[1276] 文治二年(1186)閏七月二十九日 2004-07-28 (Wed)

 静、男児を出産。
 吉野山で源義経と別れた愛妾静はその後捕らえられ、その母磯禅尼(いその
ぜんに)とともに鎌倉の源頼朝のもとに送られて義経の行方について尋問され
た。結局別れた後の義経の行動は彼女が知る由もなく尋問されても成果はなか
った。しかし、尋問後も彼女が妊娠していたことがわかったために京には帰し
てもらえず、そのまま鎌倉の安達清経(あだちきよつね、頼朝の近臣)の家に
抑留されていた。頼朝によると「生まれてくる子の父親は関東(鎌倉幕府)に
背いて反乱を企てた上で逐電した男だ。もし生まれた子が女子であれば母親に
返してやれ。だが男子であれば今は赤子であっても将来何をするかわかったも
のではない。そうならないうちにさっさと殺してしまうに越したことはない」
ということであった。
 しかし、この日静が産んだのは男の子であった。そこで安達清経を遣わし、
その子を鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)に捨てることを命じた。頼朝の命を受
けて訪れ、赤子を貰い受けようとした清経に対し静はこれを拒絶、産着を抱き
しめていつまでも泣き叫んだ。声を荒げて迫る清経に、静の母磯禅尼はこのま
までは静まで殺されかねない、と危険を感じたため彼女から赤子を取り上げて
清経に渡してしまった。これを伝え聞いた頼朝の妻北条政子はあまりにも不憫
に思い何とか頼朝を宥めようとしたが、結局聞き入れてもらえず赤子は捨てら
れてしまった。当時由比ヶ浜は鎌倉の外、死者の葬送の場でもあったのである。
 鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」はしばしば頼朝を冷酷非情に、政子を偉
大に描いているが、これはこの書が北条氏全盛期に書かれたからであろう。
(吾妻鏡)


[1275] 延暦七年(788)七月二十八日 2004-07-27 (Tue)

 大中臣清麻呂、薨ず。
 この日朝廷の重鎮であった前右大臣の大中臣清麻呂(おおなかとみのきよま
ろ)が亡くなった。享年八十七歳であった。
 古来の祭祀氏族であった中臣氏は鎌足の時に天智天皇から藤原の姓を賜り、
藤原を称するようになった。ところが、文武二年(698)になって鎌足嫡流
の不比等(ふひと)とその子孫のみが藤原を称することとなったため、それ以
外の一族は再び中臣に戻った。そしてさらに神護景雲三年(769)にはこの
清麻呂が大中臣朝臣の姓を賜り、彼以降神祇官関係の顕職を独占するようにな
る中臣氏の本宗家は大中臣を称するようになった。
 清麻呂は神祇官関係などの職を経て淳仁・称徳朝に次第に要職を占めるに至
り、最後には右大臣に任ぜられた。しかし自分が教育に当たった他戸(おさべ)
親王が皇太子を廃された後辞職を乞うたが許されず七年後の天応元年(781)
漸く引退を許された。その後長岡京に遷都してからも平城旧京で余生を送った。
 天平宝字二年(758)二月には彼の家に大伴家持らが集まって宴会を行っ
た。その時の歌十五首が万葉集に残されている。
高円(たかまと)の 野辺延(のへは)ふ葛(くず)の 末(すゑ)つひに
 千代に忘れむ 我(わ)が大君(おおきみ)かも (巻二十・4508)
(訳)高円離宮の 野辺に生える葛の 草の葉の末の(ように我らの行く末を)
 いつまでもお忘れになる そんな先帝陛下(聖武)ではいらっしゃらないぞ
 この前年の橘奈良麻呂の乱によって政権を完全に掌握、専権をふるう藤原仲
麻呂に与しない中立派の重鎮らしい歌と言えようか。
(続日本紀)


[1274] 建久元年(1190)七月二十七日 2004-07-26 (Mon)

 大仏殿の母屋の柱を立てる。
 治承四年(1180)十二月、平家の焼き討ちによって失われた東大寺大仏
の再建は当時の国家にとって最優先の課題であった。直ちに再建が準備され、
僧重源(ちょうげん)が大勧進職(事実上の総責任者)に任ぜられ、広く浄財
が募られた。そうして養和元年(1181)十月には大仏の鋳造が開始され、
文治元年(1185)八月には大仏本体が完成、盛大な開眼供養が行われた。
同じ年の三月の壇ノ浦の合戦で平家一門が滅亡、六月には一ノ谷の合戦で捕ら
えられていた大仏を焼いた攻撃軍の大将の平重衡(たいらのしげひら)が奈良
で斬首されており、漸く朝廷も胸をなで下ろしたところであろう。しかし、こ
の時点ではまだ大仏殿を始めとする堂塔は出来ておらず、再建事業の前途はま
だまだこれからであった。しかし平和の訪れにより東国を制圧した源頼朝も全
面的に協力、さらに再建の費用として周防(すおう、山口県南部)一国の税収
が充当されたほか、引き続き広く寄付が募られ、歌人として名高い西行法師も
奥州藤原氏に寄付を募るために東国に赴いている。
 この日、大仏殿再建のための母屋の柱が二本立てられた。いよいよ大仏殿再
建が着手されたのである。この後十月の上棟を経て五年後の建久六年にはつい
に大仏殿も完成し、将軍源頼朝も参列し盛大な落慶供養が行われた。
 その後も東大寺の復興は続けられ、正治元年(1199)には南大門が再建
され、建仁三年(1203)には運慶・快慶らによって南大門の金剛力士像が
造像された。戦国時代、永禄十年(1567)の松永弾正の焼き討ちで大仏も
大仏殿も失われてしまったが南大門は当時の姿を今に残してくれている。
(玉葉)


[1273] 天武元年(672)七月二十六日 2004-07-25 (Sun)

 将軍ら、不破に凱旋。
 七月二十三日の瀬田の決戦により近江朝廷が壊滅、翌日の大友皇子の自決に
よって壬申の乱が終結した。大海人皇子(おおあまのみこ、天武天皇)の決死
の脱出行からわずか一ヶ月のことであり、その手際の良さは大海人皇子が必ず
しも近江側の動きによってやむなく挙兵したのではなく、事前に周到な根回し
や準備をしていたことを窺わせる。
 大津京を制圧した将軍たちは左右大臣以下逃亡した近江方の人物の探索を行
った後、この日大友皇子の首級を捧げて不破にあった大海人皇子のもとに凱旋、
戦勝を報告した。その後八月二十五日、大海人皇子は高市皇子に命じて近江方
群臣の処断を行った。その結果右大臣中臣金(なかとみのかね)を斬罪にする
など合計八人を死罪とした。また、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)・大納言
巨勢比等(こせのひと)とその子ら、あわせて中臣金の子、蘇我果安(そがの
はたやす)の子を流罪に処したが、そのほかは悉く赦免した。
 ところが、この間椿事があった。大海人皇子が不破に入った時に二万の大軍
を率いて伺候、戦闘の帰趨に決定的な役割を演じた功臣、尾張守の少子部●鉤
(ちいさこべのさひち、●は金+且)が山に隠れて自決したのである。これを
聞いた大海人皇子は「●鉤(さひち)は大功ある者である。罪無くして何故自
殺したりするのか。何か陰謀でもあったのだろうか。」と言われた。或いは実
際に近江軍の来攻・決戦の時に内応する計画でもあったのかも知れない。
 なお後には皇位継承の絶対的な条件とされる三種の神器についてはこの壬申
の乱において何故か全く触れられていない。
(日本書紀)


[1272] 天平三年(731)七月二十五日 2004-07-24 (Sat)

 大伴旅人、薨ず。
 この日、大納言大伴旅人(おおとものたびと)が薨じた。彼は孝徳朝の右大
臣大伴長徳(ながとこ)の孫で壬申の乱の功臣大伴安麻呂の長子であった。養
老二年(718)三月に中納言に任ぜられ、同四年の隼人の反乱では征隼人持
節大将軍として下向、鎮圧に成功した。その翌年頃には大宰帥(だざいのそち、
大宰府の長官)として大宰府に赴任した。これは恐らく長屋王排撃を狙う藤原
氏がその時に邪魔になる大伴氏の族長を都から遠ざけることで後の長屋王の変
の布石を打ったのだと考えられる。この大宰府時代、万葉集巻五を中心に筑前
守山上憶良(やまのうえのおくら)らと盛んに歌を詠みあい、大宰府文壇と言
えるような状況を現出した。特に「酒を讃(ほ)める歌」は名高い。
なかなかに 人とあらずは 酒壺(さかつぼ)に
 成りにてしかも 酒に染(し)みなむ (万葉集巻三・343)
 しかし、この時愛妻を失い、また自らも一時は危篤となるほどの重病に陥る。
何とか回復した後、天平二年十一月頃に大納言に昇進、念願の帰京を果たした
がその道中での妻を偲ぶ多くの歌は涙を誘う。そして帰京して半年ほどのこの
日に帰らぬ人となった。享年六十七歳。なお、歌人としてだけでなく、懐風藻
にも漢詩一首を残す文人であり武人でもあった。
 彼は正妻との間に子が無く、晩年に側室との間に歌人として名高い家持(や
かもち)・書持(ふみもち)などの子があったが、晩年の子であったため父の
庇護を受けられなかったこと(家持は当時十四歳)、正室の子でなかったこと
などはやがて家持の官歴に微妙な陰影を落としていくことになる。
(続日本紀)


[1271] 斉明七年(661)七月二十四日 2004-07-24 (Sat)

 斉明天皇崩御。
 滅亡した百済(くだら)を再興させた鬼室福信(きしつふくしん)らは斉明
六年十月に日本に使者を派遣、唐の捕虜百余人を献上、状況を報告し、救援と
あわせて人質として日本にあった王族の豊璋(ほうしょう)を王と仰ぎたい旨
を願い出た。百済の滅亡時に王族は根こそぎ唐に拉致されたため国の核となる
者がいなかったためである。これを聞かれた天皇は痛く同情し、豊璋を遣わす
こと、そして大軍を派遣して救援することを告げた。そして十二月二十四日、
自ら難波宮に行幸され、救軍(すくいのいくさ)の準備をされた。そしてこの
年一月六日にいよいよ難波津を出航、大伯(おおく、広島県邑久郡)、熟田津
(にきたつ、愛媛県松山市)を経て三月二十五日には娜大津(なのおおつ、福
岡市博多港)に到着、磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡市南区三宅)に入ら
れた。そして五月九日には朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみ
や、福岡県朝倉郡朝倉町)に遷られた。しかし、この宮の造営のために麻弖良
布(まてらふ)神社の神域の木を切ってしまったからか、宮に落雷があり、ま
た宮中に鬼火が出て多くの病死者が出た。その一人であったのか、六月に伊勢
王(いせのおおきみ)が薨じ、そしてこの日斉明天皇自身が朝倉宮で崩御され
た。宝算は後世の史書には六十八歳とも六十一歳とも伝える。
 天皇の棺は八月一日に皇太子中大兄皇子らによって磐瀬宮に遷されたが、そ
の日の夕方、朝倉山の上で大きな笠をかぶった鬼が葬列を見守っていたという。
葬列は十月七日、海に入り二十三日には難波に戻られた。暗く不吉な空気を含
んで百済救援軍は白村江(はくすきのえ)の破滅へと向かって行く。
(日本書紀)


[1270] 天武元年(672)七月二十三日 2004-07-22 (Thu)

 大友皇子自決。
 皇位を巡っての古代最大の戦乱であった壬申の乱は主に二つの戦場をその舞
台とした。一つは吉野から長駆不破に脱出、そこを本拠とした大海人皇子を奉
じて直接近江の大津京を目指した戦闘であり、これは結果的には連戦連勝、最
後に瀬田の決戦によって近江朝廷は崩壊した。
 しかし、もう一つの戦場、倭京を巡る戦いは一進一退の苦しいものであった。
一族を挙げて大海人皇子方についた大伴氏の一員、吹負(ふけひ)は六月二十
九日に飛鳥の旧京を制圧した後、七月一日に乃楽(なら)に向かった。その時
河内方面からの近江軍来襲を知って軍の一部を派遣し、これに当たらせた。し
かし、手薄になった吹負自身は乃楽山の戦いで大敗、命からがら敗走した。こ
の敗報を知った大海人方からは置始菟(おきそめのうさぎ)以下千余騎が救援
として派遣され、援軍を得た吹負は逆襲に転じ、七月四日には箸陵(はしのは
か、箸墓古墳)で近江方の軍に大勝し、漸く倭京の制圧に成功、吹負は二十二
日には難波に進み、西国をも掌握した。
 同じ日、瀬田の戦場から命からがら逃れた大友皇子であったが、既に周囲は
敵兵であふれ、また上述の通り西国も制圧された以上もうどこにも逃げ場はな
かった。山前(やまさき、不詳、大津京近辺か)に隠れた彼は結局ここで首を
くくった。僅かに物部麻呂(もののべのまろ)ら二、三人が従っていただけの
寂しい最後であった。歴代天皇として数えられることのなかった彼であったが、
水戸光圀の「大日本史」などによりその即位が推定されたのを受けて、明治三
年になって漸く皇統譜に加えられ、「弘文天皇」と追号された。
(日本書紀)


[1269] 天武元年(672)七月二十二日 2004-07-21 (Wed)

 瀬田の決戦。
 不破を出てから破竹の勢いの進撃を続ける村国男依(むらくにのおより)以
下の大海人皇子軍は九日の鳥籠山(とこのやま)の戦いの後、十三日には安河
(やすのかわ、野洲川)の戦いで近江軍に大勝し、社戸大口(こそへのおおく
ち)、土師千島(はじのちしま)らを捕らえた。そして十七日には栗太(くる
もと、瀬田川左岸)に達して同地の近江軍を駆逐、二十二日にはとうとう瀬田
に到着し、近江軍と対峙した。
 一方の近江軍は瀬田の橋(現在の瀬田の唐橋の80mほど下流にあったらしい)
の西に大友皇子以下が布陣し、大海人軍の攻撃に備えた。将軍智尊(ちそん、
渡来人?伝未詳)が先鋒として精鋭を率いて陣取り、瀬田の橋の中央部の三丈
(9m)ほどの橋板を外し、そこに長い板を渡し、もし誰かが板を踏んで突入
を図ればこの板を外して転落させようとしていた。また雨のように矢を放つ近
江方の必死の防戦もあって大海人軍も攻めあぐね、戦線は一時膠着状態になる
かと見えた。しかし、この時大海人皇子の側近の一人、大分稚臣(おおきだの
わくみ)が長矛を捨て、甲(よろい)を重ね着して抜刀、この板を走り渡り、
板につけた綱を斬り、矢を突き立てられながらも敵陣に突入した。このため近
江軍は怖れをなして浮き足立ってしまった。将軍智尊は逃げる味方の兵を斬り
捨て督戦に努めたがとうとう近江軍は総崩れとなり、智尊も橋のたもとで斬ら
れた。大友皇子と左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣中臣金(なかとみ
のかね)らは何とか脱出して戦場から逃走した。一方の男依らは粟津(あわづ、
大津市膳所町)の岡に布陣した。
(日本書紀)


[1268] 天平勝宝八歳(756)七月二十一日 2004-07-20 (Tue)

 土佐の僧専住、僧綱を誹謗して伊豆に配す。
 この日、土佐国(高知県)道原寺(どうげんじ、不詳)の僧専住が僧綱(そ
うごう、高僧による僧侶の最高統制機関)を誹謗し忌避に触れたために伊豆嶋
(静岡県伊豆地方。伊豆諸島とは限らない)に配された。
 この時には必ずしも流罪、ということではなく恐らく伊豆のどこかの寺で謹
慎させられたのであろう。しかし、それくらいでは専住の行動は改まらず、後
に更に佐渡に配流させられたらしい。そして天平宝字三年(759)五月十五
日の記事によればそうして佐渡に流された彼ともう一人の僧がなお悔い改める
ことなかったためとうとう還俗(げんぞく、僧から俗人に戻す、結果として税
や課役を負担せねばならなくなる)させられた、ということである。
 この時専住が言った誹謗中傷の中身はもちろん記録されていない。しかし、
この年五月二十四日に僧綱の任命が行われている。これは同月二日に崩御され
た聖武上皇の病気平癒祈祷などへの慰労を兼ねたものではあったが、この時に
僧綱の最高位である大僧都(だいそうず)には鑑真と良弁(ろうべん)が、そ
して鑑真の高弟法進(ほっしん)も律師(りっし)に任じられている。恐らく
彼の批判は鑑真大和上らへの厚遇を批判したものではなかったか。土佐という
当時の辺境に住んでいた彼が鑑真の日本渡航へかけた情熱、乗り越えてきた数
多くの苦難の道をどこまで知っていたかはわからないが、彼としては外国から
ぽっと出てきただけでいきなり最高位に、というのが気に入らなかったのでは
ないか。いつの時代でも自らの精進の欠落を棚に上げて他人の営々たる努力の
結果を批判する者はいる。が、これを聞いた鑑真はどう思われただろうか。
(続日本紀)


[1267] 朱鳥元年(686)七月二十日 2004-07-19 (Mon)

 朱鳥改元、宮号制定。
 天武六年(677)十一月一日、筑紫大宰(つくしのおおみこともち、後の
大宰府)から赤烏が献上された。また九年七月には飛鳥浄御原宮(あすかのき
よみはらのみや)の南門に朱雀(赤い雀)がいるのが発見された。更に十年七
月一日にも朱雀が発見された。こういった珍奇な生き物は名君の治世に現れる、
とされることから相次ぐこれら瑞祥現象にこの日久しぶりの元号が定められた。
大化・白雉以来となる元号は「朱鳥(あかみとり)」であり、最初で最後の和
語による元号となる。但し、後には音読みして「しゅちょう」としたり、漢語
風に「朱雀(すざく)」と呼んだりもしている。
 ただ、この改元はむしろ天武天皇の病気平癒を願ってのものであったらしい。
この年五月二十四日、不予(ご病気)になられた天皇は川原寺で病気平癒を祈
っての薬師経読経や諸寺の清掃、また大赦などを行った。しかしご病状がよく
なられないため病気の原因を占いによって求めたところ、草薙剣(くさなぎの
つるぎ)の祟り、と出たため宮中からこれを熱田神宮に返却。さらに仏教関係
の儀式や寄進、神道の大解除(おおはらえ)や奉幣の実施、調と徭役の免除と
いったことを次々に行ったが一向に回復しなかった。この月の十五日にはとう
とう「天下のことは大小を問わずすべて皇后(持統天皇)と皇太子(草壁皇子)
に啓上せよ」と命ぜられている。いよいよ病が深刻化して来たらしいことがう
かがわれる。これらの一環としてこの日の改元が行われた。また、同時に天武
の都に正式に飛鳥浄御原宮の名称が定められた。こうした必死の願いにもかか
わらず、九月九日には天武天皇は崩御されてしまうのであった。
(日本書紀)


[1266] 天平勝宝六年(754)七月十九日 2004-07-18 (Sun)

 太皇太后藤原宮子薨ず。
 この日太皇太后藤原宮子が平城宮の中宮(内裏の施設の一つ?)で崩御され
た。彼女は藤原不比等の娘であり文武天皇の夫人となって首親王(おびとのみ
こ、聖武天皇)を産んだ人であった。本来は夫人であり、側室のような地位で
あったが子(聖武)や孫(孝謙)の即位により皇后として扱われるようになっ
たためこの時点では太皇太后(先々代の皇后)と呼ばれていた。
 しかし、産まれてこの方聖武は彼女と会うことができなかった。それは彼女
が「幽憂(ゆうゆう)に沈み久しく人事を廃す」という状態、即ち精神に異常
をきたしており人と会ってまともに話をしたり出来る状態に無かったためであ
る。その彼女が初めて聖武と対面したのは天平九年(737)のことであり、
聖武を産んでから三十六年も経っていた。この時は僧玄●(げんぼう、●は日
+方)の看病によって正気に戻ったため面会することが出来た、という。しか
しその後も記事はほとんどないところから回復したと言うよりはその時はまだ
調子が良かった、というような状態であったと思われる。先の慶事もあって大
変重用された玄●もその後藤原広嗣の変などにより没落、最後は事実上流罪と
して大宰府観世音寺で寂しく亡くなったことを考えても、その時の状態は一時
的な回復に過ぎなかったものと考えられる。
 このことは聖武の生涯を通じても微妙な陰影を与え続けたものであろう。彼
は終生母の愛を知らず、祖母の元明や伯母の元正を母代わりとして成長したの
であった。ここ一番で辛抱することが出来ない聖武の精神的な弱さは結局は事
実上母がいなかった、という点に大きく起因したのであろう。
(続日本紀)


[1265] 斉明六年(660、百済義慈王二十年)七月十八日 2004-07-17 (Sat)

 百済滅亡。
 久しぶりに中原の野を統一した中華帝国・隋の登場は朝鮮半島にも大きな影
響を与えた。それまでの王朝はいわば権威だけであったのが隋王朝は軍事力を
背景に直接的な影響力を及ぼし、特に北方の大国高句麗(こうくり)は隋の大
軍による数次に亘る侵攻を受けるに至った。名宰相泉蓋蘇文(せんがいそぶん)
の指揮下、何とかこれをしのぎ、遠征失敗は隋王朝そのものを崩壊させるに至
り、唐王朝を成立させたのであるが、唐もやはり高句麗侵攻を継続した。
 一方で北方の脅威が大幅に減少した百済(くだら)は新羅(しらぎ)に対し
て大攻勢に転じた。従来主に高句麗と新羅、百済と日本という同盟関係が見ら
れたのであるが高句麗が存亡の危機にあって新羅どころではなかった。それど
ころか、推古九年(601)大伴囓(おおとものくい)の高句麗への派遣は日
本・高句麗・百済の同盟成立の可能性をも示唆する。窮地に立った新羅は唐に
すがり、唐は百済・新羅に戦闘中止を命じた。しかし百済は恭順の意を表しつ
つも攻勢を継続、遂に蘇定方(そていほう)以下の唐軍の侵攻を招くに至る。
唐十三万・新羅五万の連合軍の前で百済軍は黄山・熊津江(ゆうしんこう)の
戦闘で壊滅、首都泗●(しひ、●はさんずいに比)は七月十二日から連合軍に
包囲されてた。十三日、太子の隆が降伏し、義慈王は熊津城に逃れて籠城した
が、この日遂に王は唐・新羅連合軍の前に降伏してきた。王や太子を始め王族
・重臣93人、民衆12000人は唐に連行された。このため、後に鬼室福信らが百済
再興の兵を挙げたとき、王とすべき王族が百済国内に誰もおらず、そのため人
質として日本にあった扶余豊璋を再興百済の王として迎えることとなる。
(三国史記・新羅本紀)


[1264] 慶雲四年(707)七月十七日 2004-07-16 (Fri)

 元明天皇即位。
 この前年慶雲三年十一月、不予(ご病気)になられた文武天皇はその母であ
る阿閇皇女(あへのひめみこ)に譲位して病気治療に専念したい旨を伝えられ
た。驚いた彼女は辞退したがその後も同じことが何度も繰り返された挙げ句、
この年六月十五日にはとうとう譲位を承諾、文武天皇はその日のうちに崩御さ
れた。その遺詔を受けてこの日彼女は文武の遺児である首(おびと)親王(後
の聖武天皇、当時七歳)の成長までのつなぎとして即位された。推古天皇、皇
極/斉明天皇、持統天皇に続く四人目の女帝、元明天皇である。
 崩御されたその日に譲位されたということの真偽は別にして文武天皇の崩御、
というこの事態は深刻な問題となった。今までであれば兄弟など同世代の皇位
継承権者の間で皇位が受け継がれたのであるが、草壁皇子にはほかに子が無く、
あらゆる慣例を無視し陰謀を巡らせて強引にともかく文武に皇位を伝えたのに
今更別の天武皇統に位を伝える訳にはいかなかった。それを回避するためには
持統天皇の例のように文武の遺児の首親王の成長までの間、皇后が皇位を代行
(即位を含む)する、という方法があったが、文武は皇后をまだ立てていなか
った上、夫人(側室)として首親王を産んだ藤原宮子は皇族でなかったばかり
か精神に異常をきたしており、とても大任に耐えられる状態ではなかった。そ
のため文武の母である元明を中継ぎに立てるしかなかったのである。
 この日の即位の詔には初めて「改(かは)るましじき常の典(のり)」が登
場する。これは天智天皇が定めた嫡子相承による皇位継承法であると見られ、
奈良時代を通して皇位継承についての大原則とされた。
(続日本紀)


[1263] 文治二年(1186)七月十六日 2004-07-15 (Thu)

 東大寺大仏の眉間から光。
 治承四年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちによって焼
け落ちた東大寺大仏は重源上人の勧進により再建が進められ、文治元年八月に
は大仏本体は完成、民衆の熱狂の中、開眼供養が行われた。
 それから一年。東大寺の大仏の拝殿(当時は大仏殿はまだ再建されておらず、
法要・参籠のための仮殿か)に参籠していた僧叡俊(えいしゅん)は大仏の眉
間から光明が放たれていることに気がついた。灯籠の灯が反射したものだろう
か、それとも目の錯覚か、と不審に思っていたところ、近くにいた勝恵(しょ
うえ)という僧に「光を見たか」と問われた。それで見間違いではなかったこ
とがわかり、周囲の人々にも確認したが、ほかの人々は見た人もいれば見なか
った人もいたらしい。
 さらに閏七月八日には谷尼公(たにのあまぎみ)という尼が同様に光を目撃
しており、十五日には伊賀の覚俊(かくしゅん)という大仏を深く信仰する人
が通夜して祈りを捧げたときにも光を見、また鎮守の手向山八幡宮の巫女も拝
殿でお勤めをしていた時に光を見て感涙にむせんだ。二十一日には観乗(かん
じょう)という僧が大仏の仏壇に登ったときにやはり眉間に光を見ており、小
僧の国頼(くにより)という者もやはり光を見たらしい。
 これらの話は行政側の再建責任者である藤原行隆(ふじわらのゆきたか)が
拝殿で当事者たちから聞いた話を右大臣の九条兼実(くじょうかねざね)に伝
えたものであり、この段階で既に多数の参籠者があったこと、「奇跡」が広が
って伝わっていたことなどがわかる。
(玉葉 文治二年閏七月二十七日条)


[1262] 斉明三年(657)七月十五日 2004-07-14 (Wed)

 須弥山を築きトカラ人を饗応。
 重祚(ちょうそ、再度の即位)されてからの斉明天皇は頻りに土木工事を命
じられた。元年冬、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)の火災により飛鳥
川原宮(あすかのかわらのみや、川原寺の地にもとあった宮殿?)に遷られた
後、二年には飛鳥の岡本を都と定められて造都された。同年遷都された後飛鳥
岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや、所在は諸説あり)である。さらに田
身嶺(たむのみね、多武峰)の周囲に垣を巡らせ、その上の二本の槻(つき)
の木の傍に見晴台を建て、両槻宮(ふたつきのみや)とも天宮(あまつみや)
とも言った。また水工(みずたくみ)に溝を掘らせて天香具山の西から石上山
(いそのかみやま)まで通した。そこに舟二百隻を用いて石上山の石を積んで
流れに従って宮の東の山に運び、石垣を築いた。時の人はこれを批判して「狂
心(たぶれごころ、気狂い沙汰)の渠(みぞ)だ。溝を掘るのに人夫三万余、
石垣を築くのに人夫七万余を費やした挙げ句、宮殿の材木は腐り、山頂は埋も
れてしまった」とか、「石で山を築いたって作るそばから自然に崩れるだろう」
と言ったという。また、吉野に離宮を造営したのもこの時であった。
 そしてこの日、飛鳥寺の西に須弥山(すみせん、仏教の言う世界の中心にあ
る山)の模型を築き、盂蘭盆会の行事を行った。その暮れには三年前に吐火羅
(トカラ)国から漂着した人々をここで饗応した。吐火羅国は現在のタイにあ
ったドヴァーラヴァティか、と言われている。
 近年この時の須弥山の遺跡や、狂心の渠の遺構と見られるものが次々と発見
され、これらの記事が事実に基づくものであることが明らかになった。
(日本書紀)


[1261] 延暦八年(789)七月十四日 2004-07-13 (Tue)

 三関の廃止。
 この日、伊勢・美濃・越前の三国に対し、三関(さんげん)、即ち伊勢の鈴
鹿、美濃の不破(ふわ)、越前の愛発(あらち)の三つの関所を廃止する、と
いう詔が出された。それによると、もともと関所を設置するのは非常事態に対
処するためであったが、既に国内は安定しており、実際に関が機能することが
なくなっている一方で関所の存在は交通の障害となっており、公私の往来がそ
のために関所で滞留することになってしまっていた。そのためにこの際これら
三関は一切停廃し、そこに収められていた兵器は国府に運び入れ、そのほかの
建物などは近くの郡などに移建すること、などが述べられている。
 この理由にもある通り、これら三関はもともと畿内に非常事態が発生した際
に畿内を脱出した勢力が東国に逃れることを防ぐ目的で設置されており、その
正面は東国ではなく畿内側を向いていた。現実にそのような事態が発生したの
は天武元年(672)の壬申の乱であり、いち早く東国に脱出、鈴鹿と不破を
押さえて反撃を行った天武天皇が近江朝廷の打倒に成功、恐らくこれを契機に
三関というものも整備されたのであろう。また、天平宝字八年(764)の恵
美押勝(えみのおしかつ)の乱においては押勝(藤原仲麻呂)が事前に周到な
準備をしていたにもかかわらず吉備真備(きびのまきび)の迅速な対応によっ
て愛発の関の確保に失敗、進退窮まった挙げ句に敗死するに至っている。
 この時廃止された三関ではあるが、その後も天皇の代替わりなどには形式的
に関の閉鎖(固関:こげん)が行われた。また、その固関も弘仁元年(810)
以降は愛発に代えて近江の逢坂(おうさか)の関が対象とされた。
(続日本紀)


[1260] 保元元年(1156)七月十三日 2004-07-12 (Mon)

 悪左府頼長、父に見捨てられ憤死。
 父の鳥羽法皇の意向で心ならずも異母弟の近衛に譲位させられた崇徳天皇は
その近衛天皇の崩御により今度はわが子の重仁親王に皇位が回ってくる、と期
待した。しかし、皇位は弟の後白河に伝えられた。崇徳の深い恨みを抱き鬱々
としたは日々を送ることになる。一方、摂関家でも藤原頼長と忠通(ただみち)
の家督を巡る争いが激化していた。このうち、左大臣頼長は学問を愛した人物
ではあるが同時に激しい気性であったため、世に悪左府と称された。この対立
は蔭ですべてを操っていた後鳥羽法皇の崩御により一気に表面化し、崇徳上皇
・藤原頼長方は源為義(みなもとのためよし)やその子鎮西八郎為朝(ちんぜ
いはちろうためとも)、平忠正らの武士を、一方の後白河天皇・藤原忠通方は
源義朝、源頼政、平清盛らを招き、ここに保元の乱が始まった。
 しかし、この乱そのものは一日で終わってしまった。為朝の夜討ちの献策は
頼長に一蹴されたが、後白河側は義朝の献策に従い崇徳の御所白河殿の夜討ち
を行った。この戦闘であっけなく勝負は決し、崇徳は脱出(後に出家)したも
のの頼長は途中流れ矢が首に当たり重傷を負った。虫の息の頼長はせめて最後
に父忠実(ただざね)に暇乞いを、と望み、木津川を遡って父の住む奈良を目
指した。しかし、この日使者を遣わした父の答えは冷たいものであった。「氏
の長者たる者が武器に傷つけられるなどとは縁起でもない、そんな不運なもの
になど会いたくもない。どこか目にも見えず音にも聞こえないところへ立ち去
れ」と。それを聞いた頼長は顔色を変えて舌の先を食い切り、翌日昼頃にやっ
と見つけた興福寺近くの隠れ家で息絶えた。
(保元物語 中 左府ノ御最後 付 大相国御嘆キノ事)


[1259] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)七月十二日 2004-07-11 (Sun)

 右大臣藤原豊成、左遷。
 この日政界の最高官であり、また藤原氏の恐らく氏上(うじのかみ、族長)
であった藤原豊成が右大臣を罷免され、大宰員外帥(だざいのいんげのそち)
に左遷された。大宰員外帥とは名目であり、実質は後の菅原道真と同じで流罪
になる。その理由は「内々に橘奈良麻呂らの反逆者と通じ、密かに紫微内相
(しびないしょう、光明皇后の政務機関の長官)である藤原仲麻呂を忌み、ま
た内乱の計画を知りながらもそのことを奏上せず、陰謀が露見してもちゃんと
究明しなかった」とされている。実際に巨勢堺麻呂(こせのさかいまろ)の密
告によれば答本忠節(たほのちゅうせつ)から聞いた話として彼が蜂起計画を
豊成に伝えたときも豊成は「大納言(藤原仲麻呂)は年が若い。私が教え誨
(さと)してそんなことが起きないようにしよう」と言ったとされるし、また
最初に逮捕された小野東人(おののあずまひと)・答本忠節らの尋問を行った
のも豊成らであったがこの時も特に自白は得られなかった。こういったことを
指したものであろう。恐らく豊成は実際に独裁を狙う仲麻呂の行動を苦々しく
思い、何とか事態を穏便に収めようと考えていたのであろう。仲麻呂からすれ
ばそんな行動がそもそも許せないものであった。しかし、この豊成は藤原武智
麻呂(むちまろ)の長男で仲麻呂には同母兄にあたる。仲麻呂にとっては最も
近い一族であり、その兄でさえ仲麻呂に好感を持っていなかったことになる。
そして弟はそれに対して冷酷極まりない報復を行ったのであった。
 但し、豊成は実際には大宰府赴任途中で病気と称して難波にとどまり、仲麻
呂の失脚後に政界に復帰した。
(続日本紀)


