た。が、馬子が解読に当たらせた史(ふびと、書記官)たちは三日かかっても
全く歯が立たず、解読できなかった。しかし、王辰爾(おうじんに)という人
だけが解読に成功、天皇と馬子から激賞され、逆に他の史たちは「お前たちの
学んできたことは何故役に立たないのだ。お前たちは数は多くてもたった一人
の王辰爾にも及ばないではないか」と叱責された。
 この時の国書は烏の羽に書かれていた。黒い羽の上に黒字で書かれた文字を
読むことが出来なかったのだが、王辰爾はその羽に飯の湯気をあて、それを絹
布に転写して解読したという。この黒羽の国書というのが事実であったかどう
かは別にして、王辰爾は新しい渡来人と見られており、そうであれば古い時代
に日本に帰化して代を重ねた他の史たちの技術が陳腐化、新しい技術を要する
ようになったことを象徴しているのではないかと考えられる。
(日本書紀)


[103] 霊亀元年(和銅八年、715)五月十四日 2001-05-14 (Mon)

 調・庸の納期・輸送方法を厳守させまた諸国製造の武器を整備させる。
 この日、諸国に対して次の三項目から成る詔が出された。
一.調・庸の納付期限を厳守すること。
二.庸の運搬を安易に海運業者に委ねることの禁止。
三.武器の製造に努め、毎年その見本を提出すること。
 第一項、調・庸の納付期限は国の遠近により定まっていた。毎年八月中旬よ
り納付を開始し、陸奥や薩摩のような遠国でも年内には完了しなければならな
かった。ここでは期限を越えて運送をしているために農耕にさえ支障が出てい
ることを指摘、今後このようなことがあれば厳罰に処することを告げている。
 第二項、調・庸の運送は基本的に陸路によるものとされ、海運の利用は禁止
されていた。しかし、現実には当時既に成立していたらしい海運業者に委託し
た運送も利用されていた。そもそも海運が禁止されているのは事故による海没
などを恐れていたためであった。その危惧の通り、現実に海没するものや濡れ
てしまったものなどが続出していたらしい。ここではこれ以前に出されていた
らしい海運利用を禁じる法令を遵守する事を改めて命じ、もし今後従わなかっ
た場合は処罰するばかりか結果として失われたものについては国司が弁償する
ことを命じている。現実や効率を無視してまでも令制に従うことを求めたもの
であるが、しかし実際に遠方から陸路調庸物を運搬してくる人々の苦労は大変
なものであり、現実策を模索する現地との軋轢がうかがえる。結局、航海技術
の進歩、官道の衰退、治安の悪化などを受けてやがてなし崩し的に海運は認め
られるようになっていった。
(続日本紀)


[102] 和銅五年(712)五月十三日 2001-05-12 (Sat)

 大税借貸を悪用する国郡司らを戒む。
 この前年十一月二十二日、詔して諸国の大税(おおちから)を三年間無利息
で貸し出すことを命じた。大税は正税とも言い、蓄積された田租であり、その
内訳は毎年の田租をもとに非常時に備えてひたすら不動倉に蓄積される不動穀
と、出挙(すいこ、利息つきで貸し出し)された利息をもとに国衙の運営費等
にあてられた動用穀に分けられる。ここではその一方の柱である出挙を無利子
で行い、人々の生活の安定を図ったものである。
 ところが、この日出された詔によれば、もともとそのような意図で出された
この制度を悪用する国司・郡司がいたらしい。ここでは「今、国郡司と里長等
と、此の恩借(おんしやく)に縁(よ)りて、妄(みだり)に方便を生ず」と
するのみだが、恐らくは無利子のはずの出挙を利子を取って行い、或いは自ら
無利子の出挙を利用してその稲を又貸しすることにより私腹を肥やしていたも
のであろう。このため、「如(も)し身を潤(うるほ)さむことを顧みて、枉
(ま)げて利(くぼさ)を収めば、重(おもき)を以て論せよ。罪、不赦に在
(あ)らむ(もし私腹を肥やすために利子を取ったのであれば厳罰に処した上
で大赦などがあったとしても赦免の対象外とする)」という厳しい布告がなさ
れたのである。
 出挙は公営の公出挙(くすいこ)で3〜5割の利子、私営の私出挙で10割
という高利の利稲を取った。が、一般農民にとっては必要不可欠なものであっ
たらしい。播種期に借りれば基本的には収穫期にはその利息分以上の収入が見
込めることを考えれば必ずしも高利とは言えなかったのかも知れない。
(続日本紀)


[101] 白雉四年(653)五月十二日 2001-05-12 (Sat)

 吉士長丹・高田根麻呂以下の遣唐使を派遣。
 この日、遣唐大使吉士長丹(きしのながに)、副使吉士駒(きしのこま)以
下の百二十一人の遣唐使を乗せた船と、同じく大使高田根麻呂(たかたのねま
ろ)、副使掃部小麻呂(かにもりのおまろ)以下百二十人の使節を乗せた船、
あわせて二隻の遣唐船が出発した。この遣唐使には中臣鎌足の長子である定恵
や、唐で玄奘三蔵に師事した道昭をはじめとする多くの学問僧が同乗し、はる
かな唐の国を目指した。しかし、この時の二隻からなる遣唐使の運命は大きく
異なるものとなった。高田根麻呂以下の乗った船は七月、薩摩の坊津を出航し
た後、硫黄島の東にある竹島付近で難破、乗員のほとんどは波間に消え僅かに
門部金(かどべのかね)ら五人だけが竹島にたどりつき、そこに生えていた竹
で筏を造って六日六晩飲まず食わずで漸く神島(未詳)に帰着した。遣唐船の
遭難はほとんどが復路であるが、この時は往路での悲劇であった。翌年二月に
も遣唐使が派遣されているが、その時の記録ではこの時の留学僧らのうちで三
人が海で死に、二人が唐で客死、二人が唐や新羅の船に便乗して帰国し、使節
と共に帰国したのは十二人であったことが記されている。
 吉士長丹以下の西海使は白雉五年の七月二十四日に百済・新羅の使節に送ら
れて帰国した。使節の名前がここで西海使となっていることなどから考えて、
彼らは朝鮮半島経由で唐に渡ったものと考えられ、遭難したのは直接唐を目指
した「南島使」であったのであろう。しかし、百済滅亡後は新羅との関係悪化
の結果として遣唐船は危険な南島の航路を採らざるを得なくなり、多くの悲劇
をもたらすこととなった。
(日本書紀)


[100] 和銅元年(708)五月十一日 2001-05-11 (Fri)

 銀銭を行う。
 この日、初めて和同開珎の銀銭を発行した。
 日本においては通貨発行以前、通貨の代わりになっていたものは布、米と地
金としての銀であったらしい。通貨的なものの最初の例として無文銀銭が発行
された(時期不明、近江朝頃?)が、これはおそらくその伝統に則り定量の地
金として流通を図ったものであろう。後、天武朝に富本銭が発行されても当初
禁止した銀銭の流通を三日後には認めるという経緯をたどり、その流通力の強
さを物語っている。必ずしも充分な量が生産されなかった富本銭が消えた後も
銀は依然として流通に使われていたのであろう。
 唐にならって銅貨を中心とした通貨政策を確立したい律令政府としては一気
に銅貨を発行、注通を統一したいところであったのだろうが、そのような現実
を無視することはできず、最初に発行したのはこの時の銀銭であった。従来流
通するものと同じ銀で通貨を発行することにより市場に対して通貨そのものに
対する違和感をなくすことが目的ではなかったかと考えられる。そしてある程
度の流通を待ってから三ヶ月後の八月十日、いよいよ本命の和同開珎銅銭を発
行し、さらに一年後の和銅二年八月二日には銀銭を廃止し、ここに漸く銅銭に
よる通貨の一本化が完成し、それ以降は銅銭を基本とする皇朝十二銭と呼ばれ
る通貨が天徳二年(958)の乾元大宝次々と発行されるようになる。が、日
本の鋳造技術そのものの衰退を受けて次第に品質の劣化が甚だしく、やがて流
通が盛んになる中世頃には粗悪で流通量も充分でないこれら皇朝十二銭ではな
く信頼感の厚い唐宋銭が専ら用いられるようになる。
(続日本紀)


[99] 天平勝宝八載(756)五月十日 2001-05-09 (Wed)

 大伴古慈斐・淡海三船、朝廷誹謗の罪により禁固される。
 この日、出雲守大伴古慈斐(おおとものこしび)、及び内竪(ないじゅ、従
者)淡海三船(おうみのみふね、額田王の曾孫)の二人が朝廷を誹謗し無礼で
あった、という罪に問われて左右衛士府(えじふ)に禁固された。聖武天皇崩
御から八日後のこの事件の真相は不明であるが、この事件は当時越中守として
任地にあった大伴家持に衝撃を与え、一族に自重を促す「族(うがら)に喩
(さと)す歌」を詠ませた。(万葉集巻二十・4465-4467、4465の長歌略)
 磯城島(しきしま)の 大和の国に 明らけき
  名に負(お)ふ伴(とも)の緒(を) 心努(つと)めよ
 (<敷島の> 大和の国に 明らかな 名高い大伴一族よ がんばろうぞ)
 剣太刀(つるぎたち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ
  さやけく負(お)ひて 来(き)にしその名そ
 (剣太刀 いよいよ研ぎ澄ませ 昔から 清く伝えて 来たその名だから)
 が、その左注によれば古慈斐は三船の讒言によって罪に問われた、となって
いる。これは三船が政界を牛耳る藤原仲麻呂の子の藤原刷雄(よしお)と親交
があったために罪を免れ、古慈斐のみが罪に問われた、との説もあり、現に二
人とも十三日には放免されながら三船はその後特に処分されていないようであ
るのに、古慈斐は出雲守を解任され、土佐守に左遷されている。
 いずれにせよ、反藤原氏の雄、橘諸兄は既にこの二月に引退、大伴氏のこと
を高く買っていた聖武天皇も崩御され、後ろ盾を失っていた大伴氏をこの機に
叩いて自らの安泰を図った藤原仲麻呂の意図が見えるようである。
(続日本紀)


[98] 斉明七年(661)五月九日 2001-05-09 (Wed)

 斉明天皇、朝倉橘広庭宮に入られる。
 この年一月六日、百済救援軍を自ら率いて出航された斉明天皇は三月二十五
日に娜大津(なのおおつ、博多)に至り、磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡
市南区三宅)に入られ、この地を「長津」と改められた。
 そしてこの日内陸の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町)に入られた。が、
この時に朝倉社(あさくらのやしろ)の木を切ってこの宮を造営したために神
が怒って殿舎を壊し、また宮中に鬼火が出た。そのために舎人(とねり、近習)
や侍者に多くの病死者が出た。
 磐瀬は西海道の駅があったところ。おそらく当初この駅館か郡司の館などに
相当する施設を行宮とされ、その間に突貫工事で宮殿を造営したものであろう
が、そのために朝倉社の鎮座される山の木まで切って使用したことを示すもの
であろう。朝倉社は「延喜式」に見える麻弖良布(まてらふ)神社と考えられ
るので朝倉宮もその近くにあったのであろう。これに対して神が怒ったという
のは落雷があったものと考えられる。
 総力を挙げて行った百済救援戦争に大敗し、友好国百済は完全に滅亡して日
本が朝鮮半島への影響力を完全に喪失したことは当時の人々に対して大変な衝
撃であった。何故このような結果になったのか、という原因追及の中でこの事
件を始め当時は恐らく一部でささやかれただけであったと思われるようなこと
も含め、敗北の原因として追及・記録されたものと考えられる。
 それにしても、地方においてまで大規模な造営をさせた、ということはこの
斉明天皇の土木工事好きを彷彿とさせるものがある。
(日本書紀)


[97] 欽明十三年(552)五月八日 2001-05-08 (Tue)

 新羅・高句麗、百済・任那を攻めんとしたため救援要請。
 この日、百済(くだら)、加羅(から)、安羅(あら)は使者を派遣し、高
麗(こま)と新羅(しらぎ)が連合して百済・任那(みまな)を滅亡させよう
としているので救援軍の派遣を依頼してきた。援軍によって機先を制し逆に攻
撃をかけよう、というのである。その「軍(いくさ)の多少は、天皇(すめら
みこと)の勅(みことのり)の随(まにま)に」として規模は一任された。こ
れに対し、日本から「百済・安羅・加羅と日本府(やまとのみこともち)がと
もに使者を派遣して奏上した内容は承知した。また任那と共に心をあわせ力を
一つにしなさい。もしそのようにすれば必ず天佑があって福を得、また可畏
(かしこ)き天皇(すめらみこと)の霊(みたまのふゆ)を頼(かがふ)らむ
(霊力によるご加護があるだろう)」との返答があった。
 この前年、百済は新羅と連合して高句麗と戦い、かつて高句麗に奪われた古
都を奪還した。その報復に今度は高句麗が新羅と結び反攻して来ようとするの
を察知、日本の援軍を得て迎撃しようというのが百済の戦略であった。
「日本書紀」欽明紀はその多くの記述が任那の滅亡や仏教の公伝などを含む対
外記事に割かれている。また百済聖明王の記述などは詳細を極め、任那の日本
府の官僚の内訌など、日本側から見たものではないような記事が少なくない。
これはこの巻の対外関係記事の多くが「百済本記」など現存しない百済側資料
をもとに記述されたためと考えられる。
 国名のうち、加羅、安羅は任那を構成する国。任那とはこういった小国連合
が連合の盟主として日本を仰いだのであり、強い自主性を有していた。
(日本書紀)


[96] 天武五年(676)五月七日 2001-05-06 (Sun)

 下野、凶年のため民衆が子を売ることを求む。
 この日下野(しもつけの、栃木県)国司から報告があり、国内の百姓(おお
みたから、民衆)が凶作のために飢えて自分の子を売ろうとしています」と報
告があり、これを認めるよう要請があった。しかし、許可は下りなかった。
 律令制以前において、奴隷としての人身売買は必ずしも禁止されておらず、
平安時代の行政施行細則である「延喜式」には人身売買を三通りに分け、まず
持統三年(689)以前に売買が行われた場合はもとの契約通りとし、四年の
飛鳥浄御原令施行以降は奴隷に売られた者も負債のために奴隷にされた者も奴
隷身分から解放し、大宝二年(702)の大宝律令施行以降は人身売買は処罰
する、という規定がある。逆に言えば天武朝当時は慣例として人身売買が認め
られていたはずであるが、それが許可を求めていることから考えると何らかの
禁止令が出されていたのではないかと考えられる。そしてこの時許可されなか
ったことは天武朝においては人身売買には否定的であったと考えられ、それが
飛鳥浄御原令では必ずしも禁止するものではないように後退していた可能性が
高い。
 技術が稚拙で生産余剰の少ない古代においてはもちろん飢饉は深刻な問題で
あり、奈良時代においても毎年のようにどこかの国で飢饉が発生している。し
かし当時は地方政治も充分に機能しており、非常に備えた不動倉と呼ばれる備
蓄があり、また周辺の飢饉となっていない地域からの穀物回送などによる賑給
(しんごう、施し)が行われたりした。この制度は律令制と共に平安時代には
崩壊、賑給も京の中だけで半ば形式的に行われるだけとなった。
(日本書紀)


[95] 天武八年(679)五月六日 2001-05-06 (Sun)

 吉野の盟約。
 この前日、天武天皇はかつて壬申の乱の時の自分の出発点となった吉野離宮
(吉野町宮滝遺跡?)に行幸された。そしてこの日皇后鵜野讃良皇女(うのの
さららのひめみこ、持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市(たけち)皇子、
忍壁(おさかべ)皇子、そして天智の子である河島(かわしま)皇子、芝基
(しき)皇子の七人に詔し、「朕はお前たちとこの朝庭に誓いを立て、永遠に
変事のないようにしたい。どうだ。」と言われた。皇子たちは共に「その通り
です」とお答えし、草壁皇子以下一人ずつ「私たち(天智・天武皇子)合計十
余人はそれぞれ母を異にするとも分け隔てせずに助け合います。もしこの誓い
に背いたら命も失い子孫も絶えるでしょう。忘れじ、失(あやまた)じ」と誓
った。そして天皇は「お前たちは母は違うがこれからは同じ母から生まれたの
と同様に慈しもう」と言って六人の皇子たちを抱き、「若し慈(こ)の盟(ち
かひ)に違(たが)はば忽(たちまち)に朕(わ)が身を亡(うしな)はむ」
と誓いを立てられた。続けて皇后も同じように誓われた。
 律令制以前、皇位継承法は固定していなかったため天武自身を含めて多くの
争いが行われた。この日天武が皇位継承候補者たる自分及び天智の皇子たちを
集めてこの誓いをさせたことは自分の後も同様の争いが起きるのではないか、
という強い危惧を抱いていたのであろう。しかもこの誓いの場に皇后を参加さ
せ、また母は違っても同母のように、と繰り返されていることはその不安の中
心にあったのが皇后の動向であったことを強く示唆する。
 天武の危惧は不幸にも的中し、この誓いの通り彼の血統は結局断絶した。
(日本書紀)


[94] 天智七年(668)五月五日 2001-05-04 (Fri)

 蒲生野に縦猟。
 この前年四月に近江大津京に遷都された天智天皇はこの日皇太弟以下と共に
蒲生野(かもうの、滋賀県蒲生郡安土町?)に薬草採りに出かけられた。
 この時に額田王(ぬかたのおおきみ)と皇太弟の大海人皇子(おおあまのみ
こ)との間で交わされた歌はあまりにも有名である。
 あかねさす 紫草(むらさき)野行き 標野(しめの)行き
  野守は見ずや 君が袖振る
 (<あかねさす> 紫草の生える野を行き 御料菜園を行って
  管理人が見ていますよ あなたが私に袖を振っているのを)
 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
  人妻故に 我(あれ)恋ひめやも
 (紫草のように 匂うが如く素敵なあなたを 憎いと思ったら
  人妻と知っていても 恋してしまいましょうか)
 大海人皇子は後の天武天皇。額田王はもと天武の妃であったが後にいつの頃
か天智の妃となったらしい。二人の間の娘である十市皇女(とおちのひめみこ
)は天智の子である大友皇子の妃であり、また天智の娘の大田皇女などが天武
の妃であるなど、天智と天武の間には何重もの関係が結ばれていた。
 この歌の贈答は自分のもとを離れていった額田王に天武がまだ想いを寄せて
いることを示したもの、とも考えられるが、二人の年齢は共に定かではないも
ののその子の年齢からは恐らく共に四十歳前後ではないかと見られる。であれ
ばこの歌についても必ずしも恋愛感情からのものではないかも知れない。
(日本書紀)


[93] 延暦二年(783)五月四日 2001-05-03 (Thu)

 宇佐大神託宣し大自在王菩薩と称する。
 宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は八幡宮の本宮であり、八幡大神などを祭る。
八幡大神は応神天皇とされるが、これが当初からのものであったかどうかは
不明。この日の託宣は道鏡を巡る事件を経てもなお桓武朝にも強い影響力を
保持し続けた宇佐八幡宮が今後とも仏教と習合することで力を得ていこうと
いうものであろうと思われる。
 知られるように、宇佐八幡宮は大仏建立を奇貨として神でありながら仏法に
帰依するとの神託を下し、急速に中央に接近する。途中で偽の神託が露見する
など紆余曲折を経てはその都度時の権力者にすり寄って勢力を扶植し続けた。
最後には道鏡に接近、これに皇位を伝えよ、との神託があった、との騒ぎも
起こしたが、これは和気清麻呂の活躍で阻止された。しかし、こういった過程
を経て結局八幡宮に対する朝廷の尊崇は高まり、九州第一の神社とされる。
国分寺・大仏建立に協力した結果東大寺の傍らの手向山八幡宮を始め各国分寺
の近くに勧請されたほか、後には平安京の南に石清水八幡宮として勧請され、
朝廷の手厚い保護を受ける。更にこの八幡宮を氏神とした清和源氏によって
鎌倉に勧請され、それが源頼朝によって鎌倉の中心をなす鶴ヶ岡八幡宮として
整備されると武家の守護神として全国に広まるようになる。
 現在全国に最も普遍的に見られる八幡宮や天満宮、稲荷社、金比羅宮などは
いずれも強く仏教と習合しており、また庶民の現世利益を吸収することにより
主に中世以降爆発的に広まったものであり、古来の神道信仰とは異質なもので
ある。そしてその先鞭をつけたのが八幡宮に他ならない。
(扶桑略記)


[92] 天平勝宝八載(756)五月三日 2001-05-03 (Thu)