[1258] 天平二年(730)七月十一日 2004-07-10 (Sat)

 斎王井上内親王のため斎宮を拡充。
 この日、伊勢神宮及び斎宮に関する以下の内容の詔が出された。
「今後、斎宮に関する経費はすべて国費から支出する。今まで通りに神宮の神
戸(かんべ、神領)からの庸調などの税を用いてはならない。また伊勢神宮の
禰宜(ねぎ)には官位二階を昇進させる。内人(うちひと)六人には同じく一
階昇進させる。年齢の長幼は問わない。」
 これより先、養老五年(721)九月十一日に斎王に任ぜられた皇太子首親
王(おびとのみこ、聖武天皇)の皇女井上王(いのうえのおおきみ/いがみの
おおきみ)は長い潔斎の後、内親王となった神亀四年(727)九月三日にい
よいよ伊勢神宮に群行(ぐんぎょう、斎王の伊勢神宮下向を指す)された。
 斎王は伊勢神宮に天皇の名代として仕える最高の巫女で、古くからあったら
しいが制度として確立されたのは天武天皇の時の斎王大伯皇女(おおくのひめ
みこ)である。斎王を支える役所が斎宮寮(いつきのみやのつかさ)であり、
井上内親王の群行の直前には百二十一人の官僚が任命されている。この時、そ
の規模が大幅に拡充されたらしい。その結果斎宮の負担が伊勢神宮の財政を圧
迫、結果としてこの日の詔にあるように斎宮の財政を国家直属として伊勢神宮
とは独立の機関とし、あわせて懐柔のため伊勢神宮の在地の神官たちの官位を
昇進させたものであろう。禰宜は実質的に神宮祭祀を司っており、内宮は荒木
田氏、外宮は度会(わたらい)氏が世襲した。内人はその下の神職。
 井上内親王は後年白壁王の妃となり、王の即位(光仁)により皇后となった
が陰謀に巻き込まれて悲劇的な最後を遂げる人である。
(続日本紀)


[1257] 天平十年(738)七月十日 2004-07-09 (Fri)

 長屋王の変の密告者殺される。
 この日、左兵庫少属(さひょうごのしょうぞく、左兵庫寮の最下級の役人)
大伴子虫(おおとものこむし)は右兵庫頭(うひょうごのかみ、左兵庫寮と並
ぶ役所、右兵庫寮の長官)中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)と
碁を打ち興じていた。当時碁は貴族の遊戯として流行しており、恐らく子虫は
碁が得意であったために位を越えてつきあいがあったものであろう。この日も
政務の合間に二人で碁を打っていたのである。
 しかし、打ちながらの雑談の中で東人は長屋王のことを口にした。恐らく彼
は知らなかったのだろうが、子虫はかつて長屋王に仕え、大変可愛がられてい
た人物だった。そうとは知らず東人が口にしたのはかつてその長屋王に謀反の
企てあり、と虚偽の訴えを行い、その功績によって現在あるような高い位を得
たのだ、という自慢話ではなかったろうか。一部始終を聞き届けた子虫は激怒
して東人を罵倒、とうとう刀を抜いて東人を斬り殺してしまった。
 長屋王は栄華を極めながら天平元年(729)、謀反を企んでいる、という
讒言を受けて自決させられ、その妻子も(藤原氏ゆかりのものを除いて)悉く
殺される、という悲劇に見舞われた。そしてこの時殺された東人こそはその讒
言を行った張本人であり、せいぜい子虫の同僚でしかあり得ないはずの彼が役
所の長官という高位にあるのは正にその恩賞であった。
 子虫のその後は処罰されたかどうかも含めて記録には残されていない。しか
し、正史の「続日本紀」でさえこの記事を「東人は長屋王のことを誣告(むご
う/ぶこく、讒言)した人である」と結んでおり、当時の認識を示す。
(続日本紀)


[1256] 天武元年(672)七月九日 2004-07-08 (Thu)

 近江鳥籠山の戦い。
 美濃の不破(ふわ、岐阜県関ヶ原町)に本営を置いた大海人皇子軍は七月二
日に紀阿閉麻呂(きのあへまろ)・多品治(おおのほんじ)・三輪子首(みわ
のこびと)・置始菟(おきそめのうさぎ)らに数万の兵を率いて倭(やまと)
に向かわせ、また村国男依(むらくにのおより)・書根麻呂(ふみのねまろ)
・和珥部君手(わにべのきみて)・胆香瓦安倍(いかごのあへ)らには数万の
兵を率いて直接近江の都を攻撃させることとした。後に改めて多品治以下三千
に●萩野(たらの、●は草冠に刺、三重県上野市?)を固めさせ、田中足麻呂
(たなかのたりまろ)に倉歴(くらふ、三重県阿山郡伊賀町)道(伊賀から近
江の甲賀に抜ける道)を守らせた。また味方の識別のため赤色を目印として衣
の上に着けさせた。
 一方、近江方は山部王(やまべのおおきみ)・蘇我果安(そがのはたやす)
・巨勢比等(こせのひと)以下数万の兵に不破を襲わせようとしたが、軍の内
訌により自滅。逆に将軍の一人羽田矢国(はたのやくに)らが一族を挙げて投
降する有様であった。一方、別将の田辺小隅(たなべのおすみ)は七月五日、
倉歴に田中足麻呂を破ったが六日には多品治の奮戦で敗退、これ以降近江方の
来襲はなかった。
 近江を目指した村国男依らの率いる軍は七日には近江軍と息長(おきなが)
の横河(滋賀県米原町醒ヶ井付近?)で戦ってこれを破り、将軍境部薬(さか
いべのくすり)を斬ったのに続き、この日は鳥籠山(とこのやま、彦根市の正
法寺山)に秦友足(はだのともたり)を破ってこれを斬った。
(日本書紀)


[1255] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)七月八日 2004-07-07 (Wed)

 逆徒の亡魂に託した浮言を禁ず。
 橘奈良麻呂の変は結局その杜撰な計画と密告者の続出、そしてこの機会を虎
視眈々と狙っていたために先手先手と動いた藤原仲麻呂の前にあっけなく潰え、
主要関係者の全員が杖下に死すという悲惨な結果に終わった。その中にはかつ
て遣唐副使として鑑真大和上を招くのに成功した大伴古麻呂や越中国府で大伴
家持と歌の贈答を繰り返した大伴池主などもいた。
 この日出された詔によると、この段階で早くも彼らの亡魂に託した浮言をな
すものがあったらしく、このような者はすべて与同罪(共犯)として扱うこと
を告げている。
 この「亡魂」が怨霊を指すのか、それとも現在も残る恐山などのイタコのよ
うに死者の魂が告げた、ということなのかは明らかではないがいずれにせよこ
の段階で政府の取った対策はこれだけであり、明らかに霊や祟りを恐れている
のではなく、生きている人間を恐れている。
 怨霊らしきものは「日本書紀」には登場せず、「続日本紀」でも僧玄●(げ
んぼう、●は日+方)の死に関して藤原広嗣の怨霊の祟り、という噂を挙げる
のが初出になる。恐らく日本古来の信仰では怨霊というものは存在しなかった
のであろう。現に奈良時代以前に創建された神社で氏族の祖先や伝説の英雄を
除き人を祀ったものは知られていない。
 怨霊の祟りがあった、とされるのが知られる最初は藤原種継暗殺事件に関連
して憤死した早良親王であり、貞観十八年(876)創建と伝えられる祇園感
神院(現八坂神社)や御霊神社を中心に平安時代に広く恐れられるに至る。
(続日本紀)


[1254] 天長元年(824)七月七日 2004-07-06 (Tue)

 平城上皇崩御。
 この日、出家されて平城宮にあった平城(へいぜい)上皇が崩御された。宝
算五十歳。平城天皇は桓武天皇の第一皇子で安殿(あて)親王といった。藤原
種継暗殺事件の結果早良親王が薨じたことにより皇太子となった。しかし、そ
の病弱であるのは早良親王の怨霊の祟りによるものと考えられた結果恐怖した
桓武天皇は早良親王の怨霊を慰めるため早良親王に崇道天皇の諡号を贈るなど
慰霊に努めたが結局病弱は直らなかった。
 延暦二十五年(806)、桓武天皇の崩御に伴い即位。藤原氏の期待に反し
彼は必ずしも藤原一辺倒ではなく、長い間鬱屈した想いを抱いていた斎部広成
(いんべのひろなり)は狂喜して斎部氏の伝承を「古語拾遺」にまとめて献上
した。が、結局病気のため大同四年(809)に弟の嵯峨天皇に譲位された。
譲位後の御所はなかなか定まらず各所を転々とした後、やがて平城旧京に遷ら
れた。しかし、彼の寵愛を受けた藤原薬子(ふじわらのくすこ、種継女)の扇
動に乗ってやがて平安京の嵯峨天皇をないがしろにする命令を発するようにな
る。自重してこれを尊んでいた嵯峨天皇側も上皇が弘仁元年(810)、平城
京への遷都を命ずるに及びその工事の人夫という名目で坂上田村麻呂以下の軍
を派遣、一方で薬子の官位を剥奪、その兄仲成を殺した。怒った上皇は東国を
目指したが田村麻呂らに遮られやむなく平城宮に戻り出家、薬子は毒を仰いで
自殺した(藤原薬子の変)。その後は特に目立った動きはなく平城宮で余生を
送られた。その諡号は平城宮を愛されたことによる。御陵も平城宮のすぐ北に
ある古い古墳の後円部が利用された(楊梅陵)。
(日本紀略)


[1253] 養老七年(723)七月六日 2004-07-05 (Mon)

 太安万侶、卒す。
 昭和五十四年(1979)に奈良市此瀬町の茶畑から偶然発見された銅板は
その銘文から「古事記」の撰者として知られる太安万侶(おおのやすまろ)の
墓誌であることがわかり、話題をさらった。その墓誌には次のような文字が記
されていた。
「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶、癸亥の年七月六日を以て卒(し
ゆつ)す。養老七年十二月十五日乙巳」
 現存する当時の墓誌がいずれもそうであるように、簡潔に住所・官位・姓名
や亡くなった年月日などを記すのみである。続日本紀では七月七日の記事とし
て太安麻呂が卒したことを記すが一日違うのは報告された日などと間違えたの
であろうか。文字も「古事記」序と墓誌は共通して太安万侶としており、恐ら
く自分ではそう表記していたのであろう。
 太氏はもともと多氏を称しており、安万侶の父は壬申の乱の功臣である多品
治(おおのほんじ)とされる。安万侶の代から太氏を称するが、奈良時代末に
は再び多氏に表記を戻している。大和国十市郡飫富(おお)郷(奈良県磯城郡
田原本町多)がその本拠であり、その地にある多坐弥志里都比古(おおにいま
すみしりつひこ)神社はその氏神である。
 安万侶は和銅四年(711)九月、元明天皇の命を受けて「古事記」の撰進
を行い、翌五年正月には完成し、奏上した。墓誌に「勲五等」とある以上、文
官としてだけではなく武官としても功績を挙げたと推定される。亡くなったと
きは民部卿であった。
(太安万侶墓誌)


[1252] 天武十二年(683)七月五日 2004-07-04 (Sun)

 鏡皇女、薨ず。
 鏡皇女(かがみのおおきみ)は天智天皇の妃の一人。恐らく舒明天皇の娘か
妹で、額田王(ぬかたのおおきみ)の姉とも言われる。万葉集に数首の歌を残
す。彼女と同じく天智の後宮にありながらその愛情の衰えを嘆いた額田王の
君待つと 我が恋ひ居れば
 我(わ)が屋戸(やど)の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く
(訳)あなたをお待ちして 私が恋い慕っていますと
 私の家の 簾を動かして あなたの代わりに秋の風がやって来ましたわ
という歌に対し、彼女は
風をだに 恋ふるはともし
 風をだに 来(こ)むとし待たば 何か嘆かむ (巻四・488-489)
(訳)風であっても 恋しているとは羨ましいわ
 たとえ風でも 来るかと待つあてがあるなら どうして嘆いたりしましょう
 という歌を返している。彼女はその後(与えられて?)藤原鎌足の正室に迎
えられた。その時の鎌足の求婚に対する彼女の歌も残されている。
玉くしげ 覆ふをやすみ 明けていなば
 君が名はあれど 我(わ)が名し惜(を)しも (巻二・93)
(訳)<玉くしげ> 二人の関係を隠すのは簡単と 朝になってからお帰りに
なれば あなたはともかく 私は残念です(その求婚、本気なのでしょうか)
 その後鎌足の病気により彼女はその別荘を寺として山階寺(やましなでら)
を創建した。この寺は後に平城京に移転されて興福寺となる。
(日本書紀)


[1251] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)七月四日 2004-07-03 (Sat)

 橘奈良麻呂の変。
 橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は諸兄(もろえ)の子。父を追い落とし
専権を極める藤原仲麻呂に強い反感を持ち、大伴古麻呂(おおとものこまろ)、
小野東人(おののあずまひと)らを誘って仲麻呂を倒し政変を起こそうと企む
に至った。しかし、この計画は漏れてしまったらしく、七月二日には不穏な動
きを憂慮し戒める詔が孝謙天皇と光明皇太后からそれぞれ出された。しかしそ
の夕方、上道斐太都(かみつみちのひだつ)が彼らの決起計画を詳細に密告、
小野東人・答本忠節(たほのちゅうせつ)らを捕らえた。その一方、翌三日に
は仲麻呂は奈良麻呂や古麻呂らを皇太后の御在所に呼び、光明皇太后の詔とし
て「お前たちが謀反を企んでいると聞いたが血縁も近いお前たちに恨まれるよ
うな覚えはない。お前たちを許すから今後は変なことは考えないように」と告
げた。奈良麻呂らは感謝して帰り、恐らく今回のことを断念したのであろう。
 しかし、これで引き下がる仲麻呂ではなかった。この日、先に捕らえた東人
の自白に基づき、関係者を次々に勘問した。奈良麻呂には「何故謀反を企んだ
か、という尋問が行われ、彼は東大寺造営で人々が苦しんでいることなどを失
政として挙げた。しかし、それはお前の父諸兄の時に開始された、と指摘され
て奈良麻呂は答えられなかった。尋問の後、さらに拷問を続けさせ、古麻呂や
東人を始め皇位擁立候補者の黄文王(きふみのおおきみ)、道祖王(ふなとの
おおきみ)らは杖下に拷問死した。記録にはないが恐らく奈良麻呂も同様であ
ったと考えられる。これは裁判などになると光明皇太后の赦免などの動きがあ
ることを恐れた仲麻呂が絶好の機会を利用し政敵を一網打尽にしたのであろう。
(続日本紀)


[1250] 推古十五年(607)七月三日 2004-07-02 (Fri)

 小野妹子、遣隋使として派遣さる。
 日本書紀の記録する小野妹子(おののいもこ)以下の最初の遣隋使がこの日
(恐らく飛鳥の都を)出発した。
 隋の歴史書「隋書」によればこの時の使者は大業三年(607)に日本の王
多利思比孤(たりしひこ)の使者蘇因高(そいんこう、小野妹子の音写)が朝
貢し、「聞くところによると海西の菩薩のような天子が重ねて仏法を興隆させ
ている、ということなので使者を派遣して朝拝させ、あわせて僧侶数十人を留
学させたい」と告げたという。しかし、その国書は「日出づる処の天子、書を
日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」で始まっており、怒った隋
の皇帝煬帝(ようだい)は鴻臚卿(こうろけい、外務大臣)に「蛮夷の書状に
は無礼なものがある。こんなものは二度と取り次ぐな」と命じたという。しか
し翌年には気を変えて文林郎(外交関係の役所の最下級官吏)の裴世清(はい
せいせい)を使者として百済経由で日本に派遣した。これはこの九年前に文帝
によって高句麗遠征が行われたものの風雨のため壊滅、それ以降も遠征の機会
を狙っていたため高句麗への牽制の意味があったと思われる。現にこの年にも
高句麗に改めて謝罪させている。
 小野氏はもともと近江滋賀郡の豪族であったがこの妹子以降は石根(いわね、
宝亀八年遣唐副使)、滋野(しげの、同年判官)、篁(たかむら、承和五年遣
唐副使、但し彼は病と称し出発せず)、毛野(けの、持統九年遣新羅大使)、
馬養(うまかい、養老二年遣新羅大使)、田守(たもり、天平勝宝五年遣新羅
大使、天平宝字二年遣渤海大使)など外交関係や大宰府関係で重用された。
(日本書紀)


[1249] 天平勝宝元年(749)七月二日 2004-07-01 (Thu)

 孝謙天皇即位、天平勝宝改元。
 この日、聖武天皇が退位され、平城宮大極殿において皇太子である娘の阿倍
内親王が即位された。孝謙天皇である。その譲位を告げる宣命(和文の詔書)
には元正天皇から天智天皇の定められた「改(かは)るましじき常(つね)の
典(のり)」に基づいて譲位された聖武天皇だが、「万機(よろづのまつりご
と)密(しげ)く多くして」この身にはもう堪えられないのでわが子に譲位す
る、という聖武からの言葉と、自分は「拙(つたな)く劣(をぢな)くあれど
も」みんなが「明(あか)き浄(きよ)き心を以て誤(あやま)ち落とすこと
無く助け仕(つか)へ奉(まつ)る」ことで天下を平安に治めることができる、
という協力を求めた孝謙天皇からの言葉がある。あわせて叙位・任官が行われ
たが、特にこの日藤原仲麻呂が大納言(だいなごん、大臣に次ぐ顕職)に任ぜ
られたのが目を引く。いよいよ仲麻呂が実権を得るようになって来た。
 しかし、譲位が公式に行われたのはこの日であってもこれより前の閏五月二
十日には自らを「太上天皇沙弥(しゃみ、僧)勝満」と称しており、さらにそ
の二十三日には薬師寺宮(薬師寺内に造営した御所?)を御在所とされており、
実質的にはもう既に出家のために皇位から退いていたらしい。
 同日、この年四月に改元したばかりの天平感宝の年号は再び改元、新しく天
平勝宝の元号が建てられた。年内の二度の改元は日本ではこの年のみ。なお、
天平勝宝は七年になって「年」をやめて「歳」を用いることとされたため、そ
れ以降天平勝宝九歳(757)に天平宝字と改元されるまでの三年間は「天平
勝宝七歳」などと表記される。
(続日本紀)


[1248] 雄略九年(465)七月一日 2004-07-01 (Thu)

 田辺伯孫、自分の馬と埴輪の馬を交換。
 この日、河内国(大阪府東部・南部)から不思議な事件が報告された。それ
によると同国飛鳥戸(あすかべ)郡(河内飛鳥、大阪府柏原市・羽曳野市)の
人、田辺伯孫(たなべのはくそん)の娘は隣の古市郡(羽曳野市)の人、書加
竜(ふみのかりょう)に嫁いでいた。その娘が男の子を産んだ、と聞いた伯孫
は娘婿の家を訪ねてお祝いをし、月夜になって帰途についた。その途中、誉田
の御陵の下で赤い馬に乗った人と出会った。大変立派な馬であるのを見て伯孫
は内心欲しいと思い、自分の葦毛の馬に鞭を当て、赤馬と並んだ。すると赤馬
は忽ち疾駆して行き、伯孫が必死に追いかけてもおいつくことが出来なかった。
その赤馬に乗った人は伯孫が自分の馬を欲しがっているのを知ると馬を停め、
自分の赤馬と伯孫の葦毛馬を交換してくれた。駿馬を手に入れた伯孫は大変喜
び、走らせて自分の家に帰ると厩に入れ、鞍を外して秣(まぐさ)を与えてそ
の夜は眠った。
 ところが、あくる朝、その馬を見たところ埴輪の馬になってしまっていた。
不思議に思った伯孫は誉田の御陵の所まで行ってみると埴輪の馬が並んでいる
間に自分の馬も立っていた。そこで馬を取り返し、その代わりに埴輪の馬を置
いて帰ってきた、という。
 誉田の御陵は応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)。当時
この御陵のところには埴輪の馬が並べられていたことがわかる。また一方、こ
の時伯孫が娘の嫁ぎ先を訪ねていることからは当時の婚姻形態が必ずしも「妻
問い婚」だけでなく「嫁入り婚」もあったということになる。
(日本書紀)


[1247] 持統六年(692)六月三十日 2004-06-29 (Tue)

 藤原宮の場所を視察。
 この日持統天皇は新都建設が進む藤原宮の現場を視察された。
 藤原宮の初出は持統四年十月二十九日、高市皇子による視察記事であり、そ
の後翌年十月二十七日に使者を派遣して「新益京(あらましのみやこ)を鎮祭
(今日の地鎮祭?)された記事がそれに続く。この年になって一月十二日には
初めて持統天皇自身が新益京の路を視察されている。そして翌年二月十日には
造京司の衣縫王(きぬぬいのおおきみ)らに掘り出した尸(しかばね)を収容
させている。これは新京造営に伴って破壊された古墳に葬られていた遺体を指
すと思われ、逆に言えば造営の進展をも示すものであろう。同年八月一日、そ
して翌持統八年一月二十一日の視察を経て十二月六日にこの日本初の本格的都
城に遷都が行われた。
 従来は「日本書紀」に記録されたこういった記事から藤原京は持統朝に建設
が開始されたと理解されていた。ところが、藤原京跡の発掘調査の進展により
予想外の事実が発見されていった。この藤原京の都市計画に天武天皇により創
建された本薬師寺がすっぽりと入ることが明らかになったのである。このこと
は藤原京の建設計画は既に天武朝において立てられており、本薬師寺の造営も
その都市計画の一環であったことを示すものである。確かに日本書紀にも天武
十三年(684)二月二十八日に広瀬王・大伴安麻呂らをはじめ技術者までも
畿内に遣わして都を造営する適地を調べさせ、三月九日には天皇自ら「京師を
巡行し、宮室の地を定め」たことが記されている。これらの記事こそが藤原京
造営の開始であり、持統天皇はその遺志を継いで新京を造営されたことになる。
(日本書紀)


[1246] 天武元年(672)六月二十九日 2004-06-28 (Mon)

 大伴吹負、飛鳥古京を制圧。
 孝徳天皇の時代に大伴長徳(おおとものながとこ)が右大臣となった大伴氏
は恐らく孝徳天皇派であったのか、斉明・天智両朝には逼塞を余儀なくされて
いた。そんな大伴氏にとって壬申の乱は千載一遇の機会であった。近江の大友
皇子と吉野の大海人皇子の対立が深まるに及び大伴馬来田(まくた)・吹負
(ふけひ)の兄弟(長徳の弟)は最後には大海人皇子が勝つことを確信し、病
と称して倭(やまと)にあった家に退いた。そして馬来田は大海人皇子の東行
に従ったが吹負は倭に留まり、大功を挙げる機会を狙っていた。しかし、彼の
挙兵に従おうとする者は同族など僅かに数十人に過ぎなかった。
 この日、吹負は飛鳥京の留守司の官僚である坂上熊毛(さかのうえのくまげ)
と共謀、数人の倭漢(やまとのあや、渡来氏族、有力な軍事力を有した)氏に
彼が高市皇子と偽って数十騎の軍を率いて飛鳥寺の北路から襲撃するので内応
するように告げた。
 そして秦熊(はだのくま)にふんどし一丁で馬を駆らせて飛鳥寺の西の軍営
の中で「高市皇子、不破より至りませり。軍衆(いくさのひとびと)多(さわ)
に従へり」と叫ばせた。この時、留守司の長官高坂王(たかさかのおおきみ)
と近江方の徴兵使穂積百足(ほづみのももたり)以下がこの軍営にあったが熊
の叫ぶ声を聞き兵たちは逃げ去った。そこへ吹負が襲撃、直ちに熊毛が従い、
なかなか従おうとしない百足を射殺、高坂王や兵士たちを自軍に引き入れ、こ
こに飛鳥古京を制圧した吹負は甥の安麻呂を不破に遣わし大海人に報告、将軍
に任ぜられた吹負のもとには三輪高市麻呂らの豪族が続々と集まった。
(日本書紀)


[1245] 養老四年(720)六月二十八日 2004-06-28 (Mon)

 丈部路石勝の子、自らを奴として父の罪を贖う。
 この日、漆部司(ぬりべのつかさ)の下級官僚の丈部路石勝(はせつかいべ
のみちのいわかつ)と直丁(じきちょう、雑役夫)秦犬麻呂(はだのいぬまろ)
の二人が官物の漆を盗んだ(業務上横領)罪によって共に流罪に処せられるこ
ととなった。
 ところが、石勝の息子たち、祖父麻呂(おおじまろ)十二歳、安頭麻呂(あ
ずまろ)九歳、乙麻呂(おとまろ)七歳の三人が(恐らく)元正天皇への直訴
を行った。「父は私たちを養うために罪を犯してしまいました。そしてそのた
め遠方へ流罪とされてしまいました。私たちは父を救うため死罪をも覚悟して
申し上げます。どうか私たち三人を官奴(かんぬ、政府所属の奴隷)に落とし
てそのことで父の罪を贖(あがな)わせて下さい」と。
 これは当時の政府の人々をも深く感動させたらしい。「人の百の行動の中で
特に最優先すべきものは孝敬である。今、祖父麻呂たちは身を奴隷に沈めても
父の罪を贖ってその命を救おうという。まことに憐れむべきである。申し出に
従って三人を官奴とし、代わりに父石勝の罪を許す」という詔が出された。但
し、もう一人の犬麻呂は先の決定の通り流罪とされた。
 これは三人の子供たちに残酷に見えるかも知れない。しかし、もし彼らを奴
隷にすることもなく許したら、模倣する者が続出したのではないだろうか。が、
当時の政府の判断は申し分のないものであった。この日から一ヶ月も経たない
七月二十一日、彼ら兄弟は官奴から解放され、もと通りの身分とされた。その
日、涙の再会をした親子の間でどのような会話がなされただろうか。
(続日本紀)


[1244] 天武元年(672)六月二十七日 2004-06-26 (Sat)

 大海人皇子、不破に到着。
 この前日、桑名に到着された大海人皇子は高市皇子を不破に派遣、軍事を総
監させた。また山背部小田(やましろべのおだ)・安斗阿加布(あとのあかふ)
らに東海道(尾張・三河など)の、稚桜部五百瀬(わかさくらべのいおせ)・
土師馬手(はじのうまて)らに東山道(飛騨・信濃など)の軍勢をそれぞれ徴
発させた。
 しかしこの日高市皇子は御所が遠くて政務に不便であるから、として大海人
の出御を乞うた。このため、大海人皇子は妃の菟野皇女(うののひめみこ、後
の持統天皇)を残し桑名を出て不破に入られた。菟野皇女はその後乱の終結ま
で桑名に留まられる。不破郡衙(垂井町府中付近?)に入られる頃に尾張守小
子部●鉤(ちいさこべのさひち、●は金+且)が二万の大軍を率いて大海人皇
子に従われた。そして大海人は改めて軍事を高市皇子に委ね、自らは野上(の
がみ、不破郡関ヶ原町東部)の行宮に留まられた。
 不破(ふわ)は伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)とともに後に三関(さん
げん)と呼ばれる東国を扼する関所が設置された。ここはこれより九百年余り
後の決戦の舞台ともなった。発掘調査の結果推定されていたとおり不破の関は
東国からの来襲を防ぐのではなく、畿内側を正面とする、つまり畿内の反乱勢
力などの東国への脱出を阻止する構造になっていた。
 一方の近江方は事態の急転に動揺しながらも東国・倭京(やまとのみやこ)
・筑紫・吉備に使者を派遣し軍を集めさせたが、東国への使者は大海人方に抑
留され、筑紫では拒絶されるなど後手後手に回ってしまった。
(日本書紀)


[1243] 天武元年(672)六月二十六日 2004-06-25 (Fri)

 大海人皇子ら、伊勢神宮を遙拝。
 二十四日、吉野を脱出された大海人皇子一行はその日のうちに菟田(うだ)
の吾城(あき、奈良県大宇陀町阿紀神社付近?)に到着、ここで後を追って来
た大伴馬来田(おおとものまくた)たちが合流、さらに大伴朴本大国(おおと
ものえのもとのおおくに)以下の猟師たちを加えるなどして次第に勢力を増強
して夜半には隠(なばり、三重県名張市)郡に到着し、その駅家を焼いて村の
中で「天皇陛下が東国に入られる。人夫たち、供奉するように」と呼ばわった
が応じる者は一人もいなかった。
 更に進んで横川(名張市中村)で黒雲を見た。大海人皇子はこれを見て占い
を行い、天下二分の相であり、最後には自分が天下を得る、という結果が出た。
その後は伊賀郡を過ぎて郡司たちの率いる軍勢を合流させ、二十五日の朝には
積殖山口(つむえのやまぐち、伊賀町柘植)で大津京を脱出してきた高市皇子
(たけちのみこ)などが合流、国境を越えて伊勢の鈴鹿(三重県鈴鹿市)に入
り、ここで伊勢国司の軍が合流、これによって鈴鹿の関を封鎖した。川曲(か
わわ)の坂下(さかもと)でこの日も暮れたが降雨のため更に進んだ。
 そしてこの日朝、朝明(あさけ)郡の迹太川(とおかわ、三重県四日市市の
朝明川?)ではるか南の伊勢神宮を遙拝、戦勝を祈願した。後に娘の大伯皇女
(おおくのひめみこ)を斎王として派遣するなど伊勢神宮を整備するのはこの
時の戦勝の報恩の意味からであろう。そして大津宮を脱出してきた大津皇子ら
とも合流、美濃の軍勢の動員に成功して不破(ふわ、岐阜県関ヶ原町付近)の
封鎖に成功した一行は桑名の郡衙(ぐんが、郡の役所)に宿泊された。
(日本書紀)


[1242] 宝亀九年(778)六月二十五日 2004-06-24 (Thu)

 征夷の有功者に叙爵。
 宝亀七年二月六日、陸奥国は律令政府との対立を深める蝦夷(えみし)を鎮
圧するために二万の大軍を発して四月上旬から軍事行動を起こすことを求めた。
政府はあわせて出羽にも四千の軍でその蝦夷を西方からも攻撃するように命じ
た。その後は五月二日、出羽志波村(後には陸奥に所属、岩手県盛岡市付近?)
の蝦夷(えみし)が反乱を起こした記事など関係記事が散見され、その翌年に
も軍事行動が繰り返されたらしい。そして八年十二月十四日には陸奥鎮守将軍
紀広純(きのひろすみ)が「志波村の賊軍が強勢で出羽の鎮圧軍を破ったため
救援軍を派遣して鎮圧した」旨を報告しており、この段階で軍事行動は終息す
る予定であったらしい。ところが、同月二十六日には再び出羽の蝦夷が反乱を
起こし、予定された広純らへの褒賞は延期されていたらしい。
 この日陸奥・出羽の国司以下、この長期にわたった軍事行動で功績のあった
者合計2267人に官位や勲位が与えられた。先の反乱の鎮圧記事は見られないが、
漸く情勢も安定してきたのであろう。なお、ここでいう勲位は官位とは別体系
の軍事的な功労などに対して与えられる位であって明治以降のように勲章を伴
うものではない。
 この日叙爵された按察使(あぜち)紀広純、陸奥鎮守権副将軍佐伯久良麻呂
(さえきのくらまろ)らとともに吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)や伊治
呰麻呂(これはりのあざまろ)ら朝廷に従う蝦夷の族長の名前も見られる。こ
のうち呰麻呂はこの二年後には広純を殺して反乱を起こし、陸奥国府多賀城
(宮城県多賀城市)を全焼させた人物である。
(続日本紀)


[1241] 天武元年(672)六月二十四日 2004-06-23 (Wed)

 大海人皇子吉野脱出、壬申の乱勃発。
 この前年天智十年十月十七日、重い病に沈む天智天皇は皇太弟の大海人皇子
(おおあまのみこ、天武)を呼び、後事を託そうとした。しかし、大海人は先
に使者の蘇我安麻呂(そがのやすまろ)から警戒するように忠告されていたた
めこれを辞退、自分は病気のためとても激務に耐えない、として大友皇子を皇
太子に立て、天下を皇后倭姫王(やまとひめのおおきみ、古人大兄皇子女、舒
明孫)に託すことを勧め、自らは出家して吉野に引退した。真意は自らの子で
ある大友皇子への譲位にあった天智はこれを許可、大海人の吉野隠遁を確認し
た後、群臣に何度も大友皇子への忠誠を誓わせて十二月三日に崩御された。
 その後吉野と大津との間の緊張関係は続いたが、この年五月になって大海人
の舎人(とねり、側近)の朴井雄君(えのいのおきみ)が近江方が山陵造営の
ためとして集めた人夫を武装させていることを告げた。そのほかの情報も近江
方が既に臨戦態勢に入っていることをうかがわせるものであった。
 このため、大海人は領地のある美濃安八磨郡(あはちまのこおり、岐阜県大
垣市周辺)への脱出を決意したが。ことは急を要するため、官道と駅馬の利用
を図った。そこで、去就がつかめなかった飛鳥古京の留守居役、高坂王(たか
さかのおおきみ)の動静を探る意味もあって彼に官道の利用許可証である駅鈴
の貸し出しを依頼する使者を派遣した。しかし、彼はこれを拒絶。この情報が
近江方に伝わるのは確実であるため、その夜迫り来る危険に大海人は妃の鵜野
讃良皇女(うのさららひめみこ、天智皇女、後の持統天皇)らを伴って吉野宮
を脱出、美濃を目指しての決死の脱出行が開始された。
(日本書紀)


[1240] 和銅六年(713)六月二十三日 2004-06-22 (Tue)

 甕原離宮に行幸。
 この日、元明天皇は平城宮を出て甕原離宮(みかのはらのとつみや)に行幸
され、二十六日まで滞在された。
 甕原離宮は京都府相楽郡加茂町法花寺野付近にあったと思われる離宮。この
行幸を初出として和銅七年閏二月、霊亀元年(715)三月、七月、神亀四年
(727)五月、天平八年(736)三月、十一年三月と行幸が何度も繰り返
された。そして天平十二年十二月以降にはこの離宮付近が新しい都、恭仁京と
されて宮都が造営され、翌十三年閏三月には平城宮の武器が甕原宮に運ばれる
などの記録が残されている。そのほか、万葉集は神亀二年三月にも三香原離宮
への行幸があったことを記し、笠金村(かさのかなむら)の歌が残されている。
 三香の原 旅の宿りに 玉桙(たまほこ)の 道の行(ゆ)き逢ひに
 天雲(あまくも)の 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ
 よしのなければ 心のみ むせつつあるに 天地(あめつち)の
 神言寄(ことよ)せて しきたへの 衣手(ころもで)交(か)へて
 自妻(おのづま)と 頼める今夜(こよひ) 秋の夜(よ)の
 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも (巻四・546)
(現代語訳)甕原の 旅の仮寝で <玉桙の> 道中出会い <天雲の>
 遠くで見るだけで 言葉をかける 機会もないので 心ばかり
 むせるように息苦しくいたのに 天地の 神の思し召しで <しきたえの>
 袖を交わして 我が妻として もたれてくれる今夜は 秋の夜の
 百夜の分も長く あって欲しいものだ
(続日本紀)


[1239] 天平宝字三年(759)六月二十二日 2004-06-21 (Mon)

 官人・僧侶の意見に基づく施策を実施。
 この年五月九日、淳仁天皇は五位以上の官僚と師位以上の僧侶に対して政治
に関する意見を密封して提出するように求めた。そうして集まった意見に基づ
きこの日いくつかの政策が実施されることとなった。
中納言石川年足(いしかわのとしたり)「律令の施行細則である格式(きゃく
しき)が未整備なのでこれを制定して欲しい。」
参議文室智努(ふんやのちぬ)・少僧都(しょうそうづ)慈訓(じきん)「毎
年正月に全国の寺院で行われる悔過で食費が国の負担となっているためそれを
目当てに乞食坊主が来る。いっそこの食事支給を停止してもらいたい。」
参議氷上塩焼(ひかみのしおやき)「三世の皇族はその出自を尊んで禄が与え
られているはずなのに実際には一般の官僚と同様に出勤日数に応じた支給とな
っている。令の規定通り出勤日数は不問としてもらいたい。」
播磨大掾(はりまのだいじょう)山田古麿「子沢山の百姓でその子たちが成年
に達したとき親子共に課税するのは酷。庶民が男子五人以上を生んだ時にはそ
の課役を免除していただきたい。」
興福寺僧玄基「破損した寺院の修理を励行して欲しい。」
元興寺僧教玄「私度僧(無許可で僧になる者)を禁断し還俗させて欲しい」
東大寺僧普照「七道の駅路(官道)の両側に果樹を植えて欲しい。そうすれば
往来の人々は夏は木陰で休み、飢えたらその実を食べられる。」
唐僧曇静「殺生禁断のため諸国に放生池を設置してもらいたい。」
 但し、日本の実状にあわずに結局実施されなかった施策も多かったという。
(続日本紀)


[1238] 用明二年(587)六月二十一日 2004-06-20 (Sun)

 善信尼、百済で戒法を学ばんとする。
 この日、善信は蘇我馬子に「僧尼の道は戒律こそが根本です。願わくは百済
(くだら)に渡って戒律を学んで伝授したい」と語った。
 善信は鞍部司馬達等(くらつくりのしまのたちと)の娘で俗名は島(しま)
と言った。敏達十三年(584)九月、百済から弥勒菩薩の石像などがもたら
された時、十一歳で出家して日本最初の尼僧となった。そして出家したその弟
子で漢人(あやひと)夜菩(やぼ)の娘豊女(とよめ)、出家して禅蔵、錦織
壺(にしごりのつふ)の娘石女(いしめ)、出家して恵善らとともに馬子の邸
宅に建立された仏殿(後の石川精舎、飛鳥寺の前身)に居住することとなった。
 彼女たちは敏達十四年の物部守屋の破仏に際しては僧衣を剥がれて海石榴市
(つばきち)の亭(うまやたち、駅の施設)でむち打たれるが、六月には馬子
のみの崇仏が認められ、それとともに彼女らも馬子のもとに戻され、石川精舎
にて修行を続けていた。この日の申し出は独学で勉強することの限界から留学
して正しい師について学びたい、という意思表示であろう。
 この翌崇峻元年(588)、百済が僧を派遣し、あわせて仏舎利や造寺の技
術者たちを献上した時、馬子は百済使に受戒の方法を聞き、その結果彼女たち
は念願の百済留学を果たすこととなった。
 その後、三年三月になって帰国した彼女たちは桜井道場(後の豊浦寺)に住
んだらしい。その後の消息は残されていない。なお、飛鳥大仏を造像したこと
で知られる鞍作鳥(くらつくりのとり)は彼女の甥に当たり、鞍作氏は一族を
挙げて仏教の受容に貢献したことになる。
(日本書紀)


[1237] 天平元年(神亀六年、729)六月二十日 2004-06-19 (Sat)

 背中に文字をもった亀、献上される。
 この日、左京職(さきょうしき、平城京の左京を管轄する役所)から一匹の
亀が献上された。その亀は長さ五寸三分(16cm)、広さ四寸五分(13.5cm)で
その背中には「天王貴平知百年」の文字が浮き出ていた。敢えて意味を取ると
「天王(天皇)は貴く、平らかに知る(統治する)こと百年」とでもなるだろ
うか。当時の京職の大夫(長官)は藤原麻呂(ふじわらのまろ、左京大夫・右
京大夫を兼任)であり、この年二月の長屋王の抹殺に続く光明子立后のための
布石であろうか。
 背景はともかく、この事件は当時は瑞祥現象、つまり名君の仁政をたたえて
天がめでたいしるしをつかわしたもの、と理解され、八月五日になってからこ
の文字から「天平」と改元されることになる。その日あわせて亀を捕った人、
河内古市郡の無位賀茂子虫には従六位上(通常無位の者がどんなに努力しても
一生達することは出来ない)の位と多くの物が与えられ、彼に献上を勧めたと
いう唐僧道栄にも厚い褒賞が与えられた。そうして八月十日には光明子がいよ
いよ皇后に立てられたのであった。
 平城京の繁栄を象徴するこの「天平」の年号は最初からかくもいかがわしい
ものであった。そしてその経緯が象徴するようにこの文字とは正反対にこの年
二月の長屋王の変に始まり、疫病の大流行、藤原広嗣の乱、頻繁な遷都・彷徨、
橘奈良麻呂の変、恵美押勝の乱、道鏡の専横と皇位簒奪未遂という陰惨な事件
を重ねた末、百年どころか五十年足らずで聖武天皇に連なる子孫は根絶やしに
されてしまう。
(続日本紀)


[1236] 大化元年(645)六月十九日 2004-06-19 (Sat)

 群臣盟約、大化改元。
 蘇我氏討滅後、皇極天皇の譲位を受けて政権を掌握した孝徳天皇は皇祖母尊
(すめみおやのみこと、皇極上皇)、皇太子(中大兄皇子)らを引き連れ、飛
鳥寺の西にあった大槻の木のもとに群臣を集め天神地祇(天上の神々と土着の
神々)にかけて新政権への忠誠を誓わせた。またこの時初めて元号が定められ、
この年(それまで皇極四年)を改めて大化元年とされた。
 日本書紀では孝徳天皇は「仏法を尊び神道を軽(あなづ)りたまふ」とされ
ているが、ここでも飛鳥寺の西に群臣を集めながらその盟約は神の名において
なされている。また、中臣氏と並ぶ祭祀氏族、忌部(いんべ)氏の長老忌部広
成(いんべのひろなり)が専権を極める藤原氏とその同族中臣氏に圧倒されて
次第に古来の祭祀がおろそかになっていることを嘆き、平城(へいぜい)天皇
に献上した忌部氏の立場から歴史を綴った著「古語拾遺」には逆に孝徳天皇の
時代に神祇制度が整ったことを述べており、批判はまったく見られない。一方
で日本書紀は孝徳について「人となり、柔仁にましまし儒を好みたまひ、貴賤
を択(えら)ばず、頻りに恩勅を降(くだ)したまふ」とも述べており、事実
孝徳朝初期における果敢な政策は特筆に値する。しかし、治世後半になると明
らかに政治は孝徳でなく中大兄皇子を中心に動いており、最後には孝徳は中大
兄や皇極上皇、果ては皇后にまで見捨てられ、一人寂しく難波宮に取り残され、
最後を迎える。このことを考えると実際に大化改新を主導したのは孝徳天皇で
あり、あまりに性急な改革はやがて反発を招き、反対勢力の先頭に立った中大
兄皇子に実権を奪われたのではないだろうか。
(日本書紀)


[1235] 天平十八年(746)六月十八日 2004-06-17 (Thu)

 玄ぼう、配流先で卒す。
 玄ぼう(げんぼう、「ぼう」は「日」偏に「方」)は俗姓阿刀(あと)氏。
霊亀二年(716)、多治比県守(たじひのあがたもり)以下の遣唐使に従っ
て学問僧として唐に渡った。唐の玄宗皇帝からその才能を買われ高貴な色とさ
れる紫色の袈裟の着用を許されるに至った。そしてその次の遣唐使、天平四年
(732)の多治比広成(たじひのひろなり)以下が帰国する際、ともに帰国
した。その時、五千巻以上もの膨大な経論や仏像などを将来、仏教を重んじる
聖武天皇を狂喜させた。そればかりか、聖武天皇を産んで以来その精神を病み、
久しく人と会うことが出来なかった文武天皇の皇太夫人宮子も彼と会ってから
正気に戻り、天平九年に聖武天皇と母子の対面を果たすことが出来たこともあ
って非常に重用された。
 しかし、彼や吉備真備(きびのまきび)などが唐で学んで得た知識を生かし
て活躍することに危機感を覚えた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は天平十二
年に彼ら二人を除くことを訴えて大宰府に反乱を起こした。この藤原広嗣の乱
自体は朝廷側の果断な処理と将軍大野東人(おおののあずまひと)の適切な指
揮で鎮圧されたものの、その後政権を掌握して行く藤原仲麻呂に逆ににらまれ、
天平十七年十一月にはついに大宰府観世音寺(福岡県太宰府市)に左遷され、
この日失意のうちに世を去った。時の人はその死は藤原広嗣の怨霊の祟りによ
ると噂したという。なお、この時の怨霊の噂は日本史上における怨霊(に相当
する)記事の初見であり、やがて恨みを呑んで死んだ者が特定の相手に祟る、
という怨霊は平安初期に御霊(ごりょう)信仰として定着して行く。
(続日本紀)


[1234] 延暦元年(天応二年、782)六月十七日 2004-06-16 (Wed)

 大伴家持、陸奥按察使鎮守将軍に任ぜられる。
 この日の任官で春宮大夫(しゅんぐたいぶ、皇太子に関する庶務を司る役所
の長官)従三位大伴家持は陸奥按察使(みちのおくのあんせちし、福島・宮城
の行政監察官)鎮守将軍(ちんしゅしょうぐん、同地の常設軍事司令官)の兼
務を命ぜられた。
 家持はこの時六十五歳前後と見られ、この時点では兼任でもあり陸奥に赴い
た訳ではなかったらしく、翌年七月には中納言に昇進している。しかし、さら
に翌延暦三年には蝦夷(えみし)征討のための征東将軍(後の征夷大将軍)に
任ぜられ、結局高齢を押して陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)にまで赴任し
たらしい。四年四月には彼は陸奥のうち多賀城以南の十四郡を仮設の郡から通
常の郡に昇格させて統治することを求め、認められている。一方で軍事的な動
静は記録にないまま同年八月に亡くなってしまうのは恐らく彼が現地の実状を
よく理解し、強硬策でなく協調策で臨んだためではないだろうか。現にこの間
蝦夷の反乱関係の記事も見られない。長い長い下積みでの苦労や「万葉集」で
知られる彼の温和な人柄が偲ばれる。
 一方、この時の「春宮大夫」の職は亡くなるまで兼任した。皇太子早良親王
(さわらのみこ)は家持の強い影響下に育ったのであり、家持の陸奥赴任は或
いは二人を引き離す意図があったのかも知れない。そして家持の亡くなった翌
月に発生した藤原種継暗殺事件では既に鬼籍にあった家持が首謀者、皇太子の
早良親王が黒幕、とされて大伴氏が壊滅的打撃を受けると共に無実の疑いを受
けた早良親王は食を断って憤死する、という悲劇へとつながって行く。
(続日本紀)


[1233] 文治二年(1186)六月十六日 2004-06-15 (Tue)

 源有綱、大和宇多にて敗死。
 平家を壇ノ浦に滅ぼすという大功を立てた源義経であったが、許可を受けず
に官位を与えられたことがきっかけとなり兄頼朝と亀裂が深まり、鎌倉入りを
も拒絶されて空しく京で時を過ごしていた。頼朝に反旗を翻そうとする叔父の
行家の誘いも最初のうちこそ自重していた彼であったが頼朝が刺客土佐坊昌俊
(とさのぼうしょうしゅん)を送り込むに及んで遂に立ち、文治元年十一月二
日、後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。そして反頼朝勢力を糾合し
ようと図った。これに応じた一人が源有綱(みなもとのありつな)であった。
有綱は宇治川の合戦で壮烈な戦死を遂げた源仲綱の次男で源三位頼政の孫にあ
たる。彼は源義経の娘婿であった上に代々大内守護、御所の警衛を任じてきた
家柄であり、院宣が出た以上は従うのは当然であった。また彼ら摂津源氏は源
氏の嫡流であり、河内源氏の頼朝は分家筋に当たった。心情的にも頼朝の下風
に立つことは出来なかったし、逆に頼朝から見れば目障りな存在であった。
 彼らは頼朝の抑える東国に対抗して西国に基盤を置こうと大物浦(だいもつ
のうら、兵庫県尼崎市大物)から出航して九州を目指したが激しい西風によっ
て流され、住吉の浦(大阪市住吉区)に打ち上げられ、軍勢も四散してしまっ
た。残ったのは僅かに義経、有綱と堀弥太郎、武蔵坊弁慶、そして義経の愛妾
静の五人だけとなった。彼らは吉野に逃れ、女人禁制の大峰山で静と別れ、消
息を絶った。有綱はその後義経と別行動を取ったらしい。
 そしてこの日大和宇陀郡で有綱は義経残党を捜索中の北条時定(時政の甥)
に見つかり、戦ったが衆寡敵せず深山に入って自決した。
(吾妻鏡 文治二年六月二十八日)


[1232] 推古十六年(608)六月十五日 2004-06-14 (Mon)

 隋使難波津に到着。
 聖徳太子が推古十五年に派遣した小野妹子以下の遣隋使は目的を達し、隋の
使者を伴ってこの日難波津に帰着した。対等外交を目指す日本側は「日出づる
処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」で始まる国
書は当初隋の皇帝煬帝(ようだい)を激怒させたが、高句麗への軍事行動を予
定していた隋としてもその後背になる国を無視するわけにもいかなかった。恐
らく日本側も国書の書き換えなどを行ったのであろう。中華帝国にとって対等
外交というものは(武力で屈服されない限り)そもそもあり得ないものであっ
た。但し、この時派遣された隋の使者裴世清(はいせいせい)は最下級の官僚
であり、隋の意識はその程度のものでしかなかった。しかし、それでも中華王
朝から使者が来るのは雄略朝以来の出来事であり、この日は天満川に飾船三十
艘を並べて歓迎した。
 しかし、ここで大問題が発覚した。妹子が百済を通過するときに隋からの国
書を盗まれた、というのである。隋使の手前もあって妹子の処罰は見送られた
が、恐らくこれも紛失ではなく、あまりにも日本を見下した内容(妹子による
国書の書き換えを示すものでもあっただろう)のためにとてものことに提出す
ることが出来なかったのであろう。
 八月三日、隋使は京に入り、その時には飾り馬七十五匹を海石榴市(つばき
ち)の衢(ちまた)に並べて歓迎、そして十二日にはいよいよ朝廷に招いて隋
帝の書が伝えられた。この書が妹子の紛失したものと同じかどうかは不明だが、
その文書形式は明らかに日本をはるかに見下したものとなっている。
(日本書紀)


[1231] 皇極四年(645)六月十四日 2004-06-14 (Mon)

 皇極天皇、孝徳天皇に譲位。
 乙巳の変で蘇我氏本宗家が滅亡した後、この日に皇極天皇は皇位を中大兄皇
子(なかのおおえのみこ、舒明皇子)に皇位を譲ろうと詔を下した。しかし、
中大兄は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌足)の忠告に従い、辞退し
た。そこで天皇は次に軽皇子(かるのみこ、皇極弟)に譲位をしようとしたが
彼も再三辞退し、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、舒明長子)を推薦
した。ところが古人大兄も辞退した上、出家して吉野に入り仏道修行をする、
として法興寺(飛鳥寺)の仏殿と塔の間で剃髪して袈裟を着た。このために軽
皇子は辞退できなくなり、壇(たかみくら、高御座)に登って即位された。こ
の時、大伴長徳(おおとものながとこ、家持の曾祖父)と犬上健部(いぬがみ
のたけるべ)が金の靫(ゆき、矢を入れる容器)を帯びてそれぞれ壇の右左に
立ち、官僚たちが列をなして巡り拝んだ。これまで天皇の位はすべて終身であ
ったのがここに史上初めて生前譲位が実現されたことになる。また即位式の様
子が記述されるのもこれが初めてである。
 同日、中大兄を皇太子とし、阿倍内麻呂(あへのうちまろ)を左大臣、蘇我
倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣に任じ、中
臣鎌子を内臣(うちつおみ、側近の長?)に任じた。
 以上が「日本書紀」の伝える譲位の経緯であるが、実際には律令制以前の皇
位継承は同世代の皇位継承権者が順次皇位に立ち、対象者がいなくなってから
次の世代に移っている。それを考えるとき、この時の継承順位は古人大兄、軽、
中大兄の順になり、この時の中大兄皇子の即位は実際には考えられなかった。
(日本書紀)


[1230] 推古二十二年(614)六月十三日 2004-06-13 (Sun)

 犬上御田鍬ら、遣隋使として派遣される。
 この日、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)・矢田部某(名は伝わらない)
以下の遣隋使が派遣された。
 遣隋使は日本書紀によれば三回派遣された。推古十四年の小野妹子(おのの
いもこ)らによる最初の遣隋使、十六年に彼らと共に来日した隋使の送還と留
学生(るがくしょう)たちの派遣を兼ねた小野妹子・吉士雄成(きしのおなり)
以下の使節、そして今回の使節である。が、その後隋自体が煬帝(ようだい)
による高句麗遠征の失敗などによりこの四年後には滅亡してしまうので、結局
遣隋使としてはこれが最後になる。なお、「隋書」には二回記録されるが、
「日本書紀」記載のものと合計のべ六回のうち日隋両国の記録が一致するのは
推古十四年の小野妹子(隋の記録では音写により「蘇因高」)によるもののみ
である。隋側の記録にのみ見られる開皇二十年(600)の使者は事実であれ
ば最初の遣隋使になるが、当時日本は新羅などとの外交では国書を用いず口頭
伝達による外交が行われており、この時の使者も国書を持たなかったため国書
不備で放還(国外追放)された結果日本側記録から抹消されたのではないか。
 御田鍬らの使節は翌二十三年九月、無事帰国している。帰国した彼ら遣隋使
と共に百済(くだら)の使者が来日している。恐らく彼ら遣隋使の航路は百済
経由のものであったのだろう。
 なお、御田鍬はその後舒明二年(630)にも今度は最初の遣唐使として渡
唐、翌年唐使と、今度は新羅(しらぎ)の使者を伴って帰朝し、再び大任を果
たした。
(日本書紀)


[1229] 皇極四年(645)六月十二日 2004-06-12 (Sat)

 乙巳の変、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺。
 乙巳(いっし)の変は「大化改新」の幕開けとなった蘇我氏に対する政変を
指す。この日、朝鮮三国(百済・新羅・高句麗)からの使者の謁見の儀式に呼
ばれた蘇我入鹿(そがのいるか)は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌
足)の計略により剣を取りあげられた。そして皇極天皇が大極殿(おおあんど
の、宮の正殿)に出御され、次期天皇の最有力候補であった古人大兄皇子(ふ
るひとのおおえのみこ)が傍らに侍する中、入鹿の叔父の蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が三国の上表文を読み上げた。この
間に宮の門は中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の指示で閉じられ、皇子は長
槍(ながきほこ)を手に殿の側に隠れ、鎌子は弓矢でこれを守り、佐伯子麻呂
(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)の
二人が入鹿を斬る役目であったが、おじけづいて出られない。上表文も末尾に
近づき石川麻呂は冷や汗を流し声も震えた。そのために入鹿が不審を感じたの
を見て取った中大兄は子麻呂とともに躍り出て斬りつけた。入鹿は皇極天皇に
救いを求めたが中大兄皇子が蘇我入鹿の謀反の罪状を奏上、それを聞いた帝は
退出された。その後、入鹿は子麻呂や網田らにより斬殺される。古人大兄は自
邸に逃げ、中大兄は飛鳥寺に陣を構え、入鹿の遺体をその父の蝦夷(えみし)
に送り届けた。蘇我氏側に立とうと漢(あや)氏たちが武装して集合したが中
大兄の派遣した将軍巨勢徳陀(こせのとこだ)の説得で解散。翌日、蝦夷は自
宅に火を放って自決した。繁栄を極めた蘇我氏の本流はここに滅亡、いわゆる
「大化の改新」が幕を開ける。
(日本書紀)


[1228] 天平宝字二年(758)六月十一日 2004-06-10 (Thu)

 帰順した蝦夷に種子を賜う。
 この前年、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ、恵美押勝)の子朝狩(あさか
り、「狩」は正しくは旁を「葛」に)は陸奥守に任ぜられ、北辺の経営に当た
った。その成果によってこの時までに蝦夷(えみし)の男女合計一千六百九十
余人が律令政府に帰服した。ある者は故郷を離れて多賀城などの城柵周辺に移
住し、時には命に応じて兵士として蝦夷と戦い、結果として昔の仲間と仇敵の
関係となり、不安におののきながら生活していた。
 この日、陸奥国は以上のような事情を申し述べ、彼らに種子を与え、農耕を
営ませることで定住・安定させることを申請し、許可された。
 中世以降において「蝦夷」は「えぞ」と読まれるようになり、少なくとも近
世においてはそれはアイヌ人を意味するものであった。そのため、「えみし」
と呼ばれた古代において彼らの実態は果たしてアイヌ人を指すものであるのか、
それともこれら辺境に住む日本人を指すのか、古くから議論があった。今日で
もその決着はついていないが、少なくともそのどちらか一方だけを指したもの
ではなく、両者が含まれていた、と考えるのが自然であろう。律令政府は公式
には彼ら蝦夷は農耕を行わないもの、と規定していたが、実際には古くから農
耕生活を営んでいた。その一方、狩猟を行い肉食を好んだのも事実であったら
しく、生活の相違から彼らを別種の人々、としていたものであろう。
 蝦夷の側としても律令政府の進んだ農業・土木技術を受け入れることで生活
を安定・向上させようとする人々とこれを拒んで自分たちの土地を守ろうとし
た人々がいたらしく、蝦夷内部でも両者の対立が見られたものであろう。
(続日本紀)


[1227] 朱鳥元年(天武十五年、686)六月十日 2004-06-09 (Wed)

 草薙剣を熱田神宮に遷す。
 天智七年(668)、新羅の僧道行(どうぎょう)は草薙剣(くさなぎのつ
るぎ)を盗みだし、新羅に帰ろうとしたが、途中で風雨のため進路を見失い、
戻ってきた。どこからどう盗み出したのか、その後どうなったかの記録はない
が恐らくはその後取り返されて宮中に安置されていたものであろう。
 時が流れてこの年五月二十四日、天武天皇はご不予(ご病気)になられた。
そしてこの日ご病気の原因を占ったところこの草薙剣の祟り、と出た。そのた
め即日熱田社に送り置かれた。
 三種の神器の一つ、草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ば
れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した
ときその尾部から出現し、それを天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上し
た、という伝承を持つ。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に
伊勢神宮にあった倭姫命(やまとひめのみこと)から授けられ、駿河の焼津
(やきづ、静岡県焼津市)または相模の小野(神奈川県厚木市)で尊が火攻め
にあったときに草を薙ぎ払い迎え火をして難を逃れたため草薙剣と称されるよ
うになったとされる。東征からの帰途、尊はこの剣を残したまま伊吹山に登り
そのため病を得て伊勢の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で薨去された。そし
て剣は熱田神宮に祀られたという。
 しかし、熱田神宮のほか草薙神社(静岡市)などの祀る剣と天叢雲剣、そし
て三種の神器の剣との関係ははっきりと記録されたものはなく、すべて同一だ
とすると壇ノ浦に沈んだ神剣は模造品となり、当時の大騒動は不審である。
(日本書紀)


[1226] 延暦八年(789)六月九日 2004-06-08 (Tue)

 紀古佐美、蝦夷に大敗し独断で退却。
 この前年十二月七日、律令政府に激しく抵抗する阿弖流為(あてるい)の率
いる胆沢(いさわ)地方の蝦夷(えみし)を制圧するために桓武天皇の寵臣紀
古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする二万七千四百七十人に及ぶ大軍が派遣
された。五月十二日になって成果が挙がらぬことにいらだつ天皇に督促された
征討軍は衣川を渡って蝦夷を攻撃することとした。
 その征討軍から届いた六月三日付の報告は朝廷を驚倒させるものであった。
副将軍入間広成以下は前・中・後各二千人からなる部隊を編成、北上川の渡河
攻撃を企てた。中・後軍は渡河に成功、蝦夷軍三百がこれを迎撃したが退却、
征討軍は途中の蝦夷の村落を焼きながら巣伏村(江刺市?不詳)まで進撃した
が、合流しようとした前軍は蝦夷の抵抗により渡河に失敗していた。そこへ蝦
夷軍八百が猛攻を加えて来たため征討軍が押されて後退し始めたところを蝦夷
の伏兵四百に退路を断たれ挟撃を受け、壊滅的な敗北を喫したのである。別将
丈部善理(はせつかいべのぜんり)以下戦死者25、矢に当たった負傷者245、
川に逃れて溺死した者1036、裸で泳いで逃げた者1257という惨敗であった。
 これを聞いた桓武天皇は激怒、一部の分遣隊のみを派遣したからこうなった
のだ、として主力による攻撃を命じた。しかし、この日古佐美からは再び驚く
べき報告が届けられた。胆沢は奥地であり補給が困難であるため征討軍を解散
して戦地から退却する、というのである。怒り狂う天皇の再三に及ぶ督戦を無
視して九月八日に古佐美は帰京してしまった。それでも結局古佐美は処罰され
ることもなく終わった。
(続日本紀)


[1225] 大宝元年(701)六月八日 2004-06-08 (Tue)

 庶務を新令により行うことを命ず。
 この前年六月十七日に完成した大宝令はこの年三月二十一日、大宝改元と共
に官名・位号に適用されたのを皮切りに、いよいよ全国的に施行されることと
なった。四月七日から官僚たちに新令を講習し、また六月一日には大安寺で僧
尼令の講習を行った。そしてこの日、いよいよ庶務をこの新令によって行うよ
うに、という文武天皇の勅令が出された。また、あわせて国宰(くにのみこと
もち)・郡司は大税(地方に蓄えられる不動穀)を法で定められた通りに貯え
置くことを命じた。これら大税は田租をもととして各地の正倉に備蓄され、非
常時の備えとされたものである。
 またこの日七道諸国(全国)に使者を派遣、大宝令によって政治を行うなど
この日の勅の内容を知らせ、あわせて諸国の国印の様式を頒布した。但し、実
際に国印が鋳造されたのはこれから三年後の慶雲元年(704)四月九日のこ
とになる。
 大宝律令は行政法である令(りょう)十一巻と刑法に当たる律六巻からなる。
この時点では律は未完成であり、この年の八月三日に至って完成している。こ
の大宝律令そのものは一部の逸文が伝わるのみであるが、養老二年(718)
にこれを改訂した養老律令と大差がないものであったらしい。律令国家とはこ
れら律令を基本法として政治を行ったのであり、鎌倉幕府が御成敗式目を制定
した際にも形式的にはこれを尊重する立場を取り、明治維新に至っても公式に
は廃止されることなく今日に至っている。しかし、それが形式的なものであっ
たことはこのうち律の大部分が散逸して伝わらないことに端的に示されている。
(続日本紀)


[1224] 用明二年(587)六月七日 2004-06-06 (Sun)

 蘇我馬子、炊屋姫を奉じ穴穂部皇子を殺す。
 この年四月九日、用明天皇が崩御された。この急な事態は蘇我馬子(そがの
うまこ)・物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の二大豪族の対立を次期
大王を巡って先鋭化させた。
 五月、守屋の軍勢は三度鬨の声を挙げて示威を行った。その一方で彼は穴穂
部皇子(あなほべのみこ、欽明皇子)の擁立を図り、淡路での遊猟にかこつけ
て彼を密かに自宅に招いた。しかし、これは馬子の知るところとなった。
 機先を制すべく馬子はこの日炊屋姫尊(かしきやひめのみこと、敏達皇后、
後の推古天皇)を奉じて佐伯丹経手(さえきのにふて)・土師磐村(はじのい
われ)・的真噛(いくはのまくい)たちに穴穂部皇子及び宅部皇子(やかべの
みこ、宣化皇子)を殺すことを命じた。そこでこの日夜半、丹経手たちは兵を
率いて穴穂部皇子の宮を囲み、これを殺した。そしてさらに翌日には穴穂部皇
子と親しかった宅部皇子をも殺した。
 仏教受容を巡って争ったと伝えられる蘇我・物部両氏の抗争は実際には朝廷
内の地位を目指すものであったと見られる。この時、蘇我馬子に先手を取られ
て穴穂部皇子の擁立に失敗した物部守屋は泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の
崇峻天皇)や厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)らを奉じた蘇我馬子
側の攻撃によってこの翌月に敗死する。
 なお、炊屋姫尊と「尊」が付されるのは天皇崩御後は後継者が確定するまで
皇后が王権を代行する慣例によってこの時彼女が大権を代行していたためと見
られる。
(日本書紀)


[1223] 宝亀六年(775)六月六日 2004-06-06 (Sun)

 紀馬養ら漂流するも五日後無事漂着。
 紀伊国安諦郡(あてのこおり、和歌山県有田郡湯浅町)の人、紀馬養(きの
うまかい)と海部郡(海草郡下津町)の人、中臣祖父麿(なかとみのおおじま
ろ)の二人は日高郡の紀万侶(きのまろ)に雇われ、酷使されて網を引き魚を
捕っていた。
 この日、突然強風が吹き、豪雨が降って河口に水があふれ、そこにつないで
あった材木が流されて行った。そこで万侶は二人に命じてその木を取らせた。
二人は材木を集めて筏に組んで風に逆らって漕いで行ったが、激流のためにつ
ないだ縄が切れ、筏はバラバラになって河口を過ぎて海に入ってしまった。二
人は何とかそれぞれ一本の木につかまって流されて、どうしようもなく、ただ
「南無釈迦牟尼仏、どうかこの災難からお救い下さい」と必死に叫び続けた。
 五日後の夕方、祖父麿は淡路国の南西田町野の浦(淡路島、詳細不明)の塩
焼きの人が住む処に流れ着いた。馬養は更に翌日になってこちらも同じ処に流
れ着いた。土地の人が見つけて事情を聞き、憐れんで世話をして、国司に報告
した。国司も気の毒がって食糧を与えてやった。
 そして祖父麿は「殺生を仕事とする人に使役されてひどい目にあった。これ
で帰ったらまた酷使されて殺生をやめられないだろう」と淡路の国分寺(兵庫
県三原郡三原町)に入り、そこの僧に従った。馬養は二ヶ月後に帰郷したが死
んだと思って四十九日の法要も済ませていた家族は驚き、事情を聞いて互いに
悲しみ、喜び合った。そして発心して世を捨てて山に入り、仏道の修行を行っ
たという。
(日本霊異記 下・25)


[1222] 天平神護二年(766)六月五日 2004-06-05 (Sat)