 聖武法皇崩御に伴い三関固守、葬儀関係者任命。
 この前日、病床にあられた聖武法皇の平癒を願い伊勢神宮に奉幣が行われ、
また全国のこの年の租税が免除された。しかし、そういった必死の願いも
空しく、その日法皇は内裏正殿にて崩御された。宝算五十六歳。そしてその
遺詔により道祖王(ふなどのおおきみ、天武の孫、新田部親王の子)を皇太子
とされた。
 そしてこの日、非常事態に備えて鈴鹿・不破・愛発(あらち)の東国に
通じる三つの関所を閉じて厳守が命ぜられた。この三関(さんげん)固守は
大葬などの際にはこれらの関所が廃止された後も形式的に実施されたが、この
段階ではもちろん三関は機能しており、混乱に乗じて反逆者が東国に逃亡し
そこを拠点に反乱を起こすことを防ぐためのものである。
 また御装束司(みよそいのつかさ、喪葬に必要な衣服・調度などを準備する
役所)、山作司(やまつくりのつかさ、陵墓造営のための役所)、造方相司
(ぞうほうそうのつかさ、方相神に扮して悪霊を払うための方相関係の調度類
調達のための役所)、養役夫司(ようやくぶのつかさ、陵墓造営などに使役
する役民を管理する役所)といった葬儀関係の臨時の官司の担当者を任命し、
六日には挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す)などの儀式を経て十九日に
佐保山陵に葬った。
 大化の薄葬令以降、古来の長期に亘る殯宮(ひんきゅう、現在の通夜に近い
儀式)儀礼などが徐々に簡略化され、火葬の導入などを経て聖武天皇の場合は
大幅に仏教儀礼化しており、この方向が以降おおむね定着していく。
(続日本紀)


[91] 和銅五年(712)五月二日 2001-05-02 (Wed)

 諸国郡郷名に好字を用いしめる。また風土記撰上を命ず。
 この日、畿内と七道の各国・郡・郷の名前は「好(よ)き字」を用いるべき
ことが命ぜられた。また、あわせてそれぞれの郡の中で産する鉱物や動植物を
網羅し、土地の肥沃の度合、山川原野の名前の由来、そして古老の伝える旧聞
・異事を史籍に記載して言上するべきことが命ぜられた。
 この前半は従来は文字数や使用する文字に特に制限がなかった地名の表記が
統一されることとなった。ここでは触れられていないが、行政施行細則である
「延喜式」民部省の条によって文字数も二文字と定められたことが知られる。
但し、「好字」の基準は不明であり、出雲国風土記によれば秋鹿(あいか)郡
伊努(いぬ)郷を伊農(いぬ)郷に改める一方、出雲郡伊農郷は逆に伊努郷と
改めているほどであり、それほど厳密ではなかったのかも知れない。この結果
例えば近淡海(ちかつおうみ)は近江、上毛野(かみつけの)は上野、という
短縮が行われる一方、木(き)の国は無理に伸ばして紀伊となった。三河の
穂郡も同様に宝飫の文字が宛てられたが、余り使用されない「飫」(お)は
やがて「飯」と混同され、ついには宝飯(ほい)郡と文字に引きずられて地名
まで変化してしまった。
 後半の命令によって編纂されたのが「風土記」である。現存するのは出雲の
完本と常陸、播磨、肥前、豊後の抄本、後は逸文だけであるが、これらは上記
の命令に基本的には従いつつも、その目的が課税の資料とすることが明らかで
あるため、土地の肥沃度や特産物は必ずしもすべてを網羅していないのは
恐らく現地による抵抗ではないかと考えられる。
(続日本紀)


[90] 宣化元年(536)五月一日 2001-05-01 (Tue)

 那津官家を整備せしめる。
 この日、宣化天皇は詔を発して那津(なのつ)の口(ほとり)に官家(みや
け、直轄の役所、恐らく大宰府の前身、福岡市南区三宅?博多区比恵遺跡?)
を修造し、九州の筑紫・肥・豊三国(宮崎・鹿児島を除く九州の全域?)の
屯倉(みやけ、大和朝廷直轄領)の備蓄を那津に集めさせた。また同時に
阿蘇君に河内茨田屯倉の、蘇我稲目を通じて尾張連に尾張の屯倉、物部麁鹿火
(もののべのあらかい)を通じて新家(にいのみ)連に新家屯倉(伊勢か)の、
阿倍臣を通じて伊賀臣に伊賀の屯倉の穀(もみ)を九州に運ばせた。
「日本書紀」のこの記事は「漢書」をもとに民衆の生活安定のため、という
修辞を行っているがこの措置は明らかに朝鮮半島への軍事行動のため兵糧を
集積させるためのものと見られる。継体朝の百済への任那四県割譲に端を発し
半島情勢は激動しており、割譲に怒った新羅は大攻勢に出て任那の中心の一つ
金官加羅を滅ぼして傘下に収めるに至った。一方の日本は筑紫君磐井の反乱も
あって有効な対策が取れなかった。
 この日の措置によって集積された兵糧は翌年十月の大伴狭手彦(おおともの
さでひこ)による任那・百済の救援活動となって現れる。
 また、この日の措置でもう一つ興味深いのは大王家が直接命令を下したのは
阿蘇君のみであり、他はすべて蘇我、物部、阿倍といった朝廷を構成する有力
豪族を通じて命令が伝達されている。これは恐らく当時の大和朝廷の豪族連合
という実態をよく示すものであり、律令時代のような中央集権とも後の封建
制度とも異なるその姿を垣間見せている。
(日本書紀)


[89] 天智九年(670)四月三十日 2001-04-30 (Mon)

 未明に法隆寺全焼。
 この日の未明、法隆寺に火災があり、「一屋も余ること無」く全焼して
しまった。
 有名な法隆寺炎上の記事であり、長らくこの記事の正誤を巡って法隆寺
再建・非再建論争が繰り広げられた。しかし、周知の通り現在の法隆寺と
方位を異にする四天王寺式伽藍配置の若草伽藍の発掘によって現在の法隆寺は
この時の火災後の再建であり、若草伽藍こそが聖徳太子の建立された古い
法隆寺である、ということが確認された。
 しかし、問題も残された。若草伽藍には明確な火災の跡が検出されなかった
のである。一屋も余すことなく全焼したのであれば相当激しい火災の痕跡が
あってしかるべきであるのにそれほど激しくはなかったのである。現に全焼
したと伝えられる大官大寺や、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の反乱に
よって全焼したとされる多賀城などには激しい火災の跡がまざまざと残されて
いたのであり、その点が疑問として残された。
 そしてさらに今年になって法隆寺五重塔の心柱の年輪を調べた結果、この
心柱は推古二年(594)に伐採されたものであることが判明した。心柱は
五重塔の中心を貫く長大な柱であり、焼け残った部材を再利用したなどとは
考えられない。しかしその五重塔の瓦の文様などは明らかに七世紀末の再建を
示しており、法隆寺再建を巡る筋の通った説明は出来なくなってしまった。
 数多の謎を秘めて法隆寺は今日なおその飛鳥時代のままの美しい寺容を
その法灯と共に今日に伝えてくれている。
(日本書紀)


[88] 天平神護二年(766)四月二十九日 2001-04-28 (Sat)

 聖武天皇の皇子と自称する者を配流。
 一人の男が自らを聖武天皇の皇子であり、石上志斐弖(いそのかみのしいて、
釆女(うねめ、女官)か、不詳)の子である、と称していた。調査の結果、
これは詐称であることが判明したため、彼を遠国へ流罪とした。
 もちろんこの聖武ご落胤という自称が正しいか、それともこの日の処断に
見られるように「天平の天一坊」であったのかは不明である。しかし、聖武は
孝謙のほかにも少なくとも三人の皇子女をなしており、「お手つき」となった
釆女などが懐妊していた可能性は否定できない。
 しかし、自らが「中継ぎ」に徹した途端にすべての権力を失うことを知って
いた称徳天皇にとって、聖武の皇子の存在(それまでの経緯からすれば無条件
で皇位継承の最大の候補者になる)は自らの存立基盤を否定し去るものであり
絶対に許容できないものであった。淳仁天皇と決裂して以降の彼女の行動を
考えるとき、彼の出自がたとえ事実であっても認められる可能性はなかった。
 仏教に深く帰依しながら夥しい人々を殺した孝謙/称徳天皇がそのような
激しい行動を取るときは決まって後継者の問題があったと言える。周囲は
あくまでも彼女を「中継ぎ」としてしか見ていないのに対して、彼女自身は
恐らく我慢がならなかったのであろう。自分を真の天皇として見てくれた
恐らく唯一の人物、道鏡への傾倒もそのためであったのではなかろうか。
 彼女の暴走はその後は皇太子制の確立もあって女帝の登場を妨げることに
なった。再び女帝が登場するのは幕府への面当てのために後水尾天皇から
寛永六年(1629)に譲位された明正天皇のこととなる。
(続日本紀)


[87] 崇神十一年(紀元前87)四月二十八日 2001-04-28 (Sat)

 四道将軍、平定を復命。
 崇神十年九月九日、天皇は大彦命(おおひこのみこと)を北陸(くぬがの
みち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦
(きびつひこ)を西道(にしのみち)に、丹波道主命(たにはのみちぬしの
みこと)を丹波に、それぞれ派遣した。そして従わない者があれば兵を挙げて
伐(う)て、と命ぜられた。これが四道将軍である。しかし、九月二十七日、
武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元皇子、崇神の叔父)の反乱事件が起こり、
彼らはこれの鎮圧にあたったため実際の出発は十月二十二日のことであった。
 その半年後のこの日、四道将軍はそれぞれの地方を平定した旨を復命した。
 崇神朝に大和朝廷が東北地方などを除く日本の主要部を統一した、とすると
この四道将軍はまさにその統一の過程を示す伝説となる。但し、北陸・東海は
ともかく、西道は吉備津彦の名が示すとおり吉備地方までの可能性があり、
また山陰でなく「丹波(後の丹波・丹後・但馬、兵庫県と京都府の北部)」で
あることは出雲や九州がこの段階ではまだ服属していなかった可能性をも示唆
する。また彼らの派遣後具体的な戦闘の記述がないことはこれら将軍が必ずし
も武力を用いた征服ではなかったことをも示すものかも知れない。
 しかし、いずれにしても伝説の域を出なかったこの説話が一挙に現実味を
帯びたのは埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣から銘文が発見されたことに
よる。辛亥年(471?)に造られたこの鉄剣の主である乎獲居臣(ヲワケの
オミ)の上祖(祖先)として意富比●(●は土偏に危、オホヒコ)の名が
記されていた。このオホヒコと大彦命はまず同一人物であろう。
(日本書紀)


[86] 宝亀六年(775)四月二十七日 2001-04-26 (Thu)

 井上内親王・他戸王、薨ず。
 もと皇后であった井上内親王(聖武皇女)と、その子(光仁皇子)でもと
皇太子であった他戸王(おさべのおおきみ)は巫蠱(ぶこ、他人を呪術により
呪う罪)によってその地位を追われ、更に同じ罪を重ねたとして大和の宇智郡
にあった没官宅(罪などで没収された官人の家)に宝亀四年十月からの一年半
の間幽閉されていたが、この日ともに卒された。
 いくら何でも親子が同日に亡くなるというのはあまりにも不自然であり、
自殺したかまたは暗殺されたとしか考えられない。
 読者は覚えておられるだろうか。天応元年(781)二月十七日の記事に
おいて光仁天皇がその長女能登内親王が薨じられたのに対して親子の恩愛の
情にあふれる、心の底からの悲しみが伝わってくるような宣命が出されたこと
を。その同じ光仁天皇が不遇時代から苦楽を共にした妻とその子に対して
なしたこの仕打ちを考えると、その闇は果てしもなく暗い。
 人の死亡記事はその人の身分によって崩、薨、卒、死の区別がある。彼女
たちは本来は少なくとも「薨」が用いられるべき身分であったのに無位の皇族
扱いの「卒」となっている。(同様に、事実上流罪のまま亡くなった道鏡や
死後に藤原種継暗殺事件の黒幕とされた大伴家持は「死」とされている。)
この後冤罪により流される途中で恨みを呑み絶食して亡くなった早良親王は
その怨霊を恐れた桓武天皇によって名誉回復が行われ、既に完成していた
「続日本紀」から関連記事が削除されるなどの措置が取られたが、彼女たち
不幸な母子についてはそういった措置も取られることがなかった。
(続日本紀)


[85] 宝亀元年(神護景雲四年、770)四月二十六日 2001-04-26 (Thu)

 百万塔の功成り諸寺に分置。
 天平勝宝八年(756)に発生した恵美押勝(えみのおしかつ)の乱により
多数の死者を出した追善として称徳天皇は一百万基の三重の小塔を造らせ、
その中に「無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)」という
経典を書写または印刷させたものを収めさせた。これがこの日になって完成、
十大寺に分置された。十大寺は東大寺、西大寺、元興寺、薬師寺、興福寺、
法隆寺の六寺が記録に残るほかは恐らく大安寺、弘福寺(川原寺)、四天王寺
と西隆寺または崇福寺であろう。各寺に一万基ずつ納められたのであろうが、
周知の通り法隆寺に数千基残るほかは明治初期、廃仏毀釈の時期などの財政
難の頃などに法隆寺から流出した少数が各所に残るのみであり、他の寺には
全く残らない。上記いずれの寺も再三の火災に遭っており、法隆寺だけでも
残ったことは奇跡に近いであろう。また、印刷されたその陀羅尼経は現存世界
最古の印刷物としても知られる。
 この日あわせて常勤の関係者百五十七人に叙位が行われた。法隆寺に残る
塔の墨書には二百五十人前後の人名が残されているので末端の臨時雇いの
工人などには叙位されることがなかった者もいるのであろう。
 続日本紀の記録では高さ四寸五分(13.5cm)、直径三寸五分(10.5cm)と
され、現存するものの塔身部の高さと一致する。その上に相輪部があるので
総高は21.5cmになる。轆轤(ろくろ)を用いた木製品であり、さすがに数が
多いので制作者による技術の差を反映するのか出来不出来があるという。
(続日本紀)


[84] 養老六年(722)閏四月二十五日 2001-04-25 (Wed)

 太政官、良田百万町歩の開墾を計画。
 この日、太政官は次のような四項目の政策を立案、上奏して裁可を得た。
その内容は次の通りである。
一.蝦夷(えみし)の反乱などによって荒廃した陸奥・出羽両国(東北地方
 全域)の民衆を安定させるために、租税を軽減し、両国出身の兵士や資人
 (しにん、従者)、釆女(うねめ、官女)などを本国に帰還させる。
二.食糧増産のため良田一百万町歩を開墾する。そのため民衆を臨時に一人
 あたり十日間使役してその間の食料は官物を用いる。また民衆が独力で
 開墾を行った場合にはその規模に応じて叙勲などの恩典を与える。
三.公私の出挙(すいこ、種籾の高利貸し)の利益は年三割とする。
四.兵営・城柵に食料を運んだ者に対して叙位を行う。
 この中でも特に第二項の百万町歩開墾計画は実に壮大な計画であり、律令制
に基づく班田収受のための口分田不足を解消するために大規模な開墾を図った
ものと見られる。平安初期の百科事典「和名抄」が伝える当時の全国の田積が
八十六万町歩余であったということからもこれがいかに大きな数字であったか
がわかる。もちろん、これは実現せず、深刻な口分田の不足はこの時の付則に
あった民衆による開墾の奨励をさらに徹底させ、翌年の三世一身法(さんぜ
いっしんのほう)、そしてさらに二十年後の天平十五年(743)には墾田
永年私財法が制定され、公地公民の制度をなし崩し的に崩壊させるに至った。
この背景には口分田の偏在・不足からはるか遠方(他国の場合さえあった)の
口分田を班給せざるを得ない場合がある、といった現実があった。
(続日本紀)


[83] 天平十九年(747)四月二十四日 2001-04-23 (Mon)

 布勢水海遊覧。
 越中守であった大伴家持(おおとものやかもち)はこの年正税帳(その国の
財政の収支決算書)を携えてこの夏一時平城の都に帰ることになった。その
ため、送別の宴会が何度か開かれたほか、この日家持は越中国府周辺随一の
景勝地である布勢(ふせ)の水海(みずうみ)を遊覧した。これも送別の宴の
一つであったのかも知れないが、二日後に掾(じょう、三等官)で家持とは
同族の縁もあり非常に親しかった大伴池主(おおとものいけぬし)がこの時の
歌に追和しているので恐らくは都に残る妻大伴坂上大嬢(おおとものさかの
うえのおおいらつめ)への土産話のために帰京前に出かけたものであろうか。
いずれにせよ、家持は久しぶりに都に帰るのが嬉しくて仕方がなかったことで
あろう。
 布勢の海の 沖つ白波 あり通(がよ)ひ
  いや年のはに 見つつしのはむ
 (布勢の水海の 沖の白波のように しょっちゅう通って
   毎年毎年 鑑賞しましょう) (3991の長歌は略)
 但し、この歌は実際には布勢の水海に行ったのではなく、宴会の中でその
風景を思い出して詠まれたもの、とする説もある。
 布勢の水海は富山県氷見市南部にあった湖。越中へやって来た客人なども
いつも遊覧に誘うほどで非常に美しいところであったらしい。残念ながら、
近世以降の干拓事業のため、現在は完全に埋め立てられてしまい、跡形もなく
なってしまっている。
(万葉集巻十七・3991-3992)


[82] 養老元年(霊亀三年、717)四月二十三日 2001-04-22 (Sun)

 僧尼統制の詔、行基集団の活動を指弾。
 この日僧尼の統制についての詔が発布された。この詔は次の三項目から
なっていた。
一.僧尼は政府の許可を得ず勝手に髪を切り僧の姿をすることの禁止。
二.僧尼は寺に常住し托鉢の際には許可を得ること。これに反する行基集団の
 弾劾。
三.僧尼による治療や病気平癒の祈祷なども許可のもとで一定の規定に則って
 行うこと。
 この中で特に有名なのは第二項で、これによると「小僧行基」とその弟子
たちはちまたに群集して、因果応報の教えを説いたり、指や肱の皮を焼いて
剥いだり(何らかのまじないであろうか)、民家をみだりに訪問しては教えを
説いて喜捨を強要したり、偽って聖道と称して民衆をたぶらかしている、と
されている。
 僧になると税や労役・兵役などを免除されるため困窮した農民は正規の
手続きを経ることなく仏教の知識もないまま僧になり(私度僧)、これが国家
財政にとっても次第に重大な問題になっていた。やがて政界を主導するように
なる長屋王などはこういった私度僧に厳しい姿勢を見せていたらしい。
 しかし、やがて始まる大仏造営の巨大事業には道路や橋の修理・造営などで
民衆の圧倒的な支持を集めていた行基集団の力を借りざるを得ないように
なり、この時「小僧」と蔑まれた行基が天平十七年(745)には僧としての
最高位である大僧正に任ぜられるに至る。
(続日本紀)


[81] 天平勝宝元年(天平感宝元年、749)四月二十二日 2001-04-22 (Sun)

 陸奥守百済王敬福、黄金九百両を貢す。
 この年二月二十二日、陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が
急使を発して同国少田(おだ)郡から黄金が産出された、ということを報告
した。折から大仏像に塗金するための金の調達に苦しんでいた聖武天皇は狂喜
し、四月一日には東大寺に行幸されて大仏の前にその慶事を報告、「天平」の
年号に記念の文字を加えて「天平感宝」と改元することやこのことを祝賀して
臨時の叙位を行うなどした。特にこの中で大伴・佐伯両氏が古来「海行かば
みづく屍(かばね)、山行かば 草むす屍、王(おおきみ)の へにこそ
死なめ、のどには死なじ(海を行けば 水中に屍をさらそう、山を行けば
草の中に屍をさらそう、陛下の お側で死のう、畳の上では死ぬまい)という
家訓をもとに忠勤に励んできたことを褒めて特別に昇進させたことは当時越中
守として越中国府(富山県高岡市)にあった大伴家持を感激させて先の家訓
(末句が「顧みはせじ」)を歌いこんだ長歌などを詠ませている。
 この日、百済王敬福自身が入京して産出された黄金九百両を献上した。この
黄金を用いて大仏に鍍金が行われたのであるが、大仏の全身に鍍金するために
必要な黄金の総量は一万四百四十六両であり、三年後の大仏開眼の際にもその
尊顔の周辺の一部しか鍍金はされていなかったとされる。
 百済王敬福はもと百済の王族の子孫で、彼らに従う百済からの亡命技術者
たちの先進技術がこの黄金産出につながったのであろう。この時の産出地は
宮城県遠田郡涌谷町の黄金山(こがねやま)神社の一帯と考えられている。
(続日本紀)


[80] 天平二十年(748)四月二十一日 2001-04-21 (Sat)

 元正上皇崩御。
 この日、元正太上天皇が内裏の正殿で崩御された。宝算六十九歳。
 文武天皇の崩御により急遽「つなぎ」として皇位に立ったその母の元明天皇
からさらに位を譲られたのが文武天皇の姉に当たる元正天皇であった。その
即位はそれまでの常識では考えられないものであった。即ち、天皇になるのは
成年皇族男子であり、それ以外では皇后(皇太后)が次の天皇までの中継ぎと
して皇位を継ぐことはあっても、それ以外の事態は全く想定されていなかった
のである。しかし、文武崩御という非常事態の際には文武には皇族の皇后は
なく、また聖武の母である夫人の藤原宮子は精神に異常を来していたらしく、
結果として実際には自身即位していない文武の父の草壁皇子の妃であった
元明天皇がその夫が即位したものとみなされ、文武の遺詔を受けた形にして
皇位を継いだのであった。更に元明から譲位された元正に至っては未婚の
皇女であり、あらゆる点で前例のない事態であった。但し、古くは清寧天皇
崩御の後、顕宗・仁賢両天皇の譲り合いの間、二人の姉の飯豊皇女が皇位を
代行した、という伝承があり、恐らくこれを根拠としたものであろう。
 元明が元正に譲位された理由も本当に身体の不調が理由であれば既に文武の
即位時の年齢を超えていた聖武に譲位すればよかったのであり、やはりこれは
藤原氏の露骨なやり方に嫌気がさして藤原氏との関係が薄い娘に後事を託した
のではないかと考えられる。現に元正天皇は長屋王、そして橘諸兄の後ろ盾と
なって藤原氏に対抗してきたのであった。彼女の崩御によって藤原仲麻呂ら
藤原氏を抑えることが出来る者はもはやいなくなってしまった。
(続日本紀)


[79] 霊亀二年(716)四月二十日 2001-04-20 (Fri)

 貢調脚夫の疲弊を見て国司治政の良否を判断させる。
 日本の律令制では税は地方から納税者が京まで自分で運搬して収める、と
いうのが原則であった。もちろんその往復の旅費も自分で負担せねばならず、
公用旅行者のための施設である駅や馬が使用できるわけではなく、また難破の
危険があることから海路の運送も禁止されていた。例えば陸奥国の場合、平安
初期の「延喜式」の規定によれば往路五十日、復路二十五日であるから往復で
七十五日以上もの間の自分の食料を運搬する税のほかに持参しなければなら
なかった。
 この日の詔ではそうして納税のため上京してきた脚夫(きゃくぶ)が入京
したら関係部署が彼らの携行した食料を調査することを命じている。即ち、
帰りの分の食料も携行してきているかどうかを調べさせ、もし充分でなければ
その国は苛斂誅求のために民衆が苦しんでいるものと判断し、それによって
国司を処罰することを告げている。
 この詔の後半では入京する人夫がぼろぼろの服を着ている様子が描かれ、
そこまで民衆を苦しめて数字だけ整えている現状を憂えている。これからは
民の痛みを憐れんで政治を行うように、ということが述べられてはいる。
大宝律令を制定してから十五年ほどでその重大な問題点に気がつきながら、
結局精神論で逃げているのはこの時代の限界だろうか。このような無理が続く
わけがないことが結局律令制崩壊の一因であった。平城京の繁栄を支えた遠隔
地の民衆は、弥生時代同様の竪穴式住居に住んで「貧窮問答歌」に描かれた
ような悲惨な生活を送っていた。
(続日本紀)


[78] 霊亀二年(716)四月十九日 2001-04-19 (Thu)

 河内国の三郡を割き和泉監を設置。
 大化改新で定められた畿内の範囲はもともとの大和朝廷の直轄地を示すもの
であったが、令制でこれが大倭、河内、摂津、山背の四畿として固定され、
畿内の住民は税の優遇などの恩典が与えられた。もっとも代わりに宮殿造営
などの労役に従事する必要があり、建前としては必ずしも地方に比べて優遇
されていたとは言えない。が、奈良時代において畿内の住居はほとんどが
掘っ建て柱・板壁の住居であり、依然として竪穴住居を主体とする地方の住居
とは顕著な差異が認められるのはこの優遇の結果であろうか。
 畿内のうち、副都である難波宮があった摂津は国でなく一段階上の摂津職
(せっつしき)という役所が置かれた。そしてこの日河内の南部、離宮である
珍努宮(ちぬのみや、大阪府和泉市?)が置かれた地域を中心に大鳥・和泉・
日根郡(堺以南の大阪府南部沿岸)を割いてこの日新たに「和泉監(いずみの
げん)」が設置された。同様に大和の吉野地域には恐らく同じ頃に「芳野監
(よしののげん)」が設置された。ここに畿内は「四畿」から「四畿二監
(しきにげん)」となった。この頃は国や郡の設置・再編が積極的に行われて
おり、その一環として離宮のある地域についても特別行政機関となったもので
あろう。
 この後橘諸兄政権での財政緊縮策の一環として和泉・芳野二監は廃止されて
しまうが、その後天平宝字元年(757)に和泉のみ同じ地域が和泉国として
再び設置される。「五畿七道」というように畿内が五ヶ国と固定するのはそれ
以降のこととなる。
(続日本紀)


[77] 天武四年(675)四月十八日 2001-04-18 (Wed)

 麻続王、罪を得て流罪となる。
 麻続王(おみのおおきみ)は伝未詳。恐らく天武天皇の中央集権政策に異を
唱えたため罪に問われたものであろう。天武朝には反対派を次々と処断した
ような記録が散見される。この結果として「大君は 神にしませば」という
歌に見られるように天皇の絶対的な権威を確立することに成功した。日本書紀
の記録では彼は因幡(いなば、鳥取県西部)に流され、その子の一人は伊豆島
(伊豆大島?)に、もう一人は血鹿島(ちかのしま、長崎県五島列島)にそれ
ぞれ流された、と伝える。
 一方、万葉集には彼が伊勢の伊良虞(いらご)の島(愛知県伊良湖岬沖合の
神島?)に流された時に人が哀傷して作った歌
 打麻(うちそ)を 麻続王 海人(あま)なれや
  伊良虞の島の 玉藻(たまも)刈ります (巻一・23)
及びそれに彼が唱和した歌が残されている。
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ
  伊良虞の島の 玉藻(たまも)刈り食(は)む (巻一・24)
 万葉集の左注でも歌辞によって後の人が誤ったか、としているが、一方では
「常陸国風土記」の行方(なめかた)郡板来(いたく)村(茨城県潮来町)の
板来駅家の記述に「飛鳥の浄御原の天皇の世に、麻続王を遣(やら)ひて、
居(す)まはせたまひし処なり」という記述がある。三者三様の記述が何の
故であったのか、実際はどうだったのかは不明だが、いずれにせよ伝説化する
ほど強烈な印象を当時の人に残した事件であったらしい。
(日本書紀)


[76] 天武四年(675)四月十七日 2001-04-17 (Tue)

 狩漁と食肉の制限を命ず。
 この日天武天皇は狩漁や食肉に関する詔を出された。それは
一.動物を捕らえる罠や落とし穴、武器を用いた仕掛け設置の禁止。
二.四月一日以降九月三十日以前に梁(やな、遡上する魚を捕らえる罠)を
  設置することの禁止。
三.牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食することの禁止。
といったことからなり、違反者は処罰する、とした。
 このうち、罠などの禁止はそういった罠などに誤って人がかかって死傷する
ことを防ぐためであり、次の梁の禁止は資源の保護を意図するものであろう。
 最も有名なのは食肉の禁止であり、農耕・運搬に従事する牛、運搬・軍事に
従事する馬、番犬や狩猟に従事する犬、人に近い猿、時を告げる鶏、これらの
主に有用な動物の肉を食することを禁止したものであり、結果的にはこの時の
禁令がその後の日本人の肉食忌避を方向付けたと言えるかも知れない。
 但し、この時の禁令は牛馬犬猿鶏だけであり、それ以外は禁止しない、と
している。従って当時の主要な食肉であった猪や鹿や雉などは禁止の対象に
なっておらず、肉食全般を禁止したものではない。しかし、これがどれだけ
直接の効果があったかは疑問であり、その後も江戸時代初期まで犬はしばしば
食用にされたらしい。長屋王家跡から出土した木簡からは犬を食肉または鷹
狩りの鷹の餌としていた可能性が指摘されている。
 なお、当時は猫はまだ日本に渡来していなかったと見られる。
(日本書紀)


[75] 和銅六年(713)四月十六日 2001-04-15 (Sun)

 新格と権衡・度量を諸国に頒つ。
 この年二月十九日、度量や調庸(税)などについての格(きゃく、律令の
補足法)が出された。その内容はそれまで土地などを測るときに用いられて
大尺(高麗尺、一尺は約36センチ)を小尺(唐尺、一尺は約30センチ)に
改めたことなどが知られる。この日諸国に頒布されたのはその格と、調庸と
して収めさせる布の大きさを一定の規格に基づいたものとするための度量衡の
基準であろうと考えられる。
 先の格によれば成人男子二人の出す庸の布を一段とし、一人分の長さは
一丈三尺(約3.9メートル)と定められていた。大宝令の規定は二丈六尺
であるから半減されたことになる。但し、この一段では一人分の衣料として
少し不安があったのか、この後慶雲三年(706)二月十六日には一人一丈
四尺(約4.2メートル)に再度改訂されている。租庸調のうちで租として
徴収される米は重いために基本的には収められた諸国に留められたので中央に
納入される税はこれら布やその地方の特産物が中心であった。この布が官人に
配布されて衣料となり、或いは外国との交易に用いられた。頻繁に遣日本使を
派遣して来た渤海国も日本との通交の大きな目的はこれら布製品であった
らしい。
 奈良時代の定規はいくつか出土しているが、その長さは今日の感覚では
かなりいい加減なもので、一割程度の誤差があったりする。用いた者の立場
にもよるであろうが、こういった事態をなくす目的で諸国に基準を頒布した
ものであろう。
(続日本紀)


[74] 天武十二年(683)四月十五日 2001-04-15 (Sun)

 銅銭を用い銀銭を停止するよう詔。
 この日、天武天皇は次の詔を発された。
「今より以後、必ず銅銭を用ゐ、銀銭を用ゐること莫(なか)れ」と。
 長い間ここでの詔の意味は不明であり、多くの説が立てられた。しかし、
飛鳥池遺跡の発掘によって大量の富本銭とその鋳型が発掘されたことにより
一挙にその謎が解決された。この詔こそが新たに発行された初の公式銭貨で
ある富本銭の発行に伴い、通貨を富本銭に一本化するための詔にほかなら
なかった。
 ここで使用を禁止された銀銭は無文銀銭のことと考えられる。無文銀銭は
銭貨の形態をした銀貨であり、重量を一定にするためか小さな銀片を貼付した
ものが多く、その名の通り銘も有しないことから、銀としての価値により流通
したものと考えられる。
 この日禁止された銀銭ではあったが、僅か三日後の十八日には早くも使用
禁止が撤回され、富本銭と無文銀銭が並び用いられることとなった。これは
恐らく既に流通していたものを急に停止するのが現実的ではなかったことと
共に、富本銭そのものの絶対量が不足したこともあるのであろう。その後の
和同開珎に比べて富本銭の出土絶対量は極めて少なく、そのために江戸時代
には既に存在が知られながら飛鳥池遺跡での大量出土があるまでは(一部で
早くからこの条文との関係を指摘する説もあったが)本格的な貨幣としての
認識をされることはなかった。
(日本書紀)


[73] 神護景雲元年(天平神護三年、767)四月十四日 2001-04-14 (Sat)

 東院の玉殿完成。
 この日新たに平城宮東院の玉殿(ぎょくでん)が完成し、群臣が参会して
完成披露を行った。玉殿は瑠璃(るり)色の瓦で屋根を葺き、柱や壁には藻績
(そうき、水草)の文様が描かれており、人々はこれを「玉(たま)の宮」と
呼んだという。
 平城京は北一条大路から九条大路まで東西に通じる十本の大路、朱雀大路を
中心に東西それぞれ一坊から四坊までの九本の南北道、そして南一条から五条
までの部分には東に張り出した外京(げきょう)があり、ここには五坊から
七坊までの南北の大路が通っていた。
 そして平城京の中心となるのが現在で言えば皇居と官庁街に相当する平城宮
である。藤原京では京域の中心から北部にかけて設置された宮域は平城京では
唐の都城にならって中央北端に置かれた。その位置は平安京と同様に南北は
京極の北一条大路から二条大路まで、東西はそれぞれの一坊大路までの区画と
考えられて来た。しかし、発掘の結果は宮跡の東一坊大路があるべき場所に
道路の遺構はなく、平城宮は部分的に東に張り出したいびつな形をしていた
ことが判明した。これによってそれまでは離宮と考えられていたこの「東院」
がやがてこの張り出し部分の南半部に相当することが判明した。ここには庭園
遺構が発見され、またこの記事にある通り緑釉(りょくゆう、緑色の釉薬)の
瓦も発見されている。ここに記録された玉殿を含む中心部分は現在宇奈多利
神社のある台地上(未発掘)にあったものと考えられている。
(続日本紀)


[72] 持統三年(689)四月十三日 2001-04-13 (Fri)

 皇太子草壁皇子薨ず。
 律令制が確立する以前の皇位は基本的に成人男子の皇族の間で受け継がれ、
終身その位にあった。適切な男子の皇位継承者がなかった場合は皇后などが
「中継ぎ」として皇位に立つことによって継承権者の成人を待った。
 天武天皇の崩御後、愛児草壁皇子を皇位に即けるため実姉の子大津皇子を
謀殺した皇后(持統)はしかし激しい非難を浴びたためか、草壁皇子を直ちに
皇位に据えることができなかった。草壁皇子は天武天皇の在世時から皇太子と
されたこととなっているが事実かどうかは不明と言わざるを得ない。
 結局持統は自ら皇位に即くこともせずに臨朝称制(皇位代行)を続け、また
草壁を即位させることも出来ないまま、やがて草壁が成長してその即位を
周囲も納得するまで待つこととなった。しかし、この日当の草壁皇子が薨じた
ことによってすべての計画が頓挫し、やむなく翌年自ら即位し、大権を行使
して皇位を草壁の遺児軽皇子(かるのみこ、文武)に伝えることに腐心するに
至った。しかし、それさえも難航し、藤原不比等に事実上の後見役を委ねて
後事を託したり、また十市皇女と大友皇子の遺児葛野王を抱き込んで皇族の
会議を誘導させたりすることとなった。結果的に極端なまでに選択肢を制限
したことがその後の度重なる奈良朝の政変の原因とさえなった。
 草壁皇子は享年二十八歳。天武の崩御段階で既に即位可能な年齢であったと
見られ、実際に天武天皇が後継を草壁皇子と指名していたのであればその
即位を阻む者はなかったはずであった。
(日本書紀)


[71] 大宝元年(701)四月十二日 2001-04-11 (Wed)

 遣唐使拝朝。
 この年一月二十日、粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使、高橋笠間
(たかはしのかさま)を大使、坂合部大分(さかいべのおおきだ)を副使と
する遣唐使人事が任命された。この場合、大使ではなく執節使がこの遣唐使の
中心人物である。この日一行は出発の挨拶を行って遙かな唐を目指した。
 しかし、この遣唐使は筑紫(九州)出航後に暴風に遭い渡唐できず、翌年
六月二十九日に改めて出発、唐に至った。しかし、到着後、日本からの使者で
あることを告げ、到着した場所の名前を確認したところ、周の楚州塩城県
(現在の江蘇省)である、と告げた。驚いた日本側が確認すると、唐の高宗
皇帝の崩御後、実権を握ったその皇后(則天武后)が唐朝を簒奪して国号を
周としていたことが判明した。唐の人は続けて遣唐使に対して「よく聞く話に
『海の東に倭国がある。これを君子の国と謂う。人民は豊かであり礼儀が厚く
行われている』というのがあるが、今使者の様子を見ると大変立派である。
あの話は本当らしい。」と告げた。
 もちろんこれは則天武后による国家簒奪という異常事態にある自国の状況を
暗に批判したこともあろうが、大使の粟田真人は旧唐書、新唐書の二種類の
唐の正史が共にその人柄を激賞しており、唐側の記録にも残るほど好印象を
残したらしい。真人らはその翌々慶雲元年(704)帰国するが坂合部大分は
何故か十四年も唐にとどまり、養老二年(718)にやっと帰国している。
 なお、この時の使節の少録(四等官末席)として万葉歌人として知られる
山於憶良(やまのうえのおくら、山上憶良)も渡唐している。
(続日本紀)


[70] 天平十七年(745)四月十一日 2001-04-10 (Tue)

 紫香楽宮周辺の山で火災。天皇、大丘野行幸を図る。
 前年二月から紫香楽宮に滞在された聖武天皇はこの年正月の朝賀の儀式では
紫香楽宮に大楯・槍(ほこ)を樹てて事実上紫香楽を都と定められた。が、
この楯・槍を樹てるのは本来はもとの物部(もののべ)氏である石上(いその
かみ)・榎井(えのい)両氏の役割であったが、急なため両氏を呼び寄せる
ことができず、物部氏同様の古くからの軍事氏族である大伴・佐伯両氏に
代行させている。
 しかし、怪事が連続する。四月一日には市の西の山、三日には甲賀寺の東の
山、八日には紫香楽の南、伊賀の真木山(三重県阿山町の槇山)でそれぞれ
火災が発生、特に真木山の火災は三四日消えず、山背・伊賀・近江の諸国に
消火を命じている。
 そしてこの日には皇居の東の山に火災が発生した。住民たちもこれはもう
だめだと思ったのか、先を争って川に行って財物を埋め、聖武天皇自身も
危険を感じられたのか大丘野(滋賀県水口町)への行幸を準備された。幸い、
十三日の夜になって雨が降ったためこの火事は鎮火、行幸は中止になった
らしい。
 これらは恐らくは遷都を望まぬ人々による放火の可能性が強いが、更に
二十七日から三日三夜にわたって地震が続いたのを皮切りに今度は地震が頻発
した。ここにとうとう聖武天皇も紫香楽宮を諦められたのか、五月五日には
終日の地震の中、慌ただしく恭仁京に還幸される。
(続日本紀)


[69] 推古元年(593)四月十日 2001-04-09 (Mon)

 厩戸皇子立太子し摂政となられる。
 正式に即位した初の女帝であられた推古天皇の皇太子としてこの日厩戸豊聡
耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ、聖徳太子)が立太子された。
 厩戸皇子は用明天皇の皇子。その母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとの
ひめみこ)が臨月の時、禁中を巡察しておられて馬官(うまのつかさ、後の
馬寮か)のところで産気づいて皇子を産まれた、ということからその名がある
という。すぐに言葉を話し、一度に十人の人の訴えを聞いても間違えずに聞き
分けることができ、またよく未来を予知された。父の用明天皇は特に皇子を
寵愛され、皇居の南の上殿(うえのみや)に住まわせられたため上宮厩戸豊聡
耳太子(うえのみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と呼ばれた。
 律令制成立以前、皇位継承法ははっきりとしたものではなかったらしい。
同じ世代に属する血統の濃い成人男子皇族のうちから有力な者が順次皇位に
つき、その世代が尽きた時に次の世代に皇位が伝えられたらしい。この時、
まさにその世代交代の時期にあり、血統の濃さからも聖徳太子が皇位につく
ことが予定されたものの、当時未成年であり、既にその父の世代の皇位継承
権者がいなくなっていたため、聖徳太子成人までの「つなぎ」として敏達天皇
の皇后であった推古天皇が皇位につき、聖徳太子の成人を待ったものと考え
られる。
 しかし、当時は天皇が崩御することなく退位する、という前例がなかった。
そして推古天皇が長生きをされたことから予定が狂い、推古天皇の崩御時には
既に聖徳太子の世代も亡く、結局皇位継承の混乱を招いてしまった。
(日本書紀)


[68] 天平勝宝四年(752)四月九日 2001-04-09 (Mon)