 大隅の新島の鳴動により賑恤。
 天平宝字八年(764)十二月、西方に大きな音が鳴り響いた。その音は雷
(いかずち)の音に似ていたが雷ではなかった。その時、大隅と薩摩(鹿児島
県東部と西部)の堺に煙と雲が充満し、稲妻のようなものが光った。そして七
日後に漸く空が晴れたが、鹿児嶋信尓村(かごしましなにむら、鹿児島県姶良
郡隼人町か、地名「鹿児島」の初出)の海に砂や石が集まって三つの島(隼人
町南沖合の沼田小島・弁天島・沖小島の三島からなる神造島)となっていた。
その島はまるで鋳造したかのように炎や煙が上がっていた。そしてこの島の出
現などに伴い、民家六十二軒が埋まってしまった。
 それから一年半を経たこの段階になってもまだその島周辺は地震が続くため
に多くの民衆が流浪を余儀なくされていた。そのため、彼らに対して賑恤(食
料の施し)が行われた。
 現在の桜島の大噴火の記録である。桜島は大正三年(1914)の大噴火で
陸続きになるなど活発な火山活動で知られるが古代においてはこれは神の所行
と理解され、人々は祈る以外何もできなかった。もっとも今日においても三宅
島の三原山噴火に対して人間は余りにも無力であり、古代の人を笑う資格はな
いだろう。この時の「神の造った島」を祀る神社に対してはその後宝亀九年
(778)に国家祭祀の対象とされており、延喜式に見える大隅国曾於郡の大
穴持神社がそれであろう。当時は東の富士山も「竹取物語」で知られる通り噴
煙を上げ続けており、特に延暦十九年(800)の大噴火では足柄を通る東海
道が通行不能となり、代わりに箱根の道が臨時に使用された。
(続日本紀)


[1221] 天智十年(671)六月四日 2004-06-04 (Fri)

 百済三部の使者要請の軍事について宣言する。
 日本と友好関係にあった百済(くだら)は斉明六年(660)、唐と新羅
(しらぎ)の連合軍の攻撃を受けて滅亡した。そして鬼室福信らによる再興百
済も天智二年(663)に救援の日本軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで壊
滅したため、百済はついに完全に滅亡してしまう。
 そして旧百済領域は唐による直轄支配を受けることになった。唐の百済駐留
軍は翌天智三年に日本に遣使し、様子を窺うなど、緊張の中にも小康状態が続
いた。しかし、天智七年には今度は高句麗(こうくり)が唐・新羅連合軍の攻
撃に内紛が重なってとうとう滅亡してしまう。そしてこれを機に新羅はその野
心をむき出しにする。旧百済領域の併呑を図ったのである。次第に旧百済領域
(唐の熊津都督府の支配領域)に侵攻していく新羅に対し当然唐は怒ったがそ
れでも新羅は謝罪使を派遣する一方、侵攻はやめなかった。この年一月には熊
津(くまなれ、もと百済の首都で唐の都督府の所在地)の南で激戦が行われ、
六月からはいよいよ本格的に唐の救援軍を相手に戦闘を繰り返すに至った。
 一方、百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)はこの年一月に日本に使者を派遣
した。恐らくその時、百済の五部(地方区分、上・前・中・下・後の各部)の
うち三部の代表をも派遣、窮状を訴えて援軍を乞うたのであろう。逆に言えば
残る二部は既に新羅に併合されていたのであろう。
 この日、天智天皇はそれに対する回答を宣した。しかし、その内容について
は伝えられていない。将来の出兵を承諾した可能性もあるがこの年九月からの
天皇の不予と十二月の崩御、翌年の壬申の乱で日本は援軍どころではなくなる。
(日本書紀)


[1220] 継体二十一年(527)六月三日 2004-06-02 (Wed)

 筑紫国造磐井の反乱。
 皇統の断絶によって越前から応神天皇五世の孫に当たる継体天皇を迎えたこ
とは大和朝廷にとって重大な危機であった。その影響力の後退は特に遠隔地で
顕著に現れたため、朝鮮半島北部に高句麗(こうくり)、南部に百済(くだら)
・新羅(しらぎ)・任那(みまな)が並立して微妙な均衡を保っていた情勢に
重大な影響を及ぼした。日本の影響力後退を見越した百済は任那のうち四県の
割譲を申し入れ、大伴金村(おおとものかなむら)はこれを受諾。これに怒っ
た任那の一国伴跛(はへ)は日本から離反して戦い、また新羅も活発な動きを
示した。
 このため、この日近江毛野(おうみのけの)以下六万の軍を任那に派遣して
かつて新羅に併呑された南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくことん)を
奪回することによって任那諸国の不満を抑えようとした。
 ここに新羅と結んだ筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)は毛野
の軍を遮り、半島諸国の貢職船を誘致し、毛野に対して「お前は今でこそ使者
としていばっているが少し前には俺と肩を並べ肘を触れあって同じ器のものを
食べていたではないか。いくら使者と言ってもお前に俺を従わせることはでき
ない」と豪語し、毛野と戦端を開くに至った。
 この反乱に対して大和朝廷は八月になって物部麁鹿火(もののべのあらかい)
以下の鎮圧軍を派遣、二十二年十一月に漸く磐井を斬り鎮定に成功するが、翌
二十三年三月には刀伽(とか)・古跛(こへ)など任那の八城が新羅に奪われ、
ついに任那は事実上滅亡してしまう。
(日本書紀)


[1219] 欽明九年(548)六月二日 2004-06-01 (Tue)

 百済に半島情勢を問う。
 欽明八年四月、百済(くだら)は真慕宣文(しんもせんもん)らを遣わして
援軍を乞うた。あわせて人質としての王族東城子言(とうじょうしごん)を送
り届けてきた。
 宣文は翌九年一月帰国するが、その時には「依頼された救援軍は必ず派遣す
るから早く百済国王に伝えるように」と念を押した。
 ところが、四月三日になって百済は掠葉礼(けいしょうらい)らを遣わし、
意外なことを告げた。この年一月に馬津城(ましんのさし)を巡って高句麗と
百済が戦ったのだが、その時の高句麗の捕虜が今度の戦闘は安羅(あら)と任
那(みまな)日本府(やまとのみこともち)が高句麗に百済を討つように勧め
たために攻撃を開始したのである、ということを自白した。また実状を調査し
ても符合する点があるし、真偽を糺そうとしても三度の喚問に応じない。そこ
で日本としては援軍を一時見合わせ、まずは実状の調査をして欲しい、という
のである。それに対して日本側はそのようなことは信じられない、安羅が撤退
した跡地には兵を派遣するので任那と共に高句麗の攻撃を防ぐように、という
回答を行うにとどめた。
 この日、欽明天皇は百済に使者を派遣し、その後の情勢を確認した。
 この事件はその後の調査によって日本府の執事である延那斯(えなし)・麻
都(まつ)ら親新羅派が高句麗と結ぼうとしていたものであることが判明して
いる。安羅の動きもそうだが、任那日本府についても日本の出先機関という性
格ではなく、かなりな主体性をもっていたものらしい。
(日本書紀)


[1218] 宝亀八年(777)六月一日 2004-05-31 (Mon)

 遣唐副使、大使を臨時代行。
 奈良時代最後の遣唐使となる遣唐大使佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、
副使大伴益立(おおとものましたて)以下の使節はこの前年肥前松浦郡合蚕田
浦(あいこたのうら、長崎県南松浦郡上五島町相河、五島列島中通島)に至っ
たものの順風を得ずに空しく帰京した。その後に副使の益立を小野石根(おの
のいわね)、大神末足(おおみわのすえたり)の二人と交替させ、この年四月
十七日に遣唐使一行は改めて辞見(暇乞い)を行い、今度こそ唐を目指すこと
となった。しかし、出発して羅城門に至ったところで大使今毛人は病と称して
都に留まったため、副使以下が先発した。今毛人も二十二日には輿に乗って一
行を追い、難波津に至ったが、病が癒えない。これを待っていてはまた今年も
派遣ができなくなることを恐れた朝廷はやむなく副使以下に先に出発し、順風
を得たならば今毛人を待たずに唐を目指し、その場合大使の職務は代行するこ
とを命じた。この日になってついに朝廷は今毛人の派遣を断念し、改めて副使
以下に出発を命じ、身分は副使のまま大使の職務を代行すべきこと、唐朝に大
使不在の理由を問われたときには正直に答えること、副使のうち石根について
は任務のため臨時に三位の格とする(実際は従五位上)ことなどを告げた。
 今毛人の病がどのようなものであったか、極言すれば本当に病であったのか
も明らかではないが、今毛人はその後病が癒えてから後に参議にまで昇進した。
しかし、石根は渡唐して無事大任を果たしたものの、翌年十一月、彼の乗った
遣唐第一船は帰路暴風のため真っ二つになり唐使と共に逆巻く波の中に姿を消
し、二度と再び祖国の土を踏むことはなかった。
(続日本紀)


[1217] 雄略九年(465)五月 2004-05-30 (Sun)

 紀大磐の専横による内紛などのため新羅征討失敗。
 古代の画期とされる雄略朝は朝鮮半島情勢も激動した時代であった。これは
直接的には高句麗(こうくり)の南下政策によるものであり、圧迫された百済
(くだら)、新羅(しらぎ)、そして任那(みまな)諸国の間で合従連衡が繰
り返された。南朝の宋への遣使もこの間の日本の立場を強化するのが目的であ
ったが、地理的にも有利な高句麗に対しては後手後手に回っている。
 雄略八年、高句麗と結んでいた新羅はふとしたことから高句麗の意図が侵略
にあることを知り、急ぎ任那王(みまなのこにきし、任那諸国連合のいずれか
の王?)に使者を派遣、日本府(やまとのみこともち、ここでの「日本」は日
本書紀編纂時の修辞)に救援を求めた。そこで任那王は膳斑鳩(かしわでのい
かるが)などを派遣、高句麗軍を破って新羅を救援した。
 しかし、その後も新羅の動向は不透明であったのか(南北を強国に挟まれて
いた当時の新羅なら当然とも言えるが)、この年三月、雄略天皇は自ら渡海、
新羅征討を果たそうとした。しかし、胸方神(むなかたのかみ、宗像大社)の
神託によりこれを断念、代わりに紀小弓(きのおゆみ)、蘇我韓子(そがのか
らこ)、大伴談(おおとものかたり)、小鹿火宿禰(おかいのすくね)らを派
遣。遠征軍は大いに新羅を破ったとされるがこの時大伴談らは戦死、紀小弓も
病死するなど相当な激戦であったことが窺われる。
 小弓の死後、この月にその子紀大磐(きのおおいわ)が新羅に渡り、専横を
極めた。これに怒った小鹿火宿禰や蘇我韓子らは遂に大磐を殺し、分裂状態の
遠征軍も撤退、結局この度の征討計画は失敗したらしい。
(日本書紀)


[1216] 霊亀元年(和銅八年、715)五月三十日 2004-05-30 (Sun)

 坂東の富民千戸を陸奥に移す。
 この日、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野(千葉県中部以南を除く関東
地方全域)の富裕な人々一千戸を陸奥国に移住させた。前年十月二日に尾張・
上野・信濃・越後四国の民二百戸を出羽柵(いではのき、山形県藤島町?酒田
市?)に移住させたのに続く、陸奥国への移住策の最初の記事。
 ここではこれらの人々を「陸奥に配す」と書かれているだけであり、強制移
住が行われたものであろう。一千戸というのは大規模な郡一つ分に相当する数
字であり、大家族制の時代、しかも「富民」であれば恐らくは数万人規模の移
住が行われたのではないだろうか。
 当時の技術では大河川から直接灌漑用の水を得ることは出来ず、そのため開
発可能な場所はかなり限られていた。班田収授の制度の実施によって個人や豪
族ではなく、国家が田地の総量管理に乗り出してしまったため、口分田の不足
は深刻な問題であり、これらの措置と前後して関東地方に亡命百済人などを配
置してその開発に当たらせていた。恐らくは開発の一段落した地域や渡来人を
配置するために場所を空けた地域の人々を移住させることによって北の新天地
の開発に当たらせたものであろう。
 しかし、住み慣れた故郷を捨てて無理矢理移住させられる方の人々にとって
たまったものではない。移住させられた人々の中から逃亡者が続出した結果が
後には移住は希望者を募る形になった原因かと思われる。
 また、このような大規模な移住は共存関係を築いていた蝦夷(えみし)との
摩擦を生み、やがて両者の激突は避けられないようになっていく。
(続日本紀)


[1215] 朱鳥元年(天武十五年、686)五月二十九日 2004-05-28 (Fri)

 新羅使金智祥ら来着、筑紫に饗応し帰国させる。
 この前年十一月二十七日、新羅の国政報告と進調のため金智祥(こんちしょ
う)以下の使節が筑紫に来着した。金智祥の官位は日本の令制の正三位に相当
し、新羅の王族の一人。また副使の金健勲(こんごんくん)も従三位に相当す
る高官で破格の大物が使節として来日したことになる。遣使の目的は請政(国
政報告、実際には違うだろうが少なくとも日本側はそう理解した)ではあるが、
恐らく非常に重要な役割を帯びていたのであろう。
 彼らはしかし都に招かれることなく、その代わりに饗応のためこの年一月、
川内王(こうちのおおきみ)、大伴安麻呂(家持の祖父)らを筑紫に派遣、さ
らに四月十三日には川原寺の伎楽(ぎがく、古代チベット・インドの仮面劇)
を大宰府に送った。新羅使からは進調物として名馬一頭、騾馬一頭、犬二匹、
金細工の器、金、銀、高級織物、虎皮、薬など百余種もの珍宝が献上された。
またほかに大使・副使が個人的に献上したものや皇后・諸皇子に献上した物も
多数あったらしく大変力の入った使節団であったことがわかる。
 来日から半年も経ったこの日、彼らには筑紫で饗応を行い、答礼の品々を贈
って帰国させた。日本から贈られた物の内容については記載されていない。
 これほどの高官を派遣されながら都に招かなかった理由は明確でないが、或
いは当時藤原京が既に造営中であったと見られ、都が未完成であったためかも
知れない。一方、天武朝では(新羅と唐の緊張関係を反映して)対日本外交に
力を入れた新羅はその後その格を落とし、そのことがまた日本側の心証を害し、
奈良時代には日羅関係は最悪の状況になっていく。
(日本書紀)


[1214] 天武六年(677)五月二十八日 2004-05-27 (Thu)

 神社神税の配分を定める。
 この日天武天皇は天社地社(あまつやしろくにつやしろ)の神税は三分して
そのうちの一を神への供え物とし、残り三分の二を神主(神職)の所得とせよ、
という勅を出された。
 上代には畿内を中心に皇室などに関係のある主な神社が国家祭祀の対象とさ
れ、地方の神社はそれを奉ずる豪族によって祀られていたらしい。それがやが
て中央集権国家構築の過程でその対象は広げられ、次第に全国の主要な神社が
国家祭祀の対象とされていくようになる。この勅でいう天社とは高天原(たか
まがはら)から降臨した神(天神:あまつかみ)を祀る神社、地社とは国土土
着の神(地祇:くにつかみ)を祀る神社である。天神は基本的に大和朝廷の、
地祇は諸豪族の神であるから、その対象には既に皇室関係以外の神社も含まれ
ていたということになる。ある意味では神社の保護ではあるが、同時に全国の
神を国家の中に組み込むことによる全国の直接掌握の意図もあるだろう。
 神社の神主は本来は任命制であったがやがて世襲化し、地域の有力者となっ
て行く者もあった。阿蘇、宗像(むなかた)、諏訪、宇都宮(宇都宮二荒山神
社)、千秋(熱田神宮)といったこれら宮司家は戦国時代の頃まで有力な武将
として活躍する。それは宮司家にはこの時認められたように神社の社領からの
収入を支配できたことが原因ではあるが、このように独立した勢力となること
が出来なかった多くの神社は他の有力社寺の庇護下、或いは村落の鎮守として
細々と存続するか、別当寺の支配下に置かれた。なお、これら神主家の武装は
むしろ土豪としてのもので僧兵により自ら武装した有力寺院とは異なる。
(日本書紀)


[1213] 天平十五年(743)五月二十七日 2004-05-26 (Wed)

 墾田永年私財法を発す。
 班田収授の法が実施されてから回を重ねる毎に次第に口分田の不足が表面化
していった。これは一つには新しく開墾した土地を開墾者が所有できないため
に開墾意欲が失われ、耕地が増えないことが一つの原因である、と認識した律
令政府は養老七年(723)四月十七日、三世一身法を発し、開墾した者は三
代までは私有地として所有を認める、という方針を打ち出した。これによって
開墾者の権利を保証すると共に、長い目で見れば口分田を増加させることが出
来る、という目論見であった。
 しかし、この見通しは甘かったらしい。その三代を経ることなくこの日改め
て出された勅によると、どうせ収公されるのだから、と「農夫怠り倦(う)み
て地を開きし後荒(すさ)みぬ」という状態になっていたらしい。そのため、
先の方針を撤回し、「三世一身を論(あげつら)ふこと無く」永久に所有を認
めたのであった。但し、その開墾の上限は身分によって一位の五百町から庶人
の十町に至るまでの制約が付された。この上限までの未開地を国司に申請して
判許を得てから開墾を行うのであるが、開墾は三年以内に実施しなければなら
ず、完了しなかった場合はその地の権利を失った。
 この墾田永年私財法はその後天平神護元年(765)三月に廃止されるが、
宝亀三年(772)十月に再び開墾が認められるようになった。また、この時
に墾田の上限が廃止されたらしい。
 なお、これらの地はあくまでも私有を認められ相続が許される地ではあるが
無税というわけではなく、田租などの賦課は行われた。
(続日本紀)


[1212] 持統六年(692)五月二十六日 2004-05-25 (Tue)

 伊勢・大倭・住吉・紀伊四所大神に遣使奉幣し新宮のことを告ぐ。
 この日、持統天皇は使者を伊勢・大倭(やまと)・住吉(すみのえ)・紀伊
(き)の四ヶ所の神社に奉幣し、間もなく新しい都に遷都することを報告した。
新しい都とはもちろん藤原京のことである。恐らくこの四ヶ所の神社が当時国
家にとって最も重要な神社であったと考えられる。うち、伊勢はもちろん伊勢
神宮であり、皇室の祖神を祭る神社で、天武天皇の時以来制度が大きく整備拡
充された。二十年に一度(古代においては足かけ二十年、即ち十九年毎)の式
年遷宮の制度が確定したのもこの時で、第一回の式年遷宮は持統年に行われた。
なお、後には住吉大社と香取・鹿島神宮も式年遷宮が行われるようになった。
 大和坐大国魂神社(おおやまとにいますおおくにたまのかみのやしろ)は大
和の地にもともと鎮座されていた神社であり、現在は天理市にあるが、古代に
は現在長岳寺のある場所にあったのではないかとの説もある。
 住吉大社(すみのえのおおやしろ)は大阪市住吉区に鎮座する航海の神であ
り、第一本宮から第三本宮までが一列に並び、第四本宮が第三本宮に隣接する
という特異な配置を有する。また古代以来の形式を伝える丹塗り・白壁の御社
殿(これは土壁ではなく板壁に彩色したもの)は住吉造として知られる。
 紀伊は日前神社(ひのくまのかみのやしろ)と考えられる。和歌山市に鎮座
されるこの神社は現在国懸(くにかかす)神社と同地に祭られ、日前国懸神宮
(ひのくまくにかかすじんぐう)、略して日前宮(にちぜんぐう)と称されて
いる。伊勢神宮のご神体で三種神器の一、八咫鏡(やたのかがみ)の試作品を
祭る、とされる。しかし、その本来の性格については必ずしも明らかではない。
(日本書紀)


[1211] 和銅六年(713)五月二十五日 2004-05-24 (Mon)

 山背国に乳牛戸を置く。
 この日初めて山背(やましろ、京都府南部)国に乳牛戸(ちちうしのへ)五
十戸を設置した。これは恐らく典薬寮に所属して牛乳や乳製品を朝廷に貢納す
る乳戸のことであるが、このとき乳戸自体が初めて設置されたのかそれとも山
背に設置されたのが初めてなのかは明らかでない。
 知られているように古代においては牛乳や乳製品も生産され、飲用及び食用
にされていた。乳製品としては蘇の存在が知られるが、この蘇にしても具体的
にどのようなものであったのかは不明。蘇は遠方からも運ばれているので腐敗
に強いチーズのようなものとも考えられるが容器は壺なのでヨーグルト状のも
のの可能性もある。勿論、現在市販されている物は推定復元の一つである。
 現在のホルスタイン種などの乳牛は一頭あたり一日25〜30リットル、多い場
合は50リットルほどの牛乳を産する。しかし、平安時代初期の行政施行細則で
ある「延喜式」典薬寮の条によれば供御(くご、天皇の食膳に供える)の牛乳
は一日に三升一合五勺。当時の一升は現在の四合に相当するので換算すると約
2.27リットル。これを生産するために乳牛が七頭飼われていた。とすると一頭
あたり僅か320ccにしかならない。また同書の民部省の条によれば蘇の原料の
牛乳は肥牛で一日八合、痩牛はその半分。つまり条件がよい場合でも600ccに
満たない。そうして得られた牛乳一斗から蘇はやっと一升を産した。
 こういったことからわかる通り、牛乳も乳製品も大変な貴重品であり、とて
も庶民どころか一般の官僚にさえ入手できるものではなく、典薬寮が扱うこと
からも明らかなように高級貴族の薬用として使用されていた。
(続日本紀)


[1210] 文武三年(699)五月二十四日 2004-05-23 (Sun)

 役小角を伊豆嶋へ流罪とする。
 この日、役小角(えのおづの)が伊豆嶋(伊豆大島?蛭が小島?)に流罪と
された。小角は葛城山に住み、呪術で世に聞こえた人物であった。しかし、そ
の力を悪用して人々を惑わした、という讒言をされ、遠流とされた。噂では彼
は鬼神を使役して水を汲んだり薪を採ったりさせ、もし従わなければ呪術で縛
り上げた、という。
 役小角は修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)。「続日本紀」に
記されたのは上記の内容であるが、この段階でも既に半ば伝説化しているのが
わかる。さらに平安初頭に成立した「日本霊異記」上巻二十八話によれば、彼
は葛木上郡茅原村(奈良県御所市茅原)の人で、孔雀王の咒法(孔雀明王を本
尊とし、一切の毒物・怖畏・災悩を滅ぼすことを念ずる呪法)を修得し、その
結果鬼神を自由に使役することができたという。そして吉野の金峰山と葛城山
の間に橋をかけよ、と鬼神たちに命じたため、神たちは苦しみ、とうとう葛城
一語主大神(かつらぎのひとことぬしのおおかみ、御所市の葛城坐一言主神社
の御祭神)が託宣によって彼が謀反を企んでいる、という讒言をしたので追捕
を受けたが、それでも験力によって容易に捕らえられないため、その母を代わ
りに捕らえたため、やむなく彼も出てきて捕らえられ、伊図の嶋に流された。
しかし、日中は勅命に従って嶋で修行をしたが、海上を自由に歩き、夜には駿
河の富士山に渡って修行をした。この間帰京を図ったため再度一言主神の訴え
によって死刑にされそうになったが、今度は富士の神の託宣で助かり、大宝元
年(701)正月に漸く許されて帰京、仙人となって天に飛んだ、という。
(続日本紀)


[1209] 斉衡二年(855)五月二十三日 2004-05-23 (Sun)

 東大寺大仏の頭部転落する。
 この年四月二日に地震があった。そのの後暫く鳴りを潜めていたが、この月
十日、十一日と続けて地震があって人々を驚かせた。またこの頃、豪雨が続い
たり、左右馬寮所属の馬が次々に病死してほとんどいなくなってしまう、とい
うこともあった。そんなこの日、東大寺からの急使は大仏の頭部が自然に落下
してしまったことを告げた。完成から百年、技術的な問題に経年劣化が重なり
さらにうち続く地震の影響でついにこの事態に至ったものであろう。
 こういった天変地異は社会不安を引き起こしたが、宮中でも当時前代未聞の
醜聞が発生していた。皇后染殿后(そめどののきさき)に取り付いた狐を払っ
た金峰山の聖人が后に横恋慕の挙げ句に暴行に及び、捕まって後鬼となっても
思いを遂げようとの誓願を立てて死に、実際に悪鬼となって皇后をたぶらかし
関係を続けたが誰もこれを制止できなかったという(今昔物語集20-7)。
 そんな中、斉衡三年十二月二十九日には常陸鹿島郡大洗磯前(いそさき)に
新たに神が降り、託宣して「我は大奈母知少比古奈命(おほなもちすくなひこ
なのみこと)なり。昔この国を造り訖(をは)り、去りて東海に往きき。今民
を済(すく)はんが為、更にまた帰り来たれり」と告げた。大洗磯前神社(茨
城県大洗町)及び酒烈(さかつら)磯前神社(茨城県ひたちなか市)の創建に
まつわる挿話であり、その背後には自らの氏神である鹿島神宮の神を藤原氏に
奪われた(春日大社に遷座)東国の人々が代わりに本来の自分たちの神を改め
て祀ったという事情があるものの、当時の社会不安と救いを求める人々の叫び
が聞こえるようである。
(文徳実録)


[1208] 持統三年(689)五月二十二日 2004-05-21 (Fri)

 土師根麻呂詔を奉じ新羅使の非礼を責めて貢物を返還する。
 この年三月二十日、新羅(しらぎ)は日本の令制の従五位ほどに相当する金
道那(こんどうな)らを遣わし、天武天皇の弔問を行い、あわせて学問僧二人
を送り届けてきた。また、金銅の阿弥陀三尊像や織物などを献上してきた。が、
彼らは入京を許されず、大宰府(だざいふ、福岡県太宰府市)に留め置かれた。
 そしてこの日、土師根麻呂(はじのねまろ)が新羅使に以下の勅を告げた。
 昨年、田中法麻呂(たなかののりまろ)を派遣して天武天皇の喪を告げた時、
新羅では日本からの使者の口上を以前より格下の者が承ろうとしたので、法麻
呂らは伝達することができなかった。また天智天皇崩御の際の弔使はわが従四
位相当の者であったのに今回は使者の格が下がっている。元来、新羅は「我が
国は日本(やまと)の遠つ皇祖(みおや)の代(みよ)より、舳(へ)を並べ
梶を干さず奉仕(つかまつ)れる国なり」と言っていたのに今回は船も一艘し
かない。不誠実きわまりないので献上物は封印したまま受け入れない。しかし、
法度を守れば代々の通り慈むので、今後は戦々兢々と努めよ、と。
 僅かの差であっても格を下げられることは当時の日本には耐え難いことであ
った。一方、新羅としては唐も結局朝鮮半島の領有を認めた今、日本との関係
も従属的・迎合的なものから対等のものへと転換を目指しており、そのために
敢えて徐々に格を下げて行くつもりであったのであろう。両者の姿勢はそれか
らも毎回のように対立的なものとなっていく。また、この中での新羅の誓約は
神功皇后の新羅征伐以来の文言であり、外交に用いられるということは神功皇
后の事跡自体新羅も承認せざるを得ないような何らかの事実があったのだろう。
(日本書紀)


[1207] 養老四年(720)五月二十一日 2004-05-20 (Thu)

 日本紀の功成り奏上。
 これより先、舎人親王が勅を奉じて日本紀の編集を行っていたが、この日そ
の功成って奏上した。紀三十巻、系図一巻から成るものであった。
 日本書紀の完成記事であるが、この書の書名はもともと日本書紀であったの
かそれともこの記事にあるように日本紀であったのか、意見が分かれている。
また、ここにある系図一巻は現存しない。
 日本書紀本文を音韻・文法などから分析、その成立過程を復元させた森博達
京都産業大学教授の研究によればその編纂過程は次のようであったとされる。
 日本書紀編纂を目指した天武朝当時の日本には正史を編纂した経験がなく、
また正史の要件である漢文でこれを著述するだけの力量を有する適格者がいな
かった。が、持統三年(689)、浄御原令が成立、それの編纂に当たってい
た続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)の二人(百済救援戦争
の過程で捕虜となり来日した唐人)に白羽の矢が立ち、古代の二つの画期であ
る雄略朝と大化改新からの著述を始めることとなり、それぞれ雄略紀、皇極紀
からの述作が開始された。しかし、続守言は崇峻紀の終了間際に倒れ、一方の
薩弘恪は大宝律令の編纂にも参画し多忙を極めた末、天智紀までの述作を完了
した段階で卒去した。やむなく残った推古紀、舒明紀、天武紀及び当初予定に
なかった雄略以前についての著述は山田御方(やまだのみかた)に託されて一
応の完成を見、さらに持統天皇の崩御によって持統紀を追加することになり、
紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂がこれに当たった。あわせて既存の巻に
ついても漢籍による修辞を行って漸く完成したのが日本書紀だという。
(続日本紀)


[1206] 推古三十四年(626)五月二十日 2004-05-19 (Wed)

 蘇我馬子薨じ桃原墓に葬る。
 この日、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)が薨じた。そのために
桃原墓(ももはらのはか)に葬られた。日本書紀は年齢を記さないが扶桑略記
という後世の史書によれば七十六歳。
 馬子は蘇我稲目(そがのいなめ)の子。敏達(びだつ)天皇即位の際に大臣
(おおおみ)に任ぜられた。用明二年(587)、対立する崇仏派の物部守屋
(もののべのもりや)を倒して政権を掌握、崇峻五年(592)には崇峻天皇
を弑殺するなど横暴を極めたが、姪の推古天皇が立つに及んで聖徳太子と協力
して政治を行った。古代以来の雄族葛城(かつらぎ)氏の一族と称して推古三
十二年にはその故地葛城県(かつらぎのあがた)の賜与を望んだが推古天皇は
これを許さなかった。仏法を厚く敬い、飛鳥寺を創建した。飛鳥川のほとりの
その邸宅には小池を掘り、そこに中島を築いていたため島大臣(しまのおおお
み)と称された。後、その邸宅跡は島宮という離宮として長く使用される。
 桃原墓は現在の石舞台古墳のことだと言われる。一辺50mほどの方墳であ
ったが、封土を失い石室が露出している。もしこれが馬子の墓であれば誰がこ
の墓を破壊したかは全く不明。乙巳の変で蘇我本宗家が滅亡した後、政界の中
心にあった石川麻呂は馬子の孫であり、その弟赤兄(あかえ)の娘たちは孝徳
・天智・天武の後宮にあって元明はその娘であり、文武や聖武などにも蘇我氏
の血統は色濃く流れていた。また石川麻呂の弟、連子(むらじこ)の娘娼子は
藤原不比等の妻の一人で、武智麻呂や房前(ふささき)はその子であり少なく
とも同時代に馬子の墓を破壊する理由は見いだせない。
(続日本紀)


[1205] 天平勝宝八載(756)五月十九日 2004-05-18 (Tue)

 聖武上皇を佐保山陵に葬り諡号を奉らぬことを詔する。
 この日、聖武太上天皇を佐保山南陵(奈良市法蓮町)に葬り奉った。その葬
礼の様子は仏に対するものに準ぜられ、供具として獅子座の上に乗った香、天
子の座に乗った金輪の幢(どう、旗のついた矛のようなもの)、大小の宝幢、
香幢、華縵(けまん、花輪)、蓋繖(きぬがさ、貴人などにさしかける日傘)
の類が用意された。なおこれらの供具の一部の残欠は正倉院に残されている。
また、葬列では笛人が行道(仏座の周囲を巡る儀式)の音楽を奏でた。
 この日、孝謙天皇は詔を出され、「上皇は出家して仏に帰依されたのだから
改めて諡号を奉らない」とされた。戒名があるので普通の名前はもはやつけな
い、ということになろうか。
 しかし、この異例な措置は当時の人々には受け入れられなかったのか、天平
宝字二年(758)の八月九日に即位されたばかりの淳仁天皇が詔を出され、
勝宝感神聖武皇帝の尊号と、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらき
とよさくらひこのみこと)という諡号が追上された。
 異例と言うならば、そもそも天皇が仏道に帰依したということ自体がおよそ
想定され得ない異例なことであった。聖武天皇の場合、扶桑略記によれば天平
二十一年(749)一月十四日に大僧正行基を戒師として菩薩戒を受けて出家
されたとしており、同年(天平勝宝元年)七月二日に孝謙に譲位される以前に
既に出家されていたらしい。この後出家されたまま重祚された称徳天皇、出家
されたまま立太子して悲劇的な最後を遂げた早良親王といった忌まわしい例が
続いた末、平安以降は在位中の天皇が出家される例はなくなる。
(続日本紀)


[1204] 暦仁元年(1238)五月十八日 2004-05-17 (Mon)