東大寺大仏開眼供養。
 古代国家の総力を挙げて造営が進められた東大寺の盧舎那(るしゃな)大仏
の像が完成し、この日盛大な開眼供養が挙行された。儀式は正月元日の儀式に
準ずる、朝廷行事としては最大規模のものとされた。
 朝から聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇が東大寺に行幸、東大堂布板殿に
座され、文武百官が盛装して並ぶ。続いて有位の僧たちが南門から、開眼を
行う天竺(インド)僧菩提僊那(ぼだいせんな)が東門から、講師の隆尊律師
が西門から、読師の延福法師が東門から、それぞれ輿に乗って入場した。開眼
は文字通り大仏像に筆で眼を描き入れる儀式であるが、菩提僧正が筆を執って
これを行った。この筆には縄をつけてその先に聖武上皇・孝謙天皇を始めと
する人々が手を添え、参列者がこの開眼の功徳を分け合うことが出来るように
されていた。そして講師と読師が高座に登って華厳経の教えを説いた。
 その後南門から招かれた総勢一万人にも及ぶ僧侶が参入し、大安・薬師・
元興・興福の四寺から珍宝が献じられ、内外の楽曲が華やかに演奏された。
「作(な)すことの奇(くす)しく偉(たふと)きこと、勝(あ)げて記す
べからず。仏法東に帰(いた)りてより、斎会(さいゑ)の儀、嘗(かつ)て
此(かく)の如く盛(さかり)なるは有らず」と記される国を挙げての盛大な
儀式であった。
 この時用いられた筆を始めとする多くの品々はその後正倉院に収められ、
今日まで伝えられていることは周知の通りである。
(続日本紀)


[67] 文治二年(1186)四月八日 2001-04-08 (Sun)

 静、鶴岡若宮にて源義経を慕い舞う。
 この日鶴岡八幡宮に参詣した源頼朝とその妻北条政子はその回廊に鎌倉に
連行された源義経の愛妾静を招き、舞を所望した。最初は病と称して参上を
拒んでいた静も結局しぶしぶ召しに応じてやって来たものの、舞については
辞退した。しかし再三の要請に遂に断りきれずに工藤祐経が鼓を打ち、畠山
重忠が銅拍子をつける中、まずこの歌を吟じた。
 よし野やま みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとぞこひしき
続いて別の曲を歌った後、更に
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
「誠に是社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし(天井の埃さえも感動するほどだ)」
という情景の中で一座が感動している中、頼朝の声が響いた。「八幡宮の神前
においては鎌倉幕府の万歳を祝すべきなのに反逆者義経を慕う歌を歌うとは
何事か」と。しかし、ここで政子が取りなした。「かつて流人のあなたと引き
裂かれそうになったとき、またあなたが挙兵した時、私は一人でどんな不安な
思いをしたことか。彼女が多年愛してくれた義経を慕って歌うのは貞女という
べきでしょう。曲げて賞翫して下さいな」と。暫くして頼朝は御簾の下から
着物を引出物として出し静に賜ったという。
 当時は鶴岡八幡宮は山上にある現在の本宮はなく、現在その手前右側に
鎮座される若宮が社殿であり、その回廊(寛永の再建時に省略された)にて
舞が行われた。現在も鎌倉祭りで彼女を偲び舞殿にて静の舞が奉納される。
(吾妻鏡)


[66] 天武七年(678)四月七日 2001-04-07 (Sat)

 十市皇女急病で薨じたため祭祀を中止。
 この年の春、天武天皇は天神地祇(高天原の神々と土着の神々)を祀ろうと
大祓(おおはら)えを行い、斎宮(いわいのみや、神事のための宮殿)を倉梯
(くらはし)の河上(かわかみ、桜井市)に建てられた。四月一日に占いを
行い、この日が吉日と出たので未明に行幸となり、百官を引き連れて出発し、
未だ飛鳥浄御原京を出ないうちに急報が届いた。十市皇女が急病により薨じ
られた、ということであった。急遽行幸も祭祀も中止された。そして十四日に
赤穂(あかお)に葬られた。
 十市皇女は天武天皇と万葉歌人として知られる額田王(ぬかたのおおきみ)
との間の皇女。彼女は天智天皇の皇子であった大友皇子(おおとものみこ、
弘文天皇)の妃となった。しかし、運命の壬申の乱によって、彼女の夫は父の
軍勢によって死に追い込まれる。同様に父のもとを去って天智天皇の後宮に
あった母とともに天武のもとに引き取られたと見られる彼女だが、その後は
天武四年に伊勢神宮に行かれた以外の事跡は伝わらない。そしてこの日の
あまりにも急な死。急病、ということになってはいるが実際には自殺では
なかったか、という見方も強い。
 赤穂は桜井市東南部の鳥見山と忍阪山の間にある赤尾ではないかとされる。
舒明天皇陵や鏡女王(額田王の姉)の墓も近く、であればおそらく記録にない
額田王の墓所もその付近であろう。
(日本書紀)


[65] 宝亀三年(772)四月六日 2001-04-06 (Fri)

 下野国、道鏡の死を報じる。
 この日、下野国(しもつけののくに、栃木県)から前年造薬師寺別当道鏡が
死んだ、との報告があった。薬師寺は下野薬師寺で、後に東大寺、大宰府の
観世音寺と並んで僧侶受戒のための戒壇が設置された当時東国では最大規模の
寺であったが現在は廃寺となっている。
 道鏡は弓削(ゆげ)氏の出身。仏典の原典である梵語(サンスクリット)に
精通し、後世の禅宗で行うような修行で名を挙げ、そのため宮中に召し入れ
られた。天平宝字五年(761)、保良宮行幸の際に孝謙上皇の看病の祈祷を
行って効果があったのをきっかけに上皇の寵愛を得るようになる。その溺愛
ぶりは目に余るものがあったらしく、苦言を呈した淳仁天皇と孝謙上皇との
関係は決裂し、恵美押勝の乱の後彼女は淳仁を廃して淡路に幽閉、自ら重祚
(ちょうそ)して称徳天皇となり、ますます露骨に道鏡を偏愛するに至る。
遂に皇位を窺うに至った道鏡の野望(彼自身の希望であったかどうかは不明と
するしかないが)は和気清麻呂(わけのきよまろ)によって阻止されたものの
弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)がたった八年で無位から従二位大納言に
進んだのを始め一族で五位以上の貴族になった者は十人にも及んだ。しかし
称徳天皇の崩御によってすべては無に帰した。が、一人称徳天皇の御陵を守る
道鏡をさすがに政府も処刑するには忍びず、造薬師寺別当という名目で流罪と
するに留めた。亡くなったときには庶民として葬られたという。
 称徳天皇と彼との間に男女の関係があった、とする見方は同時代を生きた僧
景戒の「日本霊異記」に既に見られるが、事実かどうかは永遠の謎である。
(続日本紀


[64] 天平五年(733)四月五日 2001-04-04 (Wed)

 交替する国司に解由の制を励行させる。
 解由(げゆ)は国司などの交替の際に前任者と新任者との間での事務引き
継ぎの完了証明とでもいうべき性質の書類であり、前任者はこれを一定期間
内に太政官に提出し、懈怠なく勤務を満了して引き継ぎする官物に不足等が
ないことの証拠としたものである。
 しかし、この日出された詔によれば、新任の国司が着任する前に帰京して
しまったり、或いは事務引き継ぎが完了しているにもかかわらず新任の国司が
解由状を発行しないため、前任者は太政官に提出できず、次の官職を与えて
もらえない、といった状況が生じており、そのために天平三年に既に解由の
徹底を命じたにもかかわらずまだ守られない、という実態が生じていたと
いう。
 そこでこの日の詔によって改めて解由状を発行して前任者から太政官に
申告するように命じたものである。
 この後も国司交替にまつわる規定は次第に厳格なものとなり、延暦元年
(782)には百二十日経過しても解由を得られない者は懲戒免職に相当する
厳しい措置を取ることなどが定められ、延暦二十二年にはそういった国司
交替の際の手続きを定めた延暦交替式が制定されている。
 しかし、手続きの厳しさとそれが守られるかどうかは別問題であったのか、
例えば後年讃岐守として赴任した菅原道真公までもが後任を待たずにさっさと
帰京してしまっている。
(続日本紀)


[63] 雄略十二年(468)四月四日 2001-04-04 (Wed)

 身狭青らを呉に派遣。
 他人を信用せず、多くの人を殺したため「大悪天皇」とまで呼ばれた雄略
天皇は史部(ふひとべ、文官?)の身狭青(むさのあお)と檜隈民使博徳
(ひのくまのたみのつかいはかとこ)の二人だけは寵愛された。そして帰化人
と見られるこの二人は外交で活躍する。
 まず九年二月、二人は呉国(くれのくに、南朝の宋)に派遣された。彼らは
十年九月四日に帰国し、この日再び使いに出た。
 前回の使節では鵞鳥を将来したことが記されるのみであるが、今回の使節は
十四年一月十三日に技術者多数を連れて帰国したことが記されている。
 周知の通り、雄略天皇は倭の五王のうちの武に相当することは確実と見られ、
「宋書」順帝昇明二年(478)に倭王武が遣使朝貢した記事が恐らくこの
使節であろうと考えられる。
 当時朝鮮半島では高句麗(こうくり)が大攻勢に出ておりこの後雄略二十年
には七昼夜に及ぶ猛攻の末、遂に首都漢城を落とし、百済が一時滅亡するに
至る。この時は雄略天皇が久麻那利(こむなり)を百済に割譲して国を再興
させるが、こういった高句麗の動向を睨み、高句麗と戦うための大義名分を
得て国際的に有利な地位を得よう、という意図から遣使したものであろう。
 しかし、結果的には当初の目的を果たすことは出来なかった。当の宋が先の
遣使の翌年、昇明三年に滅亡したのである。それ以降倭国から南朝への遣使の
記録がなくなるのは恐らく日本側で頼りにならない南朝を見限り、独力で対処
することとしたためであろう。
(日本書紀)


[62] 推古十二年(604)四月三日 2001-04-03 (Tue)

 聖徳太子、憲法十七条を制定。
 この日聖徳太子は憲法十七条を制定された。
一.和を以て貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
二.篤(あつ)く三宝(仏法僧)を敬へ。
三.詔を承りては必ず謹(つつし)め。
四.群卿百寮(群臣や官僚)、礼を以て本(もと)とせよ。
五.むさぼりを絶ち欲を捨てて、明(あきらか)に訴訟を弁(わきた)めよ。
六.懲悪勧善は古(いにしへ)の良典なり。
七.人各任有り。掌(つかさど)ること濫(みだ)れざるべし。
八.群卿百寮、早く朝(まゐ)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。
九.信は是義の本なり。事毎に信有るべし。
十.忿を絶ち瞋(しん)を捨てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。
十一.功過を明察して、賞罰は必ず当てよ。
十二.国司・国造、百姓(はくせい、庶民)に斂(をさめと)ることなかれ。
十三.諸の官に任(よさせ)る者(ひと)、同じく職掌を知れ。
十四.群臣百寮、嫉妬有ること無(なか)れ。
十五.私(私利私欲)を背きて公に向(ゆ)くは、是臣の道なり。
十六.民を使ふに時を以てするは古(いにしへ)の良典なり。
十七.夫(そ)れ事は独断すべからず。
 官僚たちへの倫理綱領といった内容であるが、現代でも充分通用する内容
ではないだろうか。
(日本書紀)


[61] 用明二年(587)四月二日 2001-04-02 (Mon)

 用明天皇の仏教への帰依を巡り物部・蘇我両氏対立。
 この日大嘗祭を行った用明天皇は天然痘のために仏教に帰依しようと考え、
群臣に諮問した。物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝海(なかとみの
かつみ)は「どうして国内の神に背いて他国の神を崇めるのですか。こんな
ことは前代未聞です」と言って反対したのに対し、蘇我馬子(そがのうまこ)
は「お言葉に従うべきです。誰も異議などあるはずがありません」として
賛成、意見は真っ二つに分裂した。そこに天皇の弟の穴穂部皇子(あなほべの
みこ)が豊国法師という僧を連れて内裏に入ってきた。守屋は彼らを睨みつけ
激怒したが、そこへあわててやって来た押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)に
「今群臣たちがあなたの退路を断とうとしている」と密かに告げた。守屋は
急いで阿都(あと、大阪府八尾市)に退き軍勢を集めた。勝海も兵を集めて
守屋に従ったが、途中で暗殺されてしまった。
 守屋は馬子に使者を送り、「私はみんなが私を陥れようとしていると聞いた
ために退いたのだ」と告げた。馬子はその言葉を大伴毘羅夫(おおともの
ひらふ)に伝えて救援を乞い、大伴氏は蘇我氏側について馬子の家を昼夜守護
した。
 風雲急を告げる中、天皇の病状はいよいよ悪化され、九日にはとうとう崩御
されてしまった。
 この両氏を中心に朝廷を二分した戦闘が行われるのはこの後七月になっての
ことであった。
(日本書紀)


[60] 雄略十四年(470)四月一日 2001-04-01 (Sun)

 根使主の旧悪露見し討滅。
 これより先、安康元年(454)二月一日、安康天皇は大草香皇子(おお
くさかのみこ、仁徳皇子)の妹の幡梭皇女(はたびのひめみこ)を弟の大泊瀬
皇子(雄略)の妃として迎えようとし、根使主(ねのおみ)を大草香皇子の
もとに遣わして請わしめた。折しも病気で余命いくばくもないと感じていた
皇子は気がかりであった妹の嫁ぎ先が決まった、と喜び、婚約の印として重宝
の押木玉縵(おしきのたまかずら、玉飾りのついた冠)を差し出した。ところ
が、受け取った根使主はその余りの見事さに心を奪われ、玉縵を隠して天皇に
大草香皇子は申し出を拒絶した、と復命した。激怒した安康天皇は軍を派遣し
大草香皇子を殺した。そして彼の妻を自らの後宮に納れると共に幡梭皇女を
大泊瀬皇子の妃(即位後は皇后に)とした。
 この二年後安康天皇は大草香皇子の遺児の眉輪王(まよわのおおきみ)の
ために弑されてしまう。その後眉輪王を倒し、他の皇子たちを殺して皇位に
即位された雄略天皇はこの日呉人(南朝の宋の使者であろう)の饗応を行う
適任者を諮問したところ、群臣は根使主を推挙したので彼に饗応を行わせ、
密かに舎人(とねり、側近)を遣わして様子を見させたところ、彼が見事な
冠をつけており、前回もそれを用いていたことが判明。そこで天皇はそれを
見ようと饗宴の服装で群臣を集めた。その冠を見た皇后は慨嘆されて号泣、
あれは兄が婚約の印に安康天皇に差し出したものだ、と天皇に告げた。驚いた
天皇に詰問された根使主は容疑を認めたものの逃亡、追討されて敗死した。
(日本書紀)


[59] 垂仁三年(紀元前27)三月 2001-03-30 (Fri)

 新羅王子天日槍来日。
 この月、新羅(しらぎ)の王子天日槍(あめのひほこ)が渡来した。彼は
七種類の神宝を携えて最初播磨の宍粟邑(しさわのむら、兵庫県宍粟郡)に
住んだ。そのため天皇は三輪君(みわのきみ)の祖、大友主と倭直(やまとの
あたい)の祖、長尾市(ながおち)を派遣しその素性を問わせた。彼が自分は
新羅の王子だが日本の天皇の徳を慕い、国を弟に与えて渡来した、と答えて
神宝を献上したのでそれらを但馬(出石神社)に収め、彼には好きなところに
住むことを許した。そこで天日槍は宇治川を遡り、近江、若狭を経て但馬に
居を定めた。
 その後、垂仁八十八年に天皇はその神宝を見たい、として改めて献上させ、
石上神宮の神庫に収めたこと、その時献上を渋った小刀が消えてやがて淡路島
に出現し、祀られたという記事が残る。
 最初の説話で使者になったのが三輪山の大神神社を祀る三輪君、大和の土着
神の大和(おおやまと)神社を祀る倭直の先祖であること、そしてこの二つの
神社の中間あたりに鎮座されるのが謎の古社、穴師坐兵主(あなしにいます
ひょうず)神社であり、また天日槍が住んだとされる地域に点々と所在する兵主
神社。これらのことは一体何を物語っているのであろうか。
 なお、「古事記」では天之日矛の渡来は応神朝のこととし、彼が渡来した
のは日本へ渡った妻を追い求めてのこととする。その妻は比売碁曾(ひめ
ごそ)神社(大阪市)のご祭神の阿加流比売(あかるひめ)であるという。
(日本書紀)


[58] 敏達十四年(585)三月三十日 2001-03-30 (Fri)

 物部守屋、蘇我馬子の寺を破壊し仏像を捨てる。
 この年三月一日に仏教禁断の勅許を得た物部弓削守屋(もののべのゆげの
もりや)はこの日蘇我馬子の寺に至り、その塔を切り倒して火をつけて焼き、
あわせて仏像と仏殿を焼いた。そして焼け落ちた仏像を回収して難波の
堀江に捨てさせた。また馬子とこの寺にいた修行者を罵倒し、日本最初の
僧であった善信尼を召した。馬子は嘆き悲しみながらも勅命に逆らうことが
出来ず、彼女らを引き渡した。官憲に引き渡された彼女は法衣を奪われて
海石榴市(つばきち)の駅でむち打たれた。
 この寺はこの前年に馬子が石川の家を仏殿とした記事、またこの年二月
十五日に塔を大野丘の北に建てた記事があり、これを指すのであろう。難波
堀江(大阪市の大川)は畿内の外港であり、ここに捨てたということは国外に
追放するという意味を持つ。海石榴市の駅は市に併設された公用旅行者の
ための施設であろう。海石榴市は上代から栄えた市として有名である。桜井市
金屋に海石榴市(つばいち)観音があるがこれは平安時代に土石流のために
もとの海石榴市の町が壊滅した後、町が初瀬川の対岸に遷って以降のことで
あり、本来の海石榴市は初瀬川南岸、桜井市粟殿(おうどの)付近にあったと
見られる。
 なお現在では物部氏も氏寺を有していたと見られており、蘇我氏・物部氏の
争いは仏教を受容するかどうかという単純なものではなかったと思われる。
(日本書紀)


[57] 天平二年(730)三月二十九日 2001-03-29 (Thu)

 薬師寺東塔建立。
 現在に残る天平建築の傑作薬師寺東塔がこの日建立された。
 もともと天武九年(680)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気
平癒を祈願して発願された薬師寺はその皇后のご病気は癒えたものの当の
天武天皇が朱鳥元年(686)崩御され、その遺志を継がれた持統天皇に
よって藤原京に造営され、文武二年(698)に完成した(本薬師寺)。
さらに都が平城京に遷都された後、養老二年(718)に平城京に移建
されたが、この時純粋な移築ではなくもとの寺も残されたらしい。そして
その後も造営が継続され、この年になって東塔が建立された。なお西塔は
建立年代の記録はないが恐らく東塔と同じ頃であろう。いずれにせよ、天平
初年には金堂を中心とする部分と東西に並び立つ塔、という薬師寺式伽藍
配置の偉容が完成していたことになろう。天平感宝元年(749)には
聖武天皇が薬師寺宮に入られており、この時出家されたのではないかと
考えられている。
 その後薬師寺は天延元年(973)、金堂と東西両塔を残して全焼し、
さらに享禄元年(1528)には残った金堂と西塔も焼け落ち、ただ一基
残ったこの東塔は今日もなおその美しい姿を西の京に見せてくれる。近年の
寺側の精力的な活動により天平の昔を彷彿させる寺容の復興が着々と進め
られているのは嬉しい限りである。
(扶桑略記)


[56] 天平十一年(739)三月二十八日 2001-03-28 (Wed)

 密通により石上乙麻呂・久米若売を配流。
 この日石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)と久米若売(くめのわくめ)が
不倫をしたというかどで乙麻呂は土佐(高知県)に、若売は下総(千葉県北部
など)にそれぞれ配流された。
 この後若売は翌十二年六月に許されて帰京したが、乙麻呂の方はまだ
許されず、十五年頃まで流刑されていたらしい。
 この配流の時の乙麻呂の漢詩四首が「懐風藻」に残るほか、万葉集にも次の
歌など四首が残されている。
石上 布留(ふる)の尊(みこと)は たわやめの
惑(まと)ひに因(よ)りて 馬じもの 縄取り付け 鹿(しし)じもの
弓矢囲(かく)みて 大君の 命恐(みことかしこ)み 天離(あまざか)る
夷辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土(まつち)山より
帰り来ぬかも (巻六・1019)
(訳:石上の 族長の私は 女性に 惑わされて 馬のように 縄を打たれ
鹿のように 弓矢で囲まれて 大君の 命令で <天離る> 遠くに流される
<古衣> 大和の外れの真土山から 早く帰って来たい。)
 石上乙麻呂は当時左大弁(筆頭書記官)。石上氏はもとの物部氏であり、
あるいは石上氏排撃を狙った陰謀があったのかも知れない。一方の久米若売は
藤原宇合(うまかい)の未亡人で百川(ももかわ)の母であった。
(続日本紀)