 鎌倉大仏の頭を挙ぐ。
 この日相模国深沢里の大仏の頭部を挙げ奉った。その周(高さか?)は八丈
(24m、但し立像の場合の高さであり座像の場合は約半分。現存の鎌倉大仏
は像高11m)であった。
 鎌倉大仏の造営については史料が非常に少なく、不明な点が多い。ここに記
されているのは最初に僧浄光の勧進(募金)によって造営された木造の大仏像
であると考えられる。この仏像は寛元元年(1243)に完成するがその後建
長四年(1253)には金銅の大仏の造営が開始されるが、これは釈迦如来像
と記録され現存の阿弥陀如来と異なる。また何故短期間に木造から金銅と仏像
が造り直されたのかについても全くの不明である。
 これらの造営については西大寺流真言律宗が関与していた可能性が高い。西
大寺を中興させたのは叡尊であるが、彼は早くから高弟忍性を東国に送ってお
り、その忍性は大仏建立の節目の度に鎌倉を訪れていた可能性が高い。特に銅
像の完成の時と見られる弘長二年(1262)には叡尊自ら鎌倉に下向してお
り、東国での布教の中心としてこの新しい大仏を位置づけていた可能性が考え
られる。叡尊は当時鎌倉幕府を実質的に牛耳っていた最明寺入道北条時頼の帰
依を受けており、何度も懇願されての下向であった。また完成後鎌倉大仏は忍
性が本拠とした極楽寺の管理下に置かれており、何らかのつながりがあったの
ではないか。
 当時は鎌倉新仏教の興隆期には当たるが、同時に唐招提寺や西大寺を中心と
した戒律復興運動など旧仏教も積極的な動きを見せていた。
(吾妻鏡)


[1203] 和銅五年(712)五月十七日 2004-05-16 (Sun)

 諸司・諸国に律令の遵守などを命ず。
 この日、中央官庁の主要官僚、及び諸国から上京してきていた朝集使たちに
次の五項から成る詔が発布された。
一.律令が公布されてから随分とたつのに未だ習熟せずに多くの過失がある。
 今後まだ違反する者があれば律によって処断する。
二.弾正台(中央の行政監察官)の役人は毎月三回、諸司を巡察し、間違いが
 あれば正させよ。もし違反者を摘発したら式部省に報告、勤務評定に反映さ
 せよ。
三.諸国から任を帯びて上京する使者は適切な人材を任命し、中央での質問に
 答えられるようにせよ。もし不適格であれば在国の担当者も含め前項の如く
 勤務評定に反映させる。
四.今後は毎年巡察使(地方の行政監察官)を派遣、地方政治を検校させるの
 で国司は隠さずにすべて報告せよ。もし隠していたことが監査により発覚し
 たなら前項の如く処断する。
五.国司は毎年官僚の勤務評定を式部省に送れ。式部省はこれを巡察使の所見
 と突き合わせて判定せよ。
 律令制下において、官僚の勤務評定は文官については式部省、武官について
は兵部省の管轄であった。ここで度々言われているように一般の官僚について
はこのような勤務評定の結果により何年かに一度昇進の機会が与えられた。但
し、五位以上の貴族については蔭位の制により最初からある程度の官位が与え
られるが、一般の役人は一生かかってもその地位に達することは難しかった。
(続日本紀)


[1202] 泰始四年(?、468)五月十六日 2004-05-16 (Sun)

 七支刀が造られる。
 日本書紀によると神功皇后摂政五十二年(252)九月十日、百済(くだら)
の近肖古王(166−213)の使者が日本の使者千熊長彦に従って来日、七
枝刀一口、七子鏡一面と種々の重宝を献上した。
 水戸藩医で国学を修めた菅政友(すがまさとも)は明治になって石上神宮の
大宮司となり、在任中に神庫にあった什物を点検しこの七支刀の存在に気が付
いた。彼はこれに銘文のあることを予想し、錆び付いた刀身を研ぎだし、予想
通り表裏にわたっての銘文があることを発見した。ただ、X線などの技術のな
かった当時、これはヤスリによる研ぎ出しであり、またその後不明確な一部の
文字を確定させるため再度研ぎ出しを試みた結果、一部の文字は永遠に失われ
てしまった。特に年号は西晋・泰始(268)、南朝・宋・泰始(468)、
東晋・太和(369)、北魏・太和(480)の各四年説等がある。失われた
部分を含め東洋史学者宮崎市定氏によって推定復元された銘文は以下の通りで
ある(同氏「謎の七支刀」による、一部同意の文字により置換)。
(表面)泰始四年五月十六日丙午正陽、百たび練りたる鋼の七支刀を造る、も
って百の兵(つはもの、兵器)を辟(さ)く、宜(よろ)しく侯王に供ふべし、
永年大吉祥(慣用の吉祥句)。
(裏面)先世以来未だこの刀あらず、百済王世子は奇しくも生まれながら聖徳
あり、故に倭王の為はじめて造る、後世に伝示せんかな
 泰始四年は日本では雄略天皇の治世である。高句麗(こうくり)の攻勢の前
に百済はこの七年後には一時滅亡、何としても日本の援助が必要な時であった。
(七支刀銘文)


[1201] 敏達元年(572)五月十五日 2004-05-14 (Fri)


 黒羽の表を王辰爾が解読する。
 この二年前、欽明三十一年の四月に高句麗(こうくり)の使者が風浪に流さ
れて越国(こしのくに、北陸地方、ここでは加賀市付近か)に漂着した。欽明
天皇の命により山背国相楽(さがらか)郡に客館を設けてここに案内したが、
翌年天皇の崩御によりこの使者は宙ぶらりんの状態になっていた。
 この年五月一日、敏達天皇は高句麗使がどうなっているかと確認、相楽館に
いると聞いて使者を派遣、献上物などを都(百済大井宮(くだらのおおいのみ
や、広陵町百済、橿原市天香具山西麓、河内長野市、南河内郡太子町など諸説
あり)に運ばせた。
 この日、高句麗からの国書を大臣(おおおみ)蘇我馬子に授けて解読を命じ
た。が、馬子が解読に当たらせた史(ふびと、書記官)たちは三日かかっても
全く歯が立たず、解読できなかった。しかし、王辰爾(おうじんに)という人
だけが解読に成功、天皇と馬子から激賞され、逆に他の史たちは「お前たちの
学んできたことは何故役に立たないのだ。お前たちは数は多くてもたった一人
の王辰爾にも及ばないではないか」と叱責された。
 この時の国書は烏の羽に書かれていた。黒い羽の上に黒字で書かれた文字を
読むことが出来なかったのだが、王辰爾はその羽に飯の湯気をあて、それを絹
布に転写して解読したという。この黒羽の国書というのが事実であったかどう
かは別にして、王辰爾は新しい渡来人と見られており、そうであれば古い時代
に日本に帰化して代を重ねた他の史たちの技術が陳腐化、新しい技術を要する
ようになったことを象徴しているのではないかと考えられる。
(日本書紀)


[1200] 霊亀元年(和銅八年、715)五月十四日 2004-05-13 (Thu)

 調・庸の納期・輸送方法を厳守させまた諸国製造の武器を整備させる。
 この日、諸国に対して次の三項目から成る詔が出された。
一.調・庸の納付期限を厳守すること。
二.庸の運搬を安易に海運業者に委ねることの禁止。
三.武器の製造に努め、毎年その見本を提出すること。
 第一項、調・庸の納付期限は国の遠近により定まっていた。毎年八月中旬よ
り納付を開始し、陸奥や薩摩のような遠国でも年内には完了しなければならな
かった。ここでは期限を越えて運送をしているために農耕にさえ支障が出てい
ることを指摘、今後このようなことがあれば厳罰に処することを告げている。
 第二項、調・庸の運送は基本的に陸路によるものとされ、海運の利用は禁止
されていた。しかし、現実には当時既に成立していたらしい海運業者に委託し
た運送も利用されていた。そもそも海運が禁止されているのは事故による海没
などを恐れていたためであった。その危惧の通り、現実に海没するものや濡れ
てしまったものなどが続出していたらしい。ここではこれ以前に出されていた
らしい海運利用を禁じる法令を遵守する事を改めて命じ、もし今後従わなかっ
た場合は処罰するばかりか結果として失われたものについては国司が弁償する
ことを命じている。現実や効率を無視してまでも令制に従うことを求めたもの
であるが、しかし実際に遠方から陸路調庸物を運搬してくる人々の苦労は大変
なものであり、現実策を模索する現地との軋轢がうかがえる。結局、航海技術
の進歩、官道の衰退、治安の悪化などを受けてやがてなし崩し的に海運は認め
られるようになっていった。
(続日本紀)


[1199] 和銅五年(712)五月十三日 2004-05-12 (Wed)

 大税借貸を悪用する国郡司らを戒む。
 この前年十一月二十二日、詔して諸国の大税(おおちから)を三年間無利息
で貸し出すことを命じた。大税は正税とも言い、蓄積された田租であり、その
内訳は毎年の田租をもとに非常時に備えてひたすら不動倉に蓄積される不動穀
と、出挙(すいこ、利息つきで貸し出し)された利息をもとに国衙の運営費等
にあてられた動用穀に分けられる。ここではその一方の柱である出挙を無利子
で行い、人々の生活の安定を図ったものである。
 ところが、この日出された詔によれば、もともとそのような意図で出された
この制度を悪用する国司・郡司がいたらしい。ここでは「今、国郡司と里長等
と、此の恩借(おんしやく)に縁(よ)りて、妄(みだり)に方便を生ず」と
するのみだが、恐らくは無利子のはずの出挙を利子を取って行い、或いは自ら
無利子の出挙を利用してその稲を又貸しすることにより私腹を肥やしていたも
のであろう。このため、「如(も)し身を潤(うるほ)さむことを顧みて、枉
(ま)げて利(くぼさ)を収めば、重(おもき)を以て論せよ。罪、不赦に在
(あ)らむ(もし私腹を肥やすために利子を取ったのであれば厳罰に処した上
で大赦などがあったとしても赦免の対象外とする)」という厳しい布告がなさ
れたのである。
 出挙は公営の公出挙(くすいこ)で3〜5割の利子、私営の私出挙で10割
という高利の利稲を取った。が、一般農民にとっては必要不可欠なものであっ
たらしい。播種期に借りれば基本的には収穫期にはその利息分以上の収入が見
込めることを考えれば必ずしも高利とは言えなかったのかも知れない。
(続日本紀)


[1198] 白雉四年(653)五月十二日 2004-05-11 (Tue)

 吉士長丹・高田根麻呂以下の遣唐使を派遣。
 この日、遣唐大使吉士長丹(きしのながに)、副使吉士駒(きしのこま)以
下の百二十一人の遣唐使を乗せた船と、同じく大使高田根麻呂(たかたのねま
ろ)、副使掃部小麻呂(かにもりのおまろ)以下百二十人の使節を乗せた船、
あわせて二隻の遣唐船が出発した。この遣唐使には中臣鎌足の長子である定恵
(じょうえ)や、唐で玄奘三蔵に師事した道昭をはじめとする多くの学問僧が
同乗し、はるかな唐の国を目指した。しかし、この時の二隻からなる遣唐使の
運命は大きく異なるものとなった。高田根麻呂以下の乗った船は七月、薩摩の
坊津を出航した後、硫黄島の東にある竹島付近で難破、乗員のほとんどは波間
に消え僅かに門部金(かどべのかね)ら五人だけが竹島にたどりつき、そこに
生えていた竹で筏を造って六日六晩飲まず食わずで漸く神島(未詳)に帰着し
た。遣唐船の遭難はほとんどが復路であるが、この時は往路での悲劇であった。
翌年二月にも遣唐使が派遣されているが、その時の記録ではこの留学僧らのう
ちで三人が海で死に、二人が唐で客死、二人が唐や新羅の船に便乗して帰国し、
使節と共に帰国したのは十二人であったことが記されている。
 吉士長丹以下の西海使は白雉五年の七月二十四日に百済・新羅の使節に送ら
れて帰国した。使節の名前がここで西海使となっていることなどから考えて、
彼らは朝鮮半島経由で唐に渡ったものと考えられ、遭難したのは直接唐を目指
した「南海使」であったのであろう。しかし、百済滅亡後は新羅との関係悪化
の結果として遣唐船は危険な南海の航路を採らざるを得なくなり、特にその帰
路に多くの悲劇をもたらすこととなった。
(日本書紀)


[1197] 和銅元年(708)五月十一日 2004-05-10 (Mon)

 銀銭を行う。
 この日、初めて和同開珎の銀銭を発行した。
 日本においては通貨発行以前、通貨の代わりになっていたものは布、米と地
金としての銀であったらしい。通貨的なものの最初の例として無文銀銭が発行
された(時期不明、近江朝頃?)が、これはおそらくその伝統に則り定量の地
金として流通を図ったものであろう。後、天武朝に富本銭が発行されても当初
禁止した銀銭の流通を三日後には認めるという経緯をたどり、その流通力の強
さを物語っている。必ずしも充分な量が生産されなかった富本銭が消えた後も
銀は依然として流通に使われていたのであろう。
 唐にならって銅貨を中心とした通貨政策を確立したい律令政府としては一気
に銅貨を発行、注通を統一したいところであったのだろうが、そのような現実
を無視することはできず、最初に発行したのはこの時の銀銭であった。従来流
通するものと同じ銀で通貨を発行することにより市場に対して通貨そのものに
対する違和感をなくすことが目的ではなかったかと考えられる。そしてある程
度の流通を待ってから三ヶ月後の八月十日、いよいよ本命の和同開珎銅銭を発
行し、さらに一年後の和銅二年八月二日には銀銭を廃止し、ここに漸く銅銭に
よる通貨の一本化が完成し、それ以降は銅銭を基本とする皇朝十二銭と呼ばれ
る通貨が天徳二年(958)の乾元大宝次々と発行されるようになる。が、日
本の鋳造技術そのものの衰退を受けて次第に品質の劣化が甚だしく、やがて流
通が盛んになる中世頃には粗悪で流通量も充分でないこれら皇朝十二銭ではな
く信頼感の厚い唐宋など渡来銭が専ら用いられるようになる。
(続日本紀)


[1196] 天平勝宝八載(756)五月十日 2004-05-09 (Sun)

 大伴古慈斐・淡海三船、朝廷誹謗の罪により禁固される。
 この日、出雲守大伴古慈斐(おおとものこしび)、及び内竪(ないじゅ、従
者)淡海三船(おうみのみふね、額田王の曾孫)の二人が朝廷を誹謗し無礼で
あった、という罪に問われて左右衛士府(えじふ)に禁固された。聖武天皇崩
御から八日後のこの事件の真相は不明であるが、この事件は当時兵部少輔(ひ
ょうぶしょうふ)の大伴家持に衝撃を与え、一族に自重を促す「族(うがら)
に喩(さと)す歌」を詠ませた。(万葉集巻二十・4465-4467、4465の長歌略)
 磯城島(しきしま)の 大和の国に 明らけき
  名に負(お)ふ伴(とも)の緒(を) 心努(つと)めよ
 (<敷島の> 大和の国に 明らかな 名高い大伴一族よ がんばろうぞ)
 剣太刀(つるぎたち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ
  さやけく負(お)ひて 来(き)にしその名そ
 (剣太刀 いよいよ研ぎ澄ませ 昔から 清く伝えて 来たその名だから)
 が、その左注によれば古慈斐は三船の讒言によって罪に問われた、となって
いる。これは三船が政界を牛耳る藤原仲麻呂の子の藤原刷雄(よしお)と親交
があったために罪を免れ、古慈斐のみが罪に問われた、との説もあり、現に
二人とも十三日には放免されながら三船はその後特に処分されていないようで
あるのに、古慈斐は出雲守を解任され、土佐守に左遷されている。
 いずれにせよ、反藤原氏の雄、橘諸兄は既にこの二月に引退、大伴氏のこと
を高く買っていた聖武天皇も崩御され、後ろ盾を失っていた大伴氏をこの機に
叩いて自らの安泰を図った藤原仲麻呂の意図が見えるようである。
(続日本紀)


[1195] 斉明七年(661)五月九日 2004-05-09 (Sun)

 斉明天皇、朝倉橘広庭宮に入られる。
 この年一月六日、百済救援軍を自ら率いて出航された斉明天皇は三月二十五
日に娜大津(なのおおつ、博多)に至り、磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡
市南区三宅)に入られ、この地を「長津」と改められた。
 そしてこの日内陸の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町)に入られた。しか
し、この時に朝倉社(あさくらのやしろ)の木を切ってこの宮を造営したため
に神が怒って殿舎を壊し、また宮中に鬼火が出た。そのために舎人(とねり、
近習)や侍者に多くの病死者が出た。
 磐瀬は西海道の駅があったところ。おそらく当初この駅館か郡司の館などに
相当する施設を行宮とされ、その間に突貫工事で宮殿を造営したものであろう
が、そのために朝倉社の鎮座される山の木まで切って使用したことを示すもの
であろう。朝倉社は「延喜式」に見える麻弖良布(まてらふ)神社と考えられ
るので朝倉宮もその近くにあったのであろう。これに対して神が怒ったという
のは恐らくは落雷があったものと考えられる。
 総力を挙げて行った百済救援戦争に大敗し、友好国百済は完全に滅亡して日
本が朝鮮半島への影響力を完全に喪失したことは当時の人々に対して大変な衝
撃であった。何故このような結果になったのか、という原因追及の中でこの事
件を始め当時は恐らく一部でささやかれただけであったと思われるようなこと
も含め、敗北の原因として追及・記録されたものと考えられる。
 それにしても、地方においてまで大規模な造営をさせた、ということはこの
斉明天皇の土木工事好きを彷彿とさせるものがある。
(日本書紀)


[1194] 欽明十三年(552)五月八日 2004-05-07 (Fri)

 新羅・高句麗、百済・任那を攻めんとしたため救援要請。
 この日、百済(くだら)、加羅(から)、安羅(あら)は使者を派遣し、高
麗(こま)と新羅(しらぎ)が連合して百済・任那(みまな)を滅亡させよう
としているので救援軍の派遣を依頼してきた。援軍によって機先を制し逆に攻
撃をかけよう、というのである。その「軍(いくさ)の多少は、天皇(すめら
みこと)の勅(みことのり)の随(まにま)に」として規模は一任された。こ
れに対し、日本から「百済・安羅・加羅と日本府(やまとのみこともち)がと
もに使者を派遣して奏上した内容は承知した。また任那と共に心をあわせ力を
一つにしなさい。もしそのようにすれば必ず天佑があって福を得、また可畏
(かしこ)き天皇(すめらみこと)の霊(みたまのふゆ)を頼(かがふ)らむ
(霊力によるご加護があるだろう)」との返答があった。
 この前年、百済は新羅と連合して高句麗と戦い、かつて高句麗に奪われた古
都を奪還した。その報復に今度は高句麗が新羅と結び反攻して来ようとするの
を察知、日本の援軍を得て迎撃しようというのが百済の戦略であった。
「日本書紀」欽明紀はその多くの記述が任那の滅亡や仏教の公伝などを含む対
外記事に割かれている。また百済聖明王の記述などは詳細を極め、任那の日本
府の官僚の内訌など、日本側から見たものではないような記事が少なくない。
これはこの巻の対外関係記事の多くが「百済本記」など現存しない百済側資料
をもとに記述されたためと考えられる。この条で記されている「可畏き天皇」
といった記述は原資料の大王を天皇に改めるような修辞は行われたとしても、
基本的には原資料によったものではないかと考えられる。
(日本書紀)


[1193] 天武五年(676)五月七日 2004-05-06 (Thu)

 下野、凶年のため民衆が子を売ることを求む。
 この日下野(しもつけの、栃木県)国司から報告があり、国内の百姓(おお
みたから、民衆)が凶作のために飢えて自分の子を売ろうとしています」と報
告があり、これを認めるよう要請があった。しかし、許可は下りなかった。
 律令制以前において、奴隷としての人身売買は必ずしも禁止されておらず、
平安時代の行政施行細則である「延喜式」には人身売買を三通りに分け、まず
持統三年(689)以前に売買が行われた場合はもとの契約通りとし、四年の
飛鳥浄御原令施行以降は奴隷に売られた者も負債のために奴隷にされた者も奴
隷身分から解放し、大宝二年(702)の大宝律令施行以降は人身売買は処罰
する、という規定がある。逆に言えば天武朝当時は慣例として人身売買が認め
られていたはずであるが、それが許可を求めていることから考えると何らかの
禁止令が出されていたのではないかと考えられる。そしてこの時許可されなか
ったことは天武朝においては人身売買に否定的であったと考えられ、それが飛
鳥浄御原令では必ずしも禁止するものではないように後退していた可能性が高
い。厳しい現実の前に理想は後退せざるを得なかったのであろう。
 技術が稚拙で生産余剰の少ない古代においてはもちろん飢饉は深刻な問題で
あり、奈良時代においても毎年のようにどこかの国で飢饉が発生している。し
かし当時は地方政治も充分に機能しており、非常に備えた不動倉と呼ばれる備
蓄があり、また周辺の飢饉となっていない地域からの穀物回送などによる賑給
(しんごう、施し)が行われたりした。この制度は律令制と共に平安時代には
崩壊、賑給も京の中だけで半ば形式的に行われるだけとなった。
(日本書紀)


[1192] 天武八年(679)五月六日 2004-05-05 (Wed)

 吉野の盟約。
 この前日、天武天皇はかつて壬申の乱の時の自分の出発点となった吉野離宮
(吉野町宮滝遺跡?)に行幸された。そしてこの日皇后鵜野讃良皇女(うのの
さららのひめみこ、持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市(たけち)皇子、
忍壁(おさかべ)皇子、そして天智天皇の子である河島(かわしま)皇子、芝
基(しき)皇子の七人に詔し、「朕はお前たちとこの朝庭に誓いを立て、永遠
に変事のないようにしたい。どうだ。」と言われた。皇子たちは共に「その通
りです」とお答えし、草壁皇子以下一人ずつ「私たち(天智・天武皇子)合計
十余人はそれぞれ母を異にするとも分け隔てせずに助け合います。もしこの誓
いに背いたら命も失い子孫も絶えるでしょう。忘れじ、失(あやまた)じ」と
誓った。そして天皇は「お前たちは母は違うがこれからは同じ母から生まれた
のと同様に慈(いつく)しもう」と言って六人の皇子たちを抱き、「若し慈
(こ)の盟(ちかひ)に違(たが)はば忽(たちまち)に朕(わ)が身を亡
(うしな)はむ」と誓いを立てられた。続けて皇后も同じように誓われた。
 律令制以前、皇位継承法は固定していなかったため天武自身を含めて多くの
争いが行われた。この日天武が皇位継承候補者たる自分及び天智の皇子たちを
集めてこの誓いをさせたことは自分の後も同様の争いが起きるのではないか、
という強い危惧を抱いていたのであろう。しかもこの誓いの場に皇后を参加さ
せ、また母は違っても同母のように、と繰り返されていることはその不安の中
心にあったのが皇后の動向であったことを強く示唆する。
 天武の危惧は不幸にも的中し、この誓いの通り彼の血統は結局断絶した。
(日本書紀)


[1191] 天智七年(668)五月五日 2004-05-04 (Tue)

 蒲生野に縦猟。
 この前年四月に近江大津京に遷都された天智天皇はこの日皇太弟大海人皇子
(おおあまのみこ)以下と共に蒲生野(かもうの、滋賀県蒲生郡安土町?)に
薬草を採りに出かけられた。この時に額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇
子との間で交わされた歌はあまりにも有名である。
 あかねさす 紫草(むらさき)野行き 標野(しめの)行き
  野守は見ずや 君が袖振る
 (<あかねさす> 紫草の生える野を行き 御料菜園を行って
  管理人が見ていますよ あなたが私に袖を振っているのを)
 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
  人妻故に 我(あれ)恋ひめやも
 (紫草のように 匂うが如く素敵なあなたを こ憎らしいと思ったら
  人妻と知っていても 恋してしまいましょうか)
 大海人皇子は後の天武天皇。額田王はもと天武の妃であったが後にいつの頃
か天智の妃となったらしい。二人の間の娘である十市皇女(とおちのひめみこ)
は天智の子である大友皇子の妃であり、また天智の娘の大田皇女などが天武の
妃であるなど、天智と天武の間には何重もの関係が結ばれていた。
 この歌の贈答は自分のもとを離れていった額田王に天武がまだ想いを寄せて
いることを示したもの、とも考えられるが、二人の年齢は共に定かではないも
ののその子の年齢からは恐らく共に四十歳前後ではないかと見られる。であれ
ばこの歌についても必ずしも恋愛感情からのものではないかも知れない。
(日本書紀)


[1190] 延暦二年(783)五月四日 2004-05-04 (Tue)

 宇佐大神託宣し大自在王菩薩と称する。
 宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は八幡宮の本宮であり、八幡大神などを祭る。
八幡大神は応神天皇とされるが、これが当初からのものであったかどうかは不
明。この日の託宣は道鏡を巡る事件を経てもなお桓武朝にも強い影響力を保持
し続けた宇佐八幡宮が今後とも仏教と習合することで力を得ていこうというも
のであろうと思われる。
 よく知られているように、宇佐八幡宮は大仏建立を奇貨として神でありなが
ら仏法に帰依するとの神託を下し、急速に中央に接近する。途中で偽の神託が
露見するなど紆余曲折を経てはその都度時の権力者にすり寄って勢力を扶植し
続けた。最後には道鏡に接近、これに皇位を伝えよ、との神託があった、との
騒ぎも起こしたが、これは和気清麻呂の活躍で阻止された。しかし、こういっ
た過程を経て結局八幡宮に対する朝廷の尊崇は高まり、九州第一の神社とされ
る。国分寺・大仏建立に協力した結果東大寺の傍らの手向山八幡宮を始め各国
分寺の近くに勧請されたほか、後には平安京の南に石清水八幡宮として勧請さ
れ、朝廷の手厚い保護を受ける。更にこの八幡宮を氏神とした清和源氏によっ
て鎌倉に勧請され、それが源頼朝によって鎌倉の中心をなす鶴ヶ岡八幡宮とし
て整備されると武家の守護神として全国に広まるようになる。
 現在全国に最も普遍的に見られる八幡宮や天満宮、稲荷社、金比羅宮などは
いずれも強く仏教と習合しており、また庶民の現世利益を吸収することにより
主に中世以降爆発的に広まったものであり、古来の神道信仰とは異質なもので
ある。そしてその先鞭をつけたのがこれら八幡宮に他ならない。
(扶桑略記)


[1189] 天平勝宝八載(756)五月三日 2004-05-03 (Mon)

 聖武法皇崩御に伴い三関固守、葬儀関係者任命。
 この前日、病床にあられた聖武法皇の平癒を願い伊勢神宮に奉幣が行われ、
また全国のこの年の租税が免除された。善行によって仏の加護を願ったのであ
る。しかし、そういった必死の願いも空しく、その日法皇は内裏正殿にて崩御
された。宝算五十六歳であった。そしてその遺詔により道祖王(ふなどのおお
きみ、天武天皇の孫、新田部親王の子)を皇太子とされた。
 そしてこの日、非常事態に備えて鈴鹿・不破・愛発(あらち)の東国に通じ
る三つの関所を閉じて厳守が命ぜられた。この三関(さんげん)固守は大葬な
どの際にはこれらの関所が廃止された後も形式的に実施されたが、この段階で
はもちろん三関は機能しており、混乱に乗じて反逆者が東国に逃亡しそこを拠
点に反乱を起こすことを防ぐためのものである。
 またあわせて御装束司(みよそいのつかさ、喪葬に必要な衣服・調度などを
準備する役所)、山作司(やまつくりのつかさ、陵墓造営のための役所)、造
方相司(ぞうほうそうのつかさ、方相神に扮して悪霊を払うための方相関係の
調度類調達のための役所)、養役夫司(ようやくぶのつかさ、陵墓造営などに
使役する役民を管理する役所)といった葬儀関係の臨時の官司の担当者を任命
し、六日には挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す)などの儀式を経て十九
日に佐保山陵に葬った。
 大化の薄葬令以降、古来の長期に亘る殯宮(ひんきゅう、現在の通夜に近い
儀式)儀礼などが徐々に簡略化され、火葬の導入などを経て聖武天皇の場合は
大幅に仏教儀礼化しており、この方向が以降おおむね定着していく。
(続日本紀)


[1188] 和銅五年(712)五月二日 2004-05-01 (Sat)

 諸国郡郷名に好字を用いしめる。また風土記撰上を命ず。
 この日、畿内と七道の各国・郡・郷の名前は「好(よ)き字」を用いるべき
ことが命ぜられた。また、あわせてそれぞれの郡の中で産する鉱物や動植物を
網羅し、土地の肥沃の度合、山川原野の名前の由来、そして古老の伝える旧聞
・異事を史籍に記載して言上するべきことが命ぜられた。
 この前半は従来は文字数や使用する文字に特に制限がなかった地名の表記が
統一されることとなった。ここでは触れられていないが、行政施行細則である
「延喜式」民部省の条によって文字数も二文字と定められたことが知られる。
但し、「好字」の基準は不明であり、出雲国風土記によれば秋鹿(あいか)郡
伊努(いぬ)郷を伊農(いぬ)郷に改める一方、出雲郡伊農郷は逆に伊努郷と
改めているほどであり、それほど厳密ではなかったのかも知れない。この結果
例えば近淡海(ちかつあはうみ)は近江、上毛野(かみつけの)は上野、とい
う短縮が行われる一方、木(き)の国は無理に伸ばして紀伊となった。また参
河(みかわ、愛知県東部)の穂郡(ほのこおり)も同様に宝飫(ほお)の文字
が宛てられたが、余り使用されない「飫」(お)はやがて「飯」と混同され、
ついには宝飯(ほい)郡と文字に引きずられて地名まで変化してしまった。
 この日の命令の後半によって編纂されたのが「風土記」である。現存するの
は出雲の完本と常陸、播磨、肥前、豊後の抄本、後は逸文だけであるが、これ
らは上記の命令に基本的には従いつつもその目的が課税の資料とすることが明
らかであるため、土地の肥沃度や特産物は必ずしもすべてを網羅していないの
は恐らく現地による抵抗ではないかと考えられる。
(続日本紀)


[1187] 宣化元年(536)五月一日 2004-05-01 (Sat)

 那津官家を整備せしめる。
 この日、宣化天皇は詔を発して那津(なのつ)の口(ほとり)に官家(みや
け、直轄の役所、恐らく大宰府の前身、福岡市南区三宅?、博多区比恵遺跡の
説もあり)を修造し、九州の筑紫・肥・豊三国(宮崎・鹿児島を除く九州の全
域?)の屯倉(みやけ、大和朝廷直轄領)の備蓄を那津に集めさせた。また同
時に阿蘇君に河内茨田屯倉の、蘇我稲目を通じて尾張連に尾張の屯倉、物部麁
鹿火(もののべのあらかい)を通じて新家(にいのみ)連に新家屯倉(伊勢か)
の、阿倍臣を通じて伊賀臣に伊賀の屯倉の穀(もみ)を九州に運ばせた。「日
本書紀」のこの記事は「漢書」をもとに民衆の生活安定のため、という修辞を
行っているがこの措置は明らかに朝鮮半島への軍事行動のため兵糧を集積させ
るためのものと見られる。継体朝の百済への任那四県割譲に端を発し半島情勢
は激動しており、割譲に怒った新羅は大攻勢に出て任那の中心の一つ金官加羅
を滅ぼして傘下に収めるに至った。一方で日本は筑紫君磐井の反乱もあって有
効な対策が取れなかった。
 この日の措置によって集積された兵糧は翌年十月の大伴狭手彦(おおともの
さでひこ)による任那・百済の救援活動となって現れる。
 また、この日の措置でもう一つ興味深いのは大王家が直接命令を下したのは
阿蘇君のみであり、他はすべて蘇我、物部、阿倍といった朝廷を構成する有力
豪族を通じて命令が伝達されている。これは恐らく当時の大和朝廷の豪族連合
という実態をよく示すものであり、律令時代のような中央集権とも後の封建制
度とも異なるその姿を垣間見せている。
(日本書紀)


[1186] 天智九年(670)四月三十日 2004-04-30 (Fri)

 未明に法隆寺全焼。
 この日の未明、法隆寺に火災(原因についての言及はない)があり、「一屋
も余ること無」く全焼してしまった。
 これが有名な法隆寺炎上の記事であり、「法隆寺資財帳」など他には見られ
ない所伝であることなどから長らくこの記事の正誤を巡って法隆寺再建・非再
建論争が繰り広げられたが、その後現在の法隆寺と方位を異にする四天王寺式
伽藍配置の若草伽藍が発掘されたことによって現在の法隆寺はこの時の火災後
の再建であり、若草伽藍こそがもとの法隆寺である、ということが確認された。
 しかし、問題も残された。若草伽藍には明確な火災の跡が検出されなかった
のである。一屋も余すことなく全焼したのであれば相当激しい火災の痕跡があ
ってしかるべきであるのにそれほど激しくはなかったのである。現に全焼した
と伝えられる大官大寺や、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の反乱によって
全焼したとされる多賀城や天慶の乱で藤原純友に火をかけられた大宰府政庁な
どには激しい火災の跡がまざまざと残されていたのであり、その点が疑問とし
て残された。そしてさらに先年法隆寺五重塔の心柱の年輪を調べた結果、この
心柱は推古二年(594)に伐採されたものであることが判明した。心柱は五
重塔の中心を貫く中心的な柱であり、焼け残った部材を再利用したなどとはま
ず考えられない。一方でその五重塔の瓦の文様などは明らかに七世紀末の再建
を示しており、法隆寺再建を巡る筋の通った説明は出来なくなってしまった。
 数多の謎を秘めて法隆寺は今日なおその飛鳥時代のままの美しい寺容をその
法灯と共に今日に伝えてくれている。
(日本書紀)


[1185] 天平神護二年(766)四月二十九日 2004-04-28 (Wed)

 聖武天皇の皇子と自称する者を配流。
 一人の男が自らを聖武天皇の皇子であり、石上志斐弖(いそのかみのしいて、
釆女(うねめ、女官)か、不詳)の子である、と称していた。調査の結果、こ
れは詐称であることが判明したため、彼を遠国へ流罪とした。
 もちろんこの聖武ご落胤という自称が正しいか、それともこの日の処断に見
られるように「天平の天一坊」であったのかは不明である。しかし、聖武は孝
謙のほかにも少なくとも三人の皇子女をなしており、「お手つき」となった釆
女などが懐妊していた可能性は否定できない。
 しかし、自らが「中継ぎ」に徹した途端にすべての権力を失うことを知って
いた称徳天皇にとって、聖武の皇子の存在(それまでの経緯からすれば無条件
で皇位継承の最大の候補者になる)は自らの存立基盤を否定し去るものであり
絶対に許容できないものであった。淳仁天皇と決裂して以降の彼女の行動を考
えるとき、彼の出自がたとえ事実であっても認められる可能性はなかった。
 仏教に深く帰依しながら夥しい人々を殺した孝謙/称徳天皇がそのような激
しい行動を取るときは決まって後継者の問題があったと言える。周囲はあくま
でも彼女を「中継ぎ」としてしか見ていないのに対して、彼女自身は恐らく我
慢がならなかったのであろう。自分を真の天皇として見てくれた恐らく唯一の
人物、道鏡への傾倒もそのためであったのではなかろうか。
 彼女の暴走はその後は皇太子制の確立もあって女帝の登場を妨げることにな
った。再び女帝が登場するのは幕府への面当てのために後水尾天皇から寛永六
年(1629)に譲位された明正天皇のこととなる。
(続日本紀)


[1184] 崇神十一年(紀元前87)四月二十八日 2004-04-27 (Tue)

 四道将軍、平定を復命。
 崇神十年九月九日、天皇は大彦命(おおひこのみこと)を北陸(くぬがのみ
ち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦
(きびつひこ)を西道(にしのみち)に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみ
こと)を丹波に、それぞれ派遣した。そして従わない者があれば兵を挙げて伐
(う)て、と命ぜられた。これが四道将軍である。しかし、九月二十七日、武
埴安彦(たけはにやすびこ、孝元皇子、崇神の叔父)の反乱事件が起こり、彼
らはこれの鎮圧にあたったため実際の出発は十月二十二日のことであった。
 その半年後のこの日、四道将軍はそれぞれの地方を平定した旨を復命した。
 崇神朝に大和朝廷が東北地方などを除く日本の主要部を統一した、とすると
この四道将軍はまさにその統一の過程を示す伝説となる。但し、北陸・東海は
ともかく、西道は吉備津彦の名が示すとおり吉備地方までの可能性があり、ま
た山陰でなく「丹波(後の丹波・丹後・但馬、兵庫県と京都府の北部)」であ
ることは出雲や九州がこの段階ではまだ服属していなかった可能性をも示唆す
る。また彼らの派遣後具体的な戦闘の記述がないことはこれら将軍が必ずしも
武力を用いた征服ではなかったことをも示すものかも知れない。
 しかし、いずれにしても伝説の域を出なかったこの説話が一挙に現実味を帯
びたのは埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣から銘文が発見されたことによ
る。辛亥年(471?)に造られたこの鉄剣の主である乎獲居臣(ヲワケのオ
ミ)の上祖(祖先)として意富比●(●は土偏に危、オホヒコ)の名が記され
ていた。このオホヒコと大彦命はまず同一人物であろう。
(日本書紀)


[1183] 宝亀六年(775)四月二十七日 2004-04-26 (Mon)

 井上内親王・他戸王、薨ず。
 もと皇后であった井上内親王(聖武皇女)と、その子(光仁皇子)でもと皇
太子であった他戸王(おさべのおおきみ)は巫蠱(ぶこ、他人を呪術により呪
う罪)によってその地位を追われ、更に同じ罪を重ねたとして大和の宇智郡に
あった没官宅(罪などで没収された官人の家)に宝亀四年十月からの一年半の
間幽閉されていたが、この日ともに卒された。
 いくら何でも親子が同日に亡くなるというのはあまりにも不自然であり、自
殺したかまたは暗殺されたとしか考えられない。
 読者は覚えておられるだろうか。天応元年(781)二月十七日の記事にお
いて光仁天皇がその長女能登内親王が薨じられたのに対して親子の恩愛の情に
あふれる、心の底からの悲しみが伝わってくるような宣命が出されたことを。
その同じ光仁天皇が不遇時代から苦楽を共にした妻とその子に対してなしたこ
の仕打ちを考えると、その闇は果てしもなく暗い。
 人の死亡記事はその人の身分によって崩、薨、卒、死の区別がある。彼女た
ちは本来は少なくとも「薨」が用いられるべき身分であったのに無位の皇族扱
いの「卒」となっている。(同様に、事実上流罪のまま亡くなった道鏡や死後
に藤原種継暗殺事件の黒幕とされた大伴家持は「死」とされている。)この後
冤罪により流される途中で恨みを呑み絶食して亡くなった早良親王はその怨霊
を恐れた桓武天皇によって名誉回復が行われ、既に完成していた「続日本紀」
から関連記事が削除されるなどの措置が取られたが、彼女たち不幸な母子につ
いては名誉回復以外の措置はほとんど取られることがなかった。
(続日本紀)


[1182] 宝亀元年(神護景雲四年、770)四月二十六日 2004-04-26 (Mon)

 百万塔の功成り諸寺に分置。
 天平勝宝八年(756)に発生した恵美押勝(えみのおしかつ)の乱により
多数の死者を出した追善として称徳天皇は一百万基の三重の小塔を造らせ、そ
の中に「無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)」という経
典を書写または印刷させたものを収めさせた。これがこの日になって完成、十
大寺に分置された。十大寺は東大寺、西大寺、元興寺、薬師寺、興福寺、法隆
寺の六寺が記録に残るほかは恐らく大安寺、弘福寺(川原寺)、四天王寺と西
隆寺または崇福寺であろう。各寺に一万基ずつ納められたのであろうが、周知
の通り法隆寺に数千基残るほかは明治初期、廃仏毀釈の時期など法隆寺が厳し
い財政難に陥った際に流出した少数が各所に残るのみであり、他の寺には全く
残されていない。東大寺の二度に亘る全焼を始め上記いずれの寺も再三の火災
に遭っており、法隆寺だけでも残ったことは奇跡に近いであろう。また、あま
りにも数が多かったため一部の経は印刷されたものが用いられたが、これは現
存世界最古の印刷物としても知られる。
 この日あわせて常勤の関係者百五十七人に叙位が行われた。法隆寺に残る塔
の墨書には二百五十人前後の人名が残されているので末端の臨時雇いの工人な
どには叙位されることがなかった者もいるのであろう。
 続日本紀の記録では高さ四寸五分(13.5cm)、直径三寸五分(10.5cm)とさ
れ、現存するものの塔身部の高さと一致する。その上に相輪部があるので総高
は21.5cmになる。轆轤(ろくろ)を用いた木製品であり、さすがに数が多いの
で制作者による技術の差を反映するのか出来不出来があるという。
(続日本紀)


[1181] 養老六年(722)閏四月二十五日 2004-04-24 (Sat)

 太政官、良田百万町歩の開墾を計画。
 この日、太政官は次のような四項目の政策を立案、上奏して裁可を得た。そ
の内容は次の通りである。
一.蝦夷(えみし)の反乱などによって荒廃した陸奥・出羽両国(東北地方全
 域)の民衆を安定させるために、租税を軽減し、両国出身の兵士や資人(し
 にん、従者)、釆女(うねめ、官女)などを本国に帰還させる。
二.食糧増産のため良田一百万町歩を開墾する。そのため民衆を臨時に一人あ
 たり十日間使役してその間の食料は官物を用いる。また民衆が独力で開墾を
 行った場合にはその規模に応じて叙勲などの恩典を与える。
三.公私の出挙(すいこ、種籾の高利貸し)の利益は年三割とする。
四.兵営・城柵に食料を運んだ者に対して叙位を行う。
 この中でも特に第二項の百万町歩開墾計画は実に壮大な計画であり、律令制
に基づく班田収受のための口分田不足を解消するために大規模な開墾を図った
ものと見られる。平安初期の百科事典「和名抄」が伝える当時の全国の田積が
八十六万町歩余であったということからもこれがいかに大きな数字であったか
がわかる。もちろん、これは実現せず、深刻な口分田の不足はこの時の付則に
あった民衆による開墾の奨励をさらに徹底させ、翌年の三世一身法(さんぜい
っしんのほう)、そしてさらに二十年後の天平十五年(743)には墾田永年
私財法が制定され、公地公民の制度をなし崩し的に崩壊させるに至った。この
背景には口分田の偏在・不足からはるか遠方(他国の場合さえあった)の口分
田を班給せざるを得ない場合がある、といった現実があった。
(続日本紀)


[1180] 天平十九年(747)四月二十四日 2004-04-23 (Fri)

 布勢水海遊覧。
 越中守(えっちゅうのかみ、富山県と能登半島を管轄した)であった大伴家
持(おおとものやかもち)はこの年正税帳(その国の財政の収支決算書)を携
えてこの夏一時平城の都に帰ることになった。そのため、送別の宴会が何度か
開かれたほか、この日家持は越中国府周辺随一の景勝地である布勢(ふせ)の
水海(みずうみ)を遊覧した。これも送別の宴の一つであったのかも知れない
が、二日後に掾(じょう、三等官)で家持とは同族の縁もあり非常に親しかっ
た大伴池主(おおとものいけぬし)がこの時の歌に追和しているので恐らくは
都に残る妻大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)への土産話
のために帰京前に出かけたものであろうか。いずれにせよ、家持は久しぶりに
都に帰るのが嬉しくて仕方がなかったことであろう。
 布勢の海の 沖つ白波 あり通(がよ)ひ
  いや年のはに 見つつしのはむ
 (布勢の水海の 沖の白波のように しょっちゅう通って
   毎年毎年 鑑賞しましょう) (3991の長歌は略)
 但し、この歌は実際には布勢の水海に行ったのではなく、宴会の中でその風
景を思い出して詠まれたもの、とする説もある。
 布勢の水海は富山県氷見市南部にあった湖。越中へやって来た客人などもい
つも遊覧に誘うほどで非常に美しいところであったらしい。残念ながら、近世
以降の干拓事業のため、現在は完全に埋め立てられてしまい、跡形もなくなっ
てしまっている。
(万葉集巻十七・3991-3992)


[1179] 養老元年(霊亀三年、717)四月二十三日 2004-04-22 (Thu)

 僧尼統制の詔、行基集団の活動を指弾。
 この日僧尼の統制についての詔が発布された。この詔は次の三項目からなっ
ていた。
一.僧尼は政府の許可を得ず勝手に髪を切り僧の姿をすることの禁止。
二.僧尼は寺に常住し托鉢の際には許可を得ること。これに反する行基集団の
 弾劾。
三.僧尼による治療や病気平癒の祈祷なども許可のもとで一定の規定に則って
 行うこと。
 この中で特に有名なのは第二項で、これによると「小僧行基」とその弟子た
ちはちまたに群集して、因果応報の教えを説いたり、指や肱の皮を焼いて剥い
だり(何らかのまじないであろうか)、民家をみだりに訪問しては教えを説い
て喜捨を強要したり、偽って聖道と称して民衆をたぶらかしている、などとさ
れており、激しく非難されている。
 僧になると税や労役・兵役などを免除されるため困窮した農民は正規の手続
きを経ることなく仏教の知識もないまま僧になり(私度僧)、これが国家財政
にとっても次第に重大な問題になっていた。やがて政界を主導するようになる
長屋王などはこういった私度僧に厳しい姿勢を見せていたらしい。
 しかし、やがて始まる大仏造営の巨大事業には道路や橋の修理・造営などで
民衆の圧倒的な支持を集めていた行基集団の力を借りざるを得ないようになり、
この時「小僧」と蔑まれた行基が天平十七年(745)には僧としての最高位
である大僧正に任ぜられるに至る。
(続日本紀)


[1178] 天平勝宝元年(天平感宝元年、749)四月二十二日 2004-04-21 (Wed)

 陸奥守百済王敬福、黄金九百両を貢す。
 この年二月二十二日、陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が
急使を発して同国少田(おだ)郡から黄金が産出された、ということを報告し
た。折から大仏像に塗金するための金の調達に苦しんでいた聖武天皇は狂喜し、
四月一日には東大寺に行幸されて大仏の前にその慶事を報告、「天平」の年号
に記念の文字を加えて「天平感宝」と改元することやこのことを祝賀して臨時
の叙位を行うなどした。特にこの中で大伴・佐伯の両氏が古来「海行かば水漬
(みづ)く屍(かばね)、山行かば 草むす屍、王(おおきみ)の 辺(へ)
にこそ死なめ、のどには死なじ(海を行けば 水中に屍をさらそう、山を行け
ば草の中に屍をさらそう、陛下の お側で死のう、畳の上では死ぬまい)とい
う家訓をもとに忠勤に励んできたことを褒めて特別に一律に昇進させている。
このことは当時越中守として越中国府(富山県高岡市)にあった大伴家持を感
激させて先の家訓(末句が「顧みはせじ」)を歌いこんだ長歌(陸奥国に金を
出す詔書を賀す歌、巻十八・4094)などを詠ませている。
 この日、百済王敬福自身が入京して産出された黄金九百両を献上した。この
黄金を用いて大仏に鍍金が行われたのであるが、大仏の全身に鍍金するために
必要な黄金の総量は一万四百四十六両であり、三年後の大仏開眼の際にもその
尊顔の周辺の一部しか鍍金はされていなかったとされる。
 百済王敬福はもと百済の王族の子孫で、彼らに従う百済からの亡命技術者た
ちの先進技術がこの黄金産出につながったのであろう。この時の産出地は宮城
県遠田郡涌谷町の黄金山(こがねやま)神社の一帯と考えられている。
(続日本紀)


[1177] 天平二十年(748)四月二十一日 2004-04-20 (Tue)

 元正上皇崩御。
 この日、元正太上天皇が内裏の正殿で崩御された。宝算六十九歳。
 文武天皇の崩御により急遽「つなぎ」として皇位に立ったその母の元明天皇
からさらに位を譲られたのが文武天皇の姉に当たる元正天皇であった。その即
位はそれまでの常識では考えられないものであった。即ち、天皇になるのは成
年皇族男子であり、それ以外では皇后(皇太后)が次の天皇までの中継ぎとし
て皇位を継ぐことはあっても、それ以外の事態は全く想定されていなかったの
である。しかし、文武崩御という非常事態の際には文武には皇族の皇后はなく、
また聖武の母である夫人の藤原宮子は精神に異常を来していたらしく、結果と
して実際には自身即位していない文武の父の草壁皇子の妃であった元明天皇は
その夫草壁(岡宮天皇)が即位したものとみなされ、文武の遺詔を受けた形に
して皇位を継いだのであった。更に元明から譲位された元正に至っては未婚の
皇女であり、あらゆる点で前例のない事態であった。但し、古くは清寧天皇崩
御の後、顕宗・仁賢両天皇の譲り合いの間、二人の姉の飯豊皇女が皇位を代行
した、という伝承があり、恐らくこれを根拠としたものであろう。
 元明が元正に譲位された理由も本当に身体の不調が理由であれば既に文武の
即位時の年齢を超えていた聖武に譲位すればよかったのであり、やはりこれは
藤原氏の露骨なやり方に嫌気がさして藤原氏との関係が薄い娘に後事を託した
のではないかと考えられる。現に元正天皇は長屋王、そして橘諸兄の後ろ盾と
なって藤原氏に対抗してきたのであった。彼女の崩御によって藤原仲麻呂ら藤
原氏を抑えることが出来る者はもはやいなくなってしまった。
(続日本紀)


[1176] 霊亀二年(716)四月二十日 2004-04-19 (Mon)

 貢調脚夫の疲弊を見て国司治政の良否を判断させる。
 日本の律令制では税は地方から納税者が京まで自分で運搬して収める、とい
うのが原則であった。もちろんその往復の旅費も自分で負担せねばならず、公
用旅行者のための施設である駅や馬が使用できるわけではなく、また難破の危
険があることから海路の運送も禁止されていた。例えば陸奥国の場合、平安初
期の「延喜式」の規定によれば往路五十日、復路二十五日であるから往復で七
十五日以上もの間の自分の食料を運搬する税のほかに持参しなければならなか
った。これはどう考えても無理があった。
 この日の詔ではそうして納税のため上京してきた脚夫(きゃくぶ)が入京し
たら関係部署が彼らの携行した食料を調査することを命じている。即ち、帰り
の分の食料も携行してきているかどうかを調べさせ、もし充分でなければその
国は苛斂誅求のために民衆が苦しんでいるものと判断し、それによって国司を
処罰することを告げている。
 この詔の後半では入京する人夫がぼろぼろの服を着ている様子が描かれ、そ
こまで民衆を苦しめて数字だけ整えている現状を憂えている。これからは民の
痛みを憐れんで政治を行うように、ということが述べられてはいる。大宝律令
を制定してから十五年ほどでその重大な問題点に気がつきながら、結局精神論
で逃げているのはこの時代の限界だろうか。このような無理が続くわけがない
ことが結局律令制崩壊の一因であった。平城京の繁栄を支えた遠隔地の民衆は、
弥生時代同様の竪穴式住居に住んで「貧窮問答歌」に描かれたような悲惨な生
活を送っていた。
(続日本紀)


[1175] 霊亀二年(716)四月十九日 2004-04-18 (Sun)

 河内国の三郡を割き和泉監を設置。
 大化改新で定められた畿内の範囲はもともとの大和朝廷の直轄地を示すもの
であったが、令制でこれが大倭、河内、摂津、山背の四畿として固定され、畿
内の住民は税の優遇などの恩典が与えられた。もっとも代わりに宮殿造営など
の労役に従事する必要があり、建前としては必ずしも地方に比べて優遇されて
いたとは言えない。が、奈良時代において畿内の住居はほとんどが掘っ建て柱
・板壁の住居であり、依然として竪穴住居を主体とする地方の住居とは顕著な
差異が認められるのはこの優遇の結果であろうか。
 畿内のうち、大和国には平城京は含まれず、左右の京職(きょうしき)の管
轄、副都である難波宮があった摂津も国でなく一段階上の摂津職(せっつしき)
という役所が置かれた。そしてこの日河内の南部、離宮である珍努宮(ちぬの
みや、大阪府和泉市?)が置かれた地域を中心に大鳥・和泉・日根郡(堺以南
の大阪府南部沿岸)を割いてこの日新たに「和泉監(いずみのげん)」が設置
された。同様に大和の南部、吉野地域には恐らく同じ頃に「芳野監(よしのの
げん)」が設置された。ここに畿内は「四畿」から「四畿二監(しきにげん)」
となった。この頃は国や郡の設置・再編が積極的に行われており、その一環と
して離宮のある地域についても特別行政機関となったものであろう。
 この後橘諸兄政権での財政緊縮策の一環として和泉・芳野二監は廃止されて
しまうが、その後天平宝字元年(757)に和泉のみ同じ地域が和泉国として
再び設置される。「五畿七道」というように畿内が五ヶ国と固定するのはそれ
以降のこととなる。
(続日本紀)


[1174] 天武四年(675)四月十八日 2004-04-17 (Sat)

 麻続王、罪を得て流罪となる。
 麻続王(おみのおおきみ)は伝未詳。恐らく天武天皇の中央集権政策に異を
唱えたため罪に問われたものであろう。天武朝には反対派を次々と処断したよ
うな記録が散見される。この結果として「大君は 神にしませば」という歌に
見られるように天皇の絶対的な権威を確立することに成功した。日本書紀の記
録では彼は因幡(いなば、鳥取県西部)に流され、その子の一人は伊豆島(伊
豆大島?)に、もう一人は血鹿島(ちかのしま、長崎県五島列島)にそれぞれ
流された、と伝える。
 一方、万葉集には彼が伊勢の伊良虞(いらご)の島(愛知県伊良湖岬沖合の
神島?)に流された時に人が哀傷して作った歌
 打麻(うちそ)を 麻続王 海人(あま)なれや
  伊良虞の島の 玉藻(たまも)刈ります (巻一・23)
及びそれに彼が唱和した歌が残されている。
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ
  伊良虞の島の 玉藻(たまも)刈り食(は)む (巻一・24)
 万葉集の左注でも歌辞によって後の人が誤ったか、としているが、一方では
「常陸国風土記」の行方(なめかた)郡板来(いたく)村(茨城県潮来町)の
板来駅家の記述に「飛鳥の浄御原の天皇の世に、麻続王を遣(やら)ひて、居
(す)まはせたまひし処なり」という記述がある。三者三様の記述が何の故で
あったのか、実際はどうだったのかは不明だが、いずれにせよ伝説化するほど
強烈な印象を当時の人に残した事件であったらしい。
(日本書紀)


[1173] 天武四年(675)四月十七日 2004-04-16 (Fri)

 狩漁と食肉の制限を命ず。
 この日天武天皇は狩漁や食肉に関する詔を出された。それは
(1)動物を捕らえる罠や落とし穴、武器を用いた仕掛け設置の禁止。
(2)四月一日以降九月三十日以前に梁(やな、遡上する魚を捕らえる罠)を
  設置することの禁止。
(3)牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食することの禁止。
といったことからなり、違反者は処罰する、とした。
 このうち、罠などの禁止はそういった罠などに誤って人がかかって死傷する
ことを防ぐためであり、次の梁の禁止は資源の保護を意図するものであろう。
 最も有名なのは食肉の禁止であり、農耕・運搬に従事する牛、運搬・軍事に
従事する馬、番犬や狩猟に従事する犬、人に近い猿、時を告げる鶏、これらの
主に有用な動物の肉を食することを禁止したものであり、結果的にはこの時の
禁令がその後の日本人の肉食忌避を方向付けたと言えるかも知れない。
 但し、この時の禁令は牛馬犬猿鶏だけであり、それ以外は禁止しない、とし
ている。従って当時の主要な食肉であった猪や鹿や雉などは禁止の対象になっ
ておらず、肉食全般を禁止したものではない。しかし、これがどれだけ直接の
効果があったかは疑問であり、その後も江戸時代初期まで犬はしばしば食用に
されたらしい。長屋王家跡から出土した木簡からは犬を食用、または鷹狩りの
鷹の餌としていた可能性が指摘されている。
 なお、上記の生物の中に猫がいないことから当時は猫はまだ日本に渡来して
いなかったか、極めて少数しかいなかったものと見られる。
(日本書紀)


[1172] 和銅六年(713)四月十六日 2004-04-15 (Thu)

 新格と権衡・度量を諸国に頒つ。
 この年二月十九日、度量や調庸(税)などについての格(きゃく、律令の補
足法)が出された。その内容はそれまで土地などを測るときに用いられていた
大尺(高麗尺、一尺は約36cm)を小尺(唐尺、一尺は約30cm)に改めたことな
どが知られる。この日諸国に頒布されたのはその格と、調庸として収めさせる
布の大きさを一定の規格に基づいたものとするための度量衡の基準であろうと
考えられる。
 先の格によれば成人男子二人の出す庸の布を一段とし、一人分の長さは一丈
三尺(約3.9m)と定められていた。大宝令の規定は二丈六尺であるから半減さ
れたことになる。但し、この一段では一人分の衣料として少し不安があったの
か、この後慶雲三年(706)二月十六日には一人一丈四尺(約4.2m)に再度
改訂されている。租庸調のうちで租として徴収される米は重いために基本的に
は収められた諸国に留められ、不動倉に収められて飢饉などの非常事態に備え
られたり高利貸しの出挙(すいこ)の原資に充当されたりしたため、中央に納
入される税はこれら布やその地方の特産物が中心であった。この布が官人に配
布されて衣料となり、或いは外国との交易に用いられた。頻繁に遣日本使を派
遣して来た渤海国も日本との通交の大きな目的はこれら布製品であったらしい。
 奈良時代の定規はいくつか出土しているが、その長さは今日の感覚ではかな
りいい加減なもので、一割程度の誤差があったりする。まして地方では大きな
差違があったものであろう。用いた者の立場にもよるであろうが、こういった
事態をなくす目的で諸国に基準を頒布したものと考えられる。
(続日本紀)


[1171] 天武十二年(683)四月十五日 2004-04-14 (Wed)

 銅銭を用い銀銭を停止するよう詔。
 この日、天武天皇は次の詔を発された。
「今より以後、必ず銅銭を用ゐ、銀銭を用ゐること莫(なか)れ」と。
 長い間ここでの詔の意味は不明であり、多くの説が立てられた。しかし、飛
鳥池遺跡の発掘によって大量の富本銭とその鋳型が発掘されたことにより一挙
にその謎が解決された。この詔こそが新たに発行された初の公式銭貨である富
本銭の発行に伴い、通貨を富本銭に一本化するための詔にほかならなかった。
 ここで使用を禁止された銀銭は無文銀銭のことと考えられる。無文銀銭は銭
貨の形態をした銀貨であり、重量を一定にするためか小さな銀片を貼付したも
のが多く、その名の通り銘も有しない。恐らくは貨幣と言うよりも銀としての
価値により流通したものと考えられる。
 この日禁止された銀銭ではあったが、僅か三日後の十八日には早くも使用禁
止が撤回され、富本銭と無文銀銭が並び用いられることとなった。これは恐ら
く既に流通していたものを急に停止するのが現実的ではなかったことと共に、
富本銭そのものの絶対量が不足したこともあるのであろう。その後の和同開珎
に比べて富本銭の出土絶対量は極めて少なく、そのために江戸時代には既に存
在が知られながら貨幣ではなく、現在も一部の寺社などで頒布されているよう
なお守りの類の絵銭と理解されていた。一部にあった、その材質等が和同開珎
に近いことからこの条文に記載された貨幣だったのではないか、という説はそ
のために少数派にとどまり、長い間本格的な貨幣としての認識をされることは
なかった。
(日本書紀)


[1170] 神護景雲元年(天平神護三年、767)四月十四日 2004-04-13 (Tue)

 東院の玉殿完成。
 この日新たに平城宮東院の玉殿(ぎょくでん)が完成し、群臣が参会して完
成披露を行った。この玉殿は瑠璃(るり)色の瓦で屋根を葺き、柱や壁には藻
績(そうき、水草)の文様が描かれており、人々はこれを「玉(たま)の宮」
と呼んだという。
 平城京は北一条大路から九条大路まで東西に通じる十本の大路、中央を走る
朱雀大路を中心に東西それぞれ一坊から四坊までの九本の南北道、そして南一
条から五条までの部分には東に張り出した外京(げきょう)があり、ここには
五坊から七坊までの南北の大路が通っていた。何故この外京が設置されたかに
ついては記録がない。その平城京の中心となるのが現在で言えば皇居と官庁街
に相当する平城宮である。藤原京では京域の中心部北よりに設置された宮域は
平城京では唐の都城にならって中央北端に置かれた。その位置は平安京と同様
に南北は京極の北一条大路から二条大路まで、東西はそれぞれの一坊大路まで
の方形の区画と考えられて来た。しかし、発掘調査の結果は宮跡の東の端、東
一坊大路が通っていると想定された場所に道路の遺構はなく、平城宮は部分的
に東に張り出したいびつな形をしていたことが判明した。これによってそれま
では離宮と考えられていたこの「東院」がこの張り出し部分に存在することが
想定され、やがてその南半部にには庭園遺構が発見された。またこの記事にあ
る通り緑釉(りょくゆう、緑色の釉薬)の瓦も発見されている。ここに記録さ
れた玉殿を含む中心部分は現在宇奈多利神社のある台地上(未発掘)にあった
ものと考えられている。
(続日本紀)


[1169] 持統三年(689)四月十三日 2004-04-12 (Mon)

 皇太子草壁皇子薨ず。
 律令制が確立する以前の皇位は基本的に成人男子の皇族の間で受け継がれ、
終身その位にあった。適切な男子の皇位継承者がなかった場合は皇后などが
「中継ぎ」として皇位に立つことによって継承権者の成人を待った。
 天武天皇の崩御後、愛児草壁皇子を皇位に即けるため実姉の子大津皇子を謀
殺した皇后(持統)はしかし激しい非難を浴びたためか、草壁皇子を直ちに皇
位に据えることができなかった。日本書紀によれば草壁皇子は天武天皇の在世
時から皇太子とされたこととなっているがこれが事実かどうかは不明。逆にも
し事実であったのであればすぐに即位しなかったことは余りにも不自然である。
 結局持統は自ら皇位に即くこともせずに臨朝称制(皇位代行)を続け、また
草壁を即位させることも出来ないまま、やがて草壁が成長してその即位を周囲
も納得するまで待つこととなった。しかし、この日当の草壁皇子が薨じたこと
によってすべての計画が頓挫し、やむなく翌年自ら即位し、大権を行使して皇
位を草壁の遺児軽皇子(かるのみこ、文武)に伝えることに腐心するに至った。
しかし、それさえも難航し、藤原不比等に事実上の後見役を委ねて後事を託し
たり、また十市皇女と大友皇子の遺児葛野王を抱き込んで皇族の会議を誘導さ
せたりすることとなった。結果的に極端なまでに選択肢を制限したことがその
後の度重なる奈良朝の政変の原因とさえなった。
 草壁皇子は享年二十八歳。天武の崩御段階で既に即位可能な年齢であったと
見られ、実際に天武天皇が後継を草壁皇子と指名していたのであればその即位
を阻む者はなかったはずであった。
(日本書紀)


[1168] 大宝元年(701)四月十二日 2004-04-11 (Sun)

 遣唐使拝朝。
 この年一月二十日、粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使、高橋笠間
(たかはしのかさま)を大使、坂合部大分(さかいべのおおきだ)を副使とす
る遣唐使人事が任命された。この場合、大使ではなく執節使がこの遣唐使の中
心人物である。この日一行は出発の挨拶を行って遙かな唐を目指した。
 しかし、この遣唐使は筑紫(九州)出航後に暴風に遭い渡唐できず、翌年六
月二十九日に改めて出発、唐に至った。しかし、到着後、日本からの使者であ
ることを告げ、到着した場所の名前を確認したところ、(唐ではなく)周の楚
州塩城県(現在の江蘇省)である、と告げた。驚いた日本側が確認すると、唐
の高宗皇帝の崩御後、実権を握ったその皇后(則天武后)が唐朝を簒奪して国
号を周としていたことが判明した。唐の人は続けて遣唐使に対して「よく聞く
話に『海の東に倭国がある。これを君子の国と謂う。人民は豊かであり礼儀が
厚く行われている』というのがあるが、今使者の様子を見ると大変立派である。
あの話は本当らしい。」と告げた。
 もちろんこれは則天武后による国家簒奪という異常事態にある自国の状況を
暗に批判したこともあろうが、大使の粟田真人は旧唐書、新唐書の二種類の唐
の正史が共にその人柄を激賞しており、唐側の記録にも残るほど好印象を残し
たらしい。真人らはその翌々慶雲元年(704)帰国するが坂合部大分は何故
か十四年も唐にとどまり、養老二年(718)にやっと帰国している。
 なお、この時の使節の少録(四等官末席)として万葉歌人として知られる山
於憶良(やまのうえのおくら、山上憶良)も渡唐している。
(続日本紀)


[1167] 天平十七年(745)四月十一日 2004-04-11 (Sun)

 紫香楽宮周辺の山で火災。天皇、大丘野行幸を図る。
 前年二月から紫香楽宮に滞在された聖武天皇はこの年正月の朝賀の儀式では
紫香楽宮に大楯・槍(ほこ)を樹(た)てて事実上紫香楽を都と定められた。
が、この楯・槍を樹てるのは本来は物部(もののべ)一族がその職掌としてい
たものであったのだが、あまりにも急に決定されたために物部一族の石上(い
そのかみ)・榎井(えのい)両氏を呼び寄せることができず、代わって物部氏
同様に古くからの軍事氏族である大伴・佐伯両氏に代行させている。大伴氏は
大王家の親衛隊のような立場にあり、また宮都においては本来は宮城正面の大
伴門(後の応天門)、またその同族佐伯氏は宮城西面中央の佐伯門(後の藻璧
門(そうへきもん))と自らの氏族名のついた門を守衛する門号氏族であった。
 しかし、怪事が連続する。四月一日には市の西の山、三日には甲賀寺の東の
山、八日には紫香楽の南、伊賀の真木山(三重県阿山町の槇山)でそれぞれ火
災が発生、特に真木山の火災は三四日消えず、山背・伊賀・近江の諸国に消火
を命じている。そしてこの日には皇居の東の山に火災が発生した。住民たちも
これはもうだめだと思ったのか、先を争って川に行って財物を埋め、聖武天皇
自身も危険を感じられたのか大丘野(滋賀県水口町)への行幸を準備された。
幸い、十三日の夜になって雨が降ったためこの火事は鎮火、行幸は中止になっ
たらしい。これらは恐らくは遷都を望まぬ人々による放火の可能性が強いが、
更に二十七日から三日三夜にわたって地震が続いたのを皮切りに今度は地震が
頻発した。ここにとうとう聖武天皇も紫香楽宮を諦められたのか、五月五日に
は終日の地震の中、慌ただしく恭仁京に還幸される。
(続日本紀)


[1166] 推古元年(593)四月十日 2004-04-09 (Fri)