[55] 天武十四年(685)三月二十七日 2001-03-27 (Tue)

 家毎に仏像・経典を置く詔。
 この日天武天皇は次の詔を出された。
「諸国(くにぐに)の家毎に、仏舎(てら)を作りて、乃(すなは)ち仏像と
経を置きて、礼拝供養(らいはいくやう)せよ。」
 このまま受け取ると現在の仏壇のようなものを家ごとに用意するように、と
いうことになるが、恐らくここは諸豪族の家を指しているのであろう。
 現実にこの後豪族たちは自分たちの私寺を競って築くようになる。白鳳期の
地方寺院は正しくこの詔に応じて豪族たちが建立した氏寺であり、郡寺で
あったと見られている。また都の中にも建立されたことが例えば平城京の
葛城寺や紀寺などの存在により知られる。
 さらにこれを大規模化したものが聖武天皇による国分寺造営であり、恐らく
聖武天皇の意識の中には偉大なる曾祖父天武天皇の出したこの時の詔があった
ことであろう。
 現在につながる家庭用の仏壇は近世になって漸く出現したものであり、中世
以前には見られなかった。自宅とは別に持仏堂を建てており、これがその人の
死後に寺院になるのが中世によくある例(例えば源頼朝の大蔵薬師堂、北条
時頼の最明寺(禅興寺)など)である。逆に言えば現在のような仏壇の登場は
仏事の場を一気に一般民衆の家庭にまで広げたことになる。
(日本書紀)


[54] 大化五年(649)三月二十六日 2001-03-26 (Mon)

 蘇我倉山田石川麻呂一族殉死。石川麻呂の死体を斬首。
 この年三月二十四日、右大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだの
いしかわのまろ)の異母弟である蘇我日向(そがのひむか)は皇太子の
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)に兄があなたの暗殺を計画している、と
密告した。これを信じた皇子は大伴狛(おおとものこま)以下を遣わして
尋問したところ、「孝徳天皇に直接申し上げる」と答え、天皇の使者にも
同様に答えた。ここに天皇は軍を派遣したところ麻呂は山田寺に逃れ、長子
興志(こごし)が一戦を主張するのを退け、三月二十五日に「この山田寺は
自分のためでなく陛下のために建立したものである。讒言されて横死する
のはいやだからせめて忠義の心のままあの世へ旅立ちたい。寺に来たのは
安らかに死ぬためである」と言い残し、頸をくくって自殺した。妻子八人も
殉死した。
 二十六日になっても麻呂の一族は次々に殉死した。その夕方、寺を囲んだ
蘇我日向以下の軍兵は麻呂の亡骸を斬首した。さらに三十日には連坐した
者二十三人が死罪、十五人が流罪に処された。しかし没収された麻呂の
遺品はよいものにはすべて「皇太子の物」と書かれてあったため、その冤罪を
知った中大兄皇子は悔いて恥じ、讒言した日向を筑紫大宰帥に左遷した。
 乙巳の変の功臣蘇我倉山田石川麻呂の悲劇的な最後である。しかし、この
記録の随所に出る「皇太子」の記述はこれが中大兄皇子の陰謀であったことを
窺わせる。こうして孝徳天皇は手足をもがれていくのであった。
(日本書紀)


[53] 天武十四年(685)三月二十五日 2001-03-25 (Sun)

 山田寺仏像開眼。
 山田寺は浄土寺とも言い、乙巳(いっし)の変の功臣、蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)の発願により舒明十三年(641)
に造営が開始された。皇極二年(643)には金堂が完成したが、大化五年
(649)には石川麻呂が謀反の疑いをかけられてこの寺で自殺する、という
悲劇があった。
 それを乗り越えて天武二年(673)に塔の心柱が建てられたのは恐らく
天智政権を倒した天武天皇によって孝徳天皇の再評価がなされるようになった
からその一環として山田寺にも援助が与えられたのではないだろうか。なお、
皇后(持統天皇)は石川麻呂の孫にあたる。そして天武五年には露盤を上げて
いるのでこの頃に塔が完成したのであろう。天武七年には本尊薬師如来の
丈六の仏像の鋳造が開始され、この日になって開眼供養がなされたのであった。
丁度三十六年前のこの日に石川麻呂が自殺しているのでその追善を兼ねたもの
であろう。
 その後、平家の焼き討ちによって焼亡した興福寺の僧兵たちは興福寺の
復興のため衰微していたこの寺に目を付け、文治三年(1187)に山田寺に
乱入、この仏像を強奪し、東金堂の本尊とした。幾多の悲劇を味わったその
薬師如来の頭部のみが深い憂いを秘めて現在も興福寺に残されている。
 なお、昭和五十七年の発掘調査でこの山田寺の回廊が当初の部材のまま
発掘され、注目を集めたことは記憶に新しい。
(上宮聖徳法王帝説裏書)


[52] 天平十三年(741)三月二十四日 2001-03-24 (Sat)

 国分寺造営の詔。
 天平九年三月、諸国に丈六の釈迦三尊像造営と大般若経の書写を命じられた
聖武天皇はこの日さらにそれを発展させた国分寺建立の詔を出された。それは
具体的には諸国に七重塔一区を建立し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経
各一部を書写、また国分寺には僧二十人を置き、「金光明四天王護国之寺」と
名づけ、国分尼寺には尼僧十人を置き「法華滅罪之寺」と名づけること、
そして国分寺には封戸五十戸、水田十町を、国分尼寺には水田十町をそれぞれ
施すことを命じている。さらに毎月八日にはその僧尼は最勝王経を読経し、
月の半ばには戒羯磨(かいかつま、経典名)を読経するよう命じると共に、
毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には公私ともに
漁労や狩猟を禁じる、というものであった。
 今回は最勝王経の教義に基づくものであり、金光明四天王護国之寺という
名称に現れている通り、はっきりと鎮護国家を目指すものであった。この
経典を信じて読経する国は四天王が守護する、といった内容が最勝王経には
記されているのに応じたものである。一方の妙法蓮華経(法華経)にはこの
経典を信じた竜王の娘が忽ち男となって悟りを開いた、という記述があり、
罪深いとされた女性救済を目指したものであったと考えられる。
 なお「続日本紀」はこれを三月二十四日とするが、他の史料はおおむね二月
十四日となっており、日付については続日本紀の誤りである可能性が高い。
(続日本紀)


[51] 嘉禎四年(1238)三月二十三日 2001-03-22 (Thu)

 鎌倉大仏堂造営開始。
 東大寺大仏の再建は東国の人々にも強烈な印象を残した。衆生済度の象徴
たる大仏を東国にも、という思いはやがて浄光という僧の勧進(寄付募集)に
よって結実し、鎌倉の深沢の里にこの日大仏殿の建立を開始する。恐らく大仏
本体の造像もこの頃に開始されたのであろう。やがて寛元元年(1243)
六月十六日、阿弥陀如来像と大仏殿が完成する。しかし、この時の大仏は木造
であり、建長四年(1252)八月十七日に改めて金銅の大仏像の造営が開始
された。現存する鎌倉大仏であり、その完成は恐らく弘長二年(1262)の
ことであろうと考えられている。完成後、鎌倉大仏は大和西大寺流真言律宗の
高僧、忍性(にんしょう)が本拠とした鎌倉極楽寺の管轄下に置かれる。
 この時建立された大仏殿は建武二年(1335)に大風で倒壊する。折しも
大仏殿には雨宿りのため中先代の乱の北条時行軍の兵たちがおり、多数の圧死
者を出すという悲劇に見舞われた。再建後、応安二年(1369)にも大風で、
さらに明応七年(1498)には津波で倒壊、以後は再建されず露座となり
今日に至っている。幸い火災にはあわなかったため大仏本体は無事であった。
 この大仏の近くには(新)長谷寺も建立された。天平八年(736)の創建
という伝承は恐らく大和長谷寺にならったものと考えられ、実際の創建時期は
不明であるが、恐らく大仏建立と近い時期のことであろう。長谷寺の影響で
深沢の里のうち、大仏や長谷寺のある場所はやがて「長谷」という地名で
呼ばれるようになる。結果、長谷一帯には民間の信仰を集めた大和の名刹の
「分家」が集中したことになる。
(吾妻鏡)


[50] 宝亀十一年(780)三月二十二日 2001-03-21 (Wed)

 伊治呰麻呂叛し按察使紀広純を殺す。
 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は陸奥の俘囚(ふしゅう、律令政府に
服属した蝦夷(えみし))で上治郡(伊治郡?)の長官。
 呰麻呂はあることがきっかけで按察使(あんせちし/あぜち、広域の行政
監察官)紀広純(きのひろずみ)を恨んでいたが隠して彼に媚び仕えていた。
広純は底意に気づかずこれを重用した。また牡鹿郡の長官であった道嶋大楯
(みちしまのおおたて)は呰麻呂を日頃から俘囚俘囚と呼び馬鹿にしていた。
 この時広純は新たに覚●柵(かくへつのき、●は幣の巾を魚に、宮城県古川
市?)を築き、本拠地である陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)から離れた
この新しい城に呰麻呂と大楯を伴い赴いた。好機到来、と見た呰麻呂はまず
大楯を殺し、次いで兵を率いて広純を攻めてこれも殺害した。しかし、広純に
従っていた陸奥介(次官)の大伴真綱(おおとものまつな)は逃がして多賀
城に護送した。多賀城周辺の住民は多賀城防衛のために集まったが、肝心の
指揮を執るべき大伴真綱と掾(じょう、三等官)の石川浄足(いしかわの
きよたり)は後門より逃亡した。このため、人々もやむなく散会し、もぬけの
殻となった多賀城に至った呰麻呂の軍は城の中の貴重品をことごとく略奪し、
その後多賀城に放火、これを全焼させた。
 その経緯から陸奥の在地人同士の確執・私怨が直接の原因であったのでは
あろうが、この事件を機に比較的順調に推移していた対蝦夷政策は一転して
激しい対立を呼び、この後律令政府と蝦夷は事実上全面戦争に突入する。
(続日本紀)


[49] 大宝元年(701)三月二十一日 2001-03-21 (Wed)

 対馬嶋が金を産出し献上したのを記念し大宝改元。
 この日、対馬嶋が金を産出し献上したことを喜び、天武天皇の朱鳥以降
途絶えていた元号を定めて「大宝」とした。また、あわせて新しく定め
られた大宝令に基づいて官職や位の名称、及び服制が改訂された。
 対馬から金が出た、というのは金の初の国内産出の記事であり、これは
大伴御行(おおとものみゆき)が三田五瀬(みたのいつせ)を派遣して
金を発見・精錬して献上したものであったことがこの年八月七日の条に
見られる。
 しかし、その後になってこれが五瀬のたくらんだ詐欺事件であり、大伴
御行は見事にだまされたものであったことが発覚した。せっかくの「大宝」の
元号も実態を伴わないものになってしまった。あまりにも不名誉なことである
ためか、その具体的な顛末は「続日本紀」の分注にさらりと記述されている
のみである。実際の黄金産出は周知の通り天平二十一年(749)、陸奥
からのものが最初の記事となる。
 なおこの時点の左大臣多治比嶋(たじひのしま)を始め、藤原不比等
(ふじわらのふひと)、阿倍御主人(あべのみうし)、大伴御行、石上
麻呂(いそのかみのまろ)といった議政官などの顔ぶれが後の「竹取
物語」でかぐや姫に求婚する五人、石作の御子、くらもちの皇子、右大臣
阿倍のみむらじ、大納言大伴の御行、中納言石上の麻呂のモデルとも
言われる。
(続日本紀)


[48] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)三月二十日 2001-03-20 (Tue)

 天皇の寝殿に「天下太平」の文字が生じる。
 この日、孝謙天皇の寝殿の承塵に「天下太平」という文字が現れた。承塵は
屋根裏からの塵を防ぐため部屋の上部に張った板や布で、現在の天井板に相当
する。当時の建築にはまだ天井がなかった。
 この年七月の橘奈良麻呂の変を未遂のうちに鎮圧した後、この事件を記念
して「天平宝字」と改元が行われる。「天平」の元号のもとになった亀の
甲羅の上に現れた文字もそうだが、今回の事件についてもあまりにも見え
透いた作為の跡が歴然としている。もちろんこんなことをするのは藤原仲麻呂
以外にこの時点では考えられないが、恐らくおつきの女官などを買収したか、
もともとそういう人物を送り込んでいたか、ということになる。
 そんな仲麻呂のたくらみのまま、この後三月二十九日には聖武天皇によって
立てられた皇太子道祖(ふなと)王が廃される。そして四月四日には仲麻呂の
推挙によって大炊(おおい)王(後の淳仁天皇)が代わって皇太子となる。
彼は仲麻呂の娘婿であり、結婚以降は仲麻呂の邸で起居していたほどであった
ため、仲麻呂にとっては完全な傀儡に過ぎなかった。
 こういった露骨なやり方に憤激した橘奈良麻呂や大伴古麻呂ら反仲麻呂派は
いよいよ武力蜂起しかない、と考え、準備を進めるに至る。そしてそのこと
さえもが正しく仲麻呂の思う壺であった。
(続日本紀)


[47] 天智六年(667)三月十九日 2001-03-19 (Mon)

 近江大津京遷都。
 唐・新羅連合軍侵攻の恐怖におびえる天智天皇はついに大和を捨て、この日
近江大津宮に遷都された。しかし人々は遷都を願わず、政府の批判をする者が
多く、また批判的な童謡が流行した。それどころか日々夜々に各地に失火が
あった。恐らく遷都に批判的な勢力の放火によるものであろう。この時の
「日本書紀」の記録は具体例を欠くが、後に聖武天皇が同じ近江の紫香楽に
遷都された時の「続日本紀」の記録は周囲の山々で連日不審火があったこと、
また役所などでも失火があったことが記されており、この時も恐らく同じ
ような状況だったのではないか。
 大化改新で畿内の範囲が定められたように、古代人にとって畿内(うちつ
くに)は特別の意味をもっていた。その外に都を置く、ということ自体が
古代人にとっては許せないことだったのであろう。「万葉集」には額田王
(ぬかたのおおきみ)が遷都の旅の途中で三輪山を見て名残を惜しんで悲しむ
歌が残されている。
三輪山を 然(しか)も隠すか 雲だにも
 心あらなも 隠さふべしや (巻一・18)
 人々の批判をよそに強引な施策を続ける天智政権に人心がなびく訳もなく、
これらのことはやがて壬申の乱で近江方の敗北をもたらすことになる。
(日本書紀)


[46] 天智八年(669)三月十八日 2001-03-17 (Sat)

 耽羅王に五穀の種を賜う。
 耽羅(たんら)は韓国の済州島にあった国。もと百済(くだら)に服属して
いたが、百済滅亡により新羅(しらぎ)に服属を余儀なくされ、それを嫌って
か頻りに日本に使者を派遣した。この時も三月十一日に王子久麻伎(くまぎ)
らを派遣、朝貢した。
 この日、耽羅王に対して五穀の種が下賜された。恐らく耽羅王から依頼が
あったのであろう。少なくとも済州島には通常考えられているのとは逆の
流れで日本から農業が伝えられたことになる。
 耽羅王子たちはこの日五穀を手に帰国した。たった八日の滞在なので恐らく
大津の都に来たのではなく、大宰府で対応がされたものであろう。
「高麗史」の伝える耽羅建国の伝説によると、地中から出現した三神人が
浜辺に流れ着いた箱を開くと青衣の三人の処女と諸駒、犢(こうし)、そして
五穀の種が入っていた。その処女は日本の国王が耽羅の神子に配偶者として
賜ったものであったという。この時に日本から五穀の種をもらったことが
その後も伝説として長く伝えられたものであろうか。
(日本書紀)


[45] 延暦二十五年(806)三月十七日 2001-03-17 (Sat)

 早良親王事件関係者の名誉を回復し桓武天皇崩御。
 三月十五日頃からいよいよ危篤状態となられた桓武天皇は十六日には氷上
川継の乱で流罪とされた川継らの官位をもとに戻したのに続き、この日には
藤原種継暗殺事件に連坐した者たちを「今思ふ所あり、存亡を論ぜず(生死に
かかわらず)」もとの官位に戻す、という詔を出された。
 その対象となったのは「万葉集」の最終的な編者と目される大伴家持とその
嫡子永主、真っ二つになった遣唐船の船尾に乗って漂流、藤原清河の遺児
喜娘などとともに九死に一生を得て帰還した大伴継人などであった。
 彼らは桓武天皇の寵臣藤原種継暗殺事件の犯人とされ、殺されたり流罪と
されたり、或いは家持のように既に亡くなって一ヶ月も経っていたのに罪人と
されたりしたのだが、この事件の首謀者とされた早良親王は皇太子の位を
奪われて流されることになったが、冤罪を訴えて食を断ち、恨みを含んで
亡くなったのであった。そしてその後桓武天皇は終生この早良親王の怨霊に
悩まされることになった。既に早良親王自身は名誉を回復されて崇道天皇の
諡号も贈られたが、連坐した者はそのままであった。いまわの際になっての
この措置で漸く早良親王事件の清算を成し遂げたことになる。
 この後更に桓武天皇は毎年二月と八月に崇道天皇(早良親王)のため七日
間に亘って諸国国分寺で金剛般若経を読経するよう命じられた。そうして間も
なく息を引き取られたという。宝算七十歳。
(日本後紀)


[44] 天平十九年(747)三月十六日 2001-03-16 (Fri)

 大養徳国を大倭国に戻す。
 天平九年十二月二十七日に大倭国(やまとのくに、奈良県)は大養徳国と
改称された。これは当時流行した伝染病を天の怒りととらえ、これに対して
天子が徳を養うことにより天の怒りを鎮めるという意図を有したと考えられて
いる。しかし、大養徳という名称は国郡郷名の原則が二字の好字を用いる、と
なっているのに反して三字であり、敢えてそのような名称を選んだ理由が
明記されていない以上真意は不明とするしかない。
 この日再び大養徳国から大倭国に改称されたことは、これによって橘諸兄が
恭仁宮を大養徳恭仁大宮と称したその大養徳の否定であり、恐らく背後には
藤原仲麻呂の暗躍があったものと思われる。
 その後、天平宝字二年頃に大倭国は今度は大和国と再び文字だけ改称され、
それ以降固定するようになる。
 全国の国は橘諸兄政権下で緊縮のためか一時的に抑制が図られ、例えば
養老二年(718)に越前から分置された能登は天平十三年(741)に
今度は越中に併合された。ちょうど大伴家持が越中守として赴任していたのは
この時期になる。しかし藤原仲麻呂の政権下で国の数は再び増加し、能登の例
では天平宝字元年(757)に再び分置される。国の数の固定はだいたいこの
時期に行われたもので、それ以降は弘仁十四年(823)設置の加賀を例外と
して明治まで変化しない。
(続日本紀)


[43] 天平宝字五年(761)三月十五日 2001-03-15 (Thu)

 帰化人百八十八人に賜姓。
 この日百済(くだら)系帰化人百三十一人、高句麗(こうくり)系帰化人
二十九人、新羅(しらぎ)系帰化人二十人、大陸系帰化人八人の合計百八十八
人に賜姓が行われた。
 これより先、天平宝字元年四月四日に出された詔の中で、高麗・百済・
新羅などから渡来してきた人々が日本に帰化し日本の姓を望むのであれば
すべて許可する、という項目があり、これに応じて続々と出された賜姓の
記事の中でも最大のものがこの日の人々。これを含めて記録されるだけでも
五十余氏、合計二千人ほどの帰化人に賜姓が行われた。これは百済や高句麗の
滅亡、その後の唐と新羅の戦争による旧百済地域に駐屯していた唐の人々、
そして新羅国内の政変などを逃れた人など多数の半島や大陸の人たちが日本へ
亡命して来たこと、そしてその後の統一新羅による半島支配の確立に伴い
帰国する望みを絶たれた彼らはもはや日本を永住の地とする以外に住むべき
所はなかった。日本側としても彼らの多くは技術を持たない一般民衆であり
渡来当初は食料などを支給して養っていたもののそういった特別扱いを永遠に
続けることは出来ず、一般民と同じ扱いとすると共に、彼らを新天地としての
東国に配置してその開拓に当たらせる、ということを新たに方針にするように
なった。特別な技能を持っていなくても彼らの多くは農業技術者としては
進んだ技術を有しており、開発の遅れていた東国では特に貴重な開拓の
原動力となっていった。
(続日本紀)


[42] 貞観三年(862)三月十四日 2001-03-14 (Wed)

東大寺大仏修理成り開眼供養。
 斉衡二年(855)に地震の影響でその首が折れ、転落・大破した東大寺の
大仏の修理もこの日漸く完成した。賀陽親王、時康親王(後の光孝天皇)、
本康親王、在原行平(ありわらのゆきひら、在原業平の兄)、伴良男(ともの
よしお、もとの大伴氏)などの人々が参列する中、盛大な開眼供養の行事が
行われた。
 その柱は錦で飾られ、唐・高麗・林邑(りんゆう、カンボジア)の音楽が
奏でられ、また大仏殿の一層目の部分には特設舞台が設けられて天人天女の
舞が披露された。そうして厳かに文章博士(もんじょうはかせ)菅原是善
(すがわらのこれよし、道真の父)によって願文が捧げられた。その願文は
欽明天皇の代に仏教が伝えられて以来二百年でこの大仏が造営され、百年で
この事故はあったものの広く人々の寄付を集めて今回の修理が成ったこと、
この功徳によって塵区(汚れた現世)を出て智岸(浄土)に迎えて欲しい、と
いったことが述べられた。
 この時、ほとんど新造に近い、と言われながらも何とか七年かけて独力で
修理を成し遂げたのであったが、三百年余後の平家によって焼かれた修理の
時には既に日本には鋳造技術が失われており、宋の技術導入により漸く完成
する。少なくともこの段階では技術はまだ地に落ちていなかったのだが、
一方願文では鎮護国家よりも個人の救済が願われており、仏教に対する意識
・受容の変化がうかがわれる。
(三代実録)


[41] 宝亀四年(773)三月十三日 2001-03-13 (Tue)

 祈雨のため黒毛馬を丹生川上神社に奉納。
 丹生川上(にうかわかみ)神社は古来有名な祈雨・止雨の神として知られる。
雨を乞う時には黒毛の馬を、そして止雨を祈るときには白毛の馬を奉納した。
現在丹生川上神社は吉野郡川上村、東吉野村、そして下市町にそれぞれ上社、
中社、下社があるがこのうちどれがこの時馬を奉納された神社かは不明。
これらはいずれも日本一の多雨で知られる大台ヶ原の水を受ける位置にある
ため、古来から雨の神として知られ、特に「丹生川上雨師神社」とも称され
たりした。
 祈雨・止雨は農業にとって死活問題であったため、あらゆる方法でこれを
祈ることが古代国家の重要な役割であった。天武天皇の時代には毎年のように
風神である竜田神社と共に水神の広瀬神社に参拝が行われており、おそらく
この頃は広瀬神社が祈雨・止雨の対象であったと考えられる。
 丹生川上神社が初めて祈雨・止雨の対象として登場するのは天平宝字七年
五月二十八日の条からであり、恐らく雨について霊験あらたか、という話が
浸透していった結果であろう。平安時代に国家祭祀を受けた神社を列挙する
「延喜式」神名帳では吉野郡に
丹生川上神社 名神大、月次、新嘗
となっている。これは本来は現在のような上・中・下の三社ではなく一社で
あったこととともに、相嘗(あいなめ)祭の対象とされていないことからは
重要視されるようになったのが少し遅れることを示すものと見られる。
(続日本紀)


[40] 建久六年(1195)三月十二日 2001-03-12 (Mon)

 東大寺大仏殿落慶供養。
 この日朝から風雨激しく、また地震まで起きるという最悪の天候であったが
予定通り大仏殿の落慶供養が挙行された。風雨についても天神地祇までもが
この盛儀に立ち会ったためと理解された。未明から和田義盛、梶原景時らが
数万の兵士を率いて厳重に警護する中、日の出の後頼朝も大仏殿に入り、
いよいよ落慶供養が行われた。
 この時、集まった群衆と僧侶たちも中に入ろうとして警護の武士たちに
とどめられ、また彼らに梶原景時が暴言を吐いたことで暴動が起こりそうに
なったがあわてて頼朝が遣わした小山朝光が諄々と今日の盛儀は頼朝公の
おかげであり、と理を説くことによって漸く沈静化された。大仏の開眼供養の
時と異なり、一般庶民の参列は許されなかったのであり、これは関白九条
兼実(くじょうかねざね)の要請であったことが知られる。またここでも
騒ぎの元となっているのは源義経を讒言によって陥れたとされる梶原景時で
ある。
 その翌日、頼朝は大仏再建を技術面で支えた宋人の陳和卿(ちんなけい)に
面会を求めたが和卿は合戦によって多くの人命を奪った罪業の深い人とは
会いたくない、と拒否。が、逆にその言葉に感激した頼朝は奥州征伐に使った
甲冑・馬具を金銀と共に馬に乗せて贈った。しかし和卿は金銀と武具・馬具を
東大寺に寄進し、馬はそのまま頼朝に送り返したという。
(吾妻鏡)


[39] 敏達四年(575)三月十一日 2001-03-11 (Sun)

 任那復興の詔。
 この日百済(くだら)より朝貢があった。しかしその朝貢物は例年より
多かった。これは恐らく次第に勢力を強めつつあった新羅(しらぎ)に対して
日本の積極的な関与を期待してのものであろう。
 ここに敏達(びだつ)天皇は先に欽明朝に新羅が占拠したままになって
いる任那(みまな)の復興を求め、皇子(長男の押坂彦人大兄皇子(おしさか
のひこひとのおおえのみこ)か)と大臣(おおおみ)の蘇我馬子に対して
「任那のことに、な懶懈(おこた)りそ(任那復興の努力を決して怠っては
ならない)」との詔を発した。
「日本書紀」は任那に日本府があったことを伝えるが、現在「日本」という
国号は推古朝以前に遡ることはないと考えられており、少なくとも「日本府」
がなかったことは確実であるが、「やまとのみこともちのつかさ」という
日本語名称の機関に「日本府」の文字を宛てたとすれば矛盾はなくなる。
但し、日本の領国化していたのではなく、あくまで任那地域にあった群小
諸国が連合の盟主として日本を仰いだのであり、定期的な進調は別にして
国家としての独立性は高かった。後に「大宰(みこともちのつかさ)」などと
呼ばれる機関は国内にも大宰府だけでなく吉備、伊予などにも置かれていた
らしくこれらの地域の首長も同様に大和朝廷に対してもともとは比較的に
ゆるやかな同盟を結んでいたものと見られる。
(日本書紀)


[38] 天長六年(829)三月十日 2001-03-09 (Fri)

 神託により飛鳥坐神社を遷座。
 この日神託によって大和国高市郡賀美郷の甘南備(かんなび)山にあった
飛鳥社を同じ郷内の鳥形山に遷座申し上げた。
 明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の遷座の記録であり、鳥形山が
現在飛鳥坐神社の鎮座される山であるにしても甘南備山については不明。
或いは甘橿丘か。
 またどのような経緯でどんな神託があったのかも伺い知ることは出来ない。
恐らくそれらの内容も含めて正史である「日本後紀」には詳細に記録されて
いたのであろうが、残念ながら「日本後紀」は戦国時代頃に散逸してしまい
現在は僅か1/4が伝わるのみであるため、その記録も失われてしまった。
僅かに正史を抄録した「日本紀略」によってそのような事実があったことが
知られるのみである。
 延長五年(927)に完成した行政細則集の「延喜式」の当時の国家祭祀に
預かる神社を列記した部分(神名帳)には大和国高市郡の二番目に
飛鳥坐神社四座 並名神大、月次、相嘗、新嘗
と記載されており、全国の殊に霊験あらたかな神を祭る名神祭など、国家の
重要祭祀にはいずれも対象とされる神社であったことが知られる。
(日本紀略)


[37] 天平勝宝四年(752)閏三月九日 2001-03-09 (Fri)

 遣唐使に節刀を賜い、大使以下に叙位。
 この日、孝謙天皇は遣唐使の副使以上を内裏に召し、詔して節刀を賜い、
あわせて叙位を行った。
 この時の遣唐大使は藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使は大伴古麻呂
(おおとものこまろ)と吉備真備(きびのまきび)の二人。ほかに留学生
(るがくしょう)として藤原刷雄(よしお、藤原仲麻呂の子)もこの場に
いた。
 この時賜った節刀は天皇の大権の一部を委譲することを象徴するもので、
遣唐使や将軍に与えられ、軍事や外交を天皇に代わって現地で実施することを
認められていた。持節将軍や持節大使と言った場合はこの節刀を有している
ことを示す。
 この節刀を受け取った以上は即刻(家にも立ち寄らず)出発する必要が
あり、彼らは退出したその足で遣唐船の待つ難波の港に向かったものと
思われる。
 周知の通り、この時の遣唐使が最も有名な使節であり、鑑真大和上の招聘、
新羅との間の朝賀の席次争い、大使清河ともと留学生阿倍仲麻呂の遭難と
唐での客死、といった多くの逸話を残すことになる。なお、光明皇太后と
清河の出発を前にしての歌が「万葉集」に残されている。
(続日本紀)


[36] 元禄五年(1692)三月八日 2001-03-08 (Thu)

 大仏殿元禄再建成る。
 戦国時代、永禄十年(1567)に松永弾正久秀の兵火により焼失した
東大寺の大仏は大仏本体に続き漸く大仏殿の再建が成り、この日盛大な
開眼供養が行われた。導師は東大寺別当済深法親王、宮中からも勅使と
して蔵人頭(くろうどのとう)勧修寺輔長(かじゅうじすけなが)が派遣
され、舞楽が奏でられた。そしてこの日から三十日に亘り万僧供養の法要が
繰り広げられた。
 前回鎌倉時代の再建は源頼朝が全面的に協力して成ったが今回の再建は勧進
(一般からの寄付)によっている。「続史愚抄」による限り幕府の関与は
窺われず、また徳川幕府の正史「徳川実紀」にも記述がない。これらによる
限り、幕府の表だった関与はなかったらしい。
 各地の寺社復興を行った豊臣秀吉も京都大仏の建立には熱心であったが
東大寺大仏の再建は行わなかった。大仏本体の再建は早かったものの仏面は
銅板で造るという応急措置であった。現在見る大仏本体の再建は元禄三年に
公慶上人の勧進によって完成している。大仏はもとの規模がほぼ踏襲された
が、大仏殿となるともとの規模を大幅に縮小してもなおこのように百二十五年
もの長い年月を要したことになる。人々の大仏にかけた民衆の熱い想いが
なければ東大寺の大仏も今日なお鎌倉大仏のように露座のままであったかも
知れない。
(続史愚抄)


[35] 雄略六年(462)三月七日 2001-03-07 (Wed)

 養蚕奨励、少子部賜姓。
 この日雄略天皇は皇后に親しく養蚕を行わせることで天下に養蚕を奨励
しようと思われた。そこで側近の栖軽(すがる)という者に蚕(こ)を集める
ことを命じたところ、勘違いした栖軽は子供たちを集めて献上した。天皇は
笑って栖軽にその子供たちの養育を命じ、あわせて少子部(ちいさこべ)の
姓を賜った。
 少子部は本来天皇側近の童子たちを養育する氏族。その少子部氏の創氏
説話。栖軽は「日本霊異記」の冒頭の説話では雷の鳴る日、皇后と休んで
おられた雄略天皇の寝室に迷い込み、天皇から(テレ隠しに)雷を捕らえる
ことが出来るか、と問われたためかしこまって「雷神よ、天皇がお召しだ」と
呼ばわりながら御所のあった泊瀬(はせ)から軽の諸越(もろこし、畝傍山
東南)にまで走り回ったところ、豊浦寺(とゆらでら、蘇我稲目の建立した
寺、現在広厳寺)と飯岡(いいおか、不詳)の間に雷神が落ちていた。そこで
それを捕らえて天皇にお目にかけた。光り輝く雷神を見て天皇は恐れて幣帛を
捧げ、落ちていたところにお返しした。それで後にそこを電(いかづち)の
岡と呼ぶようになった。後、栖軽が亡くなった後その場所に墓を建てて「電を
捕らえた栖軽の墓」と碑を建てたところ、雷神が怒りその碑を蹴り割ったが、
裂け目に挟まれて再び捕らえられてしまった。ために天皇は「生きていた時も
死んでからも電を捕らえた栖軽の墓」と改めて碑を建てたという。
 なお、栖軽は「日本書紀」では●贏(●は虫偏に果)に作る。
(日本書紀)


[34] 推古三十六年(628)三月六日 2001-03-05 (Mon)

 推古天皇危篤、田村皇子・山背大兄皇子に遺詔。
 この年二月二十七日、発病された推古天皇は次第に病重くなられた。折しも
三月二日には皆既日食があり、人々もいよいよ、の思いを抱くうち、この日
とうとう危篤状態になられた。天皇はまず田村皇子(たむらのみこ、敏達天皇
孫、後の舒明天皇)を呼ばれ、皇位に即いて統治し、人々を養育することは
「もとより輙(たやす)く言ふものに非ず。恒(つね)に重みする所なり。
故(かれ)、汝(いまし)慎みて察(あきらか)にせよ。輙(たやす)く
言ふべからず」と遺詔を残された。
 次いで山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ、用明天皇の孫、聖徳太子の
嫡子)を呼ばれ「汝(いまし)は肝稚(きもわか)し(未熟者だ)。若(も)
し心に望むと雖(いふと)も諠言(けんげん、公言)すること勿(なか)れ。
必ず群言(まへつきみたちのこと、群臣の言葉)を待ちて従ふべし」と遺詔
された。
 そして翌七日に小墾田宮(おはりたのみや)に崩御された。宝算七十五歳。
 当時は皇位継承についての原則が固定しておらず、そのため同じ世代に
属する皇位継承権者たちの間で皇位が争われることになる。聖徳太子を始め
推古天皇の次の世代が既に亡く、一世代飛ばした形になったために自分の
亡き後の混乱を恐れた推古天皇が苦しい息の下で残した遺詔ではあったが、
結果的には諦めきれない山背大兄皇子の活動によって恐れていた混乱が
起こることになった。
(日本書紀)


[33] 敏達七年(578)三月五日 2001-03-05 (Mon)

 菟道皇女を伊勢神宮に奉仕させるも事件により罷免。
 この日菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ、敏達皇女)伊勢の
祠(まつり)に侍(はべ)らせた。しかし、池辺皇子と関係をもってしまった
ためにその任を解かれた。
 伊勢神宮の斎宮は垂仁天皇の頃の倭姫命(やまとひめのみこと)に始まる
とされるが、確実にたどれるのは天武天皇の皇女である大伯皇女(おおくの
ひめみこ)以降。しかし、ここに登場する菟道皇女などの存在は恐らくもっと
以前から(どの程度制度化されていたかは別にして)存在していたことを
示唆する。
 後の斎宮(斎王)は伊勢神宮の祭祀のために未婚の皇女(天皇の娘、または
近い血縁者)が三重県多気郡明和町にあった斎宮に小さな「皇居」を構えて
祭祀の都度伊勢神宮に奉仕した。神妻であるため一般人と関係を持つことは
許されず、そのような事実が発覚すればこの例のように罷免された。しかし
世間と隔離された彼女たちのさみしさにつけこむ男はこの後も出た。平安の
プレイボーイ在原業平(ありわらのなりひら)がそれであった。
 なお、このように「神妻」があったことなどから伊勢神宮に祀られていた
神は本来男神であったとする説もある。
(日本書紀)


[32] 養老四年(720)三月四日 2001-03-04 (Sun)

 征隼人持節将軍を任命。
 この四日前の二月二十九日、大宰府から隼人(はやひと/はやと)が反乱を
起こして大隅守陽侯麻呂(やこのまろ)を殺した、という急報が入った。この
ため、鎮圧軍が派遣されることになり、この日大伴旅人(おおとものたびと)
が征隼人持節大将軍、笠御室(かさのみむろ)、巨勢真人(こせのまひと)が
副将軍に任ぜられた。
 現在の鹿児島県は奈良時代頃以前は日向(ひむか/ひゅうが)に所属して
おり、地質の関係もあったにせよ開発がなかなか進行せず、またその地方の
住民は隼人や熊襲(くまそ)と呼ばれ、内地人とは区別されていた。しかし、
和銅六年(713)四月に大隅国が日向から分置されている。薩摩の設置は
記録に見えないが恐らくこれより少し早い頃であろう。しかし、その同じ
和銅六年の七月には討隼賊将軍たちに授勲が行われており、軍の派遣記事は
ないもののこの時の大隅設置が軍の力を背景に強行されたものであったことを
うかがわせる。
 それから七年後の今回の反乱事件は恐らくそういった現地の実状を無視した
強引な手法に対して住民たちの不満が鬱積し、ついに支配者の象徴であった
国守を殺害するという形で暴発したのであろうか。
 征討軍は六月十七日にはおおむね鎮圧に成功したらしく慰労の詔が出されて
いる。なお、この後大宰帥時代には「万葉集」巻五を中心に多くの歌を残した
大伴旅人だがこの時の軍旅での歌は知られていない。
(続日本紀)


[31] 天平九年(737)三月三日 2001-03-03 (Sat)

 国毎に釈迦仏の造像・大般若経の書写を命ず。
 この日次のような詔が出された。
「国毎に、釈迦仏の像一体、挟侍(けふじ、脇侍)の菩薩二躯を造り、兼ねて
大般若経一部を写さしめよ」
 脇侍は中心にある如来(悟りを開いたもの)像の両脇にある仏像で、釈迦
如来の場合は文殊・普賢両菩薩になる。同様に阿弥陀如来には観音・勢至、
薬師如来には日光・月光両菩薩が脇侍とおおむね一定している。
 大般若経は六百巻に及ぶ大部な経典であり、災害を除くなどの目的でこれ
以前にもことあるごとに宮中などで読経が行われている。恐らく同じ目的で
あろう。なお、有名な般若心経はこの膨大な大般若経の理念を凝縮した経典と
される。
 この詔においては寺の造営を指示したのではなく仏像と経典のみの指示で
あり、国府などに安置する意図を持ったのであろうか。
 後、天平十三年にはこの詔をもとに発展させた国分寺造営の詔が出された。
その詔にはこの時の仏像の大きさを一丈六尺(約4.8m)としており、
丈六の仏像であったことが知られる。なお、この丈六以上の身長の仏像を
大仏と言うが、座像の場合はその半分の高さとなる。
 また、この時の仏像が東大寺大仏(毘盧舎那仏)と異なって釈迦如来である
ことは後の国分寺と違って最勝王経や華厳経などの理念に基づくものではない
ことを示す。
(続日本紀)


[30] 宝亀三年(772)三月二日 2001-03-02 (Fri)

 皇后井上内親王を廃す。
 この日、井上内親王から皇后の位を奪った。井上内親王は聖武天皇の皇女で
彼女の存在があればこそ光仁天皇は皇位に即くことができたのであるが、この
日巫蠱(ぶこ)の罪に問われてその地位を追われた。さらに五月二十七日には
彼女の子、他戸(おさべ)親王も皇太子の位を奪われ、庶民とされた。ここに
天武皇統の断絶が女系でも確定してしまったことになる。
 巫蠱とはまじないを用いて他人を呪う罪であり、この日の処分は裳咋足嶋
(もくいのたるしま)という人物の自首に基づく。自首した足嶋は罪を免じて
一挙に七階級の昇叙を受けたが、否認した粟田広上(あわたのひろかみ)と
安都堅石女(あとのかたいしめ)は流罪とされた。
 この日の詔には何故か井上内親王の処遇について言及がなく、事件の背景は
今ひとつはっきりしない。ものが「まじない」に属するため目撃証言が唯一の
証拠とされたのであり、かつての長屋王の時と同様、到底事実とは考えられ
ない。
 しかし、彼女の存在によって光仁天皇の即位が実現したことを思うとき、
彼女に頭が上がらないという光仁天皇の立場が徐々に不満を鬱積させていった
可能性は少なくない。彼女と他戸親王が光仁天皇と不和であったことを示す
史料もあり、この夫婦・親子の間のすきま風を利用して陰謀があった可能性が
強い。その陰謀を巡らせたのは恐らく光仁天皇を即位させた功臣でもあった
藤原百川(ももかわ)であろう。
(続日本紀)


[29] 敏達十四年(585)三月一日 2001-03-01 (Thu)