 厩戸皇子立太子し摂政となられる。
 正式に即位した初の女帝であられた推古天皇の皇太子としてこの日厩戸豊聡
耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ、聖徳太子)が立太子された。
 厩戸皇子は用明天皇の皇子。その母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとの
ひめみこ)が臨月の時、禁中を巡察しておられて馬官(うまのつかさ、後の馬
寮か)のところで産気づいて皇子を産まれた、ということからその名があると
いう。すぐに言葉を話し、一度に十人の人の訴えを聞いても間違えずに聞き分
けることができ、またよく未来を予知された。父の用明天皇は特に皇子を寵愛
され、皇居の南の上殿(うえのみや)に住まわせられたため上宮厩戸豊聡耳太
子(うえのみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と呼ばれた。
 律令制成立以前、皇位継承法ははっきりとしたものではなかったらしい。同
じ世代に属する血統の濃い成人男子皇族のうちから有力な者が順次皇位につき、
その世代が尽きた時に次の世代に皇位が伝えられたらしい。この時、まさにそ
の世代交代の時期にあり、血統の濃さからも聖徳太子が皇位につくことが予定
されたものの、敏達三年(574)出生という所伝が正しければ当時太子はま
だ十九歳の未成年であり、この時点では即位は出来ない。一方既にその父の世
代の皇位継承権者がいなくなっていたため、太子成人までの「つなぎ」として
敏達天皇の皇后であった推古天皇が皇位につき、聖徳太子の成人を待ったもの
と考えられる。しかし、当時は天皇が崩御することなく退位する、という前例
がなかった。そして推古天皇が長生きをされたことから予定が狂い、推古天皇
の崩御時には既に聖徳太子の世代も亡く、結局皇位継承の混乱を招いてしまう。
(日本書紀)


[1165] 天平勝宝四年(752)四月九日 2004-04-08 (Thu)

 東大寺大仏開眼供養。
 古代国家の総力を挙げて造営が進められた東大寺の盧舎那(るしゃな)大仏
の像が完成し、この日盛大な開眼供養が挙行された。儀式は正月元日の儀式に
準ずる、朝廷行事としては最大規模のものとされた。
 朝から聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇が東大寺に行幸、東大堂布板殿に座
され、文武百官が盛装して並ぶ。続いて有位の僧たちが南門から、開眼を行う
天竺(インド)僧菩提僊那(ぼだいせんな)が東門から、講師の隆尊律師が西
門から、読師の延福法師が東門から、それぞれ輿に乗って入場した。開眼は文
字通り大仏像に筆で眼を描き入れる儀式であるが、菩提僧正が筆を執ってこれ
を行った。この筆には縄をつけてその先に聖武上皇・孝謙天皇を始めとする人
々が手を添え、参列者がこの開眼の功徳を分け合うことが出来るようにされて
いた。その後講師と読師が高座に登って華厳経の教えを説いた。
 その後南門から招かれた総勢一万人にも及ぶ僧侶が参入し、大安・薬師・元
興・興福の四寺から珍宝が献じられ、内外の楽曲が華やかに演奏された。「作
(な)すことの奇(くす)しく偉(たふと)きこと、勝(あ)げて記すべから
ず。仏法東に帰(いた)りてより、斎会(さいゑ)の儀、嘗(かつ)て此(か
く)の如く盛(さかり)なるは有らず」と記される国を挙げての盛大な儀式で
あった。
 この時用いられた筆を始めとする多くの品々はその後正倉院に収められ、今
日まで伝えられていることは周知の通りである。

(続日本紀)


[1164] 文治二年(1186)四月八日 2004-04-07 (Wed)

 静、鶴岡若宮にて源義経を慕い舞う。
 この日鶴岡八幡宮に参詣した源頼朝とその妻北条政子はその回廊に鎌倉に連
行された源義経の愛妾静を招き、舞を所望した。最初は病と称して参上を拒ん
でいた静も結局しぶしぶ召しに応じてやって来たものの、舞については辞退し
た。しかし再三の要請に遂に断りきれずに工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅
拍子をつける中、まずこの歌を吟じた。
 よし野やま みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとぞこひしき
続いて別の曲を歌った後、更に
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
「誠に是社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし(天井の埃さえも感動するほどだ)」
という情景の中で一座が静粛に包まれた中、頼朝の声が響いた。「八幡宮の神
前においては鎌倉幕府の万歳を祝すべきなのに反逆者義経を慕う歌を歌うとは
何事か」と。しかし、ここで政子が取りなした。「かつて流人のあなたと引き
裂かれそうになったとき、またあなたが挙兵した時、私は一人でどんな不安な
思いをしたことか。彼女が多年愛してくれた義経を慕って歌うのは貞女という
べきでしょう。曲げて賞翫して下さいな」と。暫くして頼朝は御簾の下から着
物を引出物として出し静に賜ったという。
 当時は鶴岡八幡宮は山上にある現在の本宮はなく、現在その手前右側に鎮座
される若宮が社殿であり、その回廊(寛永の再建時に省略された)にて舞が行
われた。現在も毎年四月第二日曜日に行われる鎌倉祭りで彼女を偲び舞殿にて
静の舞が奉納される。
(吾妻鏡)


[1163] 天武七年(678)四月七日 2004-04-06 (Tue)

 十市皇女が急病で薨じたため祭祀を中止。
 この年の春、天武天皇は天神地祇(高天原の神々と土着の神々)を祀ろうと
大祓(おおはら)えを行い、斎宮(いわいのみや、神事のための宮殿)を倉梯
(くらはし)の河上(かわかみ、桜井市)に建てられた。四月一日に占いを行
い、七日が吉日と出たのでこの日未明に行幸となり、百官を引き連れて出発さ
れた。しかし、未だ飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)京を出ないうちに急報
が届いた。十市皇女が急病により薨じられた、ということであった。急遽行幸
も祭祀も中止された。そして彼女は十四日に赤穂(あかお)に葬られた。
 十市皇女は天武天皇と万葉歌人として知られる額田王(ぬかたのおおきみ)
との間の皇女。天智天皇は弟の天武を恐れたのか、兄弟でありながら二人の間
には何重にも婚姻関係が結ばれた。その一つとして彼女は天智天皇の皇子であ
った大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)の妃となった。しかし、運命の壬
申の乱によって、彼女の夫は父と戦い、その軍勢によって死に追い込まれる。
同様に父のもとを去って天智天皇の後宮にあった母とともに天武のもとに引き
取られたと見られる彼女だが、その後は天武四年に伊勢神宮に行かれた以外の
事跡は伝わらない。そしてこの日のあまりにも急な死。日本書紀は単に急病で
あったと伝えるのみであるが、彼女の置かれた境遇などから実際にはこれは自
殺ではなかったか、という見方も強い。
 赤穂は桜井市東南部の鳥見山と忍阪山の間にある赤尾ではないかとされる。
舒明天皇陵や鏡女王(額田王の姉)の墓も近く、であればおそらく記録にない
額田王の墓所もその付近であろう。
(日本書紀)


[1162] 宝亀三年(772)四月六日 2004-04-05 (Mon)

 下野国、道鏡の死を報じる。
 この日、下野国(しもつけののくに、栃木県)から前年造薬師寺別当道鏡が
死んだ、との報告があった。薬師寺は下野薬師寺で、後に東大寺、大宰府の観
世音寺と並んで僧侶受戒のための戒壇が設置された当時東国では最大規模の寺
であったが現在は廃寺となっている。
 道鏡は弓削(ゆげ)氏の出身。仏典の原典である梵語(サンスクリット、印
度古代文字)に精通し、後世の禅宗で行うような修行で名を挙げ、そのため宮
中に召し入れられた。天平宝字五年(761)、保良宮行幸の際に孝謙上皇の
看病の祈祷を行って効果があったのをきっかけに上皇の寵愛を得るようになる。
その溺愛ぶりは目に余るものがあったらしく、苦言を呈した淳仁天皇と孝謙上
皇との関係は決裂し、恵美押勝の乱の後彼女は淳仁を廃して淡路に幽閉、自ら
重祚(ちょうそ)して称徳天皇となり、ますます露骨に道鏡を偏愛するに至る。
遂に皇位を窺うに至った道鏡の野望(彼自身の希望であったかどうかは不明と
するしかないが)は和気清麻呂(わけのきよまろ)によって阻止されたものの
弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)がたった八年で無位から従二位大納言に進ん
だのを始め一族で五位以上の貴族になった者は十人にも及んだ。しかし称徳天
皇の崩御によってすべては無に帰した。が、一人称徳天皇の御陵を守る道鏡を
さすがに政府も処刑するには忍びず、造薬師寺別当という名目で流罪とするに
留めた。亡くなったときには庶民として葬られたという。
 称徳天皇と彼との間に「特別な関係」があった、とする見方はその同時代を
生きた僧景戒の「日本霊異記」に既に見られるが、事実かどうかは永遠の謎。
(続日本紀)


[1161] 天平五年(733)四月五日 2004-04-05 (Mon)

 交替する国司に解由の制を励行させる。
 解由(げゆ)は国司などの交替の際に前任者と新任者との間での事務引き継
ぎの完了証明とでもいうべき性質の書類であり、前任者はこれを一定期間内に
太政官に提出し、懈怠なく勤務を満了して引き継ぎする官物に不足等がないこ
との証拠としたものである。しかし、この日出された詔によれば、新任の国司
が着任する前に帰京してしまったり、或いは事務引き継ぎが完了しているにも
かかわらず新任の国司が解由状を発行しないため、前任者は太政官に提出でき
ず、次の官職を与えてもらえない、といった状況が生じており、そのために天
平三年に既に解由の徹底を命じたにもかかわらずまだ守られない、という実態
が生じていたという。そこでこの日の詔によって改めて解由状を発行して前任
者から太政官に申告するように命じたものである。しかし、この後も国司交替
にまつわる規定は次第に厳格なものとなり、延暦元年(782)には百二十日
経過しても解由を得られない者は懲戒免職に相当する厳しい措置を取ることな
どが定められ、延暦二十二年にはそういった国司交替の際の手続きを定めた延
暦交替式が制定されている。
 しかし、手続きの厳しさとそれが守られるかどうかは別問題であったのか、
例えば後年讃岐守として赴任した菅原道真公までもが後任を待たずにさっさと
帰京してしまっている。さらに後になると地方政治・国府の機能の崩壊により
すべては単なる形式と化し、引き継ぎが行われるべき官物、正倉や非常時の備
えのはずの不動穀、国府の建物に至るまで「無実」、帳簿上のみに存在し実態
は失われたまま引き継ぎが行われるようになっていった。
(続日本紀)


[1160] 雄略十二年(468)四月四日 2004-04-04 (Sun)

 身狭青らを呉に派遣。
 他人を信用せず、多くの人を殺したため「大悪天皇」とまで呼ばれた雄略天
皇は史部(ふひとべ、文官?)の身狭青(むさのあお)と檜隈民使博徳(ひの
くまのたみのつかいはかとこ)の二人だけは寵愛された。そして帰化人と見ら
れるこの二人は外交で活躍する。
 まず九年二月、二人は呉国(くれのくに、南朝の宋)に派遣された。彼らは
十年九月四日に帰国し、この日再び使いに出た。前回の使節では鵞鳥を将来し
たことが記されるのみであるが、今回の使節は十四年一月十三日に技術者多数
を連れて帰国したことが記されている。
 周知の通り、雄略天皇は倭の五王のうちの武に相当することは確実と見られ、
「宋書」順帝昇明二年(478)に倭王武が遣使朝貢した記事が恐らくこの使
節であろうと考えられる。
 当時朝鮮半島では高句麗(こうくり)が大攻勢に出ておりこの後雄略二十年
には七昼夜に及ぶ猛攻の末、遂に首都漢城を落とし、百済が一時滅亡するに至
る。この時は雄略天皇が久麻那利(こむなり)を百済に割譲して国を再興させ
るが、こういった高句麗の動向を睨み、高句麗と戦うための大義名分を得て国
際的に有利な地位を得よう、という意図から遣使したものであろう。 しかし、
結果的には当初の目的を果たすことは出来なかった。当の宋がそもそも弱体化
しており、先の遣使の翌年、昇明三年には滅亡してしまったのである。それ以
降倭国から南朝への遣使の記録がなくなるのは恐らく日本側で頼りにならない
南朝を見限り、独力で対処することとしたためであろう。
(日本書紀)


[1159] 推古十二年(604)四月三日 2004-04-03 (Sat)

 聖徳太子、憲法十七条を制定。
 この日聖徳太子は憲法十七条を制定された。
一.和を以て貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
二.篤(あつ)く三宝(仏・法・僧)を敬へ。
三.詔を承りては必ず謹(つつし)め。
四.群卿百寮(群臣や官僚)、礼を以て本(もと)とせよ。
五.むさぼりを絶ち欲を捨てて、明(あきらか)に訴訟を弁(わきた)めよ。
六.懲悪勧善は古(いにしへ)の良典なり。
七.人各任有り。掌(つかさど)ること濫(みだ)れざるべし。
八.群卿百寮、早く朝(まゐ)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。
九.信は是義の本なり。事毎に信有るべし。
十.忿を絶ち瞋(しん)を捨てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。
十一.功過を明察して、賞罰は必ず当てよ。
十二.国司・国造、百姓(はくせい、庶民)に斂(をさめと)ることなかれ。
十三.諸の官に任(よさせ)る者(ひと)、同じく職掌を知れ。
十四.群臣百寮、嫉妬有ること無(なか)れ。
十五.私(私利私欲)を背きて公に向(ゆ)くは、是臣の道なり。
十六.民を使ふに時を以てするは古(いにしへ)の良典なり。
十七.夫(そ)れ事は独断すべからず。
 官僚たちへの倫理綱領といった内容であるが、一読して現代でも充分通用す
る、或いはむしろ現代にこそ必要な内容ではないだろうか。
(日本書紀)


[1158] 用明二年(587)四月二日 2004-04-02 (Fri)

 用明天皇の仏教への帰依を巡り物部・蘇我両氏対立。
 この日新嘗祭(本来毎年秋に行われる新穀の収穫を感謝する儀式だが、ここ
は天皇即位後最初のものなので大嘗祭であろう、大嘗祭は天皇即位後の通常秋
に行われる一世一代の盛儀)を行った用明天皇は発病されたために仏教に帰依
しようと考えられ、群臣に諮問した。物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝
海(なかとみのかつみ)は「どうして国内の神に背いて他国の神を崇めるので
すか。こんなことは前代未聞です」と言って反対したのに対し、蘇我馬子(そ
がのうまこ)は「お言葉に従うべきです。誰も異議などあるはずがありません」
として賛成、意見は真っ二つに分裂した。そこに天皇の弟の穴穂部皇子(あな
ほべのみこ)が豊国法師という僧を連れて内裏に入ってきた。守屋は彼らを睨
みつけ激怒したが、そこへあわててやって来た押坂部毛屎(おしさかべのけく
そ)に「今群臣たちがあなたの退路を断とうとしている」と密かに告げた。守
屋は急いで阿都(あと、大阪府八尾市)に退き軍勢を集めた。勝海も兵を集め
て守屋に従ったが、途中で暗殺されてしまった。
 守屋は馬子に使者を送り、「私はみんなが私を陥れようとしていると聞いた
ために退いたのだ」と告げた。馬子はその言葉を大伴毘羅夫(おおとものひら
ふ)に伝えて救援を乞い、大伴氏は蘇我氏側について馬子の家を昼夜守護した。
 風雲急を告げる中、天然痘と見られる天皇の病状はいよいよ悪化され、九日
にはとうとう崩御されてしまった。
 この両氏を中心に仏教の受容と後継の天皇を巡って朝廷を二分した戦闘が行
われるのはこの後七月になってのことであった。
(日本書紀)


[1157] 雄略十四年(470)四月一日 2004-04-01 (Thu)

 根使主の旧悪露見し討滅。
 これより先、安康元年(454)二月一日、安康天皇は大草香皇子(おおく
さかのみこ、仁徳皇子)の妹の幡梭皇女(はたびのひめみこ)を弟の大泊瀬皇
子の妃として迎えようとし、根使主(ねのおみ)を大草香皇子のもとに遣わし
て請わしめた。折しも病気で余命いくばくもないと感じていた皇子は気がかり
であった妹の嫁ぎ先が決まった、と喜び、婚約の印として重宝の押木玉縵(お
しきのたまかずら、玉飾りのついた冠)を差し出した。ところが、受け取った
根使主はその余りの見事さに心を奪われ、玉縵を隠して天皇に大草香皇子は申
し出を拒絶した、と復命した。激怒した安康天皇は軍を派遣し大草香皇子を殺
した。そして彼の妻の中●姫(なかしひめ、●は草冠に帝)を自らの妻とし、
皇后に立てると共に幡梭皇女を大泊瀬皇子の妃とした。しかし、その二年後安
康天皇は大草香皇子の遺児の眉輪王(まよわのおおきみ)のために弑されてし
まう。その混乱を他の皇子たちを殺し、眉輪王を倒した大泊瀬皇子が制して皇
位に即かれた。雄略天皇である。雄略は幡梭皇女を皇后に立てたられ。
 この日呉人(南朝の宋の使者であろう)の饗応を行う適任者を諮問したとこ
ろ、群臣は根使主を推挙したので彼に饗応を行わせ、密かに舎人(とねり、側
近)を遣わして様子を見させたところ、彼が見事な冠をつけており、前回もそ
れを用いていたことが判明。そこで天皇はそれを見ようと饗宴の服装で群臣を
集めた。その冠を見た皇后は慨嘆されて号泣、あれは兄が婚約の印に安康天皇
に差し出したはずのものだ、と天皇に告げた。驚いた天皇に詰問された根使主
は容疑を認めたものの逃亡、追討軍により敗死した。
(日本書紀)


[1156] 垂仁三年(紀元前27)三月 2004-03-30 (Tue)

 新羅王子天日槍来朝。
 この月、新羅(しらぎ)の王子と称する天日槍(あめのひぼこ)が羽太玉
(はふとのたま)一箇、足高玉(あしたかのたま)一箇、鵜鹿鹿赤石玉(うか
かのあかしのたま)一箇、出石小刀(いずしのかたな)一口、出石桙(いずし
のほこ)一枝、日鏡(ひのかがみ)一面、熊神籬(くまのひもろぎ)一具の合
計七種の神宝を携えて来日した。播磨国宍粟(しさわ)郡(兵庫県)に到着し
た天日槍は居住を許された後近江、若狭を経て、但馬に至り、そこに居を定め
た。先の神宝は出石神社の神宝となるが、垂仁八十八年になって天皇はこれを
見たい、と言われて天日槍の曾孫清彦(きよひこ)に献上させた。清彦は神宝
のうち出石小刀だけは惜しんで献上せずにおこう、と自分の衣の内に隠したが
偶然に見つかってしまったため結局これも献上した。しかし、これらを収めた
石上神宮の神府(宝庫)から小刀のみ忽然と消え、後に淡路島に出現したため
ここで祀られるようになった、という記事がある。
 この天日槍についての記述は非常に示唆的で背景にあった史実がどのような
ものかについては多くの説がある。一方、播磨や但馬などには兵主神社という
名称の古社がある。その最大の社は大和朝廷発祥の地と思われる巻向の近くに
鎮座される穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)である。正し
く大和朝廷の発祥の地に鎮座されるこの神社は果たして天日槍と何らかの関係
があったのであろうか。なお、常世(とこよ)の国に渡って非時香菓(ときじ
くのかくのみ、蜜柑)を求めてきた、ということで知られる田道間守(たじま
もり)は天日槍の子孫で清彦の兄と伝えられる。
(日本書紀)


[1155] 敏達十四年(585)三月三十日 2004-03-29 (Mon)

 物部守屋、蘇我馬子の寺を破壊し仏像を捨てる。
 この年三月一日に仏教禁断の勅許を得た物部弓削守屋(もののべのゆげのも
りや)はこの日蘇我馬子の寺に至り、その塔を切り倒して火をつけて焼き、あ
わせて仏像と仏殿を焼いた。そして焼け落ちた仏像を回収して難波の堀江に捨
てさせた。また馬子とこの寺にいた修行者を罵倒し、日本最初の僧であった善
信尼を召した。馬子は嘆き悲しみながらも勅命に逆らうことが出来ず、彼女ら
を引き渡した。官憲に引き渡された彼女は法衣を奪われて海石榴市(つばきち)
の駅でむち打たれた。
 この寺はこの前年に馬子が石川の家を仏殿とした記事、またこの年二月十五
日に塔を大野丘の北に建てた記事があり、これを指すのであろう。難波の堀江
(大阪市の大川)は畿内の外港であり、ここに捨てたということは国外に追放
するという意味を持つ。海石榴市の駅は市に併設された公用旅行者のための施
設であろう。海石榴市は上代から栄えた市として有名である。桜井市金屋に海
石榴市(つばいち)観音があるがこれは平安時代に土石流のためにもとの海石
榴市の町が壊滅した後、町が初瀬川の対岸に遷って以降のことであり、本来の
海石榴市は初瀬川南岸、桜井市粟殿(おうどの)付近にあったと見られる。
 なお現在では物部氏も氏寺を有していたと見られており、蘇我氏・物部氏の
争いは仏教を受容するかどうかという単純なものではなかったと思われる。
 また、「善光寺如来縁起」によればこの時難波堀江に捨てられた仏像が推古
十年(602)四月八日に信濃国伊那郡の人本多善光(ほんだよしみつ)によ
って拾い出され、これを本尊として祀ったのが皇極朝創建の善光寺だという。
(日本書紀)


[1154] 天平二年(730)三月二十九日 2004-03-29 (Mon)

 薬師寺東塔建立。
 現在に残る天平建築の傑作薬師寺東塔がこの日建立された。
 もともと天武九年(680)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒
を祈願して発願された薬師寺はその皇后のご病気は癒えたものの当の天武天皇
が朱鳥元年(686)崩御されてしまう。そのため、今度はその天武天皇の追
善供養のため持統天皇によって藤原京に造営され、文武二年(698)に至っ
て漸く完成した。橿原市城殿町に遺跡を残すこの寺は区別のため本薬師寺(も
とやくしじ)と呼ばれる。さらに都が平城京に遷都されると養老二年(718)
この薬師寺も新京の地に移築されることになる。この時純粋な移築ではなくも
との寺も残されたらしく、発掘調査の結果では本薬師寺には平安時代まで建物
が維持されたことがわかっている。一方薬師寺はその後も造営が継続され、こ
の年になって東塔が建立された。なお西塔は建立年代の記録はないが恐らく東
塔と同じ頃であろう。いずれにせよ、天平初年には金堂を中心とする部分と東
西に並び立つ塔、という薬師寺式伽藍配置の偉容が完成していたことになろう。
天平感宝元年(749)には聖武天皇が薬師寺宮に入られており、この時出家
されたのではないかと考えられている。
 その後薬師寺は天延元年(973)、金堂と東西両塔を残して全焼し、さら
に享禄元年(1528)には残った金堂と西塔も焼け落ち、ただ一基残ったこ
の東塔は今日もなおその美しい姿を西の京に見せてくれる。近年の寺側の精力
的な活動により天平の昔を彷彿させる寺容の復興が着々と進められているのは
嬉しい限りである。
(扶桑略記)


[1153] 天平十一年(739)三月二十八日 2004-03-28 (Sun)

 密通により石上乙麻呂・久米若売を配流。
 この日石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)と久米若売(くめのわくめ)が
不倫をしたというかどで乙麻呂は土佐(高知県)に、若売は下総(千葉県北部)
にそれぞれ配流された。流刑になった地名は記録されていない。この後若売は
翌十二年六月には早くも許されて帰京したが、乙麻呂の方はその時点ではまだ
許されず、少なくとも四年後の天平十五年頃まで流刑されたままであったらし
い。なお、この配流の時の乙麻呂の漢詩四首が「懐風藻」に残るほか、万葉集
にも次の歌など四首が残されている。
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は たわやめの
惑(まと)ひに因(よ)りて 馬じもの 縄取り付け 鹿(しし)じもの
弓矢囲(かく)みて 大君の 命恐(みことかしこ)み 天離(あまざか)る
夷辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土(まつち)山より
帰り来ぬかも (巻六・1019)
(訳:石上の 族長の私は 女性に 惑わされて 馬のように 縄を打たれ
鹿のように 弓矢で囲まれて 大君の 命令で <天離る> 遠くに流される
<古衣> 大和の外れの真土山から 早く帰って来たい。
 石上乙麻呂は当時左大弁(筆頭書記官)。石上氏はもとの物部氏であり、あ
るいは石上氏排撃を狙った陰謀があったのかも知れない。一方の久米若売は藤
原宇合(うまかい)の未亡人で百川(ももかわ)の母であった。つまり、この
時点で未亡人であった彼女と通じたことを密通として処罰したところにこの事
件の裏側にあったどろどろした政争を感じ取ることが出来る。
(続日本紀)


[1152] 天武十四年(685)三月二十七日 2004-03-27 (Sat)

 家毎に仏像・経典を置く詔。
 この日天武天皇は「諸国(くにぐに)の家毎に、仏舎(てら)を作りて、乃
(すなは)ち仏像と経を置きて、礼拝供養(らいはいくやう)せよ。」という
詔を出された。これをこのまま受け取ると現在の仏壇のようなものを家ごとに
用意するように、ということになるが、恐らくここで命ぜられているのは「諸
国の家」即ち国府、或いは国造などの諸豪族の家に仏像・経典を置くことを命
じたものであろう。現実にこの後豪族たちは自分たちの私寺を競って築くよう
になる。現在も各地に「○○廃寺」の名称で遺跡が残る文献に記録の残らない
白鳳期の地方寺院は正しくこの詔に応じて豪族たちが建立した氏寺であり、後
には郡寺になったものであったと見られている。また有力豪族によって都の中
にもこれら氏寺が建立されたことが例えば平城京の葛城寺や紀寺などの存在に
より知られる。また、この日の詔の内容を更に大規模化したものが聖武天皇に
よる国分寺造営であり、恐らく聖武天皇の意識の中には偉大なる曾祖父天武天
皇の出したこの時の詔があったことであろう。しかし、財政の裏付けのない国
分寺造営は難航を極め、結果的には豪族の造営したような寺を国分寺に昇格さ
せたものもあったらしい。
 現在につながる家庭用の仏壇は近世になって漸く出現したものであり、中世
以前には見られなかった。鎌倉・室町時代には自宅とは別に持仏堂を建ててお
り、これがその人の死後に寺院になるのが中世によくある例(例えば源頼朝の
大蔵薬師堂、北条時頼の最明寺(禅興寺)など)である。逆に言えば現在のよ
うな仏壇の登場は仏事の場を一気に一般民衆の家庭にまで広げたことになる。
(日本書紀)


[1151] 大化五年(649)三月二十六日 2004-03-26 (Fri)

 蘇我倉山田石川麻呂一族殉死。石川麻呂の死体を斬首。
 この年三月二十四日、右大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのい
しかわのまろ)の異母弟である蘇我日向(そがのひむか)は皇太子の中大兄皇
子(なかのおおえのみこ)に兄があなたの暗殺を計画している、と密告した。
これを信じた皇子は大伴狛(おおとものこま)以下を遣わして尋問したところ、
「孝徳天皇に直接申し上げる」と答え、天皇の使者にも同様に答えた。ここに
天皇は軍を派遣したところ麻呂は山田寺に逃れ、長子興志(こごし)が一戦を
主張するのを退け、三月二十五日に「この山田寺は自分のためでなく陛下のた
めに建立したものである。讒言されて横死するのはいやだからせめて忠義の心
のままあの世へ旅立ちたい。寺に来たのは安らかに死ぬためである」と言い残
し、頸をくくって自殺した。続いて妻子八人も殉死した。
 二十六日になっても麻呂の一族は次々に殉死した。その夕方、寺を囲んだ蘇
我日向以下の軍兵は麻呂の亡骸を斬首した。さらに三十日には連坐した者二十
三人が死罪、十五人が流罪に処された。しかし没収された麻呂の遺品はよいも
のにはすべて「皇太子の物」と書かれてあったため、その冤罪を知った中大兄
皇子は悔いて恥じ、讒言した日向を筑紫大宰帥に左遷した。 乙巳の変の功臣
蘇我倉山田石川麻呂の悲劇的な最後である。しかし、この記録の随所に出て来
る「皇太子」の記述はこれが中大兄皇子の陰謀であったことを窺わせる。石川
麻呂が直接弁明したかった孝徳天皇は恐らくは何も知らされなかったのではな
いだろうか。こうして孝徳は手足をもがれていったが、逆に中大兄のために涙
を呑んだ蘇我(石川)氏や大伴氏などは大海人皇子に期待を寄せるようになる。
(日本書紀)


[1150] 天武十四年(685)三月二十五日 2004-03-25 (Thu)

 山田寺仏像開眼。
 山田寺は浄土寺とも言い、乙巳(いっし)の変の功臣、蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)の発願により舒明十三年(641)
に造営が開始された。皇極二年(643)には金堂が完成したが、大化五年
(649)には石川麻呂が謀反の疑いをかけられてこの寺で自殺する、という
悲劇があった。
 それを乗り越えて天武二年(673)に塔の心柱が建てられたのは恐らく天
智政権を倒した天武天皇によって孝徳天皇の再評価がなされるようになったた
めその一環として山田寺にも援助が与えられたのではないだろうか。そもそも、
皇后(持統天皇)は石川麻呂の孫にあたる。そして天武五年には露盤(ろばん、
塔の頂上に立てる相輪を受ける部分)を上げているのでこの頃に塔が完成した
のであろう。天武七年には本尊薬師如来の丈六の仏像の鋳造が開始され、この
日になって開眼供養がなされたのであった。丁度三十六年前のこの日に石川麻
呂が自殺しているのでその追善供養を兼ねたものであろう。
 その後、山田寺は国家の保護を失い、次第に衰微して行ったがやがて決定的
な事件が起こる。平家の焼き討ちによって焼亡した興福寺の僧兵たちはその復
興のため衰微していたこの寺に目を付け、文治三年(1187)に山田寺に乱
入、この仏像を強奪し、東金堂の本尊とした。幾多の悲劇を味わったその薬師
如来の頭部のみが深い憂いを秘めて現在も興福寺に残されている。
 なお、昭和五十七年の発掘調査ではこの山田寺の回廊が当初の部材のまま
発掘され、注目を集めたことは記憶に新しい。
(上宮聖徳法王帝説裏書)


[1149] 天平十三年(741)三月二十四日 2004-03-22 (Tue)

 国分寺造営の詔。
 天平九年三月、諸国に丈六の釈迦三尊像造営と大般若経の書写を命じられた
聖武天皇はこの日さらにそれを発展させた国分寺建立の詔を出された。それは
具体的には諸国に七重塔一区を建立し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経
各一部を書写、また国分寺には僧二十人を置き、「金光明四天王護国之寺(こ
んこうみょうしてんのうごこくのてら)」と名づけ、国分尼寺には尼僧十人を
置き「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と名づけること、そして国分
寺には封戸(ふこ、寺領)五十戸、水田十町を、国分尼寺には水田十町をそれ
ぞれ施すことを命じている。さらに毎月八日にはその僧尼は最勝王経を読経し、
月の半ばには戒羯磨(かいかつま、経典名)を読経するよう命じると共に、毎
月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には公私ともに漁労
や狩猟を禁じる、というものであった。
 今回の詔は最勝王経の教義に基づくものであり、金光明四天王護国之寺とい
う名称に現れている通り、はっきりと鎮護国家を目指すものであった。この経
典を信じて読経する国は四天王が守護する、といった内容が最勝王経には記さ
れているのに応じたものである。一方、国分尼寺の準拠する妙法蓮華経(法華
経)にはこの経典を信じた竜王の娘が忽ち男となって悟りを開いた、という記
述があり、罪深いとされた女性救済を目指したものであったと考えられる。
 なお「続日本紀」はこの詔が出された日付を三月二十四日とするが、他の史
料はおおむね二月十四日のこととなっており、日付については続日本紀の誤り
であるかも知れない。
(続日本紀)


[1148] 嘉禎四年(1238)三月二十三日 2004-03-22 (Tue)


 鎌倉大仏堂造営開始。
 東大寺大仏の再建は東国の人々にも強烈な印象を残した。衆生済度の象徴
たる大仏を東国にも、という思いはやがて浄光という僧の勧進(寄付募集)に
よって結実し、鎌倉の深沢の里にこの日大仏殿の建立を開始する。恐らく大仏
本体の造像もこの頃に開始されたのであろう。やがて寛元元年(1243)
六月十六日、阿弥陀如来像と大仏殿が完成する。しかし、この時の大仏は木造
であり、建長四年(1252)八月十七日に改めて金銅の大仏像の造営が開始
される。現存する鎌倉大仏であり、その完成は恐らく弘長二年(1262)の
ことであろうと考えられている。完成後、鎌倉大仏は大和西大寺流真言律宗の
高僧、忍性(にんしょう)が本拠とした鎌倉の極楽寺の管轄下に置かれる。
 この時建立された大仏殿は建武二年(1335)に大風で倒壊する。折しも
大仏殿には雨宿りのため中先代の乱の北条時行軍の兵たちがおり、多数の圧死
者を出すという悲劇に見舞われた。再建後、応安二年(1369)にも大風で、
さらに明応七年(1498)には津波で倒壊、以後は再建されず露座となり
今日に至っている。幸い火災にはあわなかったため大仏本体は無事であった。
 この大仏の近くには(新)長谷寺も建立された。天平八年(736)の創建
という伝承は恐らく大和長谷寺にならったものと考えられ、実際の創建時期は
不明であるが、恐らく大仏建立と近い時期に創建されたのであろう。長谷寺の
影響で深沢のうち、大仏や長谷寺のある場所はやがて「長谷」という地名で
呼ばれるようになる。この一帯には民間の信仰を集めた大和の名刹の「分家」
が集中したことになる。
(吾妻鏡)