 物部守屋・中臣勝海、仏教禁断を奏し裁可。
 これより先、欽明十三年(552)に百済(くだら)から仏教が伝えられた
時、蘇我稲目(そがのいなめ)は諸外国も崇めるから、と受容を進言、これに
対して物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ、藤原
鎌足とは同名の別人)は反対した。仏像は蘇我稲目に与えられ、稲目は向原
(むくはら)の家を桜井道場(後の豊浦寺、廃寺)として仏像を崇めた。
しかしまもなく起こった伝染病は仏像を祀ったため祟りが起きた、とする
尾輿・鎌子の主張によりその仏像は難波堀江に捨てられた。
 時は流れてこの年二月二十四日、蘇我馬子が自分の病気の原因を占った
ところ、父の時のその仏像の祟り、と出たため占いの結果を奏上し許可を
得て再び前年伝えられた仏像を礼拝した。ところが、再び伝染病が流行、
多数の死者が出た。
 ここに物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)、中臣勝海(なかとみの
かつみ)は言わんこっちゃない、とばかりこのままでは国民が死に絶えて
しまう、と仏教禁止を建言、敏達天皇も再度の伝染病の蔓延に「灼然
(いやちこ、歴然としている)なれば仏法を断(や)めよ」という詔を
出された。
 かくて仏教の受容を巡って二大豪族が激しく対立してゆく。
(日本書紀)


[28] 天武十三年(683)二月二十八日 2001-02-28 (Wed)

 畿内と信濃に使者を派遣し地形を視察させる。
 この日天武天皇は広瀬王(ひろせのおおきみ)、大伴安麻呂(おおともの
やすまろ)以下、陰陽師(おんみょうじ、後世の安部晴明のように呪術等を
専門とする者)や工匠等を畿内に派遣、都を築くべきところを視察させた。
 恐らくこれが藤原京の建設の開始であり、藤原京は天武天皇の崩御による
中断を経て持統八年(694)、夫の遺志を継いだ持統天皇により遷都された。
 またこの日、三野王(みののおおきみ)、釆女筑羅(うねめのちくら)らを
信濃(長野県)に遣わしてその地形を調べさせた。
 このことの意味については「日本書紀」編纂当時既に謎となっていたらしく、
「是の地(ところ)に都つくらむとしたまへるか」という推測が記されている。
 もしこの推測が事実とすれば畿内近国以外への初めての遷都計画という
ことになる。それにしても東国の、遙か信濃というのはどのような意図が
あったのであろうか。既に新羅(しらぎ)は唐との緊張関係が続いており、
日本を攻めるどころの騒ぎではなくなっている。近江遷都の時のような状況
ではもうないこの段階での真意はどこにあったのであろうか。
 この後、同年閏四月十一日に三野王は信濃の地図を献上している。
 信州戸隠に残る、鬼女紅葉が信濃に都を置き、朝廷の追討軍と戦った、
という伝説はこういった都を造る、という噂が残ったことから出来た話
かも知れない。
(日本書紀)


[27] 天武二年(673)二月二十七日 2001-02-27 (Tue)

 天武天皇、飛鳥浄御原宮に即位。
 壬申の乱に勝利された大海人皇子は天武元年九月十二日、倭京(やまとの
みやこ)に入京、島宮(しまのみや、もと蘇我氏の邸宅のあった地に営まれた
宮殿か)に入られ、十五日には岡本宮(斉明天皇の都のあった飛鳥板蓋宮か)
に遷られた。
 年が明けてこの日飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位され、
天武天皇となられた。
 伝飛鳥板蓋宮跡の発掘調査の結果、飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本
宮は同じ場所に営まれた可能性が高いことが判明した。上述の通り、「日本
書紀」の記述もそうであれば前年に入られた岡本宮の地に建てた宮殿を新たに
飛鳥浄御原宮と呼んだだけ、と言うことになり矛盾しない。
 天武天皇は皇后(後の持統天皇、天智天皇の皇女)との間に草壁皇子、その
姉大田皇女との間に大来皇女と大津皇子、額田王(ぬかたのおおきみ)との
間に十市皇女、そのほか長皇子、弓削皇子、舎人皇子、但馬皇女、新田部皇子、
穂積皇子、紀皇女、田形皇女、高市皇子、長壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、
託基(たき)皇女の十男七女があった。しかし大津皇子を皮切りに彼らを
襲った政変は結局天武天皇の血を引く者を事実上根絶やしにしてしまう。
(日本書紀)


[26] 正平七年(1352、北朝観応三年)二月二十六日 2001-02-25 (Sun)

 後村上天皇、賀名生を発し京都に向かう。
 この前年末、足利尊氏とその弟足利直義(ただよし)の不和から武家内部で
内訌が繰り返される中、京都では主力部隊が尊氏とともに東国方面に出払って
おり、防衛に不安を感じた足利義詮(よしあきら)は時間稼ぎのために吉野に
あった南朝に和睦を申し入れた。南朝側もその真意に気づきながら、これも
だまし討ちを目論んで和睦を受け入れ、後村上天皇はこの日賀名生(あのう)を
出て河内東条(大阪府富田林市)を経て翌日住吉大社に入られた。更に閏二月
十五日天王寺、十九日には石清水八幡宮に到着された。ここで二十二日から
南朝側は京都への総攻撃を開始、激戦の末遂に京都は南朝の手に落ちた。
 京都を制圧した南朝は北朝側の奉じていた三種神器をこれは偽物、と宣言し
没収し、また北朝の三人の上皇(光厳上皇、光明上皇、南朝に退位させられた
崇光天皇)と皇太子直仁親王を拉致、賀名生(あのう)に幽閉した。
 結局一時的には京都を回復したのだが尊氏が直義を毒殺して戻ってくると
忽ち南朝は再び京都を追われた。しかし、尊氏にとっても深刻な問題となった
のは主要皇族がすべて南朝に囚われの身であったため、北朝そのものが消滅
した形となっていたことであった。無理に無理を重ねて三種神器の入っていた
箱に中身があるものとみなし、後伏見天皇の中宮であった広義門院に上皇の
代行をさせてやっと見つけた光厳天皇の末子弥仁王(いやひとおう)を即位
させる(後光厳天皇)ことで何とか形を保つことに腐心する。
(太平記巻二十九・羽林八座と南朝御合体の事)


[25] 天武十年(681)二月二十五日 2001-02-25 (Sun)

 律令撰定の詔。草壁皇子立太子。
 この日天武天皇は皇后(後の持統天皇)と共に飛鳥浄御原宮の大極殿にあって
律令を定めて法式を改めることを告げた。但し、これに今全力を尽くした場合は
日常業務がおろそかになるから、という理由で日常業務を行うものと律令の
撰定に当たるものとを分けてそれぞれで分担させることとした。
 またこの日草壁皇子を皇太子とし、国政に当たらせた。
 これが後、持統三年(689)六月二十九日に完成する飛鳥浄御原令を撰定
することを告げた詔である。しかし、律令の内、刑法に当たる律は完成の
記録がなく、恐らく未完成のまま終わったものと思われる。
 同じ日に草壁皇子が皇太子になって国政に当たるようになった、というのは
恐らく律令と国政の分担に伴って天武天皇自身が律令の撰定に関与しようとした
ことを示すものかも知れない。しかし、現実には天武天皇の親政はその後も
続く。これは或いは草壁皇子の力量が天武天皇にとっては満足のいくものでは
なかったからかも知れない。結局その後十二年二月一日になって大津皇子も
国政に参画させており、天武天皇自身はこの段階では草壁皇子の実力にもう
見切りをつけていた可能性も高い。それが大津皇子を後継とする意図であった
のか、大津皇子に今後も草壁皇子の補佐を期待したのかは不明であるが、
結果的にはこの措置が期待された大津皇子に破滅をもたらすこととなった。
(日本書紀)


[24] 天平十六年(746)二月二十四日 2001-02-25 (Sun)

 聖武天皇、紫香楽宮行幸。元正上皇らは難波にとどまる。
 都は恭仁か、難波か、平城か、という騒動は諸司を難波に移したことにより
漸く決着したかに見えた。
 ところが、ここから聖武天皇がまた不思議な行動を取られる。難波宮に
落ち着かれることなく十日、和泉宮(いずみのみや、泉佐野市日根野付近に
あったと見られる離宮)に行幸され、十二日に戻られると二十二日に今度は
安曇江(あずみのえ、大阪市北区?)に行幸され、さらにこの日難波宮を
後にして紫香楽宮に行幸されてしまう。しかもこの間必死に難波を新たに
都として定めようと数々の施策を行っていた政権首班の左大臣橘諸兄はこの
行幸に従わず、元正上皇を奉じて難波に残り、二十六日には元正上皇の勅を
発して難波を都とする、と宣言する。
 この後聖武天皇は独自に紫香楽にあって大仏建立に邁進し、政府そのものは
難波にあって国政を行う、という変則的な状態がこの年十一月十七日になって
元正上皇が紫香楽宮に入られ聖武天皇と合流されるまで九ヶ月も続く。
 どのような理由があったのかはわからないが、或いはこの前、閏一月十三日、
十七歳になられたわが子安積親王(あさかのみこ)を失われた悲嘆の余り
遁世して仏門に帰依したい、というような心境になられていたのであろうか。
(続日本紀)


[23] 宝亀元年(神護景雲四年、770)二月二十三日 2001-02-25 (Sun)

 西大寺東塔心礎を破却。
 称徳天皇は東大寺に匹敵する大寺として西大寺の造営を行った。そして
そこには東大寺にあった四角七重塔をしのぐほど立派なものを、と言うことで
あろう、八角七重塔を東西に建立しようとし、その中心となる心柱の礎石を
東大寺の東の飯盛山から運んできた。しかし、その運搬は困難を極め、一日に
数歩しか進まず、また時には不気味な音を発したりした。人夫を増員して漸く
運び、整形して基壇に据えたが、巫女たちがこの石には祟(たた)りがある、
と騒ぎ、とうとう柴を積んで焼き、さらに三十余石の酒を注いで割り、粉々に
して道に捨てたのであった。しかしその後も称徳天皇の不予(ご病気)の際、
原因を占ったところこの石の祟り、ということになり、あわてて石の破片を
拾い集めて西大寺の東南の隅に安置し、人馬に踏まれないようにした。
 この二年後の宝亀三年四月二十八日には西大寺西塔に落雷があり、その
原因は占いにより近江の小野神社(滋賀県志賀町)のご神木を切って用材と
したために祟りがあった、ということが判明している。恐らく造営を急ぐ余り
礎石も用材も信仰の対象であったものまで手を付けたのであろう。称徳天皇の
焦りが伝わって来るかのようである。
 しかし焦れば焦るほど造営は遅れ、結局この塔は称徳天皇の崩御もあってか
計画を縮小、通常の五重塔として完成することになる。
(続日本紀)


[22] 推古三十年(622、法興三十二年)二月二十二日 2001-02-25 (Sun)

 聖徳太子薨ず。
 この前年十二月に母穴穂部間人女王(あなほべのはしひとひめみこ)を
亡くされた聖徳太子はこの年正月二十二日に重病になられた。その妻の一人
膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)もまたご病気になられて
共に床についておられた。このため、お二人は釈迦如来の仏像を造営し奉る
のでその功徳によって病気を平癒させるか、もしこれが定められた寿命であれば
浄土に迎えていただくよう、と誓願を立てられた。
 しかし二月二十一日に菩岐々美郎女が亡くなり、翌日のこの日、太子もまた
薨じられた。
 先の誓願によって翌推古三十一年三月に釈迦如来と脇侍の三尊像が造像され、
法隆寺に安置された。これが現在にまで伝わる法隆寺金堂の釈迦三尊像だと
いう。
 太子の死後、人々の泣き悲しむ声は行路に満ちた、という。また太子の師で
ある高句麗(こうくり)の慧慈(えじ)法師は既に帰国していたが太子の死を
伝え聞いて嘆き悲しみ、明年の同月同日に死んで太子にお目にかかりたい、と
願を掛け、その通りにちょうど一年後に亡くなったという。
 なお、「法興」は恐らく法興寺(飛鳥寺)建立を記念しての私年号。
 また、「日本書紀」は太子は推古二十九年二月五日に薨じられた、とする。
(上宮聖徳法王帝説)


[21] 天平十六年(746)二月二十一日 2001-02-25 (Sun)

 恭仁京人民の難波移住を許す。
 都を恭仁京にするか、難波京にするか、それとも平城京に戻るか。この年
閏正月一日に官僚たちに、四日には恭仁京の市で庶民たちに意見を問い、
多数意見である恭仁京をそのまま都とするのかと思われたが、結局その
僅か七日後の閏正月十一日に聖武天皇は恭仁宮を出て難波宮に入られた。
 さらに二月一日には恭仁京にあった駅鈴や天皇印・太政官印を難波に運ばせ、
また官僚たちを難波に移動させた。この時点で恭仁京は都としての機能を失い、
そのまま難波京が都の機能をもつようになる。
 そしてこの日、恭仁京に住む人々に対し、希望があれば難波京に移住しても
よい、と布告された。当時は都に住むには許可が必要であり、誰でも自由に
転入できるわけではなかったため、これは旧都の住民の救済策でもあった。
 この後二十六日には難波宮を皇都とすることが宣言され、漸く決着するかに
見えた遷都問題であったが、この三日後の二十四日からの聖武天皇の行動に
よって遷都問題はますます混迷の度を深めていくことになる。
(続日本紀)


[20] 己未年(紀元前662)二月二十日 2001-02-25 (Sun)

 神武天皇、大和を平定。
 甲寅年(前667)十月、日向から東征の途につかれた神武天皇は翌年三月、
吉備で戦備を整えられ、戊午(前663)、いよいよ大和を目指し河内から
胆駒(いこま)を越えようとするがここで長髄彦(ながすねひこ)に遮られて
二人の兄を失って敗退、方向を変えてはるか熊野から吉野を経て長駆大和に
向かい、途中で兄猾(えうかし)や八十梟帥(やそたける)、兄磯城(えしき)
などを倒していよいよ長髄彦との決戦に臨み、金鵄の助けを得てこれを破った。
長髄彦の主である櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)は長髄彦を
殺して帰順した。
 翌年のこの日、大和にあってなお帰順しない土豪の新城戸畔(にいきとべ)、
居勢祝(こせのはふり)、猪祝(いのはふり)、さらには土蜘蛛(つちぐも)
などを滅ぼし、ここに漸く神武天皇による大和の平定が完成した。
 三月には八紘一宇の命令を発して橿原宮を造営し、辛酉年(前660)の
一月一日に橿原宮で即位され、神武天皇となられた。この一月一日が現在の
暦に換算して二月十一日に相当するため、これを紀元節(建国記念の日)と
定められたのであるが、ここでも大和平定から即位まで二年の間隔があり、
当時の暦はやはり半年を一年とするものであったのかも知れない。
(日本書紀)


[19] 天武四年(675)二月十九日 2001-02-25 (Sun)

 諸悪莫作の詔。
 この日天武天皇は次のような詔を出された。
「群臣・百寮と天下の百姓(おおみたから)、諸の悪しきことを作(な)す
ことなかれ。若し犯すことあらば、事の随(まにま)に罪せむ」
 ここに見える「諸悪莫作」は仏典に見える言葉で「衆善奉行、諸悪莫作、
自浄其意、是諸仏教(よいことをしなさい、悪いことをしてはならない、
心を清らかにたもちなさい、これこそがもろもろの仏の教えです)」という
句として今日でも仏殿などによく掲げられている。昔仏教の奥義を問われた
高僧がこの句を答え、「そんなことは子供でも知っている」と言われたのに
対して「しかし経験豊富な老人でも実践は難しい」と答えたという。
 この日ことさらにこのような綱紀粛正の詔が出されたのには恐らくその
四日前の二月十五日に出された別の詔と関係しよう。即ち、その詔で天智三年
(664)に大化改新の基本方針であった公地公民の制度をくつがえしてまで
諸氏に与えられた部曲(かきべ、私有民)や領地を再び廃止させたのである。
天智天皇によって否定された改新政治は天武天皇によって再開されたので
ある。これによって諸氏に起こった動揺を鎮めるためにこの日の詔が出された
のではなかろうか。
(日本書紀)


[18] 天徳五年(961)二月十八日 2001-02-25 (Sun)

 東大寺戒壇和上明祐、往生する。
 東大寺で戒壇での受戒の儀を執行する高僧明祐(みょうゆう)は一生の間
戒律を破ることなく、毎夜仏堂に参籠して宿坊に帰ることない生活を続けて
いたため、人々の尊敬を集めていた。
 この年二月、彼は体調が優れずまた食ものどを通らないため、もう寿命が
来た、とは思いながら、折しも東大寺は恒例の仏事である修二会(しゅにえ)、
つまりお水取りの真っ最中であった。これが終わるまでは死ぬわけには
いかない、と気力を振り絞って勤め上げた。
 そしてお水取りも終わった二月十七日の夕方、弟子たちが彼のために阿弥陀
経を読経したところ、明祐はもう一度読経するように命じ、自分には今音楽が
聞こえる、と告げた。弟子たちが音楽などどこにも聞こえない、何をおっしゃる
のですか、と言うと、彼はわしは気は確かだ、間違いなく音楽の音が聞こえる、
と伝えた。弟子たちは不思議に思っていたが、翌十八日、明祐は意識もはっきり
したまま念仏を唱えて亡くなった。
 当時は阿弥陀如来が西方極楽浄土から迎えに来るとき、微妙(ありがたい)な
音楽が流れる、と信じられており、このように死に臨んで音楽が聞こえた、と
いうのは阿弥陀仏に迎えられて極楽浄土に往生したものと信じられた。
(今昔物語集 巻十五・三)


[17] 天応元年(781)二月十七日 2001-02-25 (Sun)

 能登内親王薨ず。
 能登内親王(のとのひめみこ)は光仁天皇の長女。享年四十九歳。
 光仁天皇はこの日娘に先立たれた悲しみを彼女への詔に託された。
「この月頃の間、身労(みつから)すと聞(きこ)しめして、いつしか病止
(やまひや)みて参入(まゐい)りて、朕(わ)が心も慰めまさむと、今日か
あらむ明日かあらむと念(おもほ)しめしつつ待たひ賜ふ間に、あからめさす
事(一瞬の出来事)の如く、およづれかも(虚報ではないのか)年高くもなり
たる朕(われ)を置きて罷(まか)りましぬ(亡くなった)と聞こしめして
なも、驚き賜ひ悔しび大坐(おほま)します。如此(かく)あらむと知ら
ませば、心置きても談(かたら)ひ賜ひ、相見てまし(会いたかった)ものを、
悔しかも哀(かな)しかも、云(い)はむすべ知らにもしあるかも(言うべき
言葉もない)。朕(われ)は汝(みまし)の志をば暫(しまら)くの間(ま)も
忘れ得(う)ましじみなも(あなたのことを片時も忘れることができずに)
悲しび賜ひ、しのび賜ひ大御泣(おほみね)哭(な)かすとて大坐(おほま)し
ます(悲しみ偲んで泣き暮らしています)。(中略)罷(まか)りまさむ道は
平(たひら)けく幸(さき)くつつむ(支障ある)事無く、うしろも軽く
安(やすら)けく通らせ(後のことは心配せずどうか心安らかにあの世へと
旅立って下さい)」
 子を思う親心、そして子に先立たれた悲しみがひしひしと伝わってくるこの
詔。すっかり気落ちされた光仁天皇が「余命幾(いくばく)もあらず」と
桓武天皇に譲位されるのは一月半の後、四月三日のことであった。
(続日本紀)


[16] 天平宝字三年(759)二月十六日 2001-02-25 (Sun)

 渤海使、迎入唐大使使を伴い帰国。
 この前年九月十八日に渤海から帰国する遣渤海使の小野田守(おののたもり)
とともに来日した楊承慶(ようしょうけい)以下の渤海遣日本使一行はこの年
正月に淳仁天皇のもとでの朝賀の儀式に参列した後、二月一日には国王に対する
国書を賜った。
 折しも日本にとっては帰国できずに唐に留まっている藤原清河をどうするか、
ということが懸案になっていた。そこへやって来た唐とも関係良好な友好国の
渤海の使節だが、彼らは先述の通り遣渤海使の帰国に便乗して来たため、船を
持っていなかった。そのため、彼らを帰国させる船と、送使をはじめ船員たちを
派遣することになったのでその送使にそのまま渤海経由で唐に赴かせ、清河等を
迎えさせよう、と言うことになり、国書の中で特に仲介の労を取ってもらえる
よう要請が行われた。
 こうして任命された迎入唐大使使(げいにっとうたいしし)高元度は渤海の
使節団と共にこの日出発した。
 結局この時の使節は渤海側が唐王朝が内乱の渦中にあることから大使以下の
一部のみを唐に送り、元度は無事唐に達して清河らの帰国を要請、内乱が鎮圧
された段階ですぐ帰国させる、という約束を得て無事帰国した。しかし、遂に
この約束は果たされることがなかった。
(続日本紀)


[15] 白雉元年(650)二月十五日 2001-02-25 (Sun)

 白雉改元。
 この年二月九日、穴戸(あなと、後の長門、山口県北部)国司草壁醜経
(くさかべのしこふ)が白い雉を捕らえた、として孝徳天皇に献上した。
孝徳天皇はこのことの意味を百済君豊璋(くだらのきみほうしょう、後の
再興百済王、当時百済の人質として日本にいた)や僧みん(「みん」は「日」
の下に「文」)らに問うたところ、一様に中国の故事からこれは大変めでたい
印である、と答えた。
 これをもとにこの日元日の儀式のような盛大な儀仗を整え、左大臣巨勢
徳陀古(こせのとこだこ)、右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)以下の
百官が四列に整列する前をこの白雉を乗せた輿を宮門の中に入れ、続いて
左右大臣、百済君豊璋など百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)の
人々に至るまで朝堂に参入、天皇と皇太子(中大兄皇子)にこの白雉をご覧
いただいた。百官を代表した巨勢徳陀古の慶賀の言葉に応え、天皇はこの
瑞祥現象を記念して大化六年を改めて白雉(はくち)元年と改元することを
告げ、また穴戸の住民の調(税)・労役を三年間免除した。
 日本最初の公的年号である大化に続く二番目の元号「白雉」はこうして
白雉が出た、という瑞祥現象を記念して制定された。こういった現象を
記念しての改元は奈良時代を中心にこれ以降もよく見られるようになる。
ただ、元号そのものはこの孝徳天皇の崩御によって白雉以降、天武天皇の
朱鳥(あかみとり/しゅちょう)まで暫く途絶えることになる。
(日本書紀)


[14] 建久六年(1195)二月十四日 2001-02-25 (Sun)

 源頼朝、東大寺大仏殿の落成式典参列のため鎌倉を発す。
 平家の焼き討ちによって全焼した東大寺の大仏も大仏本体に続いて大仏殿も
再建成り、いよいよこの年三月に落成の式典が行われることになった。これに
全面的に協力した源頼朝は落成式典に出席するためこの日妻北条政子やその
子供たちを伴って鎌倉を出発した。
 行列の先頭に立ったのは鎌倉武士の鑑とも言われる畠山重忠であり、そのほか
和田義盛、三浦義澄(みうらよしずみ)、下河辺行平(しもかわべゆきひら)、
梶原景時、佐々木定綱、北条義時、武田信光、比企能員(ひきよしかず)、
中原(大江)広元、小山朝政といった錚々たる面々が付き従い、京都に対する
示威行動の意味もあったであろう。
 一行は三月四日には勢多橋を渡って京都に入り、石清水八幡宮参拝の後
十日に奈良に到着、東大寺東南院に入った。十一日には千匹の馬、米一万石、
黄金一千両、上絹一千疋を東大寺に奉納、その絶大な財力を見せつけて翌日の
式典に臨むことになる。
(吾妻鏡)


[13] 延暦十六年(797)二月十三日 2001-02-25 (Sun)

 続日本紀成る。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」は文武天皇即位(697)から桓武天皇の
延暦十年(791)までの歴史を記述した正史。
 複雑な過程を経て成立したその最初は淳仁天皇の頃、「日本書紀」を継いで
文武元年から天平宝字元年(757)までの六十一年間の歴史書として石川
名足(いしかわのなたり)、淡海三船(おうみのみふね)らによって進められた
編集は当時の政界を牛耳っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)が事実上監修して
いたものであろう。しかし、これは完成を目前にして恵美押勝の乱により頓挫、
三十巻の草稿のまま残されることとなる。但し、その最後の部分、天平宝字
元年には橘奈良麻呂の乱があった。藤原仲麻呂の主張のみを一方的に採用
した記述は破棄され、そのためこの原「続日本紀」は最後の一年分を欠くもの
となってしまった。
 そして光仁朝頃に今度は菅野真道(すがののまみち)、秋篠安人(あきしのの
やすひと)らによって修史が再開された。今度は天平宝字二年以降宝亀八年
(777)までの歴史が叙述され、さらに桓武朝に延暦十年までの部分が
追加され二十巻にされると共に、先の草稿を2/3に抄録、天平宝字元年の
記事を新規に加えて二十巻とし、合計四十巻の歴史書としてこの日完成した。
 今日奈良時代の詳細な歴史が知られるのもこの先人の偉大なる遺産の賜で
ある。本連載のような記述も「続日本紀」なしには到底できるものではない。
(日本後紀)


[12] 天平元年(神亀六年、729)二月十二日 2001-02-25 (Sun)

 長屋王の変、長屋王に自尽させる。
 この二日前の二月十日、漆部君足(ぬりべのきみたり)、中臣宮処東人
(なかとみのみやこのあずまひと)らが「左大臣長屋王が私(ひそ)かに
左道(さどう、邪法)を学びて国家を傾けむと欲す」という密告を行った。
これにより直ちに関所を閉じて厳戒態勢を布き、藤原宇合(うまかい)らに
兵を率いて長屋王邸を囲ませた。そして翌日、舎人(とねり)親王・新田部
(にいたべ)親王らを長屋王の邸に遣わし、その罪を窮問させた。そうして
この日、長屋王に自殺を強いた。妻吉備内親王(きびのひめみこ)をはじめ
その子膳夫王(かしわでのみこ)、桑田王、葛木王、鉤取(かぎとり)王ら
も王の後を追って自ら首をくくり、また彼に仕えていた人々まで拘束された。
 権勢を誇っていた長屋王のあっけない最後である。理由とされたのは左道、
即ちまじないなどの邪法であり、例えば道教の関係の書物などがあっただけ
でも簡単に理由とすることが出来る。現実に天平十年七月、密告者の一人
東人が大伴子虫(おおとものこむし)に斬殺された記事の中で正史である
「続日本紀」さえもがこの事件を誣告(ぶこく、冤罪)であったと記して
いる。
 長屋王は高市皇子の子であり、厳しい人物であったらしい。そのため
光明子を皇后に、と企む藤原氏にとっては確実に立后に反対するであろう
「邪魔」な存在であり、また有力な皇位継承の候補者ですらあったらしい。
この前年末、皇太子基王(もといのみこ)を生まれて一年足らずで失って
悲嘆にくれる聖武天皇は簡単に陰謀に乗せられてしまったのであった。
(続日本紀)


[11] 持統六年(692)二月十一日 2001-02-25 (Sun)

 持統天皇、伊勢行幸を発表、諸臣に準備を命ず。
 この日、持統天皇は諸官に詔し、三月三日から伊勢に行幸するのでその
ための衣服を用意するように、と告げた。
 しかしこれは思わぬ波紋を呼んだ。十九日になって中納言三輪高市麻呂
(みわのたけちまろ)が上表、この時期の行幸は農耕の妨げになるから、
と再考を促した。しかしそれでも準備は進められ、三月三日には行幸中の
都を守る留守官が任ぜられる。ここに高市麻呂は「その冠位を脱(ぬ)き」
即ちその職を賭して重ねて行幸を諫止した。けれど持統天皇は結局これを
無視、三月六日から伊勢行幸を強行された。そして高市麻呂の名はこの後
十年後の大宝二年(702)まで正史から消える。
 民を思う高市麻呂の誠意は踏みにじられた形とはなったが、この事件は
人々に強烈な印象を残したらしい。「日本書紀」自体がこの事件を詳細に
記録したばかりか、「万葉集」でも「日本書紀」のこの箇所が内容的には
関係が薄いにもかかわらず引用され、平安初期に成立した最古の説話集で
ある「日本霊異記」でも激賞され、伝説に尾鰭が付いた挙げ句、平安末期に
成立した「今昔物語集」では彼の諫言によって行幸が中止されたことに
さえなっている。
 報いられなかった誠意の人に対する人々の視線はこの上なく暖かい。
(日本書紀)


[10] 延暦二十四年(805)二月十日 2001-02-25 (Sun)

 石上の器仗を石上に戻す。
 石上(いそのかみ)神宮は軍事氏族である物部(後に石上と改姓)氏の
祀る神であり、朝廷の武器庫であった。都が大和を離れて平安京になり、
離れているのは不便、との理由でこれらは山城国葛野郡に遷された。しかし
その後鏑矢のような音が響いたり、新しく神宝を収めた蔵が倒壊したりし、
さらに新しい蔵に遷したところ今度は桓武天皇が不予(ご病気)となられた。
また平城旧京に住む巫女に神託が降り、代々尊崇されてきたのに今になって
神宝を遷されたのは不当であるから神罰として病を与えた、ということを
告げた。
 桓武天皇にとっては謀殺した弟早良親王や井上皇后の怨霊に加え、更に
神罰、と言うことで恐れおののいてこの日勅使を派遣、これら神宝を石上
神宮に返却することとなった。
(日本後紀)


[9] 天智三年(664)二月九日 2001-02-25 (Sun)

 官位二十六階、氏上のことなど制定。
 推古十一年(604)、聖徳太子によって定められた冠位十二階はその後
大化三年(649)・大化五年の改訂を経て十九階の冠位となった。この日
天智天皇は大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)に命じてこれを
さらに改訂させ、二十六階とした。その内訳は織・縫・紫の冠位にそれぞれ
大・小があり、その下に錦・山・乙それぞれにも大・小があり、さらにそれが
上・中・下にわかれていた。最も下には大建・小建があり、最上位の大織冠
(中臣鎌足が与えられた)から最下位の小建まで二十六階である。これは
さらに天武十四年(685)の浄御原令を経て、大宝元年(701)の大宝
令により正・従一位から三位、正四位上から従八位下、大・少初位上・下、
という単純なものになって以降固定した。
 またこの日あわせて氏上(うじのかみ)の制度を定めた。これは大化前代は
大和朝廷はあくまで豪族連合であり、基本的には各豪族の代表が出仕した
ものであったが、新制度の下でこれが崩れ、そのためにその氏族の代表者を
申告するか、朝廷が認定するものとしたもの。あわせて民部(かきべ)、家部
(やかべ)をも制定したが、これらはそのまま受け取れば私有民の認定であり
大化改新の理念に反する。或いは大化改新を主導したとされる天智天皇は
実際には孝徳天皇の政策否定の結果、改新政治の破壊者となっていたの
かも知れない。
(日本書紀)


[8] 天平元年(神亀六年、729)二月八日 2001-02-25 (Sun)

 元興寺に大法会。
 この日聖武天皇は元興寺に大規模な法要を行い、太政大臣(実際は左大臣)
長屋親王に命じて僧侶の接待をさせた。その時に一人の僧が厨房に入ってきて
鉢を差し出し、食事を乞うた。これを見た親王は象牙で出来た笏でその僧の
頭を打った。僧は頭から血を流し、恨めしげに泣きながら去り、そのまま
行方がわからなくなった。その様子を見た人々は不吉なことだ、とささやき
あったが、果たしてその二日後に親王は讒言にあって兵に囲まれ、遂に自殺
したのであった。
 これは「日本霊異記」の伝える説話であり、どこまで史実なのかはわから
ない。実際には長屋王は仏教を非常に尊び、その噂は海外にまで聞こえており
後年鑑真が来日を決意するときも長屋王という大変熱心な仏教徒がいる、と
聞いたことを理由としている。
 しかし、その一方で彼は厳格な人であったようなのでもし正規の僧侶でない
私度僧(納税などを逃れるため勝手に僧になった者)がこのような公式の
場所に現れたのを見た場合、こういったことを行った可能性は高い。
 もう一つ、この説話では彼の名前を「長屋親王」と伝えており、実際にも
長屋王邸跡から発掘された木簡の中に「長屋親王」と記されたものが発見
されている。実際に彼は「親王」とされ、皇位継承の有力候補者であったため
「消された」可能性は充分に考えられる。
(日本霊異記 中巻・一)


[7] 養老二年(718)二月七日 2001-02-25 (Sun)

 美濃の醴泉に行幸。
 美濃の醴泉(れいせん)とは岐阜県の養老の滝と考えられる。この前年九月、
美濃に行幸された元正天皇は二十日に多度山の美泉に行かれ、手や顔を洗った
ところ皮膚がなめらかになり、また痛いところを洗うと癒え、おつきの人々も
この水を飲んですこぶる効験があった。そのため、十一月十七日にはこれを
記念して「養老」の改元が行われた。この日は前年に続き二回目の養老行幸。
 なお、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」巻八・孝行恩愛の部には美濃に住む
貧しい男が老父を山の木草を取って売ったお金で養っていたが、この父が
たいそうな酒好きであったためいつも腰に瓢箪をつけ、酒屋へ行っては酒を
乞うて父に与えていた。ある日苔深い石に滑って転んだところ、酒の匂いが
するのであたりを見ると石の中から水が流れており、その色が酒に似ていたので
くんで嘗めてみると美酒であったため、それ以降は毎日これをくんで父に与えて
いた。それを聞いた元正天皇が行幸され、親孝行が天に通じてこのような奇跡が
起きたのだ、と男を美濃守に任じ、酒の出るところを養老の滝と名づけた、という
話が記載されている。
(続日本紀)


[6] 宝亀四年(773)二月六日 2001-02-25 (Sun)

 下野の正倉火災。
 この日下野国(しもつけののくに、栃木県)の正倉に火事があり、正倉
十四棟、米と糒(ほしいい)の合計二万三千四百余石が焼けた。当時の一石は
およそ現在の四斗であり、九千三百六十石が失われたことになる。
 これは神火と称され、特に奈良時代後期と平安時代初期に頻繁に発生した。
神火と言われるのはこれらが本来火の気が無く、また火災予防の配慮をして
建築されていた(はず)の国衙・郡衙の正倉に突然火災が発生したことを
何らかの神罰のため、と考えられたためである。
 しかし実際にはそのほとんどが放火であったと見られる。これは郡司などの
地位を巡る争いから現在の郡司を陥れようとするものであったり、あるいは
官物を着服していることが後任者との引き継ぎで発覚することを恐れて証拠
隠滅を図ったものであったりしたようである。
 当初は何かの祟(たた)りなどではないかと考えて近辺の神社で祭祀を
行ったりした当時の政府もじきにこれがそういった人災であることに気づき、
厳罰などの対策を講じたりしたが、これらの「神火」が発生したのが東国に
集中していることは蝦夷(えみし)との戦いなどによる東国の民衆の負担
増大とその結果としての社会不安が原因にあるのであろう。
 いずれにせよ、楽ではない中から納めた税のお米が灰になったことを知った
人々はどう思ったことであろうか。
(続日本紀)


[5] 天平十四年(742)二月五日 2001-02-25 (Sun)

 新羅使を大宰府で饗応。恭仁宮東北の道を開き近江甲賀郡に通じさせる。
 遷都したばかりの恭仁宮はまだまだ未完成であった。せっかくやって来た
新羅(しらぎ)の使者であったが、未完成の宮殿で迎えるわけにはいかない、
ということで結局都には招かず、大宰府で饗応させることとなった。
 またこの日近江の甲賀郡に達するように恭仁京の東北の道を開いた。近江の
甲賀郡にはやがて紫香楽宮・甲賀寺が造営される地であり、この日道を開いた、
ということは恭仁宮が未完成のまま紫香楽宮の造営に着手されたということを
意味するものかも知れない。この年八月十一日には紫香楽村行幸が発表され、
その日から離宮の造営が行われた。そして二十七日には紫香楽宮行幸、という
ことなのでこの日の道の開通記事はやがて来る紫香楽での大仏建立や遷都への
序曲、と言うことになる。
(続日本紀)


[4] 神亀元年(724)二月四日 2001-02-25 (Sun)

 元正天皇、聖武天皇に譲位。神亀改元。
 文武天皇の遺児である首(おびと)親王の成長を待つための「つなぎ」と
して皇位に即かれた元明天皇と元正天皇であったが、親王がもう二十四歳にも
なられたため、そろそろ、と思われたのか、この日譲位された。聖武天皇で
ある。天智天皇の定められた「不改常典」を根拠にされたのであるが、この
謎の法はその後も奈良時代の政治動向を左右するものとなった。その内容は
恐らく嫡子による皇位継承を定めるものであろう。また先の文武天皇や今度の
聖武天皇の擁立に藤原不比等(ふじわらのふひと)が深く関与していたことが
「国家珍宝帳」に見える黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのたち)の由来に
より窺える。即ち、この太刀(実物は現存しない)は草壁皇子から不比等に
託され、不比等から文武天皇に献上、さらに文武天皇は再び不比等に託し、
そして今度は聖武天皇に献上されたのであり、正しく「三種の神器」と同じ
ような扱いを受けている。藤原不比等の異例の栄進も結局はこのように
キングメーカーとして皇位に関与したためであり、その手法はその後も代々
藤原氏に受け継がれていく。
 この日、あわせて養老八年を改めて神亀元年と改元された。
(続日本紀)


[3] 養老三年(719)二月三日 2001-02-25 (Sun)

 右襟と把笏を命じる。
 現在では着物を「左前」に着ることは不吉とされるが、上代においては
これが普通であった。これは恐らく左を上位とする日本古来の伝統によるもので
あろう。
 この日、天下の民衆にすべて右襟を用いることが命じられ、また主要な官僚に
笏(しゃく、神職や雛人形が持つ細長い板)を持つことが命じられた。
 これは、この前年十月二十日、多治比県守(たじひのあがたもり)以下の
遣唐使が帰国しており、恐らく彼らが唐においてその左襟の風俗を未開人、と
笑われ、また唐の百官がすべて笏を持っていたことを報告したため、当時の
国際儀礼であった唐の風俗にならったものであろう。
 この後もしばらくの間左襟は残ったようであるが、やがて消滅してしまい、
今日にまで至ることになる。
(続日本紀)


[2] 天平勝宝元年(天平二十一年、749)二月二日 2001-02-25 (Sun)

 大僧正行基、遷化する。
 行基は和泉国大鳥郡(堺市付近)の出身で俗姓は高志氏で薬師寺の僧で
あった。天武十一年(682)出家したが国家の管理下にあった当時の
仏教に飽きたらず、寺に安住することなく各地に遊行し、民衆の教化を
行った。彼を慕って付き従う僧俗は千人にものぼり、そのため当初は政府の
弾圧を受けた。しかしそれでも行基はその姿勢を改めることなく、各地に
橋を架け、堤防を築いた。人々を導いて事業を成し遂げるその姿が国民全部の
力を結集して建立しようとしている大仏造営の事業と重なることに気づいた
聖武天皇は彼と和解、天平十七年(745)には僧としての最高位である
大僧正の位を授けた。彼も大仏建立の意義を理解し、弟子たちを率いて
全面的に協力するに至った。
 人々から行基菩薩として慕われた彼が建立した寺院は畿内だけでも四十九に
達した。しかし、大仏の開眼を見ることなくこの日菅原寺で遷化された。
 享年は墓誌によれば八十二。
(続日本紀)


[1] 推古十年(602)二月一日 2001-02-25 (Sun)

 来米皇子以下の新羅征討軍を派遣。
 これより先、推古八年二月に新羅(しらぎ)と任那(みまな)が戦った。
任那諸国はすでに実態としては新羅の範疇に併呑されていたが、ここでは
新羅に対して反乱を起こしたのかも知れない。いずれにせよ、日本は直ちに
新羅征討軍を派遣、新羅の五城を抜いた。新羅王はこれら五城を割譲し
降伏、長く日本に臣従・朝貢することを約した。しかし、日本が兵を引いた
途端に再び任那に出兵した。
 恐らくこれによって新羅を徹底的にたたく必要を感じたものであろう。
翌九年三月五日、大伴囓(おおとものくい)を高句麗(こうくり)に、坂本
糠手(さかもとのぬかで)を百済(くだら)に派遣し、任那救援を命じた。
これは高句麗・百済・日本が同盟して新羅に当たることを約したものと
考えられる。
 この日、来米皇子(くめのみこ、聖徳太子の弟)を大将軍に任じ、諸豪族の
連合軍、二万五千の大軍を渡海させようとした。正しく乾坤一擲の勝負に
よって半島の主導権を握ろうとしたと思われる。
 来米皇子は四月一日には九州に達し、渡海の準備を整えた。六月三日に
大伴囓、坂本糠手が帰国、いよいよ出陣、という時、来米皇子が病に臥し、
渡海できないまま翌年二月四日に薨じた。後任とされた当麻皇子(たぎまの
みこ)も妻の死により渡海せず、結局征討計画そのものが頓挫する間に、
存亡の危機に立った新羅の画策などから隋・唐の介入を経て朝鮮半島は
新羅によって統一されることになって行く。
(日本書紀)