[1147] 宝亀十一年(780)三月二十二日 2004-03-21 (Sun)

 伊治呰麻呂叛し按察使紀広純を殺す。
 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は陸奥国(みちのおくのくに、福島・宮
城県)の俘囚(ふしゅう、律令政府に服属した蝦夷(えみし))で上治郡(伊
治郡?)の長官に任ぜられていた。呰麻呂はあることがきっかけで按察使(あ
んせちし/あぜち、広域の行政監察官)紀広純(きのひろずみ)を恨んでいた
がその気持ちを隠して彼に媚び仕えていた。一方、広純はその底意に気づかず
これを重用した。また牡鹿郡の長官であった見られる道嶋大楯(みちしまのお
おたて)は呰麻呂を日頃から俘囚俘囚と呼び馬鹿にしていた。
 この時広純は新たに覚●柵(かくへつのき、●は幣の巾を魚に、宮城県古川
市?)を築き、本拠地である陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)を遠く離れた
この新しい城に呰麻呂と大楯を伴い赴いた。好機到来、と見た呰麻呂はまず大
楯を殺し、次いで兵を率いて広純を攻めてこれも殺害した。しかし、広純に従
っていた陸奥介(次官)の大伴真綱(おおとものまつな)は逃がして多賀城に
護送した。多賀城周辺の住民は多賀城防衛のために集まったが、肝心の指揮を
執るべき大伴真綱と掾(じょう、三等官)の石川浄足(いしかわのきよたり)
は後門より逃亡した。このため、人々もやむなく散会し、もぬけの殻となった
多賀城に至った呰麻呂の軍は城の中の貴重品をことごとく略奪し、その後多賀
城に放火、これを全焼させた。
 その経緯から陸奥の在地人同士の確執・私怨が直接の原因であったのではあ
ろうが、この事件を機に比較的順調に推移していた対蝦夷政策は一転して激し
い対立を呼び、この後律令政府と蝦夷は事実上全面戦争に突入する。
(続日本紀)


[1146] 宝永六年(1709)三月二十一日 2004-03-21 (Sun)

 現存東大寺大仏殿落慶供養
 元禄四年(1691)二月三十日には大仏の修理が完成したが、公慶上人に
はそれ以上に困難な事業が待ち受けていた。大仏殿の再建である。天平の創建
はもちろん国家財政を傾けて行われ、建久の再建もまた朝廷と幕府の全面的な
支援のもとで漸く行われたものであり、一般の勧進だけでは限界が予想された。
大仏再建に積極的でなかった幕府であったため、困難が予想されたが、上人の
相談を受けた将軍徳川綱吉の護持僧隆光は将軍の母桂昌院との接触を勧めた。
元禄八年十月八日、上人と面会した桂昌院はその熱意に感動、即座に金五百両
を喜捨、その後も積極的な支援を続けることになる。そして桂昌院が動いたこ
ついに幕府も全面的な支援を開始するに至った。ここに幕府が五年間造営費用
を援助するだけでなく諸大名にも費用は割り当てられ、工事は奈良町奉行の大
岡忠高(忠相の父)の監督のもとに続けられることとなった。
 費用の面では大幅に進展した再建事業もその用材の確保は困難を極め、上人
は自ら九州に赴いて用材を確保、日向から半年がかりで多くの人々の協力のも
とで漸く運ぶなどした。当然ながら上人は天平以来の規模での再建を期待した
が、用材・費用の面から結局縮小を余儀なくされ、高さと奥行きはほぼ創建時
のままではあるが、正面の大きさが十一間(約86m)から七間(約57m)とおよ
そ2/3に縮小しての再建となってしまった。また、建築様式も創建時の姿で
はなく、鎌倉時代に再建された大仏様と呼ばれる様式に準じている。
 そしてこの日漸く完成した大仏殿の落慶供養が四月八日まで行われた。しか
し、上人自身は過労のためこの盛儀を見ることなく四年前に示寂されていた。
(続史愚抄)


[1145] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)三月二十日 2004-03-20 (Sat)

 天皇の寝殿に「天下太平」の文字が生じる。
 この日、孝謙天皇の寝殿の承塵に「天下太平」という文字が現れた。承塵は
屋根裏からの塵を防ぐため部屋の上部に張った板や布で、現在の天井板に相当
する。当時の建築にはまだ天井がなかったためである。
 この前年五月二日に聖武上皇が崩御されたのに続き、この年一月六日には前
左大臣橘諸兄が薨じていた。もう既に仲麻呂の行動を押さえる者はどこにもい
なかった。「天平」の元号のもとになった亀の甲羅の上に現れた文字もそうだ
が、今回の事件についてもあまりにも見え透いた作為の跡が歴然としている。
もちろんこの時点ではこんなことをするのは藤原仲麻呂以外に考えられないが、
恐らくおつきの女官などを買収したか、もともとそういう人物を送り込んでい
たか、ということになる。そんな彼の企みのまま、三月二十九日には聖武天皇
によって立てられた皇太子道祖(ふなと)王が廃され、四月四日には仲麻呂の
推挙によって大炊(おおい)王(後の淳仁天皇)が代わって皇太子となる。彼
は事実上仲麻呂の娘婿であり、それ以降は仲麻呂の邸で起居していたほどであ
ったため、彼にとっては完全な傀儡に過ぎなかった。仲麻呂は更に五月二十日
に紫微内相(しびないしょう)に任じられる。これは紫微中台(しびちゅうだ
い)の長官であり、この時事実上皇権を手中にしていた光明皇太后の家政機関
の長である。彼は叔母である光明皇太后の権威を背景に専権をふるって行く。
そしてこの年七月の橘奈良麻呂の変を未遂のうちに鎮圧した後、出現した文字
を記念した「天平宝字」への改元が行われるのであった。
(続日本紀)


[1144] 天智六年(667)三月十九日 2004-03-19 (Fri)

 近江大津京遷都。
 白村江(はくすきのえ)の戦いに大敗した日本は今度は開闢以来初めて中華
帝国による侵略の恐怖に直面することになる。この危機に天智政権は九州や西
日本に大野城(おおののき)、基肄城(きいのき)、水城(みずき)、屋島城
(やしまのき)、高安城(たかやすのき)など百済(くだら)の技術者を動員
した本土防衛のための城塞群を次々と築き上げる。神籠石(こうごいし)と呼
ばれる遺跡もこの時に築かれたものと考えられている。しかし天智は結局は外
港である難波から近い大和を捨て、この日ついに近江大津宮に遷都された。け
れど人々は遷都を願わず、政府の批判をする者が多く、また批判的な童謡が流
行した。それどころか日々夜々に各地に失火があった。恐らく遷都に批判的な
勢力の放火によるものであろう。この時の「日本書紀」の記録は具体例を欠く
が、後に聖武天皇が紫香楽(しがらき)に遷都された時の「続日本紀」の記録
は周囲の山々で連日不審火があったこと、また役所などでも失火があったこと
を記しており、この時も恐らく同じような状況だったのではないか。
 大化改新で畿内の範囲が定められたように、古代人にとって畿内(うちつく
に)は特別の意味をもっていた。畿内の外への遷都を悲しむ当時の人々の心を
代表するような額田王(ぬかたのおおきみ)の歌が「万葉集」に残されている。
三輪山を 然(しか)も隠すか 雲だにも
 心あらなも 隠さふべしや (巻一・18)
 人々の批判をよそに強引な施策を続ける天智政権に人心がなびく訳もなく、
これらのことはやがて壬申の乱で近江方の敗北をもたらすことになる。
(日本書紀)


[1143] 天智八年(669)三月十八日 2004-03-17 (Wed)

 耽羅王に五穀の種を賜う。
 耽羅(たんら)は韓国の済州島にあった国。百済(くだら)の文周王二年
(476)から百済に朝貢・服属していたと伝えられる。しかし、その百済の
滅亡により新羅(しらぎ)に服属を余儀なくされた。日本との関係では斉明七
年(661)に帰国途中の遣唐使がこの島に漂着したことによりこれに便乗し
て王子阿波伎(あわき)らを筑前朝倉の斉明天皇の行宮に遣わしたことが最初
の記事として伝えられている。滅亡した百済に代わってその宗主国を自認して
いた日本との接近を意図したものであろうか。その後、天智四年、五年、六年、
と使いを遣わしており、新羅との関係はあまり歓迎していなかったためにその
対抗上日本の支援を期待したのかも知れない。この年も三月十一日に王子久麻
伎(くまぎ)らを派遣、朝貢した。
 この日、耽羅王に対して五穀の種が下賜された。王子久麻伎らの使節に対す
るものであり、恐らく耽羅王から依頼があったのであろう。少なくとも済州島
には通常考えられているのとは逆の流れで日本から農業が伝えられたことにな
る。そうして耽羅王子たちはこの五穀を手に帰国した。たった八日の滞在なの
で恐らく大津の都に来たのではなく、大宰府で対応がされたものであろう。後
の「高麗史」の伝える耽羅建国の伝説によると、地中から出現した三神人が浜
辺に流れ着いた箱を開くと青衣の三人の処女と諸駒、犢(こうし)、そして五
穀の種が入っていた。その処女は日本の国王が耽羅の神子に配偶者として賜っ
たものであったという。この時に日本から五穀の種をもらったことがその後も
伝説として長く伝えられたものであろうか。
(日本書紀)


[1142] 延暦二十五年(806)三月十七日 2004-03-16 (Tue)

 早良親王事件関係者の名誉を回復し桓武天皇崩御。
 三月十五日頃からいよいよ危篤状態となられた桓武天皇は十六日には氷上川
継(ひかみのかわつぐ)の乱で流罪とされた川継らの官位をもとに戻したのに
続き、この日には藤原種継暗殺事件に連坐した者たちを「今思ふ所あり、存亡
を論ぜず(生死にかかわらず)」もとの官位に戻す、という詔を出された。
 その対象となったのは「万葉集」の最終的な編者と目される大伴家持とその
嫡子永主、真っ二つになった遣唐船の船尾に乗って漂流、藤原清河の遺児喜娘
などとともに九死に一生を得て帰還した大伴継人などであった。
 彼らは桓武天皇の寵臣藤原種継暗殺事件の犯人とされ、殺されたり流罪とさ
れたり、或いは家持のように既に亡くなって一ヶ月も経っていたのに罪人とさ
れたりした者たちであった。そもそもこの事件の首謀者とされた早良親王は皇
太子の位を奪われて流されることになったが、冤罪を訴えて食を断ち、恨みを
含んで亡くなった。しかしその後皇太子安殿(あて)親王(平城天皇)の病気
の原因を占ったところこの早良親王の怨霊のため、ということが判明し、その
後桓武天皇は終生この早良親王の怨霊に悩まされることになった。既に早良親
王自身は名誉を回復されて崇道天皇の諡号も贈られたが、連坐した者はそのま
まであった。この日のいまわの際になってのこの措置で漸く早良親王事件の清
算を成し遂げたことになる。
 この後更に桓武天皇は毎年二月と八月に崇道天皇のため七日間に亘って諸国
国分寺で金剛般若経を読経するよう命じられた。そうして間もなく息を引き取
られたという。宝算七十歳。
(日本後紀)


[1141] 天平十九年(747)三月十六日 2004-03-16 (Tue)

 大養徳国を大倭国に戻す。
 天平九年十二月二十七日に大倭国(やまとのくに、奈良県)は大養徳国と改
称された。これは当時流行した伝染病を天の怒りととらえ、これに対して天子
が徳を養うことにより天の怒りを鎮めるという意図を有したと考えられている。
しかし、大養徳という名称は国郡郷名の原則が二字の好字を用いる、となって
いるのに反して三字であり、敢えてそのような名称を選んだ理由が明記されて
いない以上真意は不明とするしかない。
 この日再び大養徳国から大倭国に改称されたことは、これによってかつて橘
諸兄(たちばなのもろえ)が主導して遷都した恭仁宮を大養徳恭仁大宮(やま
とのくにのおおみや)と称したその大養徳の否定であり、恐らく背後には藤原
仲麻呂の暗躍があったものと思われる。
 その後、天平宝字二年頃に大倭国は今度は大和国と再び文字だけ改称され、
それ以降固定するようになる。
 全国の国は橘諸兄政権下で財政緊縮のためか一時的に抑制が図られ、例えば
養老二年(718)に越前国から分置された能登国は天平十三年(741)に
今度は越中国に併合された。ちょうど大伴家持が越中守として赴任していたの
はこの時期になり、家持は能登の各地まで足を運んでいることが万葉集により
知られる。しかし、諸兄が失脚して藤原仲麻呂の政権下となると国の数は再び
増加し、先の能登の例では天平宝字元年(757)に再び分置される。国の数
の固定はだいたいこの時期に行われたもので、それ以降は弘仁十四年(823)
に越前から分割・設置された加賀を例外として明治まで固定する。
(続日本紀)


[1140] 天平宝字五年(761)三月十五日 2004-03-15 (Tue)

 帰化人百八十八人に賜姓。
 この日百済(くだら)系帰化人百三十一人、高句麗(こうくり)系帰化人二
十九人、新羅(しらぎ)系帰化人二十人、大陸系帰化人八人の合計百八十八人
に賜姓が行われた。与えられた姓は百済王族に与えられた百済を除き、中山、
楊津(やなぎつ)、朝日、豊原、清住(きよすみ)、狩高(かりたか)、雲梯
(うなで)などおおむね居住していた地名によったらしい。
 これより先、天平宝字元年四月四日に出された詔の中で、高麗・百済・新羅
などから渡来してきた人々が日本に帰化し日本の姓を望むのであればすべて許
可する、という項目があり、これに応じて続々と出された賜姓の記事の中でも
最大のものがこの日の人々。これを含めて記録されるだけでも五十余氏、合計
二千人ほどの帰化人に賜姓が行われた。これは百済や高句麗の滅亡、その後の
唐と新羅の戦争による旧百済地域に駐屯していた唐の人々、そして新羅国内の
政変などを逃れた人など多数の半島や大陸の人たちが日本へ亡命して来たこと、
そしてその後の統一新羅による半島支配の確立に伴い帰国する望みを絶たれた
彼らはもはや日本を永住の地とする以外に住むべき所はなかった。日本側とし
ても彼らの多くは技術を持たない一般民衆であり渡来当初は食料などを支給し
て養っていたもののそういった特別扱いを永遠に続けることは出来ず、一般民
と同じ扱いとすると共に、彼らを新天地としての東国に配置してその開拓に当
たらせる、ということを新たに方針にするようになった。特別な技能を持って
いなくても彼らの多くは農業技術者としては進んだ技術を有しており、開発の
遅れていた東国では特に貴重な開拓の原動力となっていった。
(続日本紀)


[1139] 貞観三年(862)三月十四日 2004-03-13 (Sat)

 東大寺大仏修理成り開眼供養。
 斉衡二年(855)に地震の影響からか、そのお首が折れてしまい、転落・
大破した東大寺の大仏の修理もこの日漸く完成した。賀陽親王、時康親王(後
の光孝天皇)、本康親王、在原行平(ありわらのゆきひら、在原業平の兄)、
伴善男(とものよしお、もとの大伴氏)などの人々が参列する中、盛大な開眼
供養の行事が行われた。
 大仏殿の柱は錦で飾られ、唐・高麗(こま、ここでは渤海か)・林邑(りん
ゆう、カンボジア)の音楽が奏でられ、また大仏殿の一層目の部分には特設舞
台が設けられて天人天女の舞が披露された。そうして厳かに文章博士(もんじ
ょうはかせ)菅原是善(すがわらのこれよし、道真の父)によって願文が捧げ
られた。その願文は欽明天皇の代に仏教が伝えられて以来二百年でこの大仏が
造営され、百年でこの事故はあったものの広く人々の寄付を集めて今回の修理
が成ったこと、この功徳によって塵区(汚れた現世)を出て智岸(浄土)に迎
えて欲しい、といったことが述べられた。
 この時、ほとんど新造に近い、と言われながらも何とか七年かけて独力で修
理を成し遂げたのであったが、三百年余後の平家によって焼かれた修理の時に
は既に日本には鋳造技術が失われており、宋の技術導入により漸く完成する。
鋳造技術の衰退は皇朝十二銭と言われる銭貨が和同開珎から後になるほど逆に
品質が低下することに如実に現れている。少なくともこの段階では技術はまだ
地に落ちていなかったのだが、一方願文では鎮護国家よりも個人の救済が願わ
れており、仏教に対する意識・受容の変化がうかがわれる。
(三代実録)


[1138] 宝亀四年(773)三月十三日 2004-03-13 (Sat)

 祈雨のため黒毛馬を丹生川上神社に奉納。
 丹生川上(にうかわかみ)神社は古来有名な祈雨・止雨の神として知られる。
雨を乞う時には黒毛の馬を、そして止雨を祈るときには白毛の馬を奉納した。
現在丹生川上神社は吉野郡川上村、東吉野村、そして下市町にそれぞれ上社、
中社、下社があるがこのうちどれがこの時馬を奉納された神社かは不明。これ
らはいずれも日本一の多雨で知られる大台ヶ原の水を受ける位置にあるため、
古来から雨の神として知られ、特に「丹生川上雨師神社」とも称されたりした。
 祈雨・止雨は農業にとって死活問題であったため、あらゆる方法でこれを祈
ることが古代国家の重要な役割であった。天武天皇の時代には毎年のように風
神である竜田神社と共に水神としての広瀬神社に参拝が行われており、おそら
くこの頃は広瀬神社が祈雨・止雨の対象であったと考えられる。
 丹生川上神社が初めて祈雨・止雨の対象として登場するのは天平宝字七年五
月二十八日の条からであり、恐らく雨について霊験あらたか、という話が浸透
していった結果であろう。平安時代に国家祭祀を受けた神社を列挙する「延喜
式」神名帳では吉野郡に「丹生川上神社 名神大、月次、新嘗」となっている。
これは本来は現在のような上・中・下の三社ではなく一社であったことを示す。
この国家祭祀に預かったいずれかの神社が馬を奉納された、ということになる。
また、主要祭祀のうち相嘗(あいなめ)祭の対象とされていないが、この祭祀
は起源が非常に古いけれども平安朝には既に衰退していたと見られており、そ
の対象ではないことからは朝廷から重要視されるようになったのが少し遅れる
ことを示すものであろう。
(続日本紀)


[1137] 建久六年(1195)三月十二日 2004-03-12 (Fri)

 東大寺大仏殿落慶供養。
 この日朝から雨で午後からは雨足も激しくなり、また地震まで起きるという
最悪の天候であったが予定通り大仏殿の落慶供養が挙行された。風雨について
も天神地祇までもが降臨されてこの盛儀に立ち会ったためと理解された。未明
から和田義盛、梶原景時らが数万の兵士を率いて厳重に警護する中、日の出の
後頼朝も大仏殿に入り、いよいよ落慶供養が行われた。
 この時、集まった群衆と僧侶たちも中に入ろうとして警護をしていた武士た
ちにとどめられ、また彼らに梶原景時が無礼を働いたということで暴動が起こ
りそうになったがあわてて頼朝が遣わした小山朝光が諄々と今日の盛儀は頼朝
公のおかげであり、と理を説くことによって漸く沈静化された。大仏の開眼供
養の時と異なり、一般庶民の参列は許されなかったのであり、これは関白九条
兼実(くじょうかねざね)の要請であったことが知られる。またここでも騒ぎ
の元となっているのは源義経を讒言によって陥れたとされる梶原景時である。
後白河法皇こそ既にこの三年前に崩じられていたが、朝幕の貴顕が列席する中、
こうして中世の民衆を熱狂させた東大寺大仏殿の落慶供養は無事終了した。
 その翌日、頼朝は大仏再建を技術面で支えた宋人の陳和卿(ちんなけい)に
面会を求めたが和卿は合戦によって多くの人命を奪った罪業の深い人とは会い
たくない、と拒否。が、逆にその言葉に感激した頼朝は奥州征伐に使った甲冑
・馬具を金銀と共に馬に乗せて贈った。しかし和卿は金銀と武具・馬具を東大
寺に寄進し、馬はそのまま頼朝に送り返したという。
(吾妻鏡)


[1136] 敏達四年(575)三月十一日 2004-03-10 (Wed)

 任那復興の詔。
 この日百済(くだら)より朝貢があった。しかしその朝貢物は例年より多か
った。これは恐らく次第に勢力を強めつつあった新羅(しらぎ)に対して日本
の積極的な関与を期待してのものであろう。
 ここに敏達(びだつ)天皇は先に欽明朝において新羅が占拠したまま失われ
てしまっている任那(みまな)の復興を求め、皇子(長男の押坂彦人大兄皇子
(おしさかのひこひとのおおえのみこ)か)と大臣(おおおみ)の蘇我馬子に
対して「任那のことに、な懶懈(おこた)りそ(任那復興の努力を決して怠っ
てはならない)」との詔を発された。
「日本書紀」は任那に日本府があったことを伝えるが、現在「日本」という国
号は推古朝以前に遡ることはないと考えられており、少なくとも「日本府」が
なかったことは確実であるが、「やまとのみこともちのつかさ」という日本語
名称の機関に「日本府」の文字を宛てたとすれば矛盾はなくなる。但し、いず
れにしても日本の領国化していたのではなく、あくまで任那地域にあった群小
諸国が連合し、その盟主として日本を仰いだのであり、定期的な進調(貢納物
の献上)は別にして国家としての独立性は高かった。また、後に「大宰(みこ
ともちのつかさ)」或いは総領などと呼ばれる行政機関らしきものはは国内に
も後の大宰府だけでなく吉備や伊予などにも置かれていた。恐らくはこれらの
地域の首長も同様に大和朝廷に対してもともとはゆるやかな同盟を結んでいた
ものと見られる。特に吉備地方については大和の王権に匹敵するほどの巨大古
墳を残しており、強い自主性を有したことが遺跡面からも推測される。
(日本書紀)


[1135] 天長六年(829)三月十日 2004-03-10 (Wed)

 神託により飛鳥坐神社を遷座。
 この日神託によって大和国高市郡賀美郷の甘南備(かんなび)山にあった飛
鳥社を同じ郷内の鳥形山に遷座申し上げた。
 明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の遷座の記録であり、鳥形山が現
在飛鳥坐神社の鎮座される山であるにしても甘南備山については不明。或いは
甘橿丘か。またどのような経緯でどんな神託があったのかも伺い知ることは出
来ない。恐らくそれらの内容も含めて正史である「日本後紀」には詳細に記録
されていたのであろうが、残念ながら「日本後紀」は戦国時代に散逸してしま
い現在は僅か1/4ほどが伝わるのみであるため、その記録も失われてしまっ
た。失われた部分には平安京遷都や坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征討に関す
る部分なども含まれており、これらは僅かに平安末期に正史を抄録した「日本
紀略」によってそのような事実があったことが知られるのみである。
 延長五年(927)に完成した行政細則集の「延喜式」の当時の国家祭祀に
預かる神社を列記した部分(神名帳)には大和国高市郡の二番目に
飛鳥坐神社四座 並名神大、月次、相嘗、新嘗
と記載されており、全国の殊に霊験あらたかな神を祭る名神祭など、国家の重
要祭祀にはいずれも対象とされる神社であったことが知られる。ここに記載の
ある神社を特に「式内社」と呼び、その多くは有史以前からの信仰を集めた神
社である。その内容は天平時代にほぼ現在の形にまとめられたと考えられてお
り、その後に追加されたものを含めて宮中から五畿七道まで全部を合計すると
二千八百六十一社(うち大和は二百六社)、その大半は今も祀られ続けている。
(日本紀略)


[1134] 天平勝宝四年(752)閏三月九日 2004-03-09 (Tue)

 遣唐使に節刀を賜い、大使以下に叙位。
 この日、孝謙天皇は遣唐使の副使以上を内裏に召し、詔して節刀を賜い、あ
わせて叙位を行った。
 この時の遣唐大使は藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使は当初大伴古麻
呂(おおとものこまろ)だけであったが後にと吉備真備(きびのまきび)が追
加で任命されている。真備は二度目の渡唐となる。ほかに留学生(るがくしょ
う)として藤原刷雄(よしお、藤原仲麻呂の子)もこの場にいた。
 この時賜った節刀は天皇の大権の一部を委譲することを象徴するものであり、
遣唐使や将軍などに与えられた。軍事や外交を天皇に代わって現地で実施する
とともにその部下に対する処罰などをも認められていた。持節将軍や持節大使
と言った場合はこの節刀を有していることを示す。
 この節刀を受け取った以上は即刻(家にも立ち寄らず)出発する必要があり、
彼らは退出したその足で遣唐船の待つ難波の港に向かったものと思われる。
 周知の通り、この時の遣唐使が最も有名な使節であり、鑑真大和上の招聘、
新羅との間の朝賀の席次争い、大使清河ともと留学生阿倍仲麻呂の遭難と唐で
の客死、といった多くの逸話を残すことになる。なお、光明皇太后と清河の出
発を前にしての歌が「万葉集」に残されている。
大船(おほぶね)に ま梶(かぢ)しじ貫(ぬ)き この我子(あご)を
 唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち (光明皇太后)
春日野(かすがの)に 斎(いつ)く三諸(みもろ)の 梅の花
 栄えてあり待て 帰り来るまで (藤原清河) (巻十九・4240-4241)
(続日本紀)


[1133] 元禄五年(1692)三月八日 2004-03-07 (Sun)

 東大寺大仏元禄再建開眼供養成る。
 戦国時代、永禄十年(1567)に松永弾正久秀の兵火により焼失した東大
寺の大仏は戦乱の中でも直ちに再建に着手され、炎上の翌年から大和の土豪、
山田道安が私財をなげうって尽力、元亀三年(1572)にはともかくも一応
の修理を終えた。ただ、これはあくまでも応急修理のようなもので、その尊顔
は銅板をもってあてたものであった。そしてこの後も痛んだ箇所の修理は断続
的に行われていた。
 江戸時代に入り東大寺で出家された公慶上人は露座の大仏を見て慨然とし、
生涯をその再建に捧げることを誓った。貞享元年(1684)には幕府の許可
を得ていよいよ大仏再建の勧進を開始、重源上人の旧例を慕い、その鉦鼓を持
ち出して全国を回り、勧進を行った。幕府の協力は消極的なものであったが難
波の豪商北国屋治衛門をはじめ多くの人々の協力を得て元禄三年(1690)
四月八日には仏頭が完成、さらに胎内の柱の取り替えなどを行い、この日つい
に悲願の大仏再建開眼供養が行われた。導師は東大寺別当済深法親王、宮中か
らも勅使として蔵人頭(くろうどのとう)勧修寺輔長(かじゅうじすけなが)
が派遣され、舞楽が奏でられる中、天平の開眼に使われた筆が文治の再建に続
き三度用いられ、ここに現存する東大寺大仏が完成した。そしてこの日から三
十日に亘り万僧供養の法要が繰り広げられ、あわせて東大寺に残る聖武天皇以
来の寺宝が一般にも公開された。この間参加した僧侶は一万二千名に達し、一
般の参列者の数は実に二十万五千三百人にのぼり、大坂より生駒山を越え、闇
峠を過ぎて参拝する人々が連日列をなしていたという。
(続史愚抄)


[1132] 雄略六年(462)三月七日 2004-03-06 (Sat)

 養蚕奨励、少子部賜姓。
 この日雄略天皇は皇后に親しく養蚕を行わせることで天下に養蚕を奨励しよ
うと思われた。そこで側近の栖軽(すがる)という者に蚕(こ)を集めること
を命じたところ、勘違いした栖軽は子、つまり子供たちを集めて献上した。そ
こで天皇は笑って栖軽にその子供たちの養育を命じ、あわせて少子部(ちいさ
こべ)という氏を賜った。
 少子部は本来天皇側近の童子たちを養育する氏族。その少子部氏の創氏説話。
栖軽は「日本霊異記」の冒頭の説話では雷の鳴る日、皇后と休んでおられた雄
略天皇の寝室に迷い込み、天皇から(テレ隠しに)雷を捕らえることが出来る
か、と問われたためかしこまって「雷神よ、天皇がお召しだ」と呼ばわりなが
ら御所のあった泊瀬(はせ)から軽の諸越(もろこし、畝傍山東南)にまで走
り回ったところ、豊浦寺(とゆらでら、蘇我稲目の建立した寺、現在の広厳寺、
但しその建立はこれよりずっと後)と飯岡(いいおか、不詳)の間に雷神が落
ちていた。そこでそれを捕らえて天皇にお目にかけた。光り輝く雷神を見て天
皇は恐れて幣帛を捧げ、落ちていたところにお返しした。それで後にそこを電
(いかづち)の岡と呼ぶようになった。後、栖軽が亡くなった後その場所に墓
を建てて「電を捕らえた栖軽の墓」と書いたところ、雷神が怒りその碑を蹴り
割ったが、裂け目に挟まれて再び捕らえられてしまった。そこで天皇は「生き
ていた時も死んでからも電を捕らえた栖軽の墓」と改めて碑を建てたという。
 なお、栖軽は「日本霊異記」の用字であり「日本書紀」では●贏(●は虫偏
に果)と記す。古代には発音が同じなら用字にはこだわらなかった。
(日本書紀)


[1131] 推古三十六年(628)三月六日 2004-03-06 (Sat)

 推古天皇危篤、田村皇子・山背大兄皇子に遺詔。
 この年二月二十七日、発病された推古天皇は次第に病重くなられた。折しも
三月二日には皆既日食があり、人々もいよいよ、の思いを抱くうち、この日と
うとう危篤状態になられた。天皇はまず田村皇子(たむらのみこ、敏達天皇孫、
後の舒明天皇)を呼ばれ、皇位に即いて統治し、人々を養育することは「もと
より輙(たやす)く言ふものに非ず。恒(つね)に重みする所なり。故(かれ)
汝(いまし)慎みて察(あきらか)にせよ(言動に特に注意を払いなさい)。
輙(たやす)く言ふべからず」と遺詔を残された。次いで山背大兄皇子(やま
しろのおおえのみこ、用明天皇孫、聖徳太子の子)を呼ばれ、今度は「汝(い
まし)は肝稚(きもわか)し(未熟者だ)。若(も)し心に望むと雖(いふと)
も諠言(けんげん、公言)すること勿(なか)れ(心に皇位を望んでもそれを
口にしてはならない)。必ず群言(まへつきみたちのこと、群臣の言葉)を待
ちて従ふべし(豪族たちの決定に従いなさい)」と遺詔された。
 そして翌七日に小墾田宮(おはりたのみや)に崩御された。宝算七十五歳。
聖徳太子即位までの中継ぎとして古代初の女帝として立てられながら、その長
寿は皮肉なことに皇位継承を更に混乱させることになる。
 当時は皇位継承についての原則が固定しておらず、そのため同じ世代に属す
る皇位継承権者たちの間で皇位が争われることになる。聖徳太子を始め推古天
皇の次の世代が既に亡く、一世代飛ばした形になったために自分の亡き後の混
乱を恐れた推古天皇が苦しい息の下で残した遺詔ではあったが、結果的には諦
めきれない山背大兄皇子の活動によって恐れていた混乱が起こることになった。
(日本書紀)


[1130] 敏達七年(578)三月五日 2004-03-05 (Fri)

 菟道皇女を伊勢神宮に奉仕させるも事件により罷免。
 この日菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ、敏達皇女)を伊勢の祠
(まつり)に侍(はべ)らせた。しかし、池辺皇子と関係をもってしまったた
めにその任を解かれた。
 伊勢神宮の斎宮は垂仁天皇の頃の倭姫命(やまとひめのみこと)に始まると
されるが、確実にたどれるのは天武天皇の皇女である大伯皇女(おおくのひめ
みこ)以降である。壬申の乱において東国への脱出行の途次、伊勢神宮を遙拝、
戦勝を祈願されて勝利を得た天武天皇によって神宮祭祀が整備されたためであ
ろう。しかし、ここに登場する菟道皇女などの存在は恐らくそれよりももっと
以前から(どの程度制度化されていたかは別にして)斎宮に相当するものが存
在していたことを示唆する。これは古くは邪馬台国の女王卑弥呼とその弟、或
いは崇神天皇と倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそびめ)の関係に見られる
ように政治を行う男王と祭祀を行う女王のような組み合わせがあったことがそ
の源流になっているものと考えられる。後の斎宮(斎王)は伊勢神宮の祭祀の
ために未婚の皇女(天皇の娘、または近い血縁者)が三重県多気郡明和町にあ
った斎宮に小さな「皇居」を構えて祭祀の都度伊勢神宮に奉仕した。神妻であ
るため一般人と関係を持つことは許されず、そのような事実が発覚すればこの
例のように罷免された。しかし世間と隔離された彼女たちのさみしさにつけこ
む男はこの後も出て、在原業平(ありわらのなりひら)もその一人として知ら
れる。なお、このように「神妻」があったことなどから伊勢神宮に祀られてい
た神は本来男神であったとする説もある。
(日本書紀